57話 失った家族
四方八方が、狭くて硬い。
顔を上げると、ゴン、と頭を打った。
テン、テン、と、すぐ頭上で打楽器のような音がする。――雨が、金属に当たる音だ。
そこで『今自分はブリキのゴミ箱の中にいるのだ』ということを思い出して、頭の上の蓋をそっと押し上げた。
「――ッ」
撃たれた脚が、痛い。
「――そうだ、皆は」
ゴミ箱から這い出す。
――すでに夜になっていた。
カルメンは痛む脚を引き摺りながら、家の方へと向かう。
そしてすぐに、街灯に照らされたそれが見えてきた。
「――家が」
鮮やかな暖色のペンキで彩られていた家は見る影もなく、黒と灰色に染まっていた。
――雨が、痛い。
撃たれた脚が、じくじくと疼く。
熱があるのか、頭がぼうっとして、視界が霞む。
家族はいない。
家もない。
行く当てもない。
だけど、追手からは逃げないといけない。
――ここにいてはいけない。
ザァァァァァ。
大粒の雨が、容赦なくカルメンの身体を打ちつける。
痛い。
寒い。
重い。
――もう、動けない。
カルメンは、崩れるように地面に倒れ込んだ。
そして――そのまま意識が遠のいた。
――なんとなく、温かい。
朦朧とした意識の中で、カルメンはゆっくりと目を開けた。
朧げに、人影が見える。
「……アンタは……?」
青年がカルメンを見下ろしていた。
いま自分は、その男に抱えられているらしかった。
「――気にすんな。ただの通りすがりだ」
低く、落ち着いた声だった。
カルメンは、震える唇を動かした。
「……知らない人と、話しちゃ駄目なの……
じゃないと……皆……死んじゃう……」
青年は短く溜息をついた。
「……エルンストだ。これでもう、知らねェ人じゃなくなったな。
心配すんな、これでも悪人じゃねェつもりだからよ」
カルメンは、ぼんやりとその名前を聞いた。
男は――エルンストは、カルメンを抱えたまま歩いていた。
雨は、まだ降り続いている。だが彼の歩みは揺るがなかった。
「俺の親父が、孤児院をやってんだ。もうすぐ着くから寝てろ」
カルメンは目を閉じた。
雨音が、少しだけ遠くなった気がした。
こうして温かく迎えてくれたのは、オットー・クラウゼの孤児院だった。
温かい布団。柔らかい毛布。
薬の匂い。スープの香り。
怪我は手当てされ、食事は十分に与えられた。
身体は回復していく。
だが――。
「遊ぼうよ、カルメン」
積み木を抱えた女の子が声をかけてきた。
カルメンはちらりと彼女を一瞥した。
「遊ばないわ」
「でも……少しくらい遊んでくれたって、いいじゃない」
カルメンは溜息を吐き、その辺に散らばっていた積み木を適当に積み上げていった。
「……いい?
アンタたちがどんなに楽しく遊んでても――」
積み木の塔が完成した瞬間、カルメンはそれを指で弾いた。
積み木はガラガラ、と音を立てて崩れた。
「アタシが関わると、こうなるのよ」
女の子は、ぽかんと口を開けたまま、崩れた積み木を見つめていた。
そんな女の子をカルメンは「ふん」と鼻で笑った。
女の子は、一瞬だけカルメンの顔を見た。
そして、ぽろぽろと涙をこぼした。
夜。呼び出しを食らったカルメンは、職員室にいた。
「――君は、大人なんだな」
机の前に座るクラウゼ院長は、穏やかにカルメンを見つめた。
「だから、周りが幼稚に見えてしまうのだろう。
だけど――もう少しだけ、他の人と仲良くしてみてもいいんじゃないか?」
ふん、と鼻を鳴らすカルメンに、院長は付け加えた。
「だって、皆――君の家族なんだから」
「家族なんかじゃないわ!」
カルメンは噛みついた。
そんな彼女を見ながら、院長は静かに問い返す。
「血が繋がっていないからか?」
「違う!
……違う、わ」
カルメンは、言葉を詰まらせた。
頭をよぎるのは、かつての記憶。
栗色の巻毛を耳に掛けて笑っていた母。
そして、叔父や兄のように接してくれた、父の仕事仲間たち。
血の繋がりはなかった。
それでも、母は言ってくれた。
『だって、私たちは家族なんだから』
血の繋がりはなくとも――家族だった。
「……ッ」
カルメンは、俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……わかった。話くらいはしてみる」
□□□
それからカルメンは、子供たちとの距離を少しずつ縮めていった。
――まあ、面倒極まりなかったが。
食事をこぼした子供がいた。
カルメンは溜息を吐いて、布巾を持っていった。
「しょうがないわね」
洗濯に手間取っている子供がいた。
カルメンはその手から濡れた洗濯物を奪うように取った。
「ちゃんと絞りなさい。水浸しだと、一生乾かないわよ」
逆上がりができない子供がいた。
カルメンは、鉄棒の前に立った。
「勢いが足りないわ。怖がってちゃ駄目」
本に夢中になっている子供がいた。
カルメンは、ちらりとその表紙を見て言った。
「へぇ、アンタ『オルフェリス』読んでるのね。
古典文学なら、ソアレス作の『ダルカンテから』と『水晶の者たち』も読んでみるといいわ」
そして、積み木を持った子供がいた。
カルメンは、渋々その遊びに参加した。
子供が建てた家のてっぺんに、三角形の積み木を置いて完成させた。――指で弾くような真似はしなかった。
そうしていくうちに。
「今日は、溢さなかったよ!」
「絞るの、上手くなったでしょ!」
「逆上がり、できるようになったよ!」
「『レ・ソンブール』を読み終えたよ!」
「今日は、お城をつくろうよ!」
子供たちが、カルメンに報告しに来るようになった。
自慢しに来るようになった。
提案しに来るようになった。
(悪くない。
ううん。結構いいんじゃない?)
彼らを眺めながら、カルメンは――数ヶ月ぶりの笑みをこぼした。
(アタシの、新しい家族)
□□□
それから数年が経った頃。
「リテンハイム郊外に、新たな児童養護施設を開設することになりました」
クラウゼ院長の言葉に、子供たちは静かに頷いた。
それが何を意味するのか――まだ、誰も知らなかった。
施設が変わった。
労働は過酷になった。
逃亡者が出てからは、相互監視体制が敷かれた。
ある日。
「レナの家族が決まりました」
職員の言葉に、カルメンは顔を上げた。
レナ――前の孤児院で、一緒に積み木をしていた女の子だ。
(ふうん。よかったわね)
カルメンは、何も言わずにその報せを聞いた。
――ある夜。
カルメンは暗い寝室の窓辺に立ち、外を見ていた。
(あの子がいなくなって一週間か。
新しい家族と元気にやってるかしら)
積み木を抱えた少女の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。
(最近は忙しくなったから、出来なくなってたけど――今頃はまた、積み木でもやって遊んでたりしてね)
風が木々を揺らし、月が雲の切れ間から顔を覗かせている。
――ふとカルメンは、木々のざわめきとは違う、規則正しいザッ、ザッという音がすることに気が付いた。
視線を巡らせれば、視界の端に動くものを捉えた。
人影だ。
その人影は、地面を掘っている。
そして横には、布に巻かれた大きな物体が横たわっていた。
(何かを埋める気なのかしら?)
カルメンは目を凝らした。
そのとき、風が吹いた。
布が、ふわりと捲れた。
「!」
見えたのは。
――人の、顔だった。
(あれは――人!?
人を埋めるつもりなの!?
待って! あの顔は――)
記憶が、脳裏に走る。
あれは。
積み木を抱えて笑っていた――。
(――レナ!?)
――あの子が、死んだ?
家族だと思っていた人が?
「――嫌」
ずっと一緒にいられるわけじゃない。それはわかっていた。
ここは養護施設。その特性上、いずれはそれぞれの道を行くのだから。
だけど。
(――もう、家族を失うことはないと思ってたのに!)
あの恐怖を。
――もう、経験したくはなかったのに。
「――嫌よ、嫌!!」
カルメンは窓を開けて、外へ飛び出した。
冷たい夜風が、頬を打つ。
職員の制止も聞かず、足元の土を蹴った。
布に巻かれた人影へと駆け寄って。
その身体に、抱きついた。
「嫌! 嫌――ッ!!」
□□□
「もう終わりにしましょうよ!」
カルメンの声が、寝室に響いた。
静まり返る空間。
誰もが、カルメンをじっと見ていた。
カルメンは、ゆっくりと一人一人を見た。
「テーブルマナーが得意なライオネル」
少年が、わずかに肩を震わせた。
いつも背筋を伸ばして食事をしていた彼の姿が、脳裏に浮かぶ。
「洗濯が得意なファニー」
少女が、膝の上で手を握りしめた。
絞り方を覚えたばかりの頃、誇らしげに濡れたタオルを見せてきた笑顔がよぎる。
「運動神経がいいベン」
少年が、目を伏せた。
逆上がりができた日、何度も鉄棒にぶら下がっていた姿が思い出された。
「文学者のフランシス」
少年が、唇を噛んだ。
ページをめくる手が、いつも丁寧だった。
「――ここで出会った皆も!」
カルメンの声が、少しだけ震えた。
それでも、言葉は止まらなかった。
「綺麗事だって笑われるかもしれない。
都合が良いことをって蔑まれるかもしれない。
だけどアタシは、皆家族だと思ってる!」
誰かが、息を呑んだ音がした。
カルメンは拳を握りしめる。
「これ以上、家族を失うのは嫌なの!」
その言葉は、過去の記憶と重なっていた。
炎の中で失った家族。
布に巻かれて動かないあの子。
「お願い!
もう悲しい思いはしたくないの!!」
外では、ホルツが手術用のノコギリを振り上げていた。
月光が刃に反射し、鈍く光る。
その下には、今にも命を絶たれようとしている少年の姿があった。
――洗脳に等しい状態だった子供たちは。
「――俺だって嫌だ」
一人、立ち上がった。
「――私も嫌」
続いて、もう一人が立ち上がった。
「死にたくない。誰かが死ぬのも嫌だ!」
「もう誰かが死ぬのは見たくない!」
「終わりにするぞ!!」
声が、連鎖した。
カルメンは、目を見開いた。
涙が、頬を伝った。
「――みんな――!」




