72話 クソ親父
夜風が、帝都リテンハイムの街路を静かに撫でていく。
雲は薄く、月の輪郭がぼんやりと滲んでいた。
夜の空気の中、警察局のひときわ重厚な建築が沈黙を保っている。その出入り口から、一人の青年が姿を見せた。エルンストだ。
「――そろそろ終業時間だと思って、待ってたっすよ」
声を掛けられて、エルンストは足を止めた。顔を上げ、その声の出所を探る。そしてすぐに、その人物が目に飛び込んできた。――アルノーだった。
エルンストはうんざりして眉をひそめた。
「また貴様か。いい加減にしろ。私も暇では――」
「エルンスト」
エルンストの言葉は、不意に彼の名を呼ぶ声に遮られた。
アルノーのものではない。だが聞き覚えのある声だった。
その声に振り返る。
その男は。
――オットー・クラウゼだった。
「……父上……!」
街灯の光が、クラウゼの顔を淡く照らした。
その顔は自身の記憶にあるものよりもずっと老いて、酷くやつれているように見えた。
「――聞いたぞ」
クラウゼの声は静かだった。が、どこか痛々しい響きを帯びていた。
「おまえが、私を信じてくれていると」
低いその声に応えるように、エルンストは口を開く。
「父上はやはり、罪など犯して――」
言いかけたエルンストは、父の表情を見て言葉を止めた。
――クラウゼの顔が、曇っていたのだ。
「父上――?」
「おまえには、酷なことをした」
その言葉が、決定打だった。
エルンストにとって受け入れ難いことが、事実だということだ。
「まさか――父上――」
恐る恐る問う。
エルンストの震える声に、クラウゼは言葉を絞り出すように語った。
「私はな。悪事を働いていた。
あの子たちが死んでしまうとわかっていながら、罪のない子供たちを集めて利用してきた。
子供たちから抜き取られた臓器を、売ってきた。
軽くなった子供たちを、埋めてきた。
娘を――エラを、助けたい一心だった。
だが、頭ではわかっていた。
このままではいけない、と。
私は――悪人だと」
紛れもなく、懺悔だった。
「……ッ」
信じ難い、父の告白に。
エルンストは、震える手を握り締めた。
□□□
その生真面目な性格故に、由緒正しい家に生まれ、厳格に育てられてきた――と思われているエルンストだが、実のところ、決してそんなことはなかった。
家も、親もない。
帝都リテンハイムの裏路地で、通行人を脅して金品を奪い、店から衣類や食料を盗み、警察から逃げ、時には金持ちらしい身なりをした者を半殺しにして、所持品を巻き上げた。
そうやって、生きてきた。
十八歳になった頃。
所持品を巻き上げる為に襲いかかった男が、オットー・クラウゼだった。
殴られて満身創痍のその男が、石畳の冷たい地面に仰向けに倒れたまま口を開いた。
「おまえ、名前は?」
「んなモンねェよ」
わけのわからないクラウゼの質問に、ぶっきらぼうに返す。
その短い言葉を聞いて、クラウゼは困惑したように苦笑した。
「それは困ったな。
私はおまえのことを、なんて呼べばいいんだ」
「呼ばなきゃいいだろ」
「私は呼びたいんだがな。
そうだな――」
クラウゼは、少しだけ考えるように目を細めた。
「――おまえには、今からでも遅くはない、真面目に生きてほしい。
エルンストと、そう呼ぶことにしよう」
「呼ばなきゃいいっつったろ」
「私はクラウゼだ。オットー・クラウゼ。孤児院を経営している。
そこに入らないか、と言いたいところだが――孤児院に入るには、おまえはちょっと、大きすぎるな」
クラウゼは手を伸ばして、目の前の青年のぼさぼさの銀髪を撫でた。
青年はぱしっ、と、その手を弾いた。
容赦なく払われた自分の手を見て、クラウゼはまた苦笑した。
「だったら、どうだろう。
私の息子にならないか?」
「――何言ってやがんだ、このジジイ」
「帰るぞ、エルンスト」
「なんでだよ」
「腹が減ってるから、こんなことをするんだろう」
「……」
青年は口を噤んだ。
――空腹だった。
それだけが、青年の足をクラウゼの家へ向かわせた理由だった。
食卓には三人。
クラウゼと、その娘――エラと名乗った少女。
そして、招かれたばかりの自分。
皿の上には、湯気を立てるスープ。
だが、エルンストはフォークもナイフも、スプーンすら使い方がわからなかった。
迷うことなく、皿に口をつけて直接飲み始める。
――舌触りの良い、滑らかでとろみのある液体が、口の中に入り込んできた。
「んだ……コレ……」
「美味いか?」
クラウゼが微笑んだ。
青年は反抗するのも忘れて、自分の口に手を当てた。
「口ん中が……あったけェ」
食料など、命を繋ぐための燃料でしかなかった。
食事など、空腹から逃れるための補給作業でしかなかった。
食べられれば、それで良い。
飢えなければ、それで良い。
そう思っていた青年にとって、温かい食事など、あまりにも縁のないものだった。
「こんな……熱持ってる食いモン、食ったことねェ」
「家に来て良かっただろう?」
青年は何も言わなかった。
だがそれは、肯定を示していた。
スープの残りを見つめながら、青年はぽつりと口を開いた。
「……なんで、俺を迎え入れた」
「さあ。
なんでだろうな」
クラウゼは、理由を語らなかった。
言わずとも、それが彼の好意であることがわかった。
――この時だった。
ただの『青年』が、『エルンスト』になったのは。
エルンストは。
――ふっと、目を伏せた。
「……お節介野郎だな、ジジイ」
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「お節介野郎の、ジジイが……ッ!」
警察局前の石畳が、エルンストの震える声を虚しく反響させた。
拳を握りしめ、唇を噛みしめながら、堪えきれずに叫ぶ。
「なんでだよォ……ッ」
「さあ。なんでだろうな。
本当に、なんでだろうな……ッ」
クラウゼが、手を伸ばした。
いつぞやかのように、その銀髪に手を乗せる。
オールバックに整えていた髪が解けて、ぼさぼさになった。
「だから、エルンスト」
クラウゼは、大きくなったと思っていたが、まだまだ小さいその身体を抱き締め、頭を撫でた。
「私は罪を償いたい。
償わなくてはならないのだ」
「……ッ」
エルンストは、言葉を失った。
胸の奥で何かが軋む。
そして、絞り出すように叫んだ。
「この……ッ、クソ親父!!」




