65話 通報の行方
トルカーナ、飲食店。
埃っぽさを払拭した扉を開けると、驚くほど整然とした空間が広がっていた。
清掃された窓からは正午の陽光が差し込み、木製の床を温かく照らしている。以前は汚れで黒ずみ、場所によっては割れていた床板は、今は艶やかに輝いていた。
テーブルや椅子も丁寧に磨かれ、漆喰の壁には新しい絵画が飾られている。――ピエトラから贈られたものだろうか。
端にある暖炉は、綺麗に煤を払い落とされている。カウンターには白いナプキンがきちんと折り畳まれ、新品の銀食器が整然と並んでいた。
「店主君。邪魔するよ」
ゼノフォードが厨房に向けて声を上げると、中から店主がいそいそと姿を現した。
「ゼノフォード様! 騎士様も……!」
ゼノフォードの隣にいるアルノーに気付いた店主は、顔をぱっと輝かせると、そちらへ向き直った。
「騎士様にはお礼ができなかったので、気になっていたんですよ。あのときはお世話になりました」
「い、いえいえ! ちゃんとお店が綺麗になってよかったっす!」
アルノーはやや縮こまりながら、照れたように返す。だが直後、困惑したような顔でゼノフォードの方を見た。
「で、殿下……。店主さんも、殿下が生きてるってこと、知ってたんすね……?」
いきなり不満をぶつけられたゼノフォードは、真っ直ぐに見詰めてくるアルノーから逃れるように視線を逸らしつつ、前髪を弄った。
「――トルカーナの住民の一部は知ってるかな。
もしかして、お説教かい? こんな重大な秘密を知る人は少ない方がいい、って。
弁解の余地もない……」
「違うっす。
……ちょっと、ショックなだけっす」
「?」
本気でへこたれているアルノーに、ゼノフォードは首を傾げる。だがその疑問を言葉に出す前に、アルノーは次の話題を口にした。
「ところで殿下。なんでこんなところに?
……自分、ここでゆっくり休暇を楽しむつもりはないっすよ?」
先程、『トルカーナの飲食店で、残りの休暇をゆっくりしろ』と言ったことを根に持たれているのかもしれない。
ゼノフォードはあえてそれに触れず、店主の方に視線を向けた。
「ちょっと、店主君に頼みたいことがあってね」
ゼノフォードはカウンターテーブルを拝借し、鞄を探ると、手帳とペンを取り出した。
手帳からページを二枚、丁寧に切り取ると、うち一枚を折り畳んだ。――封筒の形になる。
「手紙を出すんすか? 誰に?」
アルノーの問いに、ゼノフォードは「決まってるだろう」と顔を上げた。
「警察局さ」
「警察局?」
ゼノフォードは折り畳んでいない方の紙を広げ、ペンを手に取り、紙に文字を記載していった。
『以前トルカーナを管轄していた警察官が、住民から不正に金銭を徴収していた。
この件について、我々トルカーナの住民は正式に抗議を表明する。
住民代表: 』
「店主君」
書き終えると、ゼノフォードは店主の方に向き直り、紙を店主の方に向けつつペンを手渡した。
「サインをしてもらってもいいかい」
「え、ええ……」
文面を確認しつつ、『住民代表』のところにペンを走らせる店主を見て、アルノーは手を打った。
「なるほど!
これで、あの悪い警官さんの信用を失墜させるんすね!
そうなれば、『殿下がマフィアと暗殺を企てていた』っていうあの警官さんの通報も、信憑性が揺らぐってことっすか!
さすが殿下っす!!」
「え?」
店主が驚きの声を上げた。サインを書き終えた店主は、紙をゼノフォードに手渡しつつ、アルノーの方を向いた。
「あの警察官の方が、そんなことを……!?
確かに、どうしてゼノフォード様に暗殺なんて疑いがかかったんだろうとは思っていましたが……。
もしや、悪事を邪魔されたことへの逆恨みで……?」
「ああ……」
ゼノフォードは顎に手を当てて思案顔をした。
「てっきり僕は、警官が不正を告発されることを恐れて、口封じのために僕を陥れたのかと思っていたけど。……逆恨み、って可能性もあるのか」
逆恨み、という可能性については、あまりに合理的ではなかったために視野に入れていなかった。
「でもそうだったとして、やっぱり僕を恨むのはお門違いさ。
自分の火の不始末で起きた火事を、通報した隣人のせいにする人がいたら『何を考えているんだ』って思うだろう? 筋違いなんだよ」
□□□
帝都リテンハイムの中央警察局は、重厚な石造りの建築で知られている。
その内部もまた、威厳と秩序を重んじる造りとなっていた。
高い天井には古風なシャンデリアが吊るされ、壁には歴代局長の肖像画が整然と並ぶ。床は磨き上げられた黒檀の板張りで、歩くたびに靴音が静かに響いた。
応接室の一角には、深緑色の革張りの椅子が並び、中央には重厚な木製の卓が置かれている。
窓から差し込む光は控えめで、空気には書類と古い紙の匂いが漂っていた。
「トルカーナにいた警官に抗議?」
ゼノフォードとアルノーに応対したのは、年配の警官であった。制服の襟元はきちんと整えられていたが、口調にはいささか緩慢な響きがあった。
「ああ……ダリオ・フェルッチのことか。
少し前に辞職しちまったな。すぐに引っ越しちまったし、今はどこにいるんだか」
「そんな……!」
アルノーが思わず声を上げる。
ゼノフォードは眉をひそめ、静かに言葉を継いだ。
「これは予想外だね。
確かに、最近めっきりトルカーナに姿を見せなくなったとは聞いていたけど、懲りたからだとばかり……。
まさか、辞めていたからだったなんて」
警官は机の上の手紙――ゼノフォードが手渡した抗議文を軽く叩いた。
「これが事実なら犯罪だから調べてはみるけど、どうだかなぁ。
本人がいない以上、取り調べはできないし、奴を見つけるのにもしばらく時間はかかる。長期化だろう。
申し訳ないが、すぐには立証できない」
警察局を出たゼノフォードとアルノーは、石畳の広場に足を踏み出した。
秋の風が帝都リテンハイムの街路を吹き抜ける。
「そんなぁ……」
アルノーは肩を落とし、深い溜息を吐いた。
「わざわざリテンハイムに来たのに、無駄足だったってことっすか……?」
「……そういうことになるね」
ゼノフォードは帽子の縁を指でなぞりながら、静かに答えた。
事実、こうなるとはゼノフォード自身も想定していなかった。これでは、あの汚職警官の悪事を表面化することは厳しく、それと同時に『彼の信用を落とし、通報内容の信憑性を疑問視させる』という作戦も、ほとんど不可能に近いだろう。
「これからどうするんつもりなんすか?」
アルノーに問われたところで、ゼノフォードはまだ他の策を用意していなかった。
「……どうしようかな」
「ええー!?」
「まったく、あの汚職警官君は余計なことをして消えてくれたね。
僕一人を陥れるならともかく、ピエトラまで巻き込むなんて。――いや、通報の内容は『ピエトラ』じゃなくて『マフィア』だったか」
ここまで言って、ゼノフォードはあることに気付き、一度口を噤んだ。
「――そうだ、あの尋問のときに『マフィア』って単語は出たけど、一言だってそれが『ピエトラ』だ、なんて話は出ていない。
なのに、どうして『ピエトラが暗殺の実行犯だ』って話になったんだろう」
「確かに。ゼノフォード殿下も、『ゴロツキ』としか言ってないし……」
「警官の通報内容が『マフィア』って総称じゃなくて、具体的に『ピエトラ』だって明示されていたとか?」
実際の通報内容についてゼノフォードは把握していないので、その可能性は否定できない。
「あるいは元侍従オスヴァルトが、最近になってまた『やっぱりピエトラが実行犯でした説』を言い始めたとか?」
オスヴァルトが、また捜査を撹乱しようとしているのか?
「だけど新聞記事には、『オスヴァルトは、当初とは一転してマフィアの関与は証言していない』って書かれてたしな――。
――『ピエトラ』っていうのは、一体どこから出た話なんだ?」
「教えてやろうか」
不意に、聞き覚えのない第三者の声がした。
ゼノフォードとアルノーは振り返る。
そこには騎士服を纏った青年が立っていた。
その胸元には、銀色の警官章が光っている。警察局に属する者であることは一目で分かった。
ゼノフォードは咄嗟に帽子を深くした。
と同時に、アルノーは彼に見覚えがあったのか、瞠目した。
「エルンストさん……!」




