85話 こんなこと
エルンストは、グレイの手首を縛っているロープを今一度確認した。それから部下に「馬車に乗せておけ」と指示を飛ばす。
――終わった。
これで、逃亡中の凶悪犯『ライナー・ドレイガー』は――いや、正しくは『ヴァルド・グレイ』なのだが――無事に確保され、事件の幕が閉じた。
「……アルノー・リーベンタール」
時計塔の扉から外に出るグレイを見送ったエルンストは、アルノーの方に視線をやった。
「貴様、こいつのことを『殿下』と呼んでいたか?」
言いながら、ゼノフォードを顎で示した。
アルノーは「あっ」と、驚きとも困惑ともとれる声を発し、茶髪の頭を掻きながら縮こまった。
「あ、えーっと、呼んでたっすか?
だとしたら、あ、あれっす! ……ヒルデガルト様を呼ぶ時の癖で、つい!」
エルンストは表情ひとつ変えなかったが、一方でゼノフォードは内心で苦笑した。
(アルノーの奴、ヒルデガルトのことを『殿下』なんて呼ばないくせに)
いつもヒルデガルトのことを『ヒルデガルト様』と呼んでいるようなので、『殿下』呼びではないのだ。
現に今だって、『ヒルデガルト殿下』とは呼んでいない。
と、エルンストの視線がゼノフォードの方に移った。
「貴様。……名は何という」
「おや、今更だけど、僕に興味を持ってくれるのかい。嬉しいね」
ゼノフォードは薔薇色の唇に皮肉めいた笑みを乗せつつ、腕を組んだ。
エルンストと顔を合わせるのは初めてではない。だが以前は一切合切、露ほども興味を示されなかったため、本当に今更である。
とはいえ自身の正体が『死んだことになっている逃亡中の反逆者、第二皇子ゼノフォード』である以上、警察組織の人間に興味を持たれても困ると言えば困るのだが。
「皆からは『ゼノ』とかって呼ばれてるかな。
ああ、『殿下』って呼んでくれても構わないよ」
茶化してみるが、悲しいかな、堅物のエルンストは取り合う様子すら見せず、表情を変えないまま口を開いた。
「貴様のお陰で、人質を無事に救出できた。凶悪犯の逮捕もな。
よくやった、と言いたいところだが――」
エルンストは、不意に口を噤んだかと思うと。
「―― 一歩間違えれば、貴様は死んでいたのだぞ!」
声を荒げた。
「無傷だったのは、偶然に過ぎない!
わかっているのか!?」
「――へぇ」
ゼノフォードは、突如始まった説教に感嘆の声を上げた。
正直、意外だった。エルンストは他人、それも関わりの薄い人間のことなど気に掛けない性格だと思っていたのだ。
「これは、看板娘君がよほど熱心に君たちを説得してくれたみたいだね。
『ただの貧民街の孤児が人質に交代した』って聞けば、君は僕のことなんて顧みずに突入してくるかと思ったのにさ」
なんの気はなしにそう言ってみれば、エルンストの逆鱗のような何かに触れてしまったのだろうか、怒りが頂点に達したらしかった。
「貴様は――!」
激昂しかけるも、エルンストはふうと息を吐いて怒りを鎮めた。
それから、ふいと俯いて顔を背けた。
「――もういい。
次からは、無謀なことをするな。
貴様のことを心配する奴が、ここにいるアルノー・リーベンタールを始め、わんさかいるからな。
――突入するなと騒がれて、五月蝿くて敵わん」
エルンストが口を閉ざすと、静寂が広がる――かと思いきや、外からわいわいと声がすることに気が付いた。
「うん?」
ゼノフォードは扉のように開いた文字盤の穴から下を見下ろした。
ゼノフォードが時計塔に入る前よりも、人だかりの人数が膨れ上がっていた。
あの魚屋の父娘は勿論のこと、飲食店の店主や荷馬車の業者の姿もある。
「――おいゼノ! 馬鹿な真似はすんじゃあねェぞ!」
そう叫んでいるのは、知らせを聞いて飛んできたのだろう、ダンテだった。
その隣にはカルメンもいた。
「死んだりしたら、承知しないわよ!」
それから、看板娘と目が合う。彼女はゼノフォードが渡したメモを手にしていた。
ふとゼノフォードは、そのメモに書いた文面を思い出した。
『僕は犠牲になるだろうが、気にしなくていい。
今や僕は、家族も肩書きも失った、ただの反逆者。幸いなことに、僕が死んで困る人はいないんだ。
死んだことになっている人間が、本当に死ぬっていうだけさ』
皆、看板娘からそれを見聞きして、本気に受け取ったのだろう。
「……殿下」
背後でアルノーの声がした。
振り返れば、心配そうに歪むアルノーの顔が目に飛び込んできた。
「もう……やめてくださいっす。こんなこと、もう……」
『こんなこと』というのには、ゼノフォードが自ら人質になったことだけでなく、自己犠牲を仄めかしたことも含まれているのだろう。
「――まったく」
ゼノフォードは半ば呆れたように首を振った。
「アルノー君、君は僕とそんなに親しいわけでもないだろう?
そんな相手をいちいち心配していたら、身が持たないよ」
「……ッ!」
アルノーは息を呑んだ。だがアルノーが何か言葉を発する前に、ゼノフォードは『くだらない』とでもいうようにもう一度首を振り、背を向けてまた外にいる群衆を見下ろした。
「それに、皆も皆だ。
僕とは会って間もない、赤の他人だろうに。
僕がいなくなったところで、何がそんなに悲しいんだか」
淡々と言ったゼノフォードに、アルノーは耐え切れなかった。
「そんなこと――!」
言わないでくれ、と言おうとして、アルノーは言葉を切った。
空を仰いだゼノフォードの紫水晶の瞳が、なんとなく揺らいでいた気がしたからだ。




