44話 潜入開始
帝都リテンハイム、郊外。
目的の建物はわかりやすく丘の上に建っていたため、街の人に場所を尋ねただけで容易に見つけることができた。
白い漆喰で塗られた外壁は陽光を反射し、遠目にも清潔感が際立つ。
建物は二階建ての石造りで、整然と並ぶ窓には磨き上げられたガラスが嵌め込まれていた。
この施設について、ダンテは『一、二年くらい前にできた』とは言っていたが、建物自体はそれなりに年数が経っているのか、由緒正しき面影がある。
(――なるほど、確かにこれは模範的だ。ロココ調で美しい。なかなか良い建物だ)
ゼノフォードは門に取り付けられた表札へと目を移した。
鏡のように磨かれた表札の表面、『クラウゼ養護施設』の文字の下に、己の姿が映り込んでいる。
その中の自分は、前世も含めた人生の中で、最も見窄らしい麻の衣服を身に纏っていた。
(街で適当に買った安物だけど、これでいい)
普段は優雅に後ろで結んでいる、ふわりとした長い白金の髪も、今は下ろしている。
これで、見窄らしさを演出したつもりだ。
(見た目はこれで問題ないか?)
……中途半端に乱れた姿が、儚げな元の容姿と相まって、むしろ扇情的な美に見えなくもない。
「美しすぎるというのも、困りものだね」
ゼノフォードは形の整った眉をハの字にして、わしゃわしゃと髪を引っ掻き回した。それから地面に手をつけて、さらにそれを服に擦り付け、真新しさを誤魔化してみる。
(まだ足りない)
土に汚れた自身の手を見下ろし、覚悟を決めてその手を顔に押し当てた。
表札に映る顔が、炭鉱で寝っ転がったのかと思うほどに一気に汚くなった。
(やりすぎた)
黒ずんだ顔の中で、紫色の目だけが変に浮き立っている。服の袖で顔を拭いてみると、多少馴染んでマシになった。
(これでよし。浮浪者の子供、っていう設定でいいだろう)
ゼノフォードの外見は、十四、五歳ほど。児童養護施設に保護される年齢としてはぎりぎりだが、華奢でやや小柄な体躯もあり、いけると踏んでいた。
(一応、セーブしておくか)
ゼノフォードはいつものように、親指と人差し指を立てて四角形を形作り、インターフェースを立ち上げた。そのままセーブを選択して、保存する。
(時間を戻すことになるかはわからないけど、何せ子供が逃げ出すほど恐ろしい地獄が待ち受けているかもしれないんだ。
念には念を入れるに越したことはない)
そのとき、門の向こうから足音が響いた。
現れたのは、六十代ほどの男だった。背は高く、肩幅は広い。顔には柔和な笑みが浮かび、いかにも『養護施設の職員』といった印象だ。
(施設の職員だな。――始めるか)
ゼノフォードは咄嗟に俯いて、弱々しく身を震わせた。
「おや」
ゼノフォードに気付いたのだろう、男は門の方に近寄りながら口を開いた。
「こんなところで、どうしたんだ?」
(しめた)
ゼノフォードは内心ほくそ笑みながら、わざと声を掠れさせ、目を伏せた。
「父が……死んで。
食べ物も、寝る場所も無くなって……」
ゼノフォードは長い睫毛越しに、上目遣いで男の顔を見た。――男は、心配しているような悲しげな表情を浮かべていた。
「そんなとき、養護施設があると聞いて。藁にも縋る思いで、ここに来たんです」
「それは辛かったな」
男はすぐに鍵を回し、門を開けた。
「寒かったろう、さあ、入りなさい。
ここは、君のような助けを必要としている子供たちのための施設なんだ」
ゼノフォードはぱっと顔を輝かせてみせた。
「あ……ありがとうございます!」
礼を言って門をくぐる。
その背後で、鉄扉が重々しく閉じられる音が響いた。
「私はオットー・クラウゼ。ここの所長をしている」
男は穏やかに名乗った。
「ぜひ父親だと思って――と、今の君に言うのは酷か。とにかく、何かあれば頼って欲しい。力になろう」
ゼノフォードは、あくまで弱々しく頷いた。
「……ありがとうございます」
クラウゼ所長は微笑みながら頷き、歩き出した。ゼノフォードはその背を追う。
(いまのところはシロだな)
玄関へと足を踏み入れれば、扉の向こうに広がっていたのは、外観に違わぬ整った空間だった。
曲線を多用した、ロココ調の柔らかく優美な造り。床は白磁のタイル張りで、壁には淡い金装飾が施されている。
玄関脇の居間もまた、整然としていた。
磨かれた木製家具、窓辺の花、暖炉の火――どれも温かく、客人を迎え入れる空間として申し分ない。
(――綺麗だな)
「最初の印象は大事だからね」
ゼノフォードの感心するような表情を見て、所長は穏やかに微笑んだ。
廊下もまた、清潔で静かだった。木目の床は美しく、照明は柔らかい。
だが。
「ここが――君たちが生活する広間だ」
広間の扉が開いた瞬間。
「!」
――空気が、変わった。
先ほどまでの優美な空間とは打って変わり、そこには沈黙と粉塵が支配する空間が広がっていた。
広間というより、作業場と呼ぶ方が適切だろう。
部屋の中央には、木肌が擦り切れているほどに古びた長机と椅子が並べられている。
そしてその席に、たくさんの子供たち――ざっと三、四十人前後はいるだろう――が、黙って座っていた。
誰もが俯いたまま、無言で手を動かしている。小さなネジや留め具を布で磨き、仕分けをし、紙袋に詰めていく。
子供たちの指先は荒れ、空気中に舞う金属粉で咳き込む者もいた。
ゼノフォードが出会った子供が『仕事をさせられている』と言っていたが、これのことか。
(――どの子供も、保護されている者とは思えない)
頬はこけ、腕は骨ばり、肌には擦り傷や痣が散見される。衣服は薄汚れ、袖や裾はほつれ、髪は乱れ、爪は黒ずんでいた。
「逃げようだなんて考えるな」
上から声が降ってきた。
――クラウゼ所長の顔に、もう笑みなど微塵も残っていなかった。
「余計な揉め事も起こすな。規律に従え。
――いいな」
所長の言葉は、命令というより警告だった。
ゼノフォードは、静かに目を細めた。
(……“クロ”だ)
この養護施設は、子供たちに過剰な労働を強いており、それを国家ぐるみで黙認していて、あろうことが『模範的』として表彰する――恐ろしい施設だった。
「おい」
所長が口を開いた。
もはや、先ほどまでの優しい声音は欠片もない。
「おまえ、名前は」
「――ゼノです」
「教育係をつけてやる。
――カルメン、来い」
一人の少女が立ち上がった。この場にいる子供たちの中では年長の部類だろう。ゼノフォードと同じくらいか。
猫のように目つきは鋭いが、腕や脚は細く、全体的に痩せている。赤い髪もひどく傷み、乱れていた。
「こいつを指導しろ。必要最低限だけでいい」
所長の命令に、カルメンは無言で頷いた。
ゼノフォードは、彼女の顔を見た瞬間。
――思わず、息を呑んだ。
見たことがある。
現世ではない、前世で。
『カルメン』という名前からしても、間違いない。
紛れもない、ゼノフォード――その前世である“龍門輝石”がキャラクターデザインを手がけた、このゲーム『ライオライト帝国記』における――
(――メインヒロイン)




