40話 墓に鞭打つ2
マリウス・フォン・ライオライト。
ライオライト帝国の第一皇子であり、民心も厚く、次期皇太子――そして次期皇帝と目される人物だ。
そんな人間が、護衛もつけずにふらりと一人で公の場に現れるなど、本来あってはならない。
だが仰々しく護衛を引き連れ、雁首揃えて墓参りをするより、一人だけの方がよほど目立たず安全なのかもしれない。
それに、彼は片手に剣を携えているように見える。防衛面は問題ないのだろう。
それよりも。
(――どうしてここに来たんだ)
ゼノフォードの墓参りなのだろうか?
第一皇子マリウスにとって、ゼノフォードは政敵であり、暗殺を企てた加害者でもあるというのに。
ふと、消し飛ばされた過去――尋問の場で、マリウスが言った言葉が脳裏をよぎった。
『もし、おまえが本当に暗殺計画に関わっているのなら――罪を、認めてほしい』
ゼノフォードのことを露ほども信じていないくせに、上部だけは優しくそう言ってきた。
今回についても、十中八九『ゼノフォードが可哀想だから、自分だけでも墓参りに行こう』みたいな理由で訪れたのだろう。
(――所詮は稚拙で安っぽい同情心か)
「行こう」
マリウスの思惑がどうあれ、ゼノフォードは死んだことになっている。顔を合わせるようなことになってはまずい。
(僕が生きていることがバレてしまえば、また逃亡生活が始まってしまう)
ゼノフォードは持参していた花をぽんと投げるように置き、踵を返した。だが。
「――待ってくれ」
よりによって、マリウスに呼び止められてしまった。
(――最悪だ)
このまま立ち去るのも不自然な形になってしまい、仕方なくゼノフォードは帽子を深く被り直してから、ゆっくりと振り返った。
「――何か」
「少し話をしたい。純粋に『彼』の墓参りをする人など、初めて見たからな」
改めてその姿を見て、ゼノフォードは再び目を見開いた。
一目見たとき剣かと思ったそれは、モップだったのだ。もう片手には、水の入った桶もある。
マリウスは、黙っているゼノフォードを一瞥してから口を開いた。
「――『彼』に花を手向けるなんて、物好きだな」
マリウスは桶の水を墓石にかけた。広がった水にモップを浸し水を吸わせると、泥のついた墓石を擦る。
皇子という肩書き故に掃除は不慣れだろうに、マリウスは器用に泥を擦り取っていた。
「――そういう貴方も、『彼』の墓を掃除しようなんて物好きですね」
マリウスは、自分の身分が第一皇子である旨を明かしていない。故に、ゼノフォードとしては別に敬語で話す必要はないかもしれない。
だが変に印象に残られても困るので、普段マリウスが聞き慣れているであろう丁寧な口調を選んだのだ。
「どうしてわざわざ、掃除なんて?」
「死屍に鞭打つ必要はないと思ってな」
乾いてこびりついた泥が徐々に水に溶け、黒く滲む。マリウスはそれを墓石の外へ掃き出し、残った水で仕上げた。
瑞々しさを取り戻した墓石が、日の光を柔らかく反射した。
――手際がいい。ゼノフォードは目を見張った。
「今日が初めてではないようですね」
「残念ながら、毎日のように汚されているのだ」
「――毎日、来ているんですか」
「ああ」
マリウスは墓に目を落とした。
「泥まみれは日常茶飯事。『踏み絵』のように踏み荒らされていたり、落書きをされていたり。ペンキまみれにされていたこともあった。連中は本当に酷い」
「わざわざこんなところに足を運んでまで、墓荒らしをするなんて。そんなに『彼』のことが嫌いなら、放っておけばいいのに」
「おまえは『公正世界仮説』というのを知っているか?」
マリウスから返ってきた言葉に、ゼノフォードは目を瞬いた。
藪から棒だというのもあるが、何よりその理論は現実世界において二十世紀以降に提唱されたものだからだ。ここの『十八世紀のドイツ風』という世界観の時代背景と合わない。
だが、この世界は仮にもファンタジーであり、深く考えるのは野暮というものだということを思い出して、ゼノフォードは肩を竦めた。
「因果応報。善いことをすれば報われて、悪いことをすれば罰を受ける――世界はそういう『公正さ』を持っている、という考え方ですね」
「よく知っているな」
マリウスは言葉を継いだ。
「『彼』が亡くなったことで、人々は漠然とこう考えるようになったのだ。『彼が死んだのは、生前に悪事を働いたからだ。罰が当たったのだ』と。
――つまり『彼』は、『死という罰を下されるほどの悪行を働いた人間』として、世間に認識されることになったのだ」
だから、とマリウスは言った。
「墓を荒らす者たちは、そんな悪人である『彼』に、私刑を下しているつもりなのだろう。
――彼らは、正義中毒者なのだよ」
「正義の制裁を下すと、脳内で快楽物質が出るらしいですね」
「そうだ。
もともと人間は、攻撃によって快楽物質が出るよう進化してきた。そこに『正義』という大義名分を得たのだ。
そうなれば、人はどこまでも――凶暴になれる」
マリウスはしゃがみ込み、濡れた墓石に手を当てた。
「『彼』は、そんな正義の皮を被った悪意に晒されるべきではない。
これは、ただの私の自己満足だ。薄っぺらな善意だ。それでも――出来る限りのことはしたいのだよ」
(――薄っぺらな善意)
ゼノフォードは、最初こそマリウスを安っぽい同情心で動く人間だと思っていた。
だがこの男は、損得勘定を抜きにして、毎日こうして墓を訪れ、綺麗に磨き上げるという善行を黙々と積み重ねているのだ。誰にでもできるものではない。この行動の重みについては――見方を変えざるを得なかった。
「――いいんじゃないですか、薄っぺらな善意でも。
きっと『彼』は、感謝しているはずです」
事実、ゼノフォードは『ニコ』の墓を綺麗にしてくれる人間がいることに、胸を撫で下ろしていた。
ゼノフォードの言葉に、マリウスは僅かに笑みを湛えた。
「――そうか」
マリウスはすっと立ち上がり、空になった桶とモップを拾い上げた。退散するつもりらしい。
「またいつか会えればいいな。――おまえとは話が合う」
「――そうですね」
(いや、できれば金輪際会いたくない。
僕は目立たず静かに生きたいんだよ)
内心で呟きつつも、ゼノフォードは見えているであろう口元に作り笑いを浮かべた。
とはいえ、こう思うのも事実だった。
(――出会い方さえ違っていれば、関係性は変わっていたかもしれないな)
――と。
ゼノフォードは、立ち去ろうとするマリウスの背中を見つめた。
そのまま見送る――つもりだったのだが。
「おいおいおい」
ずっと黙って成り行きを見守っていたダンテが、低くゼノフォードに呼びかけた。
「またなんか来るぜェ」
ゼノフォードが視線を向けると、男たちの一団がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
数人組。うち一人が手に持っているのはバケツ――だが、中に入っているのは水ではなく、茶色く濁った泥だった。
マリウスのように掃除をしに来た、というわけではないらしい。
「おい、おまえかァ? 毎日毎日、罪人の墓を綺麗にしてくれちゃってんのはよォ?」
男たちが絡みに行ったのは――勿論、第一皇子マリウスだった。
「これじゃあ、俺たち国民の抗議が、帝国に伝わんねェじゃねェか!
余計なことしてくれやがって!!」
バケツを手に持った男が、それを抱え直す。
中身をぶち撒けるつもりだ。
これに反応したのはダンテだった。
「おい、ヤバいんじゃねェか!?」
咄嗟にホルスターからマグナムを取り出す――が、さすがに撃ち殺すわけにもいかず、歯噛みする。
そうしている間に、男はバケツを振りかぶった。
「おいどうするよォ、ゼノ!」
ダンテはゼノフォードの方を見た。
「――いねェ!?」
隣にいたはずのゼノフォードの姿が、忽然と消えていた。
次の瞬間。
ダプッ! と、嫌に重々しい衝撃音が響いた。
男たちは、頭から泥を被っていた。
そして――男の持つバケツには、ゼノフォードの靴の硬いヒールがヒットしていた。
泥がぶち撒けられる寸前、ゼノフォードがバケツを押し戻すように蹴り、軌道を変えたのだ。
「――天に唾を吐けば、自分に返ってくる。そうママに教わらなかったのかい」




