56話 炎の中の記憶
「アタシ、いつか偉い人になる!」
――ずっと昔のことだ。
そんなくだらないことを言った記憶がある。
「偉くなって、いっぱいお金稼いで、お母さんと、お父さんと、それから仲間の皆と、ずっと楽しく暮らすの!」
母は栗色の巻毛を耳に掛けながら、にっこりと笑った。
「偉くなるって、どれくらい?」
「うーんと」
カルメンは少し考えたあと、思い当たって、はっと顔を上げた。
「お父さんくらい!」
周囲からたくさんの笑い声が上がった。
父の仕事仲間たちだ。
「親っさんの跡を継ぐってことかァ?
そいつァ頼もしいなァ!」
「さすが親っさんの娘っこだ!」
「姐さんに似た美人さんがボスかァ。いいねェ」
「おい!」
一人が上げた声に、別の男が制止した。そして罰が悪そうに声をひそめる。
「カルメンは姐さんと血が繋がってねェんだ、継母継娘の関係なんだよ」
「えっ、そうだったんすか!?」
注意された若い男は、「やっちまった」と顔を青白くした。
だが、それが聞こえていたらしい母は、嫌な顔ひとつせず、くすくすと笑った。
「血の繋がりなんて関係ない。
カルメンは、私に似た美人になるわ。
私が育てる、私の娘なんだもの」
そう言ってまた笑った。
その声に釣られるように、周囲はまたわっと盛り上がった。
「間違いねェ!
カルメンは美人さんになる!」
「今でも可愛いもんなァ!
将来が楽しみだぜ!」
「将来有望で何よりだぜ!
よっ、将来のボス!」
と、ガチャリと部屋の扉が開いた。
「将来のボスだとかなんだとか聞こえてきたが、誰が私からボスの座を奪う気なんだ?」
酒瓶を片手に入室してきた白スーツの男の、強面でやや野生味のあるその顔は、言葉とは裏腹に、穏やかな表情だった。
仕事仲間たちは騒ぎ立てた。
「アンタの娘っこだ!」
「カルメンちゃんだぜィ」
父は「ハッ」と笑った。
「それは楽しみだな。
だが――」
父はカルメンの隣に腰を下ろし、カルメンの顔を見下ろした。
「私はお勧めしない。
何せ、あまり良い仕事ではないからな。
――おまえはまだ、将来を選べる」
そう言って、ふと窓の外を見た。
――よく晴れた、青い空が広がっている。
「おまえには、お天道様の下を堂々と歩けるような人間になってほしいのだ」
カルメンは、こてん、と首を傾げた。
まだ父やその仲間たちの仕事について、よくは知らないのだ。
「だけどアタシはね。お父さんみたいになりたい」
ぐるりと、自身の周囲を取り囲む仲間たちを見た。――強面の男たちが、そんな外見とは裏腹に優しく笑いながらこちらを見ている。
「お父さんの仲間って、家族みたいでしょ?
いつも一緒にいるんだもん」
親っさん、と呼ばれて慕われる父。
姐さん、と呼ばれて親しまれる母。
互いに兄弟のように接する父の仕事仲間たち。
皆、家族みたいだ。
「大事な人がいっぱいいて、いいなって。
アタシもパパみたいになって、――誰かの大事な人になって、みんなと一緒にいたい」
カルメンが言うと、にこにこと笑う屈強で強面の男たちは、より一層笑みを深くした。
母はカルメンの赤毛を優しく撫でた。
「偉くならなくたって、いいのよ。
何者にもならなくたって、あなたは私たちと一緒にいていいの。
あなたは私たちの、大事な人なのよ。
だって、私たちは家族なんだから」
男たちも、「そうだとも」「大事大事だぜ」と頷いた。
父も笑みを――普段からよく笑う方ではないためにぎこちなくではあったが――浮かべた。
カルメンは、えへへ、と笑った。
楽しかった。
すごく、楽しかった。
――そんな生活が一変するまで、そう時間はかからなかった。
「お嬢ちゃんッ!」
道を歩いていたカルメンは、切羽詰まった声に呼び止められた。見れば、数人の男たちが真剣な面持ちで、こちらを見下ろしていた。
が、すぐにカルメンはふいとそっぽを向いた。
「……知らない人と話しちゃ駄目だって、お母さんに言われたわ」
それだけ言うと、そのまま立ち去ろうと歩き出した。だが。
「そのお母さんが、いま大変なんだ!」
男が言い募るようにそう口を開いた。
カルメンは顔を上げた。
「……大変?」
怪訝そうながらも反応を示したカルメンに、男たちは口々に切羽詰まった様子で訴えた。
「君のお母さんが、メタロの連中に捕まっちまった!」
「俺たちだけじゃ、解決できねェ!!」
「仲間を連れて早く来てくれッ!!」
すごい剣幕だ。
勢いに圧倒されると同時に、カルメンの口から「え?」と不安の声が漏れた。
「メタロって、確かマフィアの?
アンタたち、お父さんの仕事仲間?
お母さんが捕まってるって、ほんとなの!?」
カルメンの言葉に、男たちは「ああ!」「そうだ!」と肯定した。
「このままじゃ、お嬢ちゃんのお母さんは殺されちまう!!」
「ッ!?」
(お母さんが殺される……!?)
カルメンは息を呑んだ。
男たちは、カルメンの背を押した。
「グズグズしてらんねェんだ!
助け出さねェとヤベェんだって!!」
「早く、お父さんの仕事仲間に伝えてくれ!!」
返事もせず、カルメンは走り出した。
少し前に母とした会話が脳裏をよぎる。
『偉くならなくたって、いいのよ』
そう言って、撫でてくれた。
『何者にもならなくたって、あなたは私たちと一緒にいていいの』
「―― 一緒にいていいって、言ってたじゃない」
あのとき撫でられた頭に手を当てる。
あの感触が抜けきらないうちに、こんなことになるなんて、誰が想像できただろう?
『あなたは私たちの、大事な人なのよ』
「お母さんだって、アタシの大事な人なのに」
捕まった?
殺される?
――お母さんが?
(助けるのよ)
きっと、大丈夫だ。
きっと、助けられる。
お父さんに伝えて、仲間皆で助けに行けば。
(大丈夫よ、きっと大丈夫だから――!)
バン!
カルメンは家の扉を開けた。
「お父さん!」
廊下を走りながら、居間にいるであろう父に叫んだ。
「お父さん、お母さんが――!」
バタンと、居間の扉を開いた。
そのとき。
カルメンは、目を丸くした。
「――お母さん?」
――母が、いたのだ。
ソファで、いつものように縫い物をしている。
「どうしたの、カルメン?」
母も母で、きょとんとしている。
そしてそれは、周囲にいた父や、父の仕事仲間も同様だった。
「カルメン?」
「血相変えてどうかしたのか、カルメンちゃん?」
「なんかあったのか?」
カルメンは予想外の展開に戸惑いながらも、おずおずと躊躇いながら口を開いた。
「お母さんは、メタロに捕まったって――」
その説明に眉を寄せたのは父だった。
「そんなはずはない。
メタロとは今、取引を進めているところだ。
頓挫しかねないのに、彼らがそんなリスクのあることをするわけがない」
「じゃあ――」
突然。
パン! パパン!
屋外で、乾いた銃声がした。
「警察だァ!!」
「おい出てこいやァ!」
「いるのはわかってんだぞゴラァ!!」
いくつもの怒鳴り声。
ドンドン! と扉を蹴破ろうとする衝撃音。
「お宅のお嬢ちゃんがよォ、ここに駆け込むのを見たぜェー!?」
その声に、カルメンは目を見開いた。
「――アタシのせい?」
母が捕まった、なんていうのは嘘。
母が殺されそう、なんていうのも嘘。
そして、仲間たちを連れて助け出さなければならないというのも。
――全部、嘘だった。
「――アタシが、この人たちを連れてきちゃった、ってこと――?」
幼心に、父やその仲間たちが一般人とは違うことは、なんとなく理解していた。
そして、警察とは相容れないということも。
すぐ外にいる警官たちが、自分たちの敵だということも――。
直後。
ドゴォ! と、およそ日常生活を送る上では聞くことがないであろう音がした。――扉が破壊されたのだ。
ガシャン!
窓が割れた。
大勢の見知らぬ男たちが、壊れた扉と窓から雪崩れ込んでくる。
「逃げんなよテメェら!」
「相手はマフィアだ、一人残らずひっ捕えろ!
それができなきゃぶっ殺せェ!!
女、子供もなァ!!」
パン! と発砲音がしたと思ったら、天井から照明が落ちてきた。
途端に、わっと炎が燃え広がる。
「カルメン!」
誰かに腕を引っ張られた。
あれよあれよと言う間に、次々に家具や壁、床に火が移っていく部屋から引き摺り出される。
顔を上げれば、父だった。
「いいかカルメン!
火は怖い怖いだから、近付くんじゃないぞ」
彼はカルメンが怖がらないように、声が震えているのを押し殺して優しい口調で声を掛けた。
「煙も駄目だからな、吸うなよ」
キッチンまで辿り着くと、父は扉を閉め、その背をぴたりと扉に押しつけた。
直後。
ドンドンドン!
激しい衝撃音が扉を揺らす。
「そっちにいるんだろ!」
「開けろやァ!!」
部屋の向こうでは、火が広がっているはずだ。
それでも敵は、炎をものともせず飛び込んできたのだ。
すぐ向こう側に、確かに奴らがいる。
「カルメン! 裏口から行け、逃げろ!!」
父は、今にも開きそうな扉を背で押さえながら、キッチンの脇にある裏口を指差した。
「――アタシのせいだ」
カルメンは、震える声で訴えた。
「アタシが……警察を連れてきちゃったんだ」
ドン! ドン!
扉が叩かれるリズムが変わった。
父が塞いでいるにもかかわらず、外側から扉を打ち破ろうとしているのだ。
「カルメン」
父は激しく揺れる扉を押さえながらも、カルメンの方へと目を向けた。
その瞳は穏やかに細められていた。
「おまえは悪くない。
おまえは、助けようとしてくれていたんだろう?
お母さんを」
「でも、アタシ――!!」
「カルメン――」
そのとき。
パン! と、扉の外から銃声がした。
「ッぐっ!」
不自然に父が呻く。
父の腹部に。
――じわり、と赤いシミが広がっていく。
「カルメン!」
父は歯を食いしばりながら、再び裏口を指差した。
「行け! 裏口から出るんだ!! 早く!!」
パン!
もう一発、銃声が鳴る。
「う……がッ」
父はそのまま前のめりに倒れた。
強固な障害物を失った扉が開きかける。
煙が、ぶわっと流れ込んできた。
「お父さ――」
「行けェーーーーッ!!!」
父は最期の力を振り絞って叫んだ。
ギィと扉が開いた。
「いたぞ、ボスの娘だ!」
「ここに倒れてるのはボスか!?」
もう限界だった。
「……ッ!!」
カルメンは父に背を向け、裏口へと駆け出した。
乱暴に扉を開け、外へ飛び出す。
「おい、ガキが逃げたぞ!
殺せーーッ!!」
ドタタタ、と銃声が響く。
シュ、と腕に鋭い痛みが走った。
「ッうっ!!」
ちらりと背後を振り返る。
火が回り始め、明々と燃え上がる我が家。
その前に、銃を構える数人の人影。
足を止めては駄目だ。
動かない的になってしまえば、たちまち撃ち殺される。
パン! パン!
「ッああ……ッ!!」
脚に、焼けるような熱さを感じた。
――撃たれた。
(――走れない!)
咄嗟に見回した。
ブリキのゴミ箱がある。
飛び込んで、すぐに蓋を閉めた。
刹那、警官たちが走ってきた。
「くそッ、煙が濃くて見えねェ!」
「ガキは外に行ったはずだ!」
「生き延びられて、ゆくゆくは復讐を、なんて考えられたら厄介だ! すぐに殺せ――!!」
カルメンはじっと耐えた。
暗い。何も見えない。
ただ、父の仲間たちの「熱い」「痛い」という悲鳴だけが耳に届く。
『偉くなって、いっぱいお金稼いで、お母さんと、お父さんと、それから仲間の皆と、ずっと楽しく暮らすの!』
皆で、ずっと楽しく暮らそうと、そう言ったのに。
その未来を潰したのは、自分自身だ。
『何者にもならなくたって、あなたは私たちと一緒にいていいの。
だって、私たちは家族なんだから』
血の繋がりなんて関係ないと。
家族なのだからと。
そう言ってくれたのに。
その家族を死なせたのは、
――自分自身だ。
(アタシだ――。
アタシのせいだ――ッ!!)
狭い。息苦しい。
煙の匂いがする。
蓋の隙間から、少しずつ煙が入り込んでいるのだろう。
息苦しい。
息苦しい。
空気が、少ない。
酸素が、少ない。
――カルメンの意識は、ここで途絶えた。




