53話 予期せぬ来訪者
直後。
実験室の扉のノブが回った。
「――まずい!」
ゼノフォードはカルメンの腕を掴むや否や、すぐ傍のベッドの下に押し込んだ。そして、自身もその中に滑り込もうとする。
だが。
ゼノフォードの手の中にあった証拠品が、バサバサ、と溢れた。
注射器の入った箱が滑り落ち、床にぶつかって蓋が外れる。中身の注射器が散乱し、いくつかはパリンと音を立てて砕けた。
「――くそ!」
ゼノフォードは慌てて書類をかき集め、散らばった注射器をできる限りかき集めた。
そうしている間にも、扉がギイと音を立て始める。
もう限界だった。
ゼノフォードはカルメンに足を掴まれ、そのままベッドの下に引き摺り込まれた。――回収できなかった書類や注射器をその場に残したまま。
同時に、扉の向こうから男が入室してきた。
「ここだろうと思いましたよ。書斎に灯りがついているのに貴方の姿が見えず、しかも隠し扉が出ていたのでね。
――ここは用がなければ立ち入ってはならない場所ですよ、クラウゼ所長」
ゼノフォードはこの声に聞き覚えがあった。
その時は、もっと優しげで朗らかな感じだった。――今は違う。
ベッドの裾を僅かに持ち上げ、ゼノフォードは男の姿を確認した。
三十代半ばほどの、白衣姿。
子供たちの定期診断を担当していた男――。
(――エミール・ホルツだ)
『施設の実情を警察に話した』と言い、その実態を憂いていたはずの男が、今この秘匿な空間に我が物顔で立ち入っている。
つまり。
――ホルツのあの言動は芝居だった、ということだ。
(この男は――ホルツは――敵だ)
ゼノフォードが見守る中、クラウゼ所長はゆっくりと壁際へと身を移した。ゼノフォードはすぐにその意図を察する。所長は、撒き散った証拠品とベッド下の二人がホルツの視界に入らぬよう、遮る位置を取ったのだ。
「問題が起きていないか、確認をしに立ち寄っただけですよ」
所長は言い訳をする。しかしホルツは、入室の時点で既に違和感を覚えていたのだろう。
「――随分とぐしゃぐしゃですね」
言いながら、ホルツはベッドの方へと振り返った。
ゼノフォードは咄嗟に様子を覗くのをやめ、ベッドの裾から手を離す。
――カツ、カツ。
足音が、こちらへと近づいてくる。
直後。
ベッドの中の暗闇に、一筋の光が差した。
ホルツがベッドの裾を持ち上げたのだ。
「申し訳ないです! ちゃんと整えますので――」
クラウゼ所長はホルツの手から裾を奪うように取り上げ、引き攣った笑みを浮かべながらベッドを整えた。
「実は、この子が失禁しましてね。シーツを取り替えていたところだったのですよ。
――これでよし。ほら、こういうこともあるからね、見回りは必要なんですよ」
「――この割れた注射器も、シーツを取り替えたときに?」
ゼノフォードはぎくりと身を強張らせた。
床には、拾いきれなかった注射器が散らばっている。それが見つかってしまったのだ。
そして今はまだ気付かれていないが、報告書も一部、床に残されたままだ。
もし不審に思われれば――。
「え、ええ。服を引っ掛けてしまいまして」
所長の言い訳じみた返答に、ホルツはしばし押し黙った。
嫌な沈黙が流れる。
が、やがて口を開いた。
「――まあいいでしょう」
ホルツは踵を返し、ベッドから離れた。
足音が遠ざかるのを耳にして、ゼノフォードは胸を撫で下ろした。
とはいえ、危機的状況に変わりはない。何かの拍子に露見すれば――。
(一旦セーブをしたい)
ゼノフォードはインターフェースを立ち上げようと手を動かした。
「今、ベッドの裾が――動きませんでした?」
(!)
ホルツの声に、ゼノフォードは動作を止めた。
(腕を動かした拍子に、ベッドの裾に触れてしまったか?
――いや、違う!
腕に、裾が――!!)
――長いベッドの裾が、ゼノフォードの腕に乗っていた。
クラウゼ所長がベッドを整えたときに、裾が腕にかかってしまったのだろう。
所長は「は、はは」と乾いた笑い声を上げた。
「す、隙間風でしょう。
最近たまに入って来るんですよ。いやはや建物が古くていけない。補修工事が必要かもしれませんね」
「地下に隙間風――ですか」
「地下だって、風くらい入ってきますよ。
さあ、そんなことより業務の話をしましょう。そのためにいらしたのでしょう? ホルツさん」
「――ええ、まあ」
ホルツはこれ以上追及してこなかった。
ゼノフォードは安堵しつつ、所長に感謝した。
(――セーブは諦めるしかないか)
ゼノフォードが歯噛みしていると、ホルツの「さて」という声が聞こえてきた。
「昨日の投薬で、異常反応は?」
「ありません。安定しています」
「では、次の投薬は来週でよろしいですね」
「はい。予定通りです」
「新しいロット、届いていますか」
「ええ。冷却庫に保管済みです」
治験に関するやり取りだろう。
ホルツとクラウゼ所長は、淡々と業務の話を交わしていた。
――だが。
ホルツの声が、ふいに調子を変えた。
「――やはり怪しい。なぜ、ベッドの方をちらちらと見ているのです」
クラウゼ所長が息を詰めたのが、ゼノフォードにも伝わった。
ホルツはなおも追及する。
「ベッドの下から見えているあれは――決算報告書? なぜここに?」
「そ、それは――!」
足音がした。
刹那。
ゼノフォードの視界が開けて。
――目が、合った。
ホルツと。
ホルツが、ベッドの裾を捲り上げたのだ。
――見つかった。
「逃げるぞ!」
ゼノフォードとカルメンは、ベッドの下から飛び出した。
(証拠品は置いて行くしかない!)
命あっての物種だ。
目指すは、実験室の出入り口。
「待て!」
ホルツが声を上げて、手を伸ばす。
「ちょっと!」
後方からカルメンの声が上がった。
振り返れば、彼女はホルツに腕を掴まれていた。
ゼノフォードは咄嗟に蹴った。
硬いヒールが、ホルツの顎を鋭く蹴り上げる。
瞬間、する、とカルメンの腕を掴む手の力が弱まった。
「行くぞ!」
ゼノフォードは実験室の扉に体当たりし、隙間に身を滑り込ませた。
カルメンも続いて飛び込み、二人は石畳の階段を駆け上がった。足音が冷たい空間に反響する。
と、すぐに三人目の足音が加わった。
「逃がさない!
この場所を見られた以上、逃すわけにはいかない――!」
ホルツだ。
会心の一撃を食らわせたはずなのに、まだぴんぴんしている。
書斎に出る。
カルメンが隠し扉から出たのを確認して、ゼノフォードは扉を閉めた。
それから先程までこの扉を隠していた書棚に目をやる。これで蓋ができれば理想だが、動かすには時間がかかりそうだった。
「どいて!」
カルメンが叫んだ。
ゼノフォードが飛び退いた瞬間、カルメンは大きな椅子に体当たりし、扉の前に倒した。
直後、扉が開いた。
同時にガツン! と鈍い衝撃音がした。扉が倒れた椅子に突っかかり、開き切らずにぶつかったのだ。
「なッ……突っかかってる!?」
ホルツが、ガンガンガン、と乱暴に、扉を押し開こうとしている。間一髪だった。
「今のうちだ!」
ゼノフォードとカルメンは走った。
書斎の扉を開けて、廊下へと飛び出す。だが。
「無駄なことを!」
バン! と扉が開いた音が響いた。
つっかえていた椅子が、耐え切れずに動いてしまったのだ。
「逃げるんだ! このまま玄関から外に出る!」
後ろを振り返る余裕すらない。ゼノフォードは言いながら、長い廊下に足を踏み出す。
「――アタシまで脱走するハメになったじゃない!」
カルメンが息を切らしながら小言を漏らした。
「しかも証拠品を置いてきちゃったから、新聞社にリークもできないわ!!」
カルメンの言うとおりだった。
(ロードだ――どこかで時間を巻き戻さないと!
やり直さなければ……!)
だが、今ここで捕まり身動きを封じられようものなら、ロードをすることさえ叶わなくなる。それこそ、詰みだ。少しでも距離を取って、時間を稼がなければ。
そのとき。
ギャッ、と、ゼンマイが巻かれる音がした。
直後。
チリリリリリリ!
脱走者の発生を告げるベルが、夜の施設に甲高く鳴り響いた。




