5話 期待している
「こんなこともわからないのですか!」
――もう、ずっと昔のこと。
まだ、ヒルデガルトが幼かった頃のことだ。
ヒルデガルトは拳を握りしめ、震える喉元を覆うように俯き、唇を噛んでいた。
(――泣いては駄目だ)
「貴方はもう五歳になられます。
第一皇子マリウス殿下は、その御歳には世界中の国名も、主要都市も、すべて暗記なさっておられました」
女教師はヒルデガルトを見下ろし、氷のような眼差しを細めた。
その視線は、およそ強国の皇女に向けられるべきものではなかった。
「貴方は第一皇女でありながら、この国のことさえも理解できていないとは。やる気がないのですか?」
「そ――そんなことはない」
(泣いては駄目だ。悪いのは自分なのだから)
泣いてしまえば、ただでさえ『皇女』としての品格を損なっているというのに、さらにその肩書きに泥を塗ってしまう。
「やる気がないわけではない、と」
教師が念を押すように問いかけると、ヒルデガルトは小さく頷いた。
教師はふっと笑みを浮かべる。
「そうですか。ということはつまり――
貴方は努力してもその程度の、無能でお馬鹿な皇室の恥晒しということですね」
「――ッ」
(――泣くな。泣くな)
事実ではないか。
ヒルデガルトはさらに強く唇を噛んだ。鉄の味がする。
「いいですか!
皇女たるもの、教養がなくてはなりません!
国民は皆――貴方を皇女として認めることは、決してないでしょう!」
バシン!
「ひっ!」
突如響いた音に、ヒルデガルトは小さな肩をびくりと震わせた。
教師が指示棒を机に打ちつけた音だった。
「こんなことでは、貴方の存在価値などありません!」
いよいよ耐えられなかった。
両目から涙が滴るのが、頬を滑る温かい感覚でわかった。
「また泣くのですか!
泣いて解決するものは何もないと、何度も申し上げているでしょう! 恥ずかしいとは思わないのですか!」
「――ご、めんなさい」
教師に叱責されようとも、涙が止まることはない。
泣き止まなければ。今すぐに。
だが、止めようとすればするほど、否応なく涙は溢れてしまう。
教師はもう一度、バシンと指示棒を机に打ちつけた。
「だから貴方は、皇帝陛下にも皇后陛下にも認められず、疎まれ、嫌われているのです!」
「――ッ」
両親に認められていないことは知っている。
当たり前だ、このような出来の悪い子を認めろという方が無理がある。
(だが――!)
「――き、嫌われては、ッ、いない――」
ヒルデガルトは震える声の合間に、言葉を紡いだ。
「子供を嫌う親など、いないと……ッ」
「私の言葉を疑うのですか?
教師はこの世で一番頭が良いのだと、だから人に物事を教えられる立場なのだと。そう、申しましたよね」
「だが……ッ、オスヴァルトが……」
「オスヴァルト?
ああ、貴方の侍従ですか。
そう言って当然です、本当のことを言うはずないでしょう」
教師はつかつかとヒルデガルトの前へと歩み寄り、目の前に立った。
「貴方の機嫌を損ねてしまえば、クビになるかもしれないのですから。
都合の良いことを言って、貴方の機嫌を取っているだけです」
「……ッ!」
ヒルデガルトは飛び出した。
背後では、教師の怒声が響く。
きっと後で叱られて、鞭を振るわれるだろう。
それでも、確かめたかった。
(オスヴァルトは、嘘なんてついていない!)
嘘をつくことは悪いこと。
そう、オスヴァルトに言われた。
だから、彼が嘘をつくはずがない。
ヒルデガルトは皇帝の書斎の扉を開け、室内に入った。
――誰もいなかった。
「父上、母上――?」
執務室だろうか。
外へ出ようとしたそのとき、ふと廊下の方から話し声が聞こえてきた。父と母の声だ。
ヒルデガルトは戸口へと駆け寄った。
そして、迎えようとしたその瞬間。
扉に施された銀の装飾に、泣き腫らした顔が映った。
勢いのままここまで来てしまったが、先ほどの教師の声が、頭の中で反芻される。
『だから貴方は、皇帝陛下にも皇后陛下にも認められず、疎まれ、嫌われているのです!』
この顔を見られれば、授業を放り出して泣いているばかりの、役立たずの足手纏いだと思われてしまう。
たとえ、今はまだ嫌われていなかったとしても――。
(嫌われる――!)
『こんなことでは、貴方の存在価値などありません!』
教師の言葉が蘇る。
(両親に、私の存在価値がないことがバレてしまったら――嫌われる!)
かといって、今ここで出ていけば、鉢合わせしてしまう。
(――隠れないと!)
部屋を見渡した。閉じられたカーテンがある。父は、書物が日に焼けるのを嫌って、書斎のカーテンを常に閉めているのだ。
ヒルデガルトがカーテンの裏に身を潜めたのとほぼ同時に、キイ、と扉が開く音がした。
続いて、二人分の足音が響く。
毅然とした足取りは父のもの。
ワルツのように軽やかな足音は、母のものだ。
「……ッう」
ヒルデガルトは鳴き声を押し殺した。
喉がひくひくと痙攣する。
吃逆が出そうになるのを、必死に堪えた。
「『あの子』も、あのまま育っていれば……ヒルダくらいになっていたかしら」
母の声が聞こえてきた。
“ヒルダ”は“ヒルデガルト”の愛称。ああ、自分のことを話しているのだな、と思った。だが――
『あの子』とは誰のことだろう?
帝国城にいる子供は三人。
長男マリウス、長女ヒルデガルト、そして側室である第二皇妃の子、次男ゼノフォード。
いずれも成長に問題はなく、『あのまま育っていれば』と惜しまれるような子はいない。
幼いなりに不思議に思っていると、父の声が続いた。
「……ああ。『生きていれば』、きっとそっくりになっていただろう」
ヒルデガルトは悟った。
『あの子』とは、恐らく自分の兄弟姉妹であり、きっともうこの世にはいない存在なのだということを。
そして、なにより。
(父と母にとって、私は――『あの子』の代わりに過ぎないのか)
――ということを。
(好きも嫌いも何も――ない。
私の存在価値は、初めからなかった。
誰かの『代替品』。
いや――『まがい物』なのだから)
その辺の転がっている、いくらでも代えがきく存在価値のない石ころに、特別な感情を向ける人間がいるだろうか?
(何を期待していたというのだ。
――馬鹿みたいだ。
いや、初めから馬鹿なのだった)
やがて両親が書斎を後にしたのを見計らい、ヒルデガルトは重い足取りでその場を離れた。
教室へ戻れば、案の定、教師が鞭を片手に待ち構えていた。
「――おわかりですね」
ヒルデガルトは黙って頷き、スカートの裾を捲った。
脹脛や太腿には、幾筋もの痕が刻まれていた。
教師は鞭を振りかぶった。
――バシン!
脹脛に、鈍い痛みが走った。
その痛みが、抱いても仕方がない心の痛みから気を紛らわせてくれて心地良い。
「反省を述べてください」
「――頭が悪くて、ごめんなさい」
――バシン!
「それから?」
「――泣いて迷惑をかけて、ごめんなさい」
――バシン!
「それから?」
「――授業を飛び出して、ごめんなさい」
「それから?」
――バシン!
「――先生の言葉を疑って、ごめんなさい」
「そうです!
よく肝に銘じなさい!
私が、私こそが正しいのだと!!」
教師が再び鞭を振りかぶった。
――そのとき。
「ヒルデガルト様」
教室の扉が開いた。
姿を現したのは、スケジュール帳らしき冊子に目を落とした男――オスヴァルトだった。
「ご予定に変更がございます。ゼノフォード殿下が駄々を捏ねられたもので、衣装の採寸の時間が――」
と、顔を上げたオスヴァルトが口を閉ざした。
「――これは、一体」
鞭を振りかぶる教師。
そして、無数の傷跡の上に新たな傷跡を重ねている、第一皇女ヒルデガルト。
次の瞬間、オスヴァルトは教師を後ろ手に組み伏せていた。
「――何をしている!」
異変を察知した騎士たちが、バタバタと慌ただしく教室へと駆け込んでくる。
教師が引き摺られていくのを見て、ヒルデガルトは駆け出した。
「――やめろ!
先生は、悪くない!」
ヒルデガルトは、オスヴァルトと騎士の前に立ち塞がった。
「先生は、私に罰を与えてくれていただけだ!
悪いのは私なのだ、連行するなら、私を連行しろ!」
オスヴァルトと騎士は、意表を突かれた表情をした。
が、やがてオスヴァルトはヒルデガルトの方へと歩み寄ると、彼女を抱え上げて騎士に向かって命じた。
「……教師を連れて行け」
「待て! 連れて行くな!!」
オスヴァルトの腕の中で、ヒルデガルトは必死にもがいた。
「私のせいで――
私なんかのせいで――!」
バタン、と扉が閉まった。
「先生! 先生――!!」
オスヴァルトは暴れるヒルデガルトを床に下ろすと、背後へと回り込んだ。
「何を……」
オスヴァルトが傷痕を確認していることに気づいたヒルデガルトは、慌てて捲れていたスカートを下ろした。
「見るな!」
「見ますよ」
穏やかな声に、ヒルデガルトは首を振る。
「醜い傷跡だ、人に見られてはいけないのだと言われた!
他人に見られれば――嫌われる!!」
「嫌われる?」
ヒルデガルトはオスヴァルトの反芻に頷き、震える声で言った。
「――おまえには、嫌われたくない」
ぽつり、と呟かれた声に、オスヴァルトはヒルデガルトの肩に両手を置いた。
「嫌うはずがないでしょう」
ヒルデガルトの顔を覗き込めば、揺れる黒い瞳があった。
「言ったでしょう、子を嫌う親はいないと。
私は、貴方を実の子のように思っているのですよ。
――嫌う、などということは、決してありません。ずっとずっと、好きでいますよ」
「オスヴァルトは、私にとって都合が良いことしか言わないだろう?
――クビにならないように、私の機嫌を取っているだけなのだろう?」
「おやつをもっと食べたいと仰る貴方に、私が一度でも『好きなだけ食べていい』と言ったことがありますか?
もっと本を読みたいと訴える貴方に、一度でも『夜更かしをしてもいい』と言ったことがありますか?
むしろ、貴方に都合の悪いことばかり言っている気がします」
「――私は、出来損ないだ。兄上にできることが、私にはできない」
「人と比べてはなりません。
見上げれば空は高く、見下ろせば海は深いのですから」
「――おまえは本当に嫌わないのか?
誰かの代わりでしかない私を」
「代わり?」
オスヴァルトは目を丸くした。
ヒルデガルトは頷く。
「父と母が話しているのを聞いた。
私は、誰かの代替品なのだろう?」
オスヴァルトは困ったように笑った。
「皇帝陛下と皇后陛下がそんなことを?
――曲解なさっているだけな気がしますが、まあ、お二人の真意は私などには図りかねます。――が」
オスヴァルトはヒルデガルトの頭をそっと撫でた。
「たとえもしそうだったとしても。
私はやはり、貴方が好きですよ。
『貴方』は、この広い世界にただお一人しかいらっしゃいませんから」
「だったら――」
ヒルデガルトは、ふと涙に濡れた顔を上げた。
「私に『代わり』がいたとしても。
それでも、私を支えてくれるか?」
オスヴァルトは目元の笑みを深くした。
「勿論ですよ。
ずっと、貴方だけを支えましょう」
「――本当か?」
不安げな声に、オスヴァルトはにっこりと笑みを浮かべて頷いた。
「もちろんです。
――ヒルデガルト様のためですから」
その声に、ようやく心の波が静まり、ヒルデガルトは涙を拭った。
「優しいな、オスヴァルトは」
黒い瞳に穏やかな笑みを宿しながら、ヒルデガルトは言った。
「――期待している」
□□□
『ヒルデガルト様のために』。
自身の名のもとに為された、あまりに一方的な暴力の数々。
ヒルデガルトは茫然と立ち尽くしていた。
親以上に信頼していた男の剣が、幾度となく、非力な弟の身体を斬り裂いた。
その切先が、血に染まりながらもなお弟の胸元に突きつけられるのを、目の前で見ていた。
「オスヴァルト……おまえの様子が、おかしかったから……後を、つけてきたんだ……」
ヒルデガルトは声を絞り出した。
「……私に……皇家の血は、一滴も流れていないのだな」
皇女として歩んできた道。
そのすべてを根底から覆すような真実。
「私は……本当の皇女ではないのだな」
ヒルデガルトは、涙に濡れた顔を上げた。
「……だが!
最早そんなことはどうでもいい!」
震える拳を握り締め、ヒルデガルトはキッ、とオスヴァルトを見据えた。
「……支えてくれると、言ったよな?
期待している、と、そう言ったよな……?」
かつて、幼き日に。
ヒルデガルト様のためなら、と誓ったオスヴァルトに、確かに伝えた言葉。
だが、その『ヒルデガルト様のため』というのは、本人の想いとは全く別の形で成し遂げられようとしていた。
「期待していたのは、こんなことではないぞ!
――オスヴァルト!!」
嗚咽混じりの叫びが、広い空間に響き渡った。
「たとえ皇帝が、腐れ外道の人攫いだったとしても――。
だからといって、おまえが手を汚していい理由にはならない!」
ヒルデガルトは凛とした光を湛えた瞳を、侍従であり、父でもあるオスヴァルトに向けた。
「私が、この国の歪みを正す!
誰も傷つけぬ方法で!!」
「――」
オスヴァルトは、虚を突かれたような顔で、ヒルデガルトを見つめ返した。
オスヴァルトには、ヒルデガルトを理解できなかった。
『皇女』として、皇家を家族と思い込んで生きてきたが故の情なのか。
あるいは、事情をよく理解していないが故に、甘えたことを言っているのか。
――いや、違う。
ヒルデガルトの瞳に宿る爛々とした光は、そんな中途半端な志によるものではない。
正しい道を模索しようとする決意によるものだ。
非力な少年を一方的にいたぶるオスヴァルトを見て、『こうはなるものか』と反面教師にしたのだろう。
彼女は、ヒルデガルトは。
攻撃的な自分とは、まるで真逆の。
――優しい、人間なのだ。
「……お優しいんですね」
オスヴァルトの口をついて出た言葉は、思ったままの率直な感想だった。
「当然だろう」
オスヴァルトの言葉を拾ったヒルデガルトは、涙の伝った頬を引き上げて微笑んだ。
「私は、『優しい』おまえの、娘なのだから」
オスヴァルトは、再び瞠目した。
たったいま思ったことを、真っ向から否定されたからだ。
――ヒルデガルトの幼き日に、世話をしながらそっとその頭を撫でたとき。
皇女の教育に疲れ果て、ふらふらになって部屋に戻ってきた彼女を励ましたとき。
雨が続いて憂鬱になっていた彼女の遊び相手になってあげたとき。
きっとそんなとき、自分はヒルデガルトにとって、『優しい』存在になっただろう。
そしてそれは。
――独りよがりの正義の果てに凶行に及んだ今も、変わっていないのだ。
「――そうか」
私が、優しいか――、と。
オスヴァルトは、声にならない声で、そっと呟いた。
長い沈黙の果てに、オスヴァルトは「……ああ」と、嗚咽とも嘆きともつかぬ声を漏らした。
からん、と。
剣が手を離れ、硬い床を転がっていく音が、闇夜に吸い込まれるように消えていった。




