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タイトル未定2026/01/01 09:43

第一部 バスの中だけ、世界が違う


第一章 朝七時二十三分の席


朝七時二十三分。

冷えた空気と一緒に、青い通学バスが停留所に滑り込む。


私は、いつも同じ場所に座る。

後ろから三列目、左窓際。


そこは、彼がよく座る席――だった。


彼の名前も知らない頃から、私はその席に“居場所”を感じていた。

バスが揺れるたび、カーテン越しの日差しがちらつくたび、

「今日も同じ日が始まる」と思えるから。


……だけど、今日は違った。


ドアが開いて、乗り込んできた背の高い男の子。

黒っぽい学ランじゃなくて、作業着っぽい制服。

青葉工業の制服――。


彼が、いつもの席に座っている。


私は一瞬、迷ってから、いつも通りそこへ向かった。


すると彼が、少しだけ顔を上げて言った。


「……ここ、座る?」


その言い方が、やけに優しくて。

私の胸は、ぶわっと熱くなった。


「……はい」


私が座ると、バスはゆっくり走り出す。

タイヤが段差を越えるたび、肩が少し触れそうになる距離。


触れそうで、触れない。


その微妙な距離が、恋の始まりみたいだった。



第二章 名前を聞けない


数日後、私は気づいた。


彼は、毎朝一度だけ必ず窓の外を見る。

そして、ほんの少しだけ口角を上げる。


何を見ているんだろう。


話しかけたい。

でも、話しかける理由がない。


それでも、朝の挨拶だけはできるようになった。


「おはようございます」


「……おはよう」


彼の声は低くて、少し掠れている。

眠いのか、照れてるのか、いつも無表情だけど――


返してくれるだけで救われる。


名前が知りたかった。


でも「名前なんですか?」なんて、

バスの中で急に言ったら変だと思われそうで。


そんなことを考えているうちに、学校に着いてしまう。


女子高の校門が見えると、

私は現実に引き戻される。


バスでの出来事は、

学校の中では誰にも共有できない秘密みたいだった。



第三章 拾ってくれた手


雨の日。

急ブレーキで私の鞄が座席から滑り落ちて、床に落ちた。


「あ……」


拾おうとした瞬間、

同時に伸びてきた手。


彼だった。


指先が触れそうになって、私は引っ込めた。


「……どうぞ」


彼は鞄を拾って、私に差し出した。


「ありがとうございます……!」


「……うん」


たったそれだけ。

でも、私の心臓は暴走していた。


“同じバスに乗る”が、

ただの偶然じゃなくなる瞬間ってこういうことなんだ。


その日から私は、彼の手を見るようになった。

少しだけ大きくて、指に力がありそうで、

でも、意外と丁寧に物を扱う手。


――この手が、いつか私の手を握る日が来るのかな。


そんなことを考えて、勝手に恥ずかしくなった。



第四章 女子高の昼休み、工業高校の放課後


昼休み。

私は友達の美咲と購買パンをかじりながら、窓の外を見ていた。


「ひより、今日もぼーっとしてる」


「してないってば」


「バスの子のことでしょ?」


「……ちが」


美咲はニヤニヤする。


「でもさ、いいじゃん。恋って顔が変わるもん。

ひより、最近ちょっと可愛い」


私は頬が熱くなるのを隠すために、紙パックのミルクを飲んだ。


同じ時間。

青葉工業では、彼――相沢くんが友達にからかわれていた。


「相沢、最近朝のテンション高くね?

女子高の子でもいるんだろ」


「……うるさい」


「え、マジで?誰?同じバスの子?」


「……関係ない」


関係ないと言いながら、

彼の頭に浮かぶのは窓際でノートを抱えている私だった。



第五章 “バス内ルール”ができる


私たちは少しずつ、会話が増えた。


「今日は寒いですね」


「……冬だしな」


「バス、今日遅れましたね」


「……渋滞」


短い。

でも、言葉の端に“続けたい”が混ざっている。


いつの間にか、暗黙のルールができていた。

•乗ったら挨拶

•座ったら一回だけ目を合わせる

•降りる前に、どっちかが小さく手を振る


世界でいちばん小さなルール。

でも、守られるたびに嬉しくなる。



第二部 気持ちが見えたら、怖くなる


第六章 知らない女の子


ある朝、バスに乗ると、

彼が見知らぬ女の子と話していた。


その女の子は小柄で、可愛らしい声で笑う。

彼も少しだけ表情を柔らかくしている。


胸が、ぐしゃっと潰れるみたいになった。


(……私だけじゃないんだ)


私は挨拶もしないで、後ろの別の席に座った。

窓の外の景色が、やけに白く見えた。


学校に着く頃には、もう涙が出そうだった。



第七章 誤解と沈黙


次の日。

彼は私の様子がおかしいのに気づいたのか、珍しく声をかけてきた。


「……朝倉。昨日、なんかあった?」


「別に」


冷たく言ってしまった。


言ってからすぐ、後悔が押し寄せる。


でも、引けない。


彼は少しだけ眉を寄せて、

それ以上何も言わなかった。


バスが揺れる。

心も揺れる。


沈黙が、こんなに痛いなんて知らなかった。



第八章 雨の日の真実


その夜、雨。

バス停で立ち尽くす私に、傘が差し出された。


「……風邪ひく」


彼だった。


「昨日の子、妹。

迎えに来いって言われて、たまたま同じ時間になっただけ」


私の視界がにじむ。


「……ごめんなさい。勝手に……」


「いい」


彼は、少しだけ息を吸った。


「俺さ」


雨音の隙間で、彼の声が震えた。


「朝倉と話す時間、すごく好きなんだ。

バスって狭いのに、朝倉がいると、変に落ち着く」


胸が熱くなる。


「……私も」


その言葉で、彼は目を見開いて、

次の瞬間、少し笑った。


「……名前、ひよりって言うんだな」


「え?」


「名札、さっき見えた」


私は顔が真っ赤になって、思わず俯いた。


「相沢……くんは」


「相沢 恒一」


その瞬間、

名前が世界に刻まれた気がした。



第九章 このバスが、終わらなければいい


その日は、冬にしては珍しく、夕方の空がやけに明るかった。


テスト週間が終わって、

少しだけ疲れて、少しだけ気が抜けた帰り道。


バスはいつもより空いていた。


後ろの席に数人、前の方にちらほら。

そして、いつもの席――

後ろから三列目、左の窓際。


私は座っている。

彼も、隣にいる。


でも今日は、会話がなかった。


沈黙が気まずいわけじゃない。

ただ、何かが始まりそうで、何も言えない沈黙。


バスが走るたび、エンジンの低い音が体の奥に響く。

窓の外では、街灯がひとつずつ灯り始めていた。


(このまま、終点に着いたら……)


そう思った瞬間、胸が締めつけられた。


バスは、止まってしまう。

今日という時間も、ここで終わってしまう。


私は、ぎゅっとスカートの端を握った。



「……ひより」


彼が、私の名前を呼んだ。


低くて、いつもより少し震えている声。


「……はい」


返事をしただけなのに、

心臓が、耳元で鳴っているみたいだった。


「今日……さ」


彼は言いかけて、言葉を探すように前を見つめる。


「降りなくて、いい?」


「え……?」


「終点まで」


一瞬、何を言われたのかわからなかった。


でも、次の停留所で誰かが降りても、

彼は立ち上がらなかった。


私も、立てなかった。


バスの中に、私たち二人だけの空気が広がる。



終点。


「終点ですー」という運転手さんの声。

でも、私たちは動かない。


バスのエンジンはかかったまま。

ドアは開いている。


夕方の冷たい空気が、少しだけ入り込んできた。


「……ひより」


もう一度、彼は私の名前を呼んだ。


今度は、ちゃんと私を見て。


「俺さ」


彼は、一度深く息を吸った。


「最初、ただ同じバスに乗ってるだけだと思ってた」


私は、頷く。


「でも、朝になると……

ひよりがいるか、無意識に探してて」


その言葉に、喉が詰まった。


「座る位置も、タイミングも、

全部、ひよりに合わせてた」


彼は苦笑いする。


「正直、怖かった」


「……何が?」


「気持ちに名前がつくのが」


その言葉が、胸に落ちた。


「バスって、降りたら終わるだろ。

学校も違うし、世界も違う」


彼の手が、膝の上でぎゅっと握られる。


「だから……

好きって認めたら、終わる気がしてた」


私は、思わず彼の袖を掴んだ。


「終わらないよ……」


震える声で、そう言った。


「だって、こうして話してる。

毎朝、ちゃんと会えてる」


彼は、少し驚いた顔をして、

それから、目を伏せた。


「……ひよりは、俺のことどう思ってる?」


逃げ道を残した問い方。


でも、私はもう逃げたくなかった。


胸が痛い。

でも、言わなきゃ。


「私……」


声が震える。


「バスが来る時間、全部覚えちゃった」


彼が目を見開く。


「遅れたら、心配して。

座ってなかったら、落ち着かなくて」


涙が、視界を滲ませる。


「相沢くんが他の人と話してるだけで、

胸が苦しくなって……」


私は、息を吸って、続けた。


「それって、たぶん……

恋、だと思う」


沈黙。


バスの中に、時間が止まったみたいだった。


次の瞬間――


彼が、私の手を取った。


最初は、そっと。

でも、離さない。


「……ありがとう」


そう言って、少しだけ笑った。


「じゃあ……俺も言う」


彼は、真正面から私を見た。


「ひよりが好きだ」


短い言葉。

でも、まっすぐで、逃げていない声。


「毎朝、バスに乗る理由がひよりになってた」


「ひよりがいない朝なんて、

考えられない」


胸がいっぱいになって、

言葉が出てこない。


彼は、少しだけ近づいた。


額が触れそうな距離。


「付き合ってほしい」


それは、お願いみたいで、

覚悟みたいで。


私は、涙を拭いて、頷いた。


「……はい」


その瞬間、彼の肩がふっと緩んだ。


「よかった……」


そう言って、彼は私の手をぎゅっと握り直す。


初めて繋ぐ手。

驚くほど、温かい。



「……このバスさ」


私が言う。


「終わらなくていいね」


彼は、少し考えてから答えた。


「終わっても、また乗ればいい」


その言葉が、胸に深く残った。


バスは、やがてエンジンを切られ、

運転手さんに促されて降りた。


でも――


私たちの恋は、

ここから走り出した。


第三部 ふたりで歩く、世界の外側


第一〇章 「降りたあと」の朝


次の朝も、バスは七時二十三分に来た。


冷えた空気が頬を刺すのに、胸の奥だけが変にあったかい。

停留所の白い息の向こうに、彼が立っている。


相沢 恒一。


名前を知っただけで、景色が変わるなんて思わなかった。

昨日、手をつないだ感触がまだ指に残っていて、私はその指をこっそり握りしめる。


彼は私を見つけると、いつも通り無表情のまま、ほんの少しだけ目を細めた。


「……おはよう」


「お、おはよう……」


言葉がぎこちない。

でも、そのぎこちなさがうれしい。


バスが停留所に滑り込む。

ドアが開く。

いつもの席――後ろから三列目、左窓際。


私は座る。

彼も隣に座る。


“暗黙のルール”は、昨日で終わったはずなのに。

目を合わせるタイミングだけは、相変わらず同じだった。


一回だけ、目が合う。


その一回で、全部が伝わる。


(……付き合ってるんだ、私たち)


そう思った瞬間、彼の膝の上で、指がわずかに動いた。

昨日と同じ。

そっと、でも確かに。


私は自分の手を、ほんの数センチだけ近づけた。


触れる前に、彼が掴んだ。


最初のデートより先に、

“恋人の朝”が始まってしまった。



第一一章 初デートの約束は、バスの中で


放課後のことを考えるだけで、授業中にノートの端がぐしゃぐしゃになった。


昼休み、美咲がパンを半分こしながら言う。


「で? いつデート?」


「で、でーとって……」


「恋人になったら、次はデートでしょ。常識」


常識って言われても、私は恋の常識を知らない。

バスでしか会わない人だったのに、急に“会いに行く”って、どうやって?


その日の帰り。

バスの揺れの中で、私は意を決して言った。


「あの……今度、その……」


彼は窓の外を見たまま返事をした。


「……今度?」


「デート……しませんか」


言ってしまった。

耳まで熱い。


数秒の沈黙。

バスのエンジン音がやけに大きい。


「……する」


短い。

でも、胸が跳ねた。


「どこ行きたい」


質問が不器用で、まっすぐで、逃げ場がない。


私は、頭の中で急いで“女の子っぽいデート”を探す。

映画? カフェ? 水族館? でも私たちは、バスの中の人だ。


「……バス、降りたところで」


そう言ったら、彼が初めてはっきり笑った。


「いいな、それ」


笑うと、表情が急に柔らかくなる。

見ちゃいけないものを見たみたいに、心臓が痛い。


「じゃあ……終点まで行く」


彼が言う。


「終点……?」


「この前みたいに。降りた場所から、歩いてみたい」


その言葉に、私は息を止めた。


“バスが終わるのが怖い”って言ってた彼が、

終点まで行くって言う。


怖さの向こうに、

ふたりの世界を伸ばそうとしてくれてるんだって分かった。


「……うん。行きたい」


彼は頷いて、小さく言った。


「土曜。九時。駅前」


約束はそれだけ。

でも私は、土曜までの時間が全部、特別になった。



第一二章 はじめての服、はじめての「待ってる」


土曜の朝、鏡の前で何度も立ち尽くした。


制服じゃない自分が、知らない人みたいで落ち着かない。

髪の毛を巻くとか、香水とか、そういうのもよく分からない。

結局、白いニットと、淡い色のスカート。

派手じゃないけど、ちゃんとして見える――はず。


駅前に着くと、彼はもういた。


工業の制服じゃない。

黒いパーカーに、少し色落ちしたデニム。

それだけなのに、いつもと違って見えた。


「……ひより」


名前を呼ばれる。

駅前の雑踏の中で、自分だけが切り抜かれたみたいに感じる。


「お、おはよ……」


「早い」


「相沢くんが早いんだよ」


「……待ってるの、嫌いじゃない」


それが照れ隠しなのか本音なのか分からなくて、

私は視線を落とした。


改札の前を抜け、終点まで行く路線バスに乗る。

いつもの通学バスじゃないのに、並んで座ると不思議と落ち着く。


彼はいつもより話す。


「甘いの、好き?」


「え……好き」


「じゃあ、寄りたい店ある」


「相沢くん、甘いの食べるの?」


「……妹が。よく買わされる」


その“妹”って言葉に、私はこっそり安心してしまう自分がいて、

そんな自分がちょっと嫌で、でも正直で。


終点に着く。

降りた瞬間、風が冷たい。


「寒い?」


彼が私の手を見た。

私は慌ててポケットに入れようとする。


その前に、彼が言った。


「……手、貸して」


“貸す”って何。

そう思ったのに、私は素直に手を差し出してしまう。


彼は私の手を取って、

自分のポケットに一緒に入れた。


近い。

熱い。

歩くたびに指が少し擦れて、私は息の仕方を忘れる。


「……これ、ずるい」


ぽろっと言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。


「何が」


「心臓が……」


言い切れない。


彼は少しだけ口元を上げて、

ポケットの中で、指を絡めた。


「……慣れろ」


慣れられるわけがない。



第一三章 デートの最後は、言葉で


小さな洋菓子屋。

窓際の席。

ショートケーキと、彼はココア。


彼がケーキを一口も食べないのを見て、

私は笑ってしまった。


「やっぱり甘いの苦手?」


「苦手じゃない。……見てる方が好き」


「何を?」


「ひよりが食べてるとこ」


言われた瞬間、フォークが止まった。


「……そんなの、見て楽しいの?」


「楽しい」


即答。


私は顔が熱くなって、わざとケーキを小さく切って口に運ぶ。

彼の視線が、逃げない。


その視線に慣れるために、私は言葉を探した。


「ねえ……相沢くんって」


「うん」


「バスじゃない場所だと、こんなに話すんだね」


彼は少し考えてから言った。


「バスだと、終点が近い」


「……うん」


「話しすぎたら、降りる時に寂しい」


胸がきゅっとなる。


「だから、今日はいっぱい話す」


それが、彼の不器用な優しさだった。


帰り道。

駅の改札の前で、立ち止まった。


「今日は、ありがとう」


私が言うと、彼は目を伏せる。


「……また」


「うん。また」


“また”の約束は、言葉だけで成立する。

それが嬉しくて怖い。


彼が少しだけ近づく。


改札の前。

人が通る。

でも、彼は構わないみたいに、私の前髪に触れた。


「髪……」


「え?」


「……今日の、似合ってた」


それだけ言って、彼はすぐ視線を逸らした。


褒め言葉が不器用すぎて、胸がいっぱいになる。


私は、改札の向こうに行きながら振り返る。


彼は、いつもの“バス内ルール”みたいに、小さく手を振った。


世界でいちばん小さな仕草が、

世界でいちばん大きな約束に見えた。



第四部 好きが増えるほど、怖くなる


第一四章 知らない「ひより」が、彼の隣にいる


恋人になって、全部が安心になると思ってた。


でも、違った。


安心は、束の間で。

好きが増えるほど、失う想像も増える。


ある日、駅前で彼を待っていると、

彼の友達らしい男の子が肩を叩いた。


「相沢ー! こっちこっち!」


相沢くんは振り返って、そっちに歩いた。

その先にいたのは、同じ工業の女の子。

作業着っぽい制服で、髪をひとつに結んで、笑いながら彼に話しかけていた。


相沢くんが、ほんの少しだけ笑う。


――バスの中じゃ見ない笑い方。


胸が、じわっと冷える。


(私の知らない相沢くんだ)


私は声をかけられなかった。

近づいたら、彼の“工業の世界”に土足で入るみたいで怖かった。


結局、そのまま帰った。


次の日のバス。

私はいつもの席に座るのに、手は繋げなかった。


彼は気づいた。

気づいた上で、何も言わなかった。


沈黙が、また痛い形をして戻ってくる。



第一五章 嫉妬は、言い方が難しい


放課後、美咲に全部言ったら、

美咲はミルクティーのストローを噛みながら言った。


「それ、嫉妬じゃん」


「分かってる……でも、言えない」


「言わないと伝わらないよ」


伝わるのが怖い。

“重い”って思われるのが怖い。

相沢くんは、言葉が少ないから、余計に怖い。


その日の帰りのバス。

私はずっと窓の外を見ていた。


彼が、ぽつりと言う。


「……今日、どうした」


「どうもしない」


嘘が下手で、声が震える。


彼は小さく息を吐いた。


「……俺、何かした?」


その言い方が、責めるんじゃなくて、困ってるみたいで。

胸が痛んだ。


私は、言葉を選ぶ。

間違えると、壊れる気がした。


「昨日……駅前で」


「うん」


「相沢くんが、女の子と笑ってて……」


言った瞬間、顔が熱くなる。

情けなくて、恥ずかしくて。


「私、嫌だった」


声が小さい。

でも、言えた。


彼は一瞬止まって、前を向いたまま言う。


「……誰だと思った」


「え」


「ひよりが見てたの」


私は答えられない。


「工業の、同じ科のやつ。部品の受け渡し」


部品。

現実的すぎて、余計に恥ずかしい。


「笑ってたのは……あいつが変な冗談言ったから」


「……そうなんだ」


でも、嫉妬は理屈じゃ消えない。


私は小さく続けた。


「私、相沢くんの知らないところがいっぱいあって……」


言いながら、自分が泣きそうになる。


彼は、やっと私を見る。


「……ひよりも、俺の知らないとこある」


「え?」


「学校。友達。……俺、知らない」


その一言で、胸の冷たさが少し溶けた。


彼も同じなんだ。


「……怖い?」


私が聞くと、彼は小さく頷いた。


「取られるの、嫌だ」


心臓が跳ねる。

彼の口から“嫌だ”って言葉が出るだけで、世界が揺れる。


「……じゃあ」


彼は言葉を探しながら、続けた。


「俺の友達、紹介する。ひよりの友達も、いつか」


それは、バスの外に橋をかける提案だった。


私は、こっそり息を吐いた。


「……うん。ありがと」


彼は、少し照れたように前を向き直す。


そして、バスが段差を越えた瞬間。

彼の小指が、私の小指に触れた。


「……手」


それだけ言って、彼は私の手を取った。


嫉妬は消えない。

でも、消えないままでも、隣にいられる。


それを知った日だった。



第一六章 彼の“世界”に入る日


紹介は、土曜だった。


工業高校の近くのコンビニ前。

相沢くんの友達は、想像より普通で、想像より優しかった。


「え、朝のバスの子? うわ、ほんとにいたんだ」


「いたって何……」


私が苦笑いすると、相沢くんが低い声で言う。


「変なこと言うな」


それだけで、友達が笑う。


「相沢、めっちゃ彼氏してんじゃん」


“彼氏”って言葉が、まだ現実感なくて、私は耳まで熱くなる。


相沢くんはぶっきらぼうに言った。


「……うるさい」


でも、私の前に立ってくれる。

歩く時、さりげなく車道側に移動してくれる。

そういう小さなことで、胸がいっぱいになる。


帰り道、私が言う。


「緊張した……」


「俺も」


即答。


「相沢くんも緊張するんだ」


「する。……ひよりが俺のとこ来ると」


それは、誇らしさみたいな言い方だった。


私は、知らない世界に足を踏み入れた。

怖いのに、嬉しい。


“バスだけ”だった私たちは、

少しずつ、バスの外に広がっていく。



第五部 クリスマスの光は、ふたりの影を近づける


第一七章 プレゼントは、持て余すほどの気持ち


十二月に入った途端、街が急に浮かれ出した。


イルミネーション。

クリスマスソング。

コンビニのケーキ予約のポスター。


私は、プレゼント売り場の前で立ち尽くす。


相沢くんに何をあげたらいいのか分からない。


彼は甘いのが好きじゃない。

服の好みもよく知らない。

でも、手は覚えてる。

力があるのに、丁寧な手。


“手を守るもの”ならどうだろう。


私は、作業用にも使えるような、指先が動かしやすい手袋を選んだ。

シンプルな黒。

内側が少しだけ暖かい素材。


袋に入れてもらう間、胸が苦しい。


(重いかな)

(喜ばなかったらどうしよう)


恋って、気持ちを渡す行為が全部こわい。



第一八章 クリスマスイブ、バスは特別席になる


イブの日は、いつもの通学バスの空気まで少しだけ柔らかい気がした。


彼が隣に座る。

いつもより、少しだけそわそわしてる。


「……今日、寒い」


「いつも寒いよ」


「……違う。なんか」


言葉にならないのが、彼らしい。


学校が終わって、駅前で待ち合わせ。

イルミネーションの下で会う彼は、いつもより大人に見えた。


「……これ」


私は、袋を差し出した。


「え?」


「クリスマス、だから」


彼は袋を受け取って、固まる。

そして、耳まで赤くなった。


「……開けていい?」


「い、今……?」


「今」


彼は袋をそっと開けて、手袋を取り出した。


少しだけ触って、目を伏せて言う。


「……あったかい」


「相沢くんの手、よく使うから……」


言い訳みたいになる。


彼は急に、私の手を取った。


人がたくさんいるのに。

イルミネーションがきらきらしてるのに。

その中で、彼の熱だけが確かだった。


「……ありがとう」


「うん……」


「俺も、ある」


彼がポケットから小さな箱を出す。


中身は、細いネックレスだった。

星みたいな、小さなチャーム。


「……目立たないやつ。制服でも隠れる」


その言い方が、彼の配慮で。

でも、その配慮が、逆に胸をいっぱいにする。


「つけて」


彼が言う。


私は頷く。

彼は不器用な手つきで留め金を探して、何度も外しそうになって、

最後に小さく舌打ちした。


「ご、ごめん」


「謝らなくていい」


彼の指が首の後ろに触れるたび、息が止まる。


留め金が留まった瞬間、

彼は私の肩に額を落とすみたいに近づいた。


「……近い?」


「……近い」


「……もっと?」


“もっと”って言葉が、彼の口から出るなんて。


私は頷く代わりに、彼の袖を掴んだ。


彼はゆっくり顔を上げて、私を見た。


イルミネーションの光が、彼の瞳に映っていた。


「……キス、していい?」


確認する声が震えてる。


私は小さく言う。


「……うん」


彼は、ほんの一瞬だけ迷ってから、

優しく、短く、触れるだけのキスをした。


触れたのは唇なのに、

熱くなったのは胸の奥だった。


「……すげぇ」


彼が小さく呟く。


「何が」


「……終点じゃないのに、終わりそう」


私は笑いそうになって、涙が出そうになって、

同時に全部が愛おしくて、息が詰まった。


「終わらないよ」


私が言う。


彼は、手袋を片方だけはめて、

空いてる手で、私の手を握った。


「……終わらせない」


それが、彼なりのクリスマスの誓いみたいだった。



第六部 新しい年、ふたりの約束は“日常”になる


第一九章 年末、すれ違いは小さな刃になる


年末が近づくにつれて、

朝の空気が、少しずつ固くなっていった。


吐く息が白くなるほど寒いのに、

バスの中は、前より静かだった。


いつもの七時二十三分。

いつもの青い通学バス。

いつもの後ろから三列目、左窓際。


私は座っている。

相沢くんも、隣にいる。


でも――

手は、繋がれていなかった。


それが、こんなに気になるなんて思わなかった。



期末テストが終わって、

行事も落ち着いて、

「付き合ってる」という事実だけが残る時期。


忙しくなったわけじゃない。

喧嘩をしたわけでもない。


ただ、少しずつ、

会話の“間”が変わった。


「寒いですね」


「……寒いな」


それ以上、言葉が続かない。


前なら、その沈黙さえ心地よかったのに、

今は、胸の奥がざらつく。


(……私、何かしたかな)


考え始めると、止まらなくなる。



年末が近づくと、

バスに乗る人数も少しずつ減る。


三者面談の日、補講の日、

家の都合で休む人。


ある朝、

私が乗った時、彼の姿がなかった。


(……寝坊?)


そう思おうとして、

胸の奥がひくっと冷えた。


終点近くで、ようやく彼が乗ってきた。


息を少し切らして、

コートの肩に雪がついている。


「……おはよう」


私が言うと、


「……おはよう」


返事はある。

でも、目が合わない。


それだけで、

胸の中に小さな刃が立った。



その日から、

“ちょっとした違和感”が増えていく。


彼が窓の外を見る時間が長くなった。

話しかけると、返事はあるけど短い。

帰りのバスで、目が合わない。


(嫌われたわけじゃない)


何度もそう言い聞かせる。


でも、

“好きでいてもらえてる”って感覚が、

少しずつ曖昧になる。


それが、怖かった。



ある夕方。

薄暗い空で、雪が降り始めた日。


バスはいつもより遅れていた。


停留所で並びながら、

私は彼の横顔を盗み見る。


前より少し、疲れて見える。


「……最近、忙しい?」


勇気を出して聞いた。


「……まあ」


それだけ。


その一言が、

私の中で変な方向に膨らむ。


(話したくないのかな)

(私といる時間、前ほど楽しくないのかな)


バスが来る。

乗る。

座る。


距離は同じなのに、

心だけが遠い。


私は、スカートの裾をぎゅっと握った。



言わなきゃ。


でも、

何をどう言えばいいか分からない。


重いって思われたらどうしよう。

面倒って思われたらどうしよう。


そんなことを考えているうちに、

バスは学校に着いてしまう。


ドアが開く。


立ち上がる彼の背中を見ながら、

胸が、きゅっと締めつけられた。


(……置いていかれる)


そんな気がした。



その日の帰り。


バスは、ほとんど空いていた。

窓の外は、もう真っ暗。


彼が隣に座る。

でも、やっぱり手は繋がれない。


私は、耐えきれなくなって口を開いた。


「……相沢くん」


「……ん?」


声が震えた。


「最近、私といるの、楽しくない?」


言った瞬間、後悔が押し寄せる。


(なんで、こんな聞き方……)


彼は、少しだけ驚いた顔をして、

それから、長く黙った。


沈黙が、

バスの揺れよりも怖い。


「……そんなことない」


やっと出た言葉。


でも、

即答じゃなかったことが、

逆に胸に刺さる。


「……じゃあ」


私は続けた。


「なんで、前みたいに手、繋いでくれないの?」


子どもみたいな質問だと思った。

でも、止められなかった。


彼は、視線を落とす。


「……気づいてた?」


その一言で、

胸がぎゅっと縮んだ。



「俺さ」


彼は、膝の上で手を握りしめていた。


「最近、考えること増えて」


「……考えること?」


「受験とか、進路とか」


彼の声は低くて、

少しだけ、疲れていた。


「ひよりのこと、好きなのは変わらない」


その前置きが、

逆に怖い。


「でも……」


その“でも”が、

私の中で、音を立てた。


「このままでいいのか、分からなくなってた」


胸が、ずんと重くなる。


「付き合ってるって言葉に、

ちゃんと向き合わなきゃいけない気がして」


彼は、苦しそうに言った。


「軽く扱いたくない」


その言葉で、

私はやっと分かった。


――遠くなったんじゃない。

――真剣になったんだ。



「だから」


彼は続ける。


「手、繋ぐのも、

なんか……」


言葉を探して、

一度息を吸う。


「当たり前にしたくなかった」


その一言が、

胸の奥に落ちた。


私は、目が熱くなるのを感じた。


「……私」


声が震える。


「離れたのかと思った」


「離れてない」


彼は、即答した。


その声が、

今までで一番、強かった。


「離れるなら、ちゃんと言う」


その不器用な誠実さに、

涙がこぼれそうになる。



彼が、そっと私の手を取った。


久しぶりに繋ぐ手。


少し冷たくて、

でも、すぐに温かくなる。


「……ごめん」


彼が言う。


「ひより、不安にさせた」


私は首を振る。


「……私も、勝手に怖くなった」


「それでいい」


彼は、私の手を離さない。


「怖くなっても、言って」


その言葉が、

胸の奥をほどいていく。



バスは、終点に近づいていた。


「……年末」


私が小さく言う。


「一緒にいられる時間、減るね」


「減る」


彼は認める。


でも、続けた。


「でも、終わらない」


私は、彼を見る。


「……終わらない?」


「減るだけ」


彼は、私の手を握り直した。


「ひよりが、いなくなるわけじゃない」


その言葉が、

静かに、心に残る。



バスが止まる。


ドアが開く。


冷たい空気が入ってくる。


それでも、

私たちは一緒に立ち上がった。


すれ違いは、

消えたわけじゃない。


でも――

切り傷みたいな痛みを、

ちゃんと見せ合えた。


それだけで、

この恋は、少しだけ強くなった。




第二〇章 お正月、彼の言葉は遅れて届く


元旦。


まだ薄暗い朝に、廊下を歩く足音と、

台所から聞こえる食器の音で目が覚めた。


「ひより、起きなさい。あけましておめでとう」


母の声は、いつも通り明るい。


「あけましておめでとう……」


そう返しながら、私は布団の中でスマホを掴んだ。


通知は、ない。


昨日の夜、眠る直前まで、

画面を何度も見ていたことを思い出す。


(まだ、かな)


そう思った瞬間に、

自分が何を期待しているのか分かってしまって、

胸の奥が少し痛んだ。



居間に行くと、テレビでは新年の特番が流れている。


芸人さんの大きな声。

笑う家族。

テーブルの上に並んだおせち料理。


数の子。

黒豆。

伊達巻。


どれも、毎年同じ。


「今年は受験だねえ」

「体に気をつけなさいよ」


そんな会話が飛び交う中、

私は相槌を打ちながら、スマホを裏返しに置いた。


見てしまうから。

期待してしまうから。


でも、しばらくすると、

無意識にまた手が伸びてしまう。


画面は、静かなまま。


(昨日、あんなこと言っちゃったし……)


十九章の夜のことが、頭をよぎる。


「楽しくない?」

「なんで手、繋いでくれないの?」


自分の声が、

思っていたよりも弱くて、

思っていたよりも必死だったことを思い出す。


(重かったかな)

(困らせたかな)


相沢くんは、嘘をつかない人だ。

だからこそ、返事がない時間が、

余計に怖い。



お昼。


お雑煮の湯気が立ちのぼる。


「ひより、食べないの?」


「あ、食べる……」


箸を持つけれど、

味がよく分からない。


テレビでは初詣の中継。

楽しそうな人たち。

手を繋いだカップル。


(私たちも、昨日までは……)


そう考えて、慌てて首を振る。


(違う。終わったわけじゃない)


そう言い聞かせるほど、

不安は輪郭を持ってくる。


その時だった。


スマホが、短く震えた。



通知。


心臓が、一拍遅れて跳ねる。


相沢 恒一。


私は、すぐに開けなかった。


画面を見つめたまま、

深く息を吸って、

ゆっくり吐く。


(怒ってたらどうしよう)

(距離を置こうって言われたら……)


そんな想像を振り切って、

やっと、指で画面をなぞった。



『今、起きた』



たった三文字なのに、

胸の奥が、少し緩む。


(……相沢くんだ)


続けて、すぐに通知が増える。



『昨日、バイト終わって寝落ちした』

『返せなくてごめん』



言い訳じゃない。

状況の説明だけ。


それが、彼らしい。


さらに、間を置かずに――



『冷めてない』



その一行で、

胸に溜まっていたものが、

音を立てて崩れた。


涙が出そうになるのを、

必死で堪える。


(よかった……)


でも、次の通知で、

私は画面を見つめ直す。



『むしろ、怖い』



怖い?


その言葉が、意外すぎて。


(何が……?)


答えを待つ間、

数秒がやけに長い。


そして、続きが届く。



『ひよりが不安になるの、嫌だ』

『俺がちゃんとしないとって思う』



短い。

でも、逃げていない。


彼はいつも、

大事なところほど、

言葉を削る。


それが、誠実さだって、

私はもう知っている。


(私だけじゃなかった)


不安だったのは。

怖かったのは。


画面が、少し滲んだ。



『今日、会える?』



その一文が、

お願いみたいで、

確認みたいで。


私は、スマホを胸に抱きしめた。



「ひより? どうしたの?」


母の声に、はっとする。


「ううん、なんでもない」


そう答えながら、

私は立ち上がる。


「ちょっと、出かけてきていい?」


「お正月早々?」


「……うん。大事な用事」


母は一瞬考えて、

小さく頷いた。


「暗くなる前には帰りなさいよ」


「うん」


自分の部屋に戻って、

制服じゃない服に着替える。


コートを羽織りながら、

スマホを打つ。



『会える』



たった二文字。


でも、それは、

昨夜の不安も、

朝の孤独も、

全部まとめて渡す言葉だった。


すぐに、返信が来る。



『よかった』



その一言で、

胸がいっぱいになる。



家を出ると、

冷たい空気が頬に触れる。


元旦の街は、どこか静かで、

時間がゆっくり流れている。


(ちゃんと、話そう)


(言葉にしよう)


十九章でできた小さな傷を、

今日、ちゃんと見せ合おう。


歩きながら、

私は思う。


彼の言葉は、いつも少し遅れる。


でも――

遅れても、

ちゃんと届く。


それが、相沢くんの愛し方だ。


そして私は、

その遅さごと、

受け取る覚悟ができている。


元旦の空の下で、

私は少しだけ強くなっていた。



第二一章 初詣、願い事は言わない


神社は人でいっぱいだった。

屋台の匂いと、鈴の音と、冷たい空気。


彼は黒いコートを着ていて、

私の手を当たり前みたいに握ってくる。


(当たり前になってる)


それが嬉しい。


参道を歩きながら、彼が言う。


「……昨日のやつ」


「うん」


「言い方、悪かった。ごめん」


「私も……ごめん」


「ひより」


彼が立ち止まる。

人混みの中で、私だけが止まる。


「不安にさせたくない」


「……うん」


「でも、忙しい時、うまく言えない」


彼は悔しそうに眉を寄せた。


「俺、ひよりのこと好きって言えるの、バスの中の方が簡単だった」


その告白が、あまりに正直で。

私は笑ってしまった。


「じゃあ、これからもバスの中で言って」


「……言う」


「バスの外でも」


「……努力する」


努力って言葉が、彼らしくて愛おしい。


お賽銭を入れて、手を合わせる。

彼は目を閉じて、長く願う。


「何お願いしたの?」


私が聞くと、彼は即答した。


「言わない」


「なんで」


「叶ったら言う」


ずるい。


私は、同じように“言わない願い”を胸にしまった。



最終章 朝七時二十三分は、これからも


三月。

空気の匂いが、冬から春に変わる頃。


バスは今日も七時二十三分に来る。

私は今日も、後ろから三列目、左窓際に座る。


彼も隣に座る。


ただ、前と違うのは――

私たちが“バスの外側”にも、たくさんの場所を持つようになったこと。


彼の友達。

私の友達。

初詣の神社。

クリスマスのイルミネーション。

終点のあの道。

小さな洋菓子屋。


世界が増えるたび、怖さも増えた。

すれ違って、泣きそうになった夜もある。


でも、そのたびに彼は、遅れてでもちゃんと戻ってきた。


バスが揺れる。

彼が窓の外を見る。


いつもみたいに、ほんの少しだけ口角を上げる。


「何見てるの?」


私が聞くと、彼は言う。


「……未来」


「未来って」


「降りたあと」


その答えが、彼の成長みたいで。

私は胸がいっぱいになって、笑ってしまった。


「相沢くん」


「うん」


「バスって、終わるね」


「終わる」


彼は、私の手を取る。


「でも、また乗る」


私は頷く。


「うん。何回でも」


ドアが開く。

停留所が近づく。

終点じゃない、ただの毎日の途中。


それでも私は思う。


――この“途中”が、ずっと続けばいい。


彼は、私の手を握ったまま、小さく言った。


「……ひより」


「なに?」


「好き」


バスの中で言うのは簡単って言ってたくせに、

彼の声は今日も少し震えている。


私は、同じくらい震える声で返す。


「私も」


バスは止まる。

ドアが開く。


私たちは、降りる。


でも、終わりじゃない。


降りたあとも、ふたりで歩く。


朝七時二十三分から始まった恋は、

“日常”になって、

“未来”になって、


これからも、何度でも走り出す。


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