77話 疑われた死
貧民街トルカーナ某所、ロレンツォの家。
ゼノフォードは椅子の背もたれに身を預けた。木製の椅子がぎしりと軋む。
窓の外に目を向ければ、今日もまた水気を孕んだ灰色の空が重く垂れ込めていた。雨の気配こそないが、湿った運河特有の空気が木々を揺らしているのが見える。
「はあ」と息を吐き、ゼノフォードはゆっくりと体勢を戻すと、手にしていた一通の封筒を凝視した。
その中には、ピエトラのボスの言葉を借りるならば――
『「大罪人ゼノフォード」は、ピエトラのお膝元であるトルカーナで死去したことになっている。その死に、ピエトラは関与していないか。
遺体を用意したりしていないか。
ゼノフォードの死は偽装で、実際にはピエトラで匿っているのではないか――。
そういう疑念を確認する内容』
――が記された手紙が入っている。
ピエトラへの、脅し文句付きで。
『皇帝が、ゼノフォードの死を疑っている』。
その事実が頭を離れず、まともに眠ることさえできなかった。
(僕は死んだことになっているだけで、本来なら罪人だ。
もし、僕の生存が露呈すれば――)
逃亡生活が始まる。
そして捕まれば、処罰を受けることになる。
しかもゼノフォードの死を疑っているのは、よりによって明確な敵。この国頂点、皇帝なのだ。
「――皇帝陛下は」
不意にカルメンの声がして、ゼノフォードは思考の海から引き戻された。
「なんで、ゼノの死を疑っているのかしら」
カルメンの疑問に応じたのはダンテだった。
「ひょっとして、あんときじゃねェーのかなァ。
数日前によォ、俺とゼノでリテンハイムに行ったとき、第一皇子に遭遇しちまってよ。そんときに第一皇子がゼノに気付いて陛下に報告したとかさァ、有り得んじゃねェか?」
沈黙。
初耳のカルメンとアルノーが固まる。
やがてアルノーが、がばりと身を乗り出した。
「あ、会ったんすか!? マリウス殿下と!?」
「お、おう。『ゼノフォード』の墓に行ったときによォ……」
これにはカルメンも黙っていない。ゼノフォードに詰め寄った。
「なんでそんなとこ行ったのよ! バカじゃないの!?
お墓なんて、身内が来るに決まってるじゃない!」
「――いや――」
ゼノフォードは、言いにくそうに口を開いた。
「来るとは思わなかったんだよ。生憎僕は、嫌われ者だったからさ」
「……」
――皆の視線が集まる。
その微妙な視線が居た堪れなくなって、ゼノフォードは言葉を継いだ。
「だけどボス曰く、手紙が来たのは一週間以上前だ、っていう話だった。第一皇子と遭遇したのはその後」
第一皇子マリウスと遭遇した際、マリウスがゼノフォードの正体に気付き、皇帝に報告したのだとしたら――。
皇帝が確認の手紙を出したのは、その『後』でなければ辻褄が合わないのだ。
「時期的に違う」
「そもそもよォ」
ダンテは、脱線しかけた話を元に戻す。
「皇帝はなんだって、『ピエトラがゼノの死を偽装してんじゃねェか』って考えたんだァ? ピンポイントすぎやしねェか?」
「――さあ。アルノー君、心当たりはないかい?」
ゼノフォードがアルノーに問えば、アルノーはふるふると首を振り、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……わかんないっす。
自分、ヒルデガルト様の宮の所属だから、皇帝陛下の関係者とはなかなか会わないんすよ」
「――八方塞がりか」
ゼノフォードは、ふう、と息を吐いた。
考えるべきことが山積みなのは確かだが、かといって向き合い続けていては気が滅入りそうだった。
「まあいいか。わざわざ確認してきたってことは、父上としても、まだ確信が持てていないってことだ。心配するだけ損だよ」
ゼノフォードは木の椅子を押しやり、立ち上がった。
「……さて、明るいうちに買い出しに行かないと」
出掛ける準備を始めるゼノフォードに、ダンテがひらりと手を振る。
「おう、行ってらァ。ついでにビール買ってきてくれやァ」
「子供にお酒を頼むんじゃないよ」
「ちぇー」
「ちょっと!」
カルメンが口を挟んだ。
「こんなときに出掛けるつもり?
アンタもよ、ダンテ。なに止めようともしないで見送ろうとしてんのよ」
「言っただろう。心配するだけ損だ、って」
いつもの黒い中折れ帽を被り、シャツの襟元を整えながら、ゼノフォードは答えた。
「気にしていたら、一生引き篭もっているしかなくなってしまう。日光を浴びなければビタミンDが作られなくなって、美容と健康によろしくない。そんなのは御免だよ」
カルメンが溜息を吐いた。言いたいことは山のようにあるのだろうが、言ったところでゼノフォードが聞くとは思えず、言葉を飲み込んだのだ。
その様子を視界の端に捉えながら、ゼノフォードは玄関横の鏡を見た。
「うん、今日も美しい」
「……ナルシスト」
「耽美派と言いたまえ、耽美派と」
口先だけの軽口を残し、玄関の扉に手を掛けて、ゼノフォードは外に足を踏み出した。
「あ、待ってくださいっす!」
ゼノフォードの後を、アルノーが追った。
特に示し合わせたわけではないが、アルノーも同行するつもりのようだ。
背後で、家の扉がばたんと閉まった。
「商店街に行くんすよね?」
アルノーの問いに、ゼノフォードは「ああ」と頷いた。
「君は行くのは初めてか。
貧民街の商店街っていっても、なかなか悪くないところだよ。必要なものはそこで揃うし、景観もそれなりに良い。
特に広場にある時計塔は綺麗なものだよ。まあ廃墟も同然で、一日に二回しか正しい時間を示さないけどさ――」
□□□
商店街の広場。
中央で佇むのは、件の時計塔だった。
風化した石灰岩の表面には緑の苔が斑模様を描き、陽光を受けて淡く輝いている。
上部へ向かうにつれ細くなるヴェネツィア様式の円筒形の躯体。塔の正面に掲げられた大時計の文字盤は錆に覆われ、ローマ数字のいくつかは剥落して判別不能。短針と長針は『十時十分』という絶妙な位置で永遠に止まっていた。
その周囲には、ちょっとした人だかりができていた。皆一様に、時計塔を見上げている。
だが彼らは何も、この時計の美しさに魅入っているわけではなかった。
「――貴様は包囲されている!」
そう叫んでいるのは、騎士服を纏った青年。胸元に光る銀色の警官章が、彼の身分を示している。
彼はエルンスト。騎士警察の一員である。
「無駄な抵抗はやめて降りてこい――」
「おい!」
エルンストの警告に被せるようにして時計塔に向かって叫んだのは、黒髪黒目の屈強な男――魚屋の主人だった。
「娘に擦り傷一つでもつけてみろ、三枚におろしてやるからな!」
――時計塔の内部。
時計の文字盤に設けられた小窓に、二つの人影があった。
一つは、魚屋の看板娘。
そしてもう一つは、彼女を人質に取り、ナイフを突き付けている一人の男だった。




