35話 撃ちたまえ
ゼノフォードは咄嗟に口元を覆った。
「しまった――ッ!」
だが、すでに一拍遅い。
肺が重く締め付けられる。
視界がぐらりと揺らぐ。
ケースの内部には、小型ボンベと圧力調整器、ホースが整然と並んでいるのが見えた。
つまり、今放たれたものは。
――笑気ガスだ。
「なッ――!?」
ロレンツォが驚愕の声を上げる。
足元がふらつき、握った武器がわずかに下がった。
何が起きたのか、理解が追いつかない。とにかく行動を起こそうとした――だが。
「う、動けねェ――ッ!?」
身体が言うことを聞かない。
風通しの悪い屋根の下。
本来は吸入用に設計されたガスが、噴射によって空間に充満し、逃げ場のない毒となって留まっていた。
巻き込まれた仲間のはずのタツィオもまた、その場に突っ伏している。この場にいる限り、ガスの餌食となるしかないのだ。
(ロードだ――時間を巻き戻すんだ!)
ゼノフォードはいつものように、指で四角形を作ろうとした。
だが、指先の感覚がない。
「くそ……ッ!」
どれが親指で、どれが人差し指なのかもわからない。
そもそも、自分に指があるのかすら感じられない。
――インターフェースが、開けない。
頭の中に、泡が充満しているようだ。
顔が痺れて、ふわふわする。
「生憎――」
いつの間にかガスマスクを装着していたマッシモが、倒れたロレンツォを冷ややかに見下ろすと――その頭を踏みつけた。
「――貴方がたを殺害できるほどの濃度には至りません。本来は、標的に直接吸入させるものですから。
ですが、もう貴方がたは動けない。なにもガスで殺す必要はありません」
マッシモはしゃがみ込み、手を伸ばす。
その先は――ロレンツォの首。
「首の骨――頸椎をパッキリと――!」
「やめろ!」
ドン、と。
ゼノフォードは鉛のような上半身を起こし、マッシモの脚に体当たりした。
「ッ!?」
マッシモはバランスを崩し、尻餅をついた。
マッシモは自身に覆い被さるようにしているゼノフォードを引き剥がし、地面に押さえつけた。
「頭の良い子かと思いましたが、そうでもないようですね」
「……ッ!」
息が詰まる。
首に手が掛けられる。
感覚はない、何も感じない。
――動けない。
「先におまえを殺してやる――」
しかし。
ゼノフォードは、自分を押さえつけるマッシモを目だけで見上げて。
――にっ、と笑った。
「何故だ――何故笑っているッ!?」
秀麗な顔に似合わぬ、場違いな悪戯めいた笑み。
マッシモは困惑し、思わず手に掛けていた力を緩めた。
ゼノフォードは開いた気道から、笑気ガスを含んだ空気を大きく吸い込み、「さあね」と笑った。
「ガスが効いてきたんじゃないかい」
だが、その瞳には知性の光が宿ったままだった。
ゼノフォードは、マッシモから視線を外した。
そして、視線を。
――ガスの範囲外で立ち竦む、『赤シャツの男』に向けた。
「――君!」
返事はなかった。代わりに、戸惑いの声が漏れた。
「……俺か?」
ゼノフォードは、紫色の瞳をふっと細めた。
「君は銃を持っているはずだ!
ロレンツォさんから渡されたマグナムを!」
病院での邂逅の際、ロレンツォから彼に手渡された銃。
彼がダンテだと思われていた当時、記憶を取り戻す呼び水になればと渡された物だった。
「撃ちたまえ!」
「……そうは言ってもよォ」
男はホルスターから銃を取り出す。
だが、構え方がわからない。
握ったはいいものの、腕が震え、狙いを定めるにはあまりに遠すぎた。
「そこの二人も言ってただろ。本物のダンテは、死んだって。
俺は……ダンテじゃねェ。
だから……銃の腕前なんてからっきしだし、身体が覚えてるなんてこともねェ」
「案外、そうとも限らないかもしれないよ」
引っ掛かっていたことがある。
「おかしいと思わないかい?
二人は、ダンテを殺害した。
理由は単純、彼が運ぶ大金が欲しかったのさ。
だというのに、二人は何故かお金を奪えなかった。それは何故だと思う?」
取引先は、無事に金を受け取っている。取引は成功しているのだ。
この時点で、二人の思惑は外れたことになる。
「二人は『ダンテ』として、白セーターの男性を殺害した。
だけどね。
――実のところ彼は、『ダンテ』じゃなかったんだ。
偶然トルカーナに現れた、大金なんて持っていない、『ダンテによく似た他人』だったんだよ。
そして彼らは、今もなおそれに気付いていない」
ゼノフォードの言葉に、マッシモが「なに」と声を漏らす。
後始末に奔走するあまり、病院に『ダンテに似た男』が現れてもなお、誤認殺人とは思いもしなかったのだろう。
「そう、つまり。
本物のダンテは。
――君だ!」




