7話 やるべきは
皇帝城周辺は、十八世紀のドイツがモチーフだ。
建築様式は、荘厳なバロック様式から優美なロココ様式へと移り変わる過渡期。この第二皇子宮は、まさに後者の特徴を色濃く残していた。
その麗しき庭園でコーヒーを啜っていたのは、輝石――改め、ゼノフォードだ。
本当は紅茶派なのだが、『ドイツ貴族といえばコーヒー好き』という歴史的背景には逆らえない。
仕方なくコーヒーを口にする――が。
「……苦い」
耐え難い苦味が口内に広がり、ゼノフォードの端麗な顔が強張った。正直、このカップを空にするのは厳しい。
ゼノフォードは、周囲に控えている使用人らを一瞥した。
「君たち」
「は、はい!」
使用人らがびくりと身を震わせた。
やはり『ゼノフォード』というキャラクターは、その自己中心的かつ高飛車な性格のせいか、疎まれているらしい。
「――まったく。僕のことが嫌いだっていうのは『思想及び良心の自由』の観点からも責められるもんじゃないけどさ。
せめて、態度に出さない努力くらいはした方がいいんじゃないかい?」
これが本物の『ゼノフォード』であれば、確実に機嫌を悪くしたことだろう。
「も、申し訳ございません」
「自分がおっかないパワハラ上司みたいで嫌になるよ。いや、実際そうなのか。悲しいね」
内心で苦笑しながら、ゼノフォードは続けた。
「しばらく、一人にさせてもらえるかい」
その一言で、使用人らは蜘蛛の子を散らすようにわらわらと退散していった。
なんというか、本当に悲しくなってくる。
――だが、これで人目を気にせず、思う存分コーヒーに砂糖を入れられる。
本来の『ゼノフォード』であれば、恐らくこんなことはしないだろう、などと思いつつ、角砂糖をぽんぽんと投入した。
「コーヒーは香りを楽しめって言うけど、香りどうこうの前に圧倒的な苦味が勝って、楽しむどころじゃないんだよね。
これが好きっていう人は、『こんなに苦いコーヒーを飲める自分は、大人でかっこいいだろう?』って見栄を張ってるだけさ」
世の中には、砂糖もミルクも一切入れず、『ブラック』で飲む人もいるらしい。いやはや、恐ろしい。
さて、手元の飲み物が整ったところで、ゼノフォードはそれを一口啜り、思考の海へと沈んでいった。
(本来のゲームの展開では、第一皇子は死んでいた。
ましてや、『ゼノフォード』が彼を救うなんて展開は、存在していない)
その気になれば、この世界の原作『ライオライト帝国記』の物語を捻じ曲げることができるのか。
はたまた、物語の大筋がプロット程度しかない未完成のものだったために、ある程度自由に展開を変えられたのか。
あるいは、このゲーム独自の仕様として、システムにAIを搭載しているために、プレイヤーの行動に応じてシナリオやNPCが調整され、一定の逸脱を許容する設計になっているのか。
もしくは――これは単なる、『ゲームそっくりの異世界』に過ぎないのか。
(――いずれにせよ、僕が死ぬ未来を変える余地は充分にある。
計画に変更はない。
第一皇子が皇帝になれるよう根回しするんだ。
問題は……暗殺未遂事件の実行犯たちが、一人も捕まっていないことだ)
実行犯を突き止めない限り、第一皇子が暗殺される可能性は残り続ける。
(まずは、実行犯の特定からか)
とはいえ、手がかりはほぼない。
皇室や警察が捜査を開始してはいるものの、進展がないのが現状だ。
あの侍従――オスヴァルトは、『皇帝を憎んでおり、その血筋を絶やさんと暗殺計画を立てた』という動機だけは供述した。
なお『娘を皇帝に連れ去られたため』という理由に関しては伏せたようだ。ヒルデガルトの血筋の正統性を疑われかねないためだろう。
しかし、それ以外のことすべてにおいて、オスヴァルトは黙秘を続けている。
強いていうならば、オスヴァルトは逮捕前に『マフィア組織ピエトラの仕業だ』とは発言していた。だがそれが本当だとは思えない。捜査の撹乱目的と考えるほうが自然だ。
(……逆に、『オスヴァルトがあえてピエトラの名を出した』こと自体が、何かの手がかりかもしれない。これも一つの情報だ)
そう考え、ゼノフォードは傍らのトローリーに山積みにしていた新聞の束に手を伸ばす。図書館から一気に借り出してきた資料だ。
(世界最古の日刊新聞は、十七世紀のドイツって言われてる。
十八世紀ドイツがモチーフのここに存在していてもおかしくない、ってわけだ)
ぱらり、と新聞を開く。ゲームの言語設定が日本語になっているためか、新聞の表記もすべて日本語になっているのはありがたい。
一面だけ見ては次の新聞へと手を伸ばし、また次へ……何紙か流し読みし、置きかけた手がふと止まった。
「『マフィア、一般人を殺害か』……? 五年前の記事?」
思わず読み上げ、記事に目を走らせた。
曰く。
貧民街トルカーナにて殺傷事件発生。容疑者は、マフィア組織ピエトラの構成員。
被害者は、皇帝城に勤める女性。
その名は――リリー・アイゼンブルク。
「確か、オスヴァルトの姓は……」
「アイゼンブルクだ」
不意に降ってきた声に、ゼノフォードは顔を上げた。
ヒルデガルトだった。
ゼノフォードは、彼女が自分の向かいに腰を掛けるのを見て面倒そうに溜息を吐き、新聞を折り畳んで脇に追いやった。
「やあご機嫌よう。
だけど、僕たちは茶会に興じる間柄でもないだろう、ねぇ姉上?」
つっけんどんな物言いにもかかわらず、ヒルデガルトは穏やかに笑った。
口ではそう言いながらも、ゼノフォードがわざわざカフェワゴンからコーヒーカップを取って、自らコーヒーを注いでくれているからだ。
差し出されたカップを受け取りながら、まったく素直でない奴だ、と言わんばかりにヒルデガルトは苦笑した。
にこにこと笑みを浮かべる姉――実のところ血の繋がりがないことが判明したので、正確には『姉』ではないのだが――の心境がわからないゼノフォードは、困惑したように眉を寄せた。
さて、ヒルデガルトは咳払いをして口を開いた。
「ゼノフォード。兄上が調査をしたがっている。
オスヴァルトの件を解明したおまえのことだ、協力してくれれば滞りなく解決できると思うのだが、どうだ?」
兄上というと他でもない、第一皇子のことである。
「調査?」
「ああ。兄上曰く、『命を救ってくれた人』を探しているらしい」
何のことを言っているか、ゼノフォードにとってみれば明白だった。
先日の第一皇子暗殺未遂事件の折に、危機に瀕した第一皇子を、正体を隠したゼノフォードが救った件である。
ゼノフォードが話の意図を汲んだのを見て、ヒルデガルトは言葉を継いだ。
「褒美欲しさに何人かが名乗りを上げたが、多くの者が当時の状況を正しく説明できず、偽証罪でしょっ引かれている。いい気味だ」
その言葉に、ゼノフォードは「ふっ」と鼻で笑った。
「美しくないね、まったく。
小さい箱より大きい箱を選んだ老婆は、魑魅魍魎に襲われる。継娘の美貌を妬む継母は、焼けた石の靴を履かされる。
身の程を超えた欲望は、身を滅ぼすってものさ」
「それで」
ヒルデガルトが改めて口を開いた。
「おまえはこの件の解明に、協力してはくれないのか?」
答えは決まっていた。
(協力するも何も、僕はその『第一皇子の命を救った人物』の正体を隠したい立場にあるんだ)
もしそれがゼノフォードだと知られれば、『自身をヒーローに仕立てるために暗殺を企てた』と疑われかねない、という危機が待ち受けることになる。
「しないよ。余計なことに時間を取られるのは御免だからね」
「オスヴァルトの件は調べたくせにか?」
「あれは調べたうちに入らないさ。とにかく、僕は調べない」
ヒルデガルトは「そうか」と一言だけ言って足を組み直した。
「――本題に入ろう」
ゼノフォードは「今のが本題じゃなかったのかい」とぼやいたが、ヒルデガルトはそれを無視して話を続けた。
「暗殺に関与したとしてオスヴァルトは捕らえたものの、実行犯は依然として不明のままだ。このことについて、どう思う?」
その問いに、ゼノフォードは答えなかった。正確には、答えられなかった。
「何の手がかりもないのに、あれこれ考えるもんじゃないよ。
それは推理じゃない、ただの偏った妄想になるだけだからね」
ゼノフォードは「いいかい」と言って、顔の横でひらりと手を振った。
「いくつかピースが欠けた、白黒のパズルがあるとしよう。
『きっとこれは鯱の絵だ』と思ったら最後、たとえその答えが本当はパンダだったとしても、無理に組み合わせて“鯱らしき何か”を作ろうとしてしまう。
憶測は先入観を生んで、真相を見失わせるのさ」
――そう。今はまだ、あれこれ推理する段階ではない。
(やるべきことは、答えの想像じゃない。ピースを集めることだ)
ゼノフォードは椅子を引いて、すっと立ち上がった。
「悪いけど、僕は興味ない。意見が欲しいなら、専門家にでも頼みたまえよ」
そう言い残して、ヒルデガルトを残したまま立ち去った。
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取り残されたヒルデガルトは、少し冷めたコーヒーを啜った。
ゼノフォードに注いでもらったときより苦く感じて、砂糖の陶器に手を伸ばす。
――中身がごっそり減っている。犯人は、ゼノフォードしかいまい。
「――見かけによらず子供舌なんだな。可愛いところもあるではないか」
不意に「酷い方っすね」と声がして、ヒルデガルトは顔を上げた。彼女の護衛だった。
「お客さんのヒルデガルト様を置いて、さっさと立ち去っちゃうなんて」
ヒルデガルトは「まあまあ」と嗜めた。
「先に無礼を働いたのは私だ。断りもなく押しかけたのだからな」
それに、と、ゼノフォードが先ほどまで読んでいて、今はテーブルの端に無造作に置かれた新聞を眺めながら、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「まあ、天邪鬼ではあるがな」




