第3章:実験1:単純接触効果(そして看破)
研究室の時計が、午後3時15分を指している。午後の光が傾き始め、床に落ちる影は長く伸びている。空気は淀み、サーバーの排熱と数名の学生の体温で、室温は午前中より正確に1.2度上昇していた。私の完璧なワークステーションとは対照的に、「汚染区域(陽太のデスク)」の主は、先ほどから「あー」とも「うー」ともつかない非論理的な呻き声を上げながら、PCと睨めっこをしている。
(内面:分析) (…ターゲット(陽太)の行動パターンを分析中。彼は15時を過ぎると、集中力が著しく低下し、糖分(非効率なエネルギー)を求めて自販機へ向かう傾向がある。その時刻、15時20分。残り、5分)
私はラップトップの『Project: L.O.V.E.』ファイルを開き、フェーズ2の第一実験計画(プランA)を最終確認する。
実験1:単純接触効果(ザイアンス効果)の検証
理論: 特定の対象への接触(視覚的・物理的)回数が増加するほど、その対象への好意度(評価)が高まるという認知の法則。
計画: ターゲット(陽太)の移動経路上に「偶然」を装って出現し、意図的な物理的接触(=衝突)を発生させる。これにより、「接触回数:1回目」をカウントし、同時に「予期せぬイベントの共有」による親密度の初期ブーストを狙う。
予測成功率: 85%
(内面の混乱):(…物理的接触。第2章で、彼の「熱」と「匂い(データ)」が私のシステム(思考)に軽微なバグを発生させた事実は認める。だが、今回は違う。これは「私」が「計画」した接触だ。「予期せぬ」ものではない。よって、私のシステムがエラーを吐く可能性は0%) (外面の無表情):私はステンレスボトルの常温水を一口飲み、システム(体温)を正常値にリセットする。完璧だ。
15時19分。 ガタリ、と。 予測通り、陽太が椅子から立ち上がった。 「あー、ダメだ! 糖分切れた! 姫宮さん、ちょっと飲みモン買ってくるわ」
(内面:分析) (…彼は私に「報告」している。これは、私を「仲間(コミュニティの一員)」として認識している証拠か? …いや、違う。彼は「独り言」が多いだけだ。彼の発する言語の7割は、ノイズ(無意味)だ)
「…ああ」 私は、短く応答する。 彼が研究室のドアを開け、廊下に出ていく足音(五感:音)を背中で聞く。
(…フェーズ2、実行に移る)
研究室を一歩出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。廊下は、午後の授業が始まっているため人気がなく、静まり返っている。床に塗られたワックスの匂いと、微かな埃の匂い。等間隔に設置された蛍光灯が、磨かれたリノリウムの床に、白く冷たい光の帯を延々と映し出している。前方には、自販機コーナーへと続く「T字路の角」が見える。
私の計画は完璧だ。 彼の歩行速度は平均よりやや速い。研究室から自販機までの所要時間は45秒。 私がこの廊下を平均速度で歩き、あの角を曲がるタイミングは、今から20秒後。 そこで、自販機から戻ってくる彼と、私は「偶然」衝突する。
カツ、カツ、カツ…。 私のヒールの音(五感:音)だけが、静かな廊下に規則正しく響く。
(内面:シミュレーション) (衝突。私はよろめき、資料を数枚落とす。彼は慌てて謝罪し、それを拾う。私は『…平気だ』と彼の手から資料を受け取る。そこで意図的な『指先の接触』を0.5秒発生させる。完璧な計画だ)
角が、迫る。 今だ。
(外面の無表情):私は、一切の躊躇なく、計算通りのタイミングで角を曲がった。
ドンッ!
(五感:肌触り) 予測通りの衝撃。 私の肩が、柔らかくも弾力のある物体(=陽太のパーカー越しの身体)に衝突した。 衝撃は、シミュレーションの許容範囲内。
バサッ、と。 計画通り、私の手から数枚の資料が床に散らばる。
(内面の混乱):(…計画通り! 成功だ! これで接触回数1回目…!)
「わっ、ごめん!」
陽太の慌てた声。 私は、よろめいたフリをしながら、ゆっくりと顔を上げる。 完璧な被害者のロールプレイだ。 さあ、謝罪を受領し、次のフェーズ(資料拾い)に移る。
「…いや、こちらこそ…」 私が、完璧に準備したセリフを口にしようとした、その瞬間。
陽太は、床に散らばった資料には一切目もくれず、私の顔をじっと見つめ、少し困ったように笑いながら、こう言った。
「……あれ、姫宮さん?」 「…何だ」 「もしかして、さっきから俺のこと、つけてた?」
(内面の混乱): (……………は?) (……ERROR) (……ERROR) (…処理不能。処理不能。ナゼ? ドウシテ? ソンナ? バレタ? 私の完璧なシミュレーション(ロジック)のどこにエラーが? 「偶然」ではなかったと、なぜ彼が「看破」できた!?)
(外面の無表情): 私の表情筋は、完璧に「無」を維持している。 瞬き(まばたき)すら、していないかもしれない。 私のシステム(思考)が、完全にフリーズしていた。
陽太は、ポリポリと自分の猫っ毛をかきながら続ける。 「いや、だってさ。さっきの角、姫宮さん、一瞬待ってたでしょ?」 「!」
(内面の混乱):(…ウソだ! 私は止まっていない! 完璧なタイミング(速度)で曲がったはずだ! いや…待て。角を曲がる直前、0.1秒、彼の足音を確認するために、私は…思考を使い、歩行速度が…減速した…?)
「俺、姫宮さんが角の向こうにいるの、なんとなく分かったからさ。ぶつからないようにスピード落としたんだけど…姫宮さん、そのままの勢いでぶつかってきたから…」
(内面の混乱): (…彼は、気づいていた) (彼は、私の「存在」に気づき、「回避(非論理)」しようとした) (だが、私は、計画を遂行するために、「衝突」を選んだ) (私の「完璧な論理(計画)」が、彼の「非論理的な直感(看破)」に、完敗した…!?)
陽太は慌てたように「あ、ごめん! 責めてるわけじゃなくて! えーと、これ、資料…」 陽太が慌てて床の資料を拾い始める。 だが、もう遅い。 計画は、すでに崩壊していた。
「……不要だ」 私は、床に散らばった資料も、彼の手も無視して、彼(エラー源)の横をすり抜ける。
(五感:匂い) すれ違いざま、あの「処理不能な匂い(柔軟剤と彼の匂い)」が、再び私の鼻腔を刺激する。
(内面の混乱):(…バグだ! バグだ! 私の完璧な『Project: L.O.V.E.』が、初手で、致命的なエラー(看破)を検知した! なぜだ! なぜ私の論理は、彼(非論理)に通用しない!?)
(外面の無表情): カツ、カツ、カツ…。 私は、先ほどよりもコンマ数秒だけ速いヒールの音(五感:音)を廊下に響かせながら、その場から離脱した。
実験1:単純接触効果(プランA)。 結果:失敗(FAILURE)。
(…第三章・了)
【シーン:大学・心理学部棟・研究室・午後3時過ぎ】
(あー…ダメだ。糖分切れた)
PCの画面が、俺の目にはもう、意味のないノイズにしか見えなくなっていた。 人間の集中力には、限界があるんだよ。
ガタリ、と椅子から立ち上がる。 (よし、自販機。自販機に行こう)
ちらり、と。 俺は、研究室のもう一人の住人…姫宮鏡子を見る。 相変わらず、完璧な姿勢で、PC(本体)と睨めっこしている。
(この人、糖分とか欲しくなんないのかな…) (いや、あのデスク(無菌室)に常備されてる『完璧な栄養ゼリー』とかで、1ミリ単位で計算してんだろうな…)
昨日、俺のお菓子で、彼女が微かにフリーズしたのを観測して以来、彼女は俺の中で「完璧な機械」から「面白い観察対象(バグる機械)」に変わっていた。
「姫宮さん、ちょっと飲みモン買ってくるわ」 返事は、期待していない。 これは、俺の「観察(実験)」だ。 案の定、彼女は「…ああ」と、生きているのか死んでいるのか分からない(多分、生きてる)返事だけを返した。 (うん、今日も正常運転)
俺は、気の抜けた足取りで、研究室を出た。
【シーン:大学・心理学部棟・3階廊下】
ひんやりとした廊下の空気が、熱の籠もった頭に気持ちいい。 午後のこの時間は、人もいなくて静かだ。 俺は、ポケットに手を突っ込んだまま、例の「T字路の角」に向かって、ダラダラと歩いていた。
自販機まで、あと10メートル。
(…ん?)
その時だった。 俺の「センサー(直感)」が、ピコン、と微かなノイズ(違和感)を拾った。
(…なんか、いるな) あの「角」の向こう側。 人の気配がする。 いや、「気配」っていうか…
カツ、カツ、カツ… (…ヒールの音?) (この時間(タスク外)に、このフロア(研究室)で、ヒール?)
…ピタ。 (…あ、止まった)
間違いない。 角の向こうで、ヒールの音が、不自然に止まった。
(…うわ) (…100%、姫宮さん(マシナリー)じゃん…)
俺の「観察対象が、なんでこんな所で「待ち伏せ(スナイプ)」してるんだ? 俺、なんかしたか? いや…
(…あー、なるほど) 俺は、昨日の、彼女の「異常な視線」と「拳のフリーズ」を思い出す。 (…これ、俺に対する、『実験』か!)
(うわ、マジか! あの姫宮さんが、俺に『実験』!? 面白すぎるだろ!)
俺は、ニヤニヤしそうになる口元を隠す。 よし。 彼女が「実験」してくるなら、俺は、その「実験」を、ちょっとだけ「回避」してやろう。
俺は、わざと、歩くスピードを、グッと落とした。 さあ、姫宮さん。 俺が「減速(回避)」したこの状況で、あんたの「完璧な論理」は、どう機能する?
角が、迫る。 彼女の「完璧な(はずの)タイミング」は、もう、ズレている。
(ほら、来い…!)
ドンッ!
(うわ、ぶつかってきた!?)
俺は、驚いた。 俺が「減速(回避)」したのに、彼女は、減速(回避)せず、 それどころか、まるで俺が「そこ」にいるのが「確定」していたかのように、 完璧な勢いで、俺に突っ込んできた。
バサッ、と。 彼女の手から、資料が床に散らばる。
(…あーあーあー。ダミーまで用意して。完璧な「偶然」のつもりか) (ダメだ。ダメすぎる。不器用すぎるだろ、この人!)
俺の肩に伝わった衝撃は、大したことない。 だが、俺の腹筋は、この「完璧にズレた(バレバレな)実験」によって、笑いで崩壊寸前だった。
「わっ、ごめん!」 俺は、慌てたフリ(演技)をする。 彼女は、計算通りによろめき、計算通りの「被害者」の顔で、俺を見上げてくる。
(あー、その無表情、ダメだって。完全に「計画通り」って書いてあるから)
俺は、もう、彼女の「実験」に付き合うのを、やめた。 彼女が、俺の「直感」によって、どう「フリーズ」するか、観測したくなった。
「……あれ、姫宮さん?」 「…何だ」 (お、声が硬い。完璧な演技だ)
俺は、あえて床の資料を無視して、彼女の目をまっすぐ見て、笑ってやった。
「もしかして、さっきから俺のこと、つけてた?」
(……) (…あ)
彼女が、固まった(フリーズした)。 完璧に。 昨日、俺がお菓子を差し出した時の、あの「0.5秒のフリーズ」なんかじゃない。 彼女の「完璧な論理」が、俺の「非論理的な看破」によって、完全に「停止」したのが分かった。
(うわ、顔は「無」なのに、目だけが『ERROR』『ERROR』って点滅してる。分かりやすすぎだろ…!)
俺は、追い打ちをかける。 「いや、だってさ。さっきの角、姫宮さん、一瞬待ってたでしょ?」 「!」
(あ、今、肩が、0.2ミリ震えた(バグった))
「俺、姫宮さんが角の向こうにいるの、なんとなく分かったからさ。ぶつからないようにスピード落としたんだけど…姫宮さん、そのままの勢いでぶつかってきたから…」
(さあ、どうする?姫宮さん(マシナリー)) (あんたの「完璧な論理」は、俺の「直感」に、完敗したぞ)
「あ、ごめん! 責めてるわけじゃなくて! えーと、これ、資料…」 俺が慌てて資料を拾おうとすると、
「……不要だ」
彼女は、俺と、床の資料を、完璧に「無視」して、俺の横をすり抜けていった。 (うわ、匂いは、なんか、すげーいい匂いなんだよな…)
カツ、カツ、カツ…。 廊下に響く、彼女のヒールの音。 そのリズムが、 (あ、乱れてる) 来る時よりも、コンマ数秒、速く)なっている。
俺は、その場に一人残り、彼女が落としていった「完璧な実験」を拾いながら、 (あー、面白い) (面白すぎるだろ、姫宮鏡子) と、腹を抱えて笑った。




