48話 逃げ切れ
目の前の光が収束し、音が消えた。
「ん?」
警備員が声を上げた。警備員は鍵を南京錠の鍵穴に挿そうとしたところだった。――この光景を、ゼノフォードは既に知っている。
(戻ってきた)
ゼノフォードは息をついた。
応援の職員たちはまだ駆け付けてきておらず、門の前には女性職員と警備員の二人しかいない。
ゼノフォードはカルメンの腕を引いて耳打ちした。
「今のうちに行くぞ!」
職員たちは、錠の異常に気付いていない。先手必勝だ。
ゼノフォードとカルメンは、木の影から滑るように出た。
「鍵が入らない……!?」
背後で警備員の声が上がる。錠の異常に気付いた段階だ。
続いて、女性職員の声が響く。
「……細工されてる!」
その声はもう遠い。
二人は職員の視界から外れた場所まで走り切っていた。
(――よし! このまま逃げ切れる!)
施設まで、あと一歩。
ゼノフォードは廊下に通じる窓枠に手を掛けた。
そのとき。
「おい!」
突然の声。
びくり、とゼノフォードは肩を震わせた。
振り返る間もなく――。
「――ぐうッ!?」
ゼノフォードは引き倒された。
そのまま地面に伏せさせられ、取り押さえられる。
顔を上げると、そこにいたのは――昼間、少年に手を上げたあの職員だった。
「オメェ、どうしてまだ中庭にいるんだ!?
まさか、何かしやがったんじゃねェだろうなァ!?」
ゼノフォードは歯噛みした。
施設側から応援が来ることを、考慮に入れていなかった。
「離しなさい!」
カルメンが、ゼノフォードを押さえる職員に殴りかかる。だが、痩せた少女の拳が屈強な男に通じるはずもない。
騒ぎを聞きつけて、他の職員たちがわらわらと集まってくる。
「うッ! 触んないで!!」
ほどなくしてカルメンも取り押さえられた。
「クソッ!」
ゼノフォードは悪態をつき、インターフェースを開いてセーブデータを読み込んだ。
□□□
目の前の光が収束し、音が消えた。
「ん?」
鍵を南京錠の鍵穴に挿そうとした警備員が声を上げる。
三度目。またこの時点に戻ってきた。
「鍵が入らない……!?」
警備員の言葉に、女性職員が南京錠を掴んで鍵穴を覗き込む。
「……細工されてる!」
「逃げるわよ!」
回帰前と同じように、カルメンがゼノフォードの腕を掴んだ。
「駄目だ!」
ゼノフォードは首を振って制止した。
ここで動けば、捕まる。
ほどなくして施設の方から、複数の足音が近づいてくる。
応援に向かって、女性職員が叫んだ。
「錠を壊して! 子供は敷地の外に出たわ! すぐに追うのよ!」
一人が「工具を取ってくる!」と施設に戻って行き、他の職員たちは門に体当たりしたり、錠の鍵穴から砂を掻き出そうとしたりしている。門を乗り越えようとする者もいた。
幸いなことに、ゼノフォードが施した細工はちゃんと時間稼ぎになったらしい。
「……この細工、中からじゃないとできないわ」
女性職員の言葉を皮切りに、
「誰かがやったんだ」
「近くにいるかもしれない。探せ!」
と、職員たちが声を上げ始める。
「――そろそろ本当にまずいわよ!!」
カルメンが小声で訴えた。
職員たちの視線が散らばり始め、数人がその場を離れて『犯人』を探し始める。
その一人が、こちらへ向かってきていた。
「駄目だ!
職員たちが細工の犯人に神経を尖らせている今、動けばすぐに見つかる!」
ゼノフォードは首を振って制止した。
「――『今度は』最後まで待つ!」
「『今度は』?」
カルメンは訝しげに首を傾げた。
と、そのとき、近くからジャリ、と土を踏む音がする。同時に、職員が手にするカンテラが光を投げかけてきた。
左側から足音が近づく。
ゼノフォードは目だけを動かして、その姿を確認する――女性職員だ。
女性職員が回り込むように歩を進める。
光がゼノフォードを照らそうと左側から伸びてくる。
(……まずい!)
枝葉の影に隠れようとも、光が当たれば一目瞭然だ。
と、ゼノフォードは襟首を掴まれ、右側にぐいと引っ張られた。カルメンが引き寄せたのだ。
ゼノフォードはその勢いのまま、カルメンに覆い被さる形になる。
不自然な体勢で、地面についた手が痛い。
足音が近付く。
カンテラの光が伸びる。
襟首を掴むカルメンの手が震えている。
腕が痺れてくる。
呼吸が浅くなる。
だが、音を立てるわけにはいかない。
足音が止まった。
数秒の沈黙。
――職員は別の方向へと歩き去っていった。
ゼノフォードは体を起こし、カルメンを引き起こした。
「――いまだ!」
二人は木の影を抜け、施設の壁沿いを走った。
門の騒ぎが背後に遠ざかる。
施設まで、あと一歩。
もう応援の職員たちは門の方へ向かっているため、鉢合わせる心配もない。
廊下に通じる窓、その窓枠に手を掛ける。
がらり、と窓を開けたところで――
「――おい、誰かが施設に入るぞ!」
後方から声がした。門の周辺にいた職員に見られたらしい。
「見られたわ!」
カルメンが声を上げるが、ゼノフォードは「問題ない!」と返して窓枠を乗り越えた。
「せいぜい逆光でシルエットが見えたくらいだ。あの距離でこの暗さだ、僕たちが誰かまでは見えていない!」
ゼノフォードは窓枠を跨ぐカルメンに手を貸し、窓を閉めて鍵をかけた。
そのまま廊下を走り抜け、寝室の扉のノブに手を掛ける。
「気を付けて」
カルメンが、上がった息の合間に言葉を挟むように囁いた。
「子供たちも、味方じゃない。平然として。悟られちゃ駄目」
そうだ。この施設の構図は、独裁国家さながらの監視社会。しかも今は、逃走を知らせるベルが鳴っている最中だ。
不審に思われれば、職員に報告されかねない。
だというのに二人とも、走ったことで息が上がっている。
だが、息を整える暇などない。このままここにいれば、すぐに職員がやってくる。
ゼノフォードは「ふっ」と息を吐いた。
そして、意を決して扉を開けた。
案の定、付近にいた子供たちの視線が一斉にこちらへ向けられた。
「――どうして寝室にいなかったんだろう」
「――いま警報が鳴ってることと関係あるのかな」
そんなひそひそ声が聞こえてくる。
ゼノフォードは乱れた息を押さえつつ、周囲に聞こえるように「それにしても」とカルメンに言った。
「何かあったのかな、ベルは鳴ってるし、職員は慌ただしくしてるし。
おかげで、せっかく君が施設を案内してくれていたっていうのに、戻ってくる羽目になったじゃないか」
ハッタリだ。だが、子供くらいなら騙せる。
『今まで寝室にいなかったことの理由』と『このベルについて、身に覚えがないこと』を口にしたゼノフォードに対して、子供たちは疑念の目を向けるのをやめた。
ゼノフォードとカルメンは密かに安堵した。
――しかし。
ガチャ。
ゼノフォードとカルメンの背後で、寝室の扉が開いた。
「――全員、自分のベッドに行け」
職員だ。
皆、各々のベッドに腰を下ろす。
そしてゼノフォードとカルメンも、自身のベッドに向かった。
職員が寝室に足を踏み入れる。
ゼノフォードはベッドに腰を下ろしながら、未だ整わない息を弾ませないよう堪えて、浅く呼吸を繰り返した。
高まった体温と緊張で、汗が吹き出しそうだ。
もしそんなことになれば、すぐに気付かれる。
走って紅潮した顔を隠すように、長い髪を前に垂らして俯く。
職員の足音が近付いてくる。
ゼノフォードは目を閉じた。
(――頼む、素通りしてくれ!)
職員の足音が。
――目の前で止まった。
「――!」
恐る恐る、目を開ける。
職員は――。
――ゼノフォードの隣を見ていた。
「ここの子供が脱走したのか」
「!」
ゼノフォードはがばりと隣を見た。
――いない。ベッドが、もぬけの殻だ。
職員が周囲の子供たちを見回した。
「――この部屋に、怪しい人間は入ってこなかったか?」
ドクン、と、収まりかけていた心臓の鼓動が再び跳ね上がった。
(――頼む、誰も何も言わないでくれ)
祈るような気持ちで、拳を握りしめた。
額から汗が滴り落ちる。
ゼノフォードはまた俯いた。
誰かが口を開こうと、「すっ」と息を吸った音が聞こえた。
「――入ってこなかったよ」
――子供の一人が言った。
それを皮切りに。
「知らない」
「怪しい人はいないよ」
「侵入者もいません」
と、子供たちが口々に言った。
しばらく周囲を眺め回していた職員は、やがて「そうか」と言い、寝室から出て行った。
「――職員の可能性も視野に入れて探せ!」
扉の向こうで、職員の声が聞こえた。
――切り抜けたらしい。
(――助かった)
ゼノフォードは緊張の糸が切れて、そのままベッドに倒れ込んだ。




