38話 あの荒天の後
トルカーナの朝は、窓を開けたときに入ってくる運河の水気を含んだ風と、鼻腔を擽るコーヒーの香りから始まる。
ゼノフォードはカプチーノに口をつけた。
甘い。
今日もまた、砂糖をたっぷりと入れてくれているようだ。砂糖があれば、コーヒーはこんなにも美味になれるのだ――。
「――いや、コーヒーの風味すらしないな?」
ゼノフォードはそれを淹れた人物に目を向けた。
「これはコーヒーかい?」
テーブルの向かいで「美味い美味い」とブリオッシュを頬張っていたロレンツォは、手を止めてゼノフォードの方を見た。
「おう。ベビチーノだ」
カプチーノに似た響きなので、その亜種か、少なくともカフェで提供される類の飲み物だろう。
前世で数少ない友人に引っ張られて、滅多に入らないコーヒーショップに足を踏み入れた際、『ショコラチーノ』という飲料を頼んだことがある。あれはチョコレートを使った飲み物だった。
ならばこの『ベビチーノ』というのは、『ベビー』の……。
「……ベビー?」
ゼノフォードは顔を上げた。――ロレンツォがふるふると肩を震わせている。それを見て、察しがついた。
「……幼児向けの飲み物ってことかい?」
その言葉で、ついにロレンツォが「ブハッ」と吹き出した。
「オメェにはピッタリだろ? ハハ」
「……悲しいね、僕はもう大人なんだけど」
嘘ではない。今現在の十代半ばの『ゼノフォード』の身体はともかく、前世“龍門輝石”はもう二十代後半であった。
ロレンツォはもう一度笑うと、ゼノフォードの白金の頭をわしゃわしゃと掻き回した。
「くだらねェこと言ってないで、大人しくベビチーノでも飲んでろ」
ゼノフォードは困惑して形のいい眉をハの字にしたが、もう一口『ベビチーノ』を飲んだ。――悔しいことに、美味しかった。
と、ロレンツォが椅子を押しのけるようにして立ち上がった。彼はそのまま戸口へ向かう。
ゼノフォードは視界の端にその背を捉え、カップを置きながら声をかけた。
「事務所にでも行くのかい?」
言うまでもなく、トルカーナにあるサルヴァトーリ班の事務所のことである。
「いんや」
だがロレンツォは首を振った。
「ジーナんとこだ」
その名を聞いて、ゼノフォードの脳裏に少女の姿が浮かんだ。
ゼノフォードがトルカーナに流れ着いた翌日。運河で、一体の遺体が発見された。
それはニコという少年のものであり、ピエトラが手を加えたことで、当時逃亡中だった第二皇子ゼノフォードの遺体として処理された。
ニコの死因は落馬によるものだった。大怪我を負った妹ジーナを救おうとしていた最中の事故である。
そしてジーナは、現在はピエトラ――ロレンツォ個人かもしれないが――の計らいによって、医師の診察を受けている。
以前ゼノフォードがジーナに会ったとき、彼女の脚と上半身には厚く包帯が巻かれ、ベッドから動けない状態だった。
「そうだ、オメェも来るといい」
ドアノブに手をかけていたロレンツォが、ふと思い付いたように振り返った。
「気になんだろ? ジーナの奴が、今どんな様子なのか。
それに昨日よォ。様子を見に行ったら、ジーナの奴、『ゼノは元気?』って聞いてきてよォ。
――さしずめ兄貴を失って、寂しいんだろうよ」
ゼノフォードを兄と重ねているのかもしれない。
なにせニコは、ゼノフォードの遺体として偽装できるほどの背格好をしていたのだから。
「よかったら、顔見せてやってくれ」
「……」
なんとも形容し難い複雑な気持ちを抱きながら、ゼノフォードは立ち上がった。
「わかった、行こう」
□□□
ロレンツォと連れ立って訪れたのは、ジーナの家だった。
前に足を踏み入れたときは、天井の一部が抜け落ち、崩壊しているともいえるほどの有様だった。
だが今は、天井が新たに補修され、簡素ながらも人の暮らしの気配が戻っている。
ピエトラが手を回したのだろうか――あるいは、ロレンツォ個人の采配かもしれない。
廊下を進み、左手の扉の奥がジーナの部屋である。
ゼノフォードがそっと覗き込むと、ちょうど医者に励まされながら、ジーナが松葉杖を頼りに立ち上がろうとしているところだった。
「やあ、ジーナ君」
声をかけると、ジーナはぱっと顔を上げ、「ゼノ!」と明るく叫んだ。そして、まだ不慣れな松葉杖をぎこちなく操りながら、懸命にこちらへと歩み寄ってくる。
その足取りは覚束ないが、かつてベッドに伏して身動きも取れなかった姿を思えば、驚くほどの快復ぶりだった。
「怪我が良くなってきているみたいで、安心したよ」
ジーナはにこりと笑って、誇らしげに言った。
「お医者さんがね、あと二、三ヶ月くらいしたら治るって!」
ゼノフォードが確認するように傍らの医師へ視線を向けると、彼も穏やかな口調で補足した。
「快方に向かっています。
順調ですよ」
「そうかい。――よかった。
本当によかったよ」
亡きニコがこの光景を目にしていたなら、きっと心から喜んだことだろう。
ゼノフォードがそんなことを思っていると。
「ゼノ」
不意に、ジーナの声が思考を遮った。
「お願いがあるの」
ゼノフォードは静かに少し屈み、ジーナと目線を合わせる。
と、ジーナは、真っ直ぐにゼノフォードを見詰めた。
「ルーチェを、引き継いで欲しいんだ」
「ルーチェ?」
ゼノフォードが問い返すと、ジーナは部屋の窓の外――玄関アプローチを指さした。
そこには、芦毛の若い馬がいた。ニコが生前に飼育していた相馬だ。運送業の仕事にも使われていたらしい。
「わたし、お金を稼げないから、お金があんまりないし。
それに、怪我してるから、お世話できないの。
今はおじさんが面倒を見てくれてるけど……」
『おじさん』とは、ロレンツォのことだろう。
いつの間に外に出たのか、今まさに彼が馬にバケツいっぱいのニンジンを差し出していた。しかし馬はそれに見向きもせず、ふいと顔を背けてしまう。
窓越しにも、ロレンツォの「おいおい!」という困惑の声が聞こえてきた。
「……大変そうだなって」
「……確かにね」
ジーナがぽつりと漏らすと、ゼノフォードも苦笑を交えて頷いた。
だから、とジーナは言葉を続けた。
「ルーチェをゼノにお願いしたいの」
ゼノフォードは窓の外の馬を見つめながら、静かに息を吐いた。
外に出ると、秋の風が頬を撫でた。
ゼノフォードは、じっとこちらを見ているその白馬に向き合った。
「ルーチェ。……ルチ。そうだね、ルチと呼ばせていただこう」
ゼノフォードは、ロレンツォの手からニンジン入りのバケツを取り、うち一本選び取る。そして、馬の鼻先へと差し出した。
「お食べ」
馬は一瞬こちらを見つめたのち、躊躇いなくニンジンにかぶりついた。
バリバリと音を立てて咀嚼する様子に、ゼノフォードはほっと胸を撫で下ろす。
「なんでェ!」
ロレンツォが憤慨したように叫んだ。
「俺がやったやつは食わなかったくせに、ゼノのは食うのかよ!」
「ロレンツォさんはガサツ過ぎるのさ。
僕みたいに華麗でスマートに……」
そう言いながら、ひらりと手を上げたゼノフォードの指先が、ねちょりと糸を引いた。
その先には、ルーチェの口元。――馬のよだれだった。
「……」
「ハハ! なんだってェ?
華麗でスマートぉ?」
ロレンツォの笑声が響く。
ゼノフォードは眉を吊り上げて声を荒げた。
「……やかましいよ。
水も滴る良い男、って――」
その言葉が終わらぬうちに、ルーチェが突然バケツに首を突っ込んだ。
「あっ!」
その拍子に、ゼノフォードの手元でバケツが傾き、ニンジンが勢いよく地面にぶち撒けられた。
「なんてことするんだ、酷いじゃないか!」
ゼノフォードが抗議の声を上げると、馬は舌をべろんと出して、首をかしげた。
「なんだい。挑発かい?
そっちがその気なら――」
直後。
馬が、ぬっと顔を寄せて。
ゼノフォードの顔を、ぺろりと舐めた。
あっという間に、ゼノフォードの顔は馬のよだれまみれになった。
ロレンツォの笑い声が一層大きくなった。
ゼノフォードは思い切り眉を寄せながら、心の中で思う。
(『ゼノフォード』として眠る、ニコ君。
君の馬は、僕が責任を持って育てよう。
もっとも、仲良くできるかどうかは、わからないけどね――)
□□□
帝都リテンハイム。
件の、『ゼノフォード』として眠るニコの墓にて。
「罪を償う前に、あの世に逃げやがって!」
「てめェのような馬鹿が、第一皇子の暗殺なんか企てるなんてよォ!」
「地獄に堕ちろ外道が!」
男たちが数人、怒声を浴びせながら墓石の上を踏み荒らしていた。
彼らは靴で踏み墓石に泥をつけ、無遠慮に足跡を残す。
やがて、彼らが立ち去った後。
ひとりの男が、墓の前に現れた。
男は手にしたモップをゆっくりと動かし、墓石に残された足跡を丁寧に拭い始めた。
「――まったく、世話の焼ける弟だ」




