第4章:実験2:吊り橋効果(そして空振り)
翌日の午前10時。研究室には私一人。
サーバーの静かな駆動音だけが響いている。
陽太(Subject: Chaos)は、この時間(午前)は講義が入っているため、不在だ。
完璧な思考環境。
私は、昨日の『実験1:失敗(FAILURE)』のログデータを、ディスプレイ上で冷徹に分析していた。
(内面:分析) [実験1:失敗要因の分析]
アプローチ(物理的接触)が「単純」すぎた。
ターゲット(陽太)の「直感(非論理)」が、私の「計画(論理)」を上回った。
彼が私の行動(減速)を「データ」として取得し、「看破」した。
(内面の混乱):(…あの非論理の塊が、私の0.1秒の減速を検知した? 信じがたい。彼のセンサー(五感)は、私の予測を遥かに超えるノイズ(直感)に満ちている)
だが、落ち込む(エラーを吐く)必要はない。 完璧主義者(私)にとって、失敗は、次への「最適解」を導き出すための貴重な「データ」に過ぎない。
(内面:結論) (…結論。弱い刺激は、彼に「看破」される) (ならば、彼自身の『直感(非論理)』では制御できない、より「強力」な生理的反応を、強制的に引き起こせばいい)
私は『Project: L.O.V.E.』ファイルに、次の実験計画を打ち込む。
実験2:吊り橋効果(シャクター・シンガー理論)の検証
理論: 不安、恐怖、興奮といった強い「生理的喚起」が発生した際、ヒトはその原因を「周囲の状況(環境)」に帰属させる。
計画: ターゲット(陽太)と共に「強度の不安(吊り橋)」を共有する閉鎖空間に身を置く。そして、そこで発生した「生理的興奮」を、ターゲットが「私(姫宮鏡子)への好意」と誤認するよう誘導する。
実行環境: 大学の「旧・書庫棟」の、老朽化したエレベーター。
実行手段: 私(鏡子)による、人為的な「緊急停止ボタン」の押下。
(外面の無表情):私は、この完璧な計画を前に、小さく頷く。 「単純接触効果」のような生易しいものではない。「吊り橋効果」は、彼の「脳」そのものに直接バグ(誤認)を仕掛ける、高度な心理的ハッキングだ。 彼がいくら「直感」に優れていようと、脳の「生理的興奮」そのものを止めることはできない。
…実験の準備は、整った。
午後4時。
旧書庫棟は、新棟とは比較にならないほど空気が冷たく、重い。
埃と、カビ臭い紙の匂い(五感:匂い)が鼻腔を刺激する。
天井の蛍光灯は数本が切れており、チカチカと不規則な点滅を繰り返し、長い廊下は薄暗い。
人の気配はゼロ。完璧な実験環境だ。
「…で、なんで俺まで…」 私の隣で、陽太が心底面倒くさそうに呟く。 彼を研究室からここまで誘導する口実は単純だ。
「教授の指示だ。『夏目くんのレポートに必要な資料が、旧書庫にしかない。姫宮くん(論理)と一緒に、二人で(非論理)探してこい』と」 「うわ、あのジジイ、人使い荒すぎ…。姫宮さん一人で行ってくれればよかったのに」 「(外面の無表情)…二人で、と指示されている」 陽太は大きなため息付き、あきらめたように言う「…はいはい。分かりましたよー」
目の前には、目的の「実験室」が、重い金属の扉を閉ざして待っている。 私が「開」ボタンを押すと、「ゴゴゴ…」という地響きのような動作音(五感:音)と共に、扉がゆっくりと開いた。
内部は、大人が三人入れば一杯になるほど狭い。壁は傷だらけのステンレス。古い機械油の匂い(五感:匂い)が、空気に染みついている。照明は暗いオレンジ色の裸電球が一つだけだ。
「うわ、せまっ。てか、臭っ」 陽太が非論理的な文句を言いながら、奥の壁に寄りかかる。 私が入り、目的階(5階)のボタンを押す。
ガコン、という重い音と共に扉が閉まる。 世界から、私と「サンプル(陽太)」の二人だけが切り離された。
ゴォー…ゴォー… エレベーターが、不気味な(計画通りの)駆動音を立てて上昇していく。
(内面:分析) (…ターゲット(陽太)の様子をスキャン。壁に寄りかかり、スマホ(ノイズ源)をいじっている。私への注意はゼロ。完璧なタイミング(シチュエーション)だ)
3階から4階へ。 4階の表示ランプが点灯し、消える。 …今だ。
(外面の無表情):私は、操作パネルに寄りかかり、バランスを崩した「フリ(演技)」をする。 そして、私の指が「偶然(という名の論理)」、あの赤い「非常停止」ボタンを、深く、強く、押し込んだ。
ガッッッッッッッッッッッッ!!!!
(五感:音・振動) 鼓膜を突き破るような金属音と、内臓を揺さぶる強烈な「振動」。 ゴ、ゴ、ゴ…と上昇していた駆動音が、完全に「沈黙」する。
(五感:視覚) 次の瞬間。 ブツン、と。 唯一の照明(オレンジ電球)が消え、世界が「完全な暗闇」に包まれた。
(内面:確認) (…よし! 計画通り、タスク(吊り橋)発生! 暗闇、閉鎖空間、強烈な振動(恐怖)! これだ! この生理的興奮を、彼は今、私の隣で感じている!)
数秒の沈黙。 暗闇の中で、私(論理)は、彼(非論理)の「バグ(誤認)」を待つ。 彼の「直感」など、この「恐怖」の前では無力なはずだ。
(外面の無表情):私は、動かない。 彼がパニック(興奮)を起こし、私に「大丈夫か!?」と声をかけ、その興奮を「恋」と誤認する、その瞬間を待つ。
…だが。 暗闇の中で、陽太は、静かだった。 パニック(エラー)の兆候が、ない。
カチ、と。 小さな音がして、陽太のスマホのライト(五感:視覚)が点灯した。 白い光が、狭い空間をぼんやりと照らし出す。
彼は、そのライトで「私の顔(表情)」ではなく、私が押した「操作パネル」を冷静に照らした。 そして、あの赤い「非常停止」ボタンを、じーっと見つめ…。
「……あ、」
ため息(非論理)を一つ吐いて、彼は、私の「ロジック」を、再び粉砕する言葉を口にした。
「これ、姫宮さんが押したでしょ?」
(内面の混乱): (…………!?) (…………ERROR) (…ナゼ? マタ? ドウシテ? 看破サレタ? この完璧ナ状況下デ? ナゼ!?)
(外面の無表情):私は、石像のように動けない。 暗闇(非常灯も点かないポンコツだ)の中、スマホのライトに照らされた私の顔は、完璧な「無」だった。
「…何を、言っている。これは、事故だ」 「いや。だって、今『ガコン』ってなる直前、姫宮さんの指が非常ボタンにあったもん」
(内面の混乱):(…ウソだ! 彼の視覚は、あの「暗闇」と「振動」の瞬間に、私の指先(0.5秒)の動きを、正確に捉えていた…? 私の『演技』を、全て!? あり得ない! バグだ! 彼(非論理)の存在そのものが、私のシステム(論理)に対する致命的なバグだ!)
陽太は、スマホのライトを私に向けたまま(眩しい。非論理的だ)、面倒くさそうに頭を掻いた。 「あーあ。これ、マジで止まると復旧めんどくさいんだよねー。管理室に電話しなきゃ」
(内面の混乱):(…めんどくさい? 彼は、この「吊り橋効果(恐怖)」を「恐怖」として処理(誤認)せず、「面倒」として処理(論理)した? 私のロジック(吊り橋)が、彼の非論理(面倒くさい)に負けた…?)
陽太は、スマホでどこかに電話をかけ始めた。 「あ、もしもしー。すみません、旧書庫のエレベーター、止まっちゃって。いや、こっちの人がボタン押しちゃって…。はい…」
(外面の無表情): 私は、暗闇の中で、ただ立ち尽くす。 スマホの光に照らされた、彼の「非論理的」な横顔を見ながら。
実験2:吊り橋効果(プランB)。 結果:完敗(CATASTROPHIC FAILURE)。
(…第四章・了)
【シーン:大学・心理学部棟・研究室・翌日】
昨日の「バレバレな接触実験(プランA)」から一夜。 俺、夏目陽太は、姫宮鏡子が次に何を仕掛けてくるのか、正直ちょっと楽しみにしていた。
(昨日のフリーズは傑作だったな…)
「不要だ」とか言って、カツカツカツ!って逃げてった時の、あの「完璧に乱れた」ヒールの音。 思い出すだけで笑える。
(さて、プランBは、いつ来る?)
俺が自分の「汚染区域」でレポートと格闘していると、その「観察対象」が、静かすぎる足取りで俺の背後に立った。
(うわ、来た) (気配が、冷たすぎるんだよな、この人)
「夏目くん」 「はいはい、何でしょう」 俺が振り返ると、彼女は完璧な「無表情」で、俺を見下ろしていた。
「教授の指示だ。『夏目くんのレポートに必要な資料が、旧書庫にしかない。姫宮くん(論理)と一緒に、二人で(非論理)探してこい』と」
(…………) (…来た。「二人で」!)
俺は、噴き出しそうになるのを堪えた。 (教授まで巻き込みやがった! あのジジイ、絶対面白がってるだろ!)
俺の「直感」が、警告を鳴らしている。 『旧書庫』。 『二人きり』。 『姫宮さん(マシナリー)からの、お誘い』。
(…あー、なるほど。教科書通りだな)
「うわ、あのジジイ、人使い荒すぎ…。姫宮さん一人で行ってくれればよかったのに」 俺は、わざと面倒くさそうに答える。 さあ、どう切り返す? 姫宮さん。
「…二人で、と指示されている」 彼女は完璧な「無表情」で、そう切り捨てた。 (知ってた。そのセリフ、100%言うと思った)
(旧書庫、ねぇ…) あそこ、薄暗くて、カビ臭くて、オバケが出るとかいう、学内随一の「ホラー的」スポットじゃん。
(…分かった。完全に分かったぞ、姫宮さん) (あんたの「プランB」…) (**『吊り橋効果』**だろ!)
(うわ、マジか。心理学の学生が、今さら『吊り橋効果』!? ベタすぎるだろ! 面白い!)
俺は、この「分かりやすすぎる実験」に、あえて乗ってやることにした。 「(大きなため息)…はいはい。分かりましたよー」
【シーン:大学・旧書庫棟・3階エレベーターホール】
(うわ、カビ臭っ) (てか、暗っ) 旧書庫棟は、相変わらず空気が重い。 蛍光灯もチカチカしてるし、雰囲気は満点だ。
姫宮さんは、完璧な「無表情」で、俺を例の「ポンコツ・エレベーター」へと誘導する。
(あー、これか。エレベーターが、今回の「吊り橋」か) (この、いつ止まるか分からないと噂のポンコツで、俺の「不安」を煽る、と) (なるほどねー。シンプルだねー)
ゴゴゴ…という不気味な音と共に、ドアが開く。
【シーン:エレベーター内部】
(せまっ! 臭っ!) 俺は、わざと文句を言いながら、奥の壁に寄りかかる。 姫宮さんが、俺と二人きりの「閉鎖空間」に入り、5階のボタンを押した。
ガコン、と重い音がして、ドアが閉まる。 ゴォー…ゴォー… エレベーターが、唸りを上げて上昇していく。
(さあ、いつ来る? いつ「止める」?) (てか、どうやって「偶然」を装う気だ?)
俺は、あえて「警戒ゼロ」を装い、スマホを取り出して、どうでもいいニュースを眺めるフリをした。 (彼女(実験者)の「アタック」が、最高の形で決まる(失敗する)ように、な)
3階から4階へ。 4階のランプが消える。 (…来るぞ)
その瞬間。 姫宮さん(実験者)が、 (お、来た! 『バランスを崩したフリ』!) と、俺の「直感」が検知した。
彼女の身体が、わざとらしく計算通りに傾ぎ、 彼女の指先が、寸分の狂いもなく完璧に、 あの、真っ赤な非常停止ボタンへと、吸い込まれていく。
(うわ、マジで押したよ、この人!)
ガッッッッッッッッッッッッ!!!!
(うおっ、すげえ音!) 強烈な振動と、金属音。
ブツン。 (あ、照明も消した) 完全な「暗闇(演出)」だ。
(…………) (…………) 静寂。 そして、暗闇。
(…で?) (…姫宮さん、あんたの「プランB(吊り橋)」は、ここからが本番だろ?) (どうすんの? 悲鳴でも上げる? 俺の腕にでも、しがみついてくんの?)
俺は、暗闇の中、彼女の「次の行動」を待った。 …5秒。 …10秒。
(…………) (…あれ? 何もしてこない)
暗闇(実験室)の中、彼女は、 (え、息、してんの?) ってくらい、静かだ。 微動だにしていない。
(…あー、なるほど。分かった) (この人、「恐怖」を「共有」するんじゃなくて、) (俺が、この「暗闇(恐怖)」で、勝手にパニックを起こすのを「待ってる(観測してる)」のか!) (そして、その「パニック(ドキドキ)」を、俺が「姫宮さん(実験者)への恋」だと「誤認」する、と)
(…いや、無理だろ!!) (怖くねーし! むしろ、めんどくせーし!)
俺は、もう飽きた。 この「完璧な(はずの)実験」を、終わらせることにした。
カチ、と。 俺は、スマホのライトを点灯させた。
(うわ、いた) 暗闇の中に、姫宮さん(マシナリー)が、完璧な「無表情」で、立っていた。 だが、俺の「直感」は、見逃さない。
(あ、今、一瞬、目が『残念だ』って言ったな)
俺は、スマホのライトを、彼女ではなく、 (彼女が一番「見られたくない」であろう) 「操作パネル」に、ゆっくりと向けた。
(…はい、見っけ) 真っ赤な「非常停止」ボタン(証拠A)。 これが、あんたの「完璧な論理」だ。
俺は、ゆっくりと息を吐いて、 彼女(フリーズ寸前)の目を見て、 「真実(答え)」を、言ってやった。
「……あ、」 「これ、姫宮さんが押したでしょ」
(…………) (…………あ、フリーズした)
彼女が、また固まった。 昨日(プランA)より、強烈に。 完璧な「無表情」のまま、彼女のシステムが、完全に「停止」したのが、空気で伝わってくる。
「…何を、言っている。これは、事故だ」 (お、再起動した。だが、声が、完璧に「動揺」しているぞ)
「いや。だって、今『ガコン』ってなる直前、姫宮さんの指、そこ(非常ボタン)にあったもん」
(ウソだけど) (暗くて見えなかったけど) (あんたの「完璧な論理(教科書通り)」なら、そこ(ボタン)を「押す」以外に、選択肢ないだろ?)
彼女の「無表情」が、わずかに、本当にわずかに、 (…なぜ『看破』された…?) という「絶望」に歪んだのを、俺の「直感」は、見逃さなかった。
(あーあ。また「フリーズ」させちまった) (てか、マジで、これ、どうすんだよ)
俺は、スマホを取り出し、管理室に電話をかける。 「あーあ。これ、マジで止まると復旧めんどくさいんだよねー。管理室に電話しなきゃ」
(あんたの「実験」、不器用すぎて、面白すぎるけど) (後始末が、「めんどくさい」んだよ、姫宮さん)
俺は、管理室(教授?)に電話をしながら、 「あ、もしもしー。すみません、旧書庫のエレベーター、止まっちゃって。いや、こっちの人がボタン押しちゃって…。はい…」 と、暗闇の中で完璧に「フリーズ(停止)」している「面白い機械」を、横目で見て(観測して)やった。




