第1章:完璧な私の、唯一のバグ(非論理)
【シーン:大学・心理学部棟・認知科学研究室】
午後の遅い日差しが差し込む、明るく近代的な大学の研究室。
塵一つない大きな窓ガラスを透過した光が、真っ白な床のタイルに、鋭く幾何学的な影を描き出している。
稼働し続けるサーバーラックから微かなオゾンの匂いが、そして床から天井まである本棚からは古い紙の酸っぱい匂いが、静かな空気に混じり合っている。
壁際には多数のワークステーションが整然と並び、それぞれに高性能PC、きっちりと束ねられたケーブル、脳波(EEG)測定用の機器が備え付けられている。
この部屋は、秩序と論理と清潔性の記念碑だ。
――ただ一点を除いて。
その「一点」とは、とあるデスク。そこだけが混沌の島となっている。
丸められた学術論文の紙くず、空のコーヒーカップ、絡み合った充電ケーブル、そして食べかけのスナック菓子の袋が溢れかえっている。
私の名前は、姫宮鏡子。 この認知科学研究室に所属する大学3年生。 そして、「完璧な論理」の信奉者だ。
カチリ、と。マウスのホイールを回す指が、正確に目的の論文(PDF)の34ページ目で停止する。 「…ヒトの意思決定における情動ノイズの排除。妥当な推論だ」 無機質なディスプレイの光が、私のブルーライトカット眼鏡に反射する。
私の世界は、論理とデータで構築されている。 起床は午前6時00分。睡眠時間は8時間±15分の誤差を許容。 朝食のオートミールは、一日に必要な炭水化物とタンパク質をグラム単位で計算したもの。 研究室の自席は、キーボードとディスプレイの角度、ペン立ての中身(黒ペン3本、赤ペン1本、定規)に至るまで、思考の効率を最大化するために最適化されている。
完璧だ。 私の人生は、完璧であるべきだ。
しかし、この完璧に制御された私の視界(世界)に、許容しがたい「バグ」が一つ、常に存在している。
視線を、1ミリだけ右に動かす。 そこにある「島」。研究室で唯一、エントロピーの法則(※無秩序の増大)に敗北した、汚染区域。 積み上げられた資料の山は、もはや雪崩を待つばかり。栄養摂取の痕跡が散乱し、ケーブル類は蛇のように無秩序に絡み合っている。
(…非論理的。非効率。不愉快だ)
内面で湧き上がった「不快」という感情ノイズを、即座にデバッグ(処理)する。私が顔をしかめることはない。私の表情筋は、無駄なエネルギーを消費しないよう最適化されている。
(内面の混乱):なぜ、この乱雑さが許容されている? なぜ、この状態の主は、平然と「思考」を継続できる? 理解不能。 (外面の無表情):私はスッと視線を戻し、自分の完璧なデスクの上、寸分の狂いもなく置かれたステンレスボトルの水を一口飲む。常温。それが内臓に最も負担をかけない。
私は、非論理的なものが嫌いだ。 それは、私の完璧なシステム(人生設計)を脅かす「バグ」以外の何物でもないからだ。
私は自身のラップトップを開き、厳重にパスワード保護された一つのファイルを開く。 ファイル名:「姫宮鏡子:人生設計(Life_Plan_v5.3)」。
そこには、私の未来が「確定事項」として記述されている。
22歳:首席で卒業
22歳:国内最高峰の認知科学研究所へ就職
28歳:主任研究員へ昇進
30歳:結婚
カチ、カチ、カチ…。 研究室の壁掛け時計の秒針が刻む音だけが、私の耳に届く。 卒業、就職、昇進。そこまでは、完璧な論理で構築可能だ。私の能力なら、達成可能なタスク。
だが、いつもここで思考がフリーズする。 「30歳:結婚」 この項目だけが、私の完璧な設計図の中で、異様な赤文字として点滅している。
(内面の混乱):「結婚」。それは、社会契約の一つに過ぎない。しかし、その前提プロセスとして、世間は『恋愛』という非論理的なステップを要求する。 (外面の無表情):私は、指先でトントン、とデスクの表面を軽く叩く。規則的なリズム。思考を整えるためのルーティンだ。
「恋愛」 私にとって、それは人生最大の「バグ」だ。
論理が通用しない。 データに基づかない。 予測不能な「感情」というノイズに、システム(思考)が支配される。 心拍数が無意味に上がり、体温が上昇し、合理的な判断が阻害される。 そんな「非論理」の極み。 私の完璧なシステムを汚染し、破壊しかねない、最も危険なウイルス(バグ)。
私はそれを、心の底から嫌悪していた。
「やあ姫宮くん、また難しい顔で論文を」
その声は、私の集中を強制的に中断させた。 顔を上げる。 そこには、この研究室の主、田沼教授が、湯気の立つマグカップを片手に立っていた。
(五感:匂い) コーヒーの、焦げたような強い焙煎香。 私にとっては刺激が強すぎる。この匂いは、私の嗅覚に「不快」というアラートを発生させる。
(内面の混乱):なぜ教授は、私のアウトプット(論文)ではなく、プロセス(表情)を評価する? 私の顔が「難しい」かどうかは、タスクの達成に何ら寄与しない。非効率なコミュニケーションだ。 (外面の無表情):「教授。ご苦労様です」 私は感情を一切乗せず、事実(挨拶)だけを口にする。 「君の完璧なレポートは、学部長も感心していたよ」 「ありがとうございます。論理的な帰結を述べたまでです」 教授は面白そうに目を細め「相変らず『機械的』だねえ。だが、人生は論理通りにいかない『非論理』も多い。それこそ、君が最も嫌う『感情』とかな」
(五感:音) 「感情」。 その単語が、教授の口から発せられた瞬間。 私の耳が、その音素を「危険信号」として処理した。 ザッ、と鼓膜の奥で微かなノイズが走る。
(内面の混乱):(バグ! バグ! なぜこの人は、私の最も忌避する単語を、平然と口にする? 私のシステム(思考)を、意図的に汚染しようとしているのか? 理解不能。処理しろ!) (外面の無表情):私はスッと視線をPCに戻し、無言でキーボードに指を置く。
「おっと、怖い怖い」 教授は肩をすくめ、私の隣を通り過ぎる。 「ま、君ほどの頭脳があれば、人生の『非論理』な難問も、いつか『解いて』しまうのかもしれないがね」 コーヒーの匂いを残して、教授は自室へと消えていった。
…静寂が戻る。 研究室のサーバーの微かな駆動音(五感:音)だけが、再び空間を支配する。
私は、固く目を閉じた。 教授の言葉が、私のシステム(思考)に、深く突き刺さっていた。 「非論理」。
そうだ。 私の人生設計における、唯一のバグ。 「30歳:結婚」 そして、その前提プロセスである「恋愛」。
このまま、この「バグ」を「非論理的だ」と嫌悪し、忌避し、放置し続けるか? (内面の混乱):(ダメだ。それはダメだ。バグは、放置すればシステム全体を侵食する。私の完璧な人生設計が、その一点のせいで崩壊するなど、許容できない!)
嫌悪する「バグ」を、このまま放置する(リスク)か。 それとも、私の「論理」で、制御下に置くか。
(外面の無表情):私はゆっくりと目を開ける。 私の瞳には、もう「混乱」も「嫌悪」も映っていない。 ただ、冷徹な「分析者」の目があるだけだ。
選択肢は、最初から一つしかなかった。
(内面:決意) (…そうか。間違っていた。私の思考が、根本的に間違っていた) (「恋愛」を「バグ」として忌避するから、私のシステム(思考)がエラーを吐くのだ) (ならば、今日この瞬間から、思考をシフトする) (「恋愛」は「バグ」ではない)
私は、自身のラップトップで、新規のプロジェクトファイルを作成する。
(「恋愛」は、私の「研究対象」だ)
(内面の混乱と論理の再構築): バグ(恋愛)が非論理的ならば。 それを私の「論理」で徹底的に分析し、 その行動パターンをデータ化し、 反応を予測し、 そして、完璧に「制御」すればいい。
そうだ。 「恋愛」を、私の「完璧な論理」で「攻略」する。 それこそが、私の「完璧な人生設計」を達成するための、唯一にして最適解だ。
(外面の無表情): 私は、作成したばかりのファイルに、機械的な速度でタイトルを打ち込んだ。
『Project: L.O.V.E. (Logical Operation for Victory in Emotion)』 (和訳:感情における勝利のための、論理的作戦)
タスクは設定された。 第一フェーズは「研究サンプルの選定」。
(内面:分析) (必要なのは、最も「非論理的」で、最も「予測不能」で、最も「感情的」なサンプル) (私の完璧な論理のストレステストに耐えうる、最悪にして、最適な個体は…)
私の機械的な視線が、ゆっくりと動く。 自分の完璧なデスクから、あの「非論理」の島へ。
あの、エントロピーの法則に敗北した、汚染区域の主。 レポートの提出はいつも遅れるくせに、人の機微には異常に敏感で、教授や後輩から(非論理的にも)愛されている男。
――夏目 陽TA。
私の視線が、ターゲットを、ロックオンした。 (…第一章・了)




