70話 マフィアとの交渉
通りの喧騒から少し離れたところに佇む建物。
くすんだ灰色の外壁。塗装が剥がれた箇所からは、煉瓦の地肌が覗く。
看板も表札もない。中央にドアノブのついた木製の扉が一枚、通りに面しているだけだった。
ここは、ピエトラと取引をしているマフィア『メタロ』の、出張所のような事務所だ――とロレンツォは言っていた。
ゼノフォードは一度、ここに来たことがある。前にダンテが記憶喪失になっていたとき、ダンテのことを確認するためにこの事務所を訪ねたのだ。
もっともそのあとで時間を巻き戻し、最終的にメタロの事務所に行くことはなかったため、今回の時間軸で、ゼノフォードは初めて訪れたことになる。
「……奴らは気難しいぜ」
ドアノッカーに手を掛けようとしたダンテが、念を押すように振り返った。
ゼノフォードは頷いた。
勝算が無いわけではない。
「メタロは、ピエトラと取引をしている。そのピエトラが崩壊の危機にあるんだ。それは、彼らにとっても痛手になるはず。
――交渉の余地はある」
ダンテは無言で頷き、ドアノッカーを掴んでコンコン、と打ち鳴らした。
しばらくして、扉が軋む音とともに開き、男が姿を現した。
背の高い体躯。
鋭い目つきは、鷹のように周囲を射抜く。
背後には、何人かの構成員が控えていた。
その男を見た瞬間、ゼノフォードは思わず瞠目した。
(――生きている)
ゼノフォードは、この男を見たことがある。
ただし――死体として。
穏やかに笑んだまま、息絶えていた男。
あのあとゼノフォードはロードで時間を巻き戻したため、その出来事はなかったことになった。
そして今の時間軸において、この男はこうして生きている。
「これは、ダンテさんではないか」
男が声をかけると、ダンテは軽く頭を下げた。
「話があって、来させていただきやした。
こちらは、ゼノとカルメン、それからアルノー。俺の仲間です」
男は一同を見渡し、口端をわずかに上げた。
「カルロ・バルデーロだ。トルカーナにある、このメタロの事務所を任されている」
男――バルデーロが、扉を大きく開けた。
「中に入りなさい」
部屋の中は、どこか雑然としていた。
高級そうなソファや調度品が並んでいるものの、配置には一貫性がなく、実用性を優先したような印象を受ける。壁際には相変わらず、大きな金庫が据えられていた。
この部屋もまた、ゼノフォードには見覚えがあった。
ここに、バルデーロの遺体が転がっていたのだ。
ゼノフォードは、記憶の残像を振り払うように、勧められたソファへと腰を下ろした。
一同がソファについたのを確認して、バルデーロは切り出した。
「ピエトラについては聞き及んでいる。
貴方がたとは良い取引をさせてもらっている。特にダンテさん――貴方とは、長い付き合いになるな」
ダンテは、ロレンツォの管轄するサルヴァトーリ班に移るよりも前から、メタロとやり取りをしているのだ。
「そんな貴方がたが崩壊の危機にあるとは――実に嘆かわしい。
もっとも、第一皇子の暗殺などを企てていたというのだから、擁護できんが」
「バルデーロさん」
ダンテが苦言を呈した。
「俺たちは無実なんだ。第一皇子の暗殺なんか、考えちゃいねェ」
ゼノフォードがその隣で、静かに言葉を継いだ。
「この件の逮捕状は、ある男がピエトラを壊滅させたいがために、こじつけで出したものだ」
「ほう」
バルデーロは低く笑った。
「まったく、司法はやりたい放題だな。
法を司る機関が、私利私欲を満たすために権利を乱用し、冤罪をふっかけるとは。聞いて呆れる。そいつは、権力を与えてはならん人間だ」
ゼノフォードはバルデーロの鷹のような目を見据えた。
「――彼によって、哀れな状況に陥ったピエトラを救う手立てがある」
「――なに?」
「その男の考えを変えるんだ。
彼に『ピエトラ幹部らの逮捕は不適切だった』と認めさせることができれば、いま留置所にいるピエトラの上層部を釈放してもらえるだろう」
もっとも、それは『かもしれない』の段階に過ぎない。だが、今この場でその不確実性を口にするつもりはなかった。
バルデーロは、指先を組み直しながら、興味深げに身を乗り出した。
「ほう。どうやって?」
「彼を説得できる人物が一人いる。その男は、今は勾留されている」
「勾留されている人間が、どうやってその男を説得するというのだ?
保釈には、莫大な金銭が必要になるぞ」
「それが、僕たちがあなたがたメタロを訪ねてきた理由だ。
――お金を、貸してもらいたい」
室内の空気が、僅かに揺れる。
ただでさえ緊張の漂う空気に、さらに重い空気が垂れ込めた。
バルデーロは、ゼノフォードをじっと見据えたまま、低く問い返す。
「――いくら、我らから借りるつもりだ?」
「――100万」
「笑止」
バルデーロは言葉とは裏腹に、一切表情を崩さなかった。
――良い雰囲気でないのは、火を見るより明らかだった。
ゼノフォードは言い募った。
「ピエトラは、あなたがたメタロと取引をしている。
その取引先がなくなれば、あなたがたにとっても痛手じゃないかい」
「こんなことは言いたくないが、ピエトラがなくなろうと、他にいくらでも取引先はある。大した痛手ではない」
「ピエトラに恩だって作れる」
「そんなことのために、そのような大金を動かせるものか。
我々はボランティア団体ではないのだぞ」
「だけど――」
「交渉は決裂だ」
ゼノフォードの言葉を遮ったバルデーロは、立ち上がって居間の戸口を示した。
「帰ってくれ」
「少し話を――」
「話ならもうした!」
なおもしつこく食い下がろうとするゼノフォードを一蹴し、バルデーロはついに声を荒げた。
「帰れ!!
そうでなければ――」
バルデーロは懐に手を差し入れた。
「ここがマフィアの本拠地だということを、思い知ることになるぞ!」
黒い金属が、彼の手の中に現れた。
――銃だ。
構成員たちが動き出す。
四方から距離を詰めてくる。
銃口が、確実に命を奪える距離にある。
ゼノフォードは手を上げた。
「待ってくれ――」
「しつこいぞ!」
パン!
発砲音がした。
「ッ!」
鋭い痛みが走る。
ゼノフォードの肩から。
―― 一筋の血が滴った。




