34話 笑顔の理由
時間が逆巻く。
すべてが反転し、やがて一点へと収束した。
(ここは――トルカーナの東区画か)
ゼノフォードたちが先ほどまでいたメタロの事務所ではない。橙色の夕日を映し込む運河、その前に設けられたベンチに戻っていた。
無事に、前回セーブした時点の時間へと帰還したのだ。
ちょうど今は、白セーターの男の遺体が警官によって回収された直後である。
「――まずは」
ゼノフォードが口を開く。
「ここにいる『赤シャツの彼』が本物かどうか、他の人に確認をとろう」
これで前回と同じ流れ――すなわち、取引先を訪ねる方向へと持ち込めるはずだ。
「他の人?」
案の定、ロレンツォが前回と同じ台詞を口にした。
ゼノフォードは内心でしめたと笑い、「ほら」と言って、前回と一字一句違わぬ言葉を返した。
「いるじゃないか。ダンテが行方不明になった当日に、彼と会った人物が」
「――取引先か」
ゼノフォードが頷くと、ロレンツォは「よし」と手を叩いて、同じ言葉を言った。
「取引先んとこに行くか」
「今からっすか?」
タツィオが口を挟む。やはり、今回も同じ台詞だ。
「もう日が暮れちまいますし、このままだと夕飯にありつけませんぜ。俺、ちィと何か買ってきやす」
そう言うと、返事も聞かずにさっさと姿を消した。
(――ここからだ)
ゼノフォードは、前回とは異なる行動を始めた。
「彼がどんな料理を買うのか、興味あるね。
僕は彼が、切り売りピザを買ってくるのに賭けよう。
僕が勝ったら、明日の家の掃除当番はロレンツォさんだ」
ゼノフォードの発言に、ロレンツォは苦笑した。
「ったく、くだらねェことで賭けなんかしやがって。
わーった、俺はカルツォーネに一票だ。キッチンをピッカピカにしてもらうぜェ?」
ゼノフォードはにっ、と笑った。
「よし、答え合わせだ。彼についていこう」
「おいおい。戻ってきてから見りゃいいだろォ?」
「まあ、それでもいいかもね。
まさか僕がタツィオ君を追いかけていって、『切り売りピザを買ってきてほしい』って頼んだりするわけないもんね」
「おいおいおいおい」
ロレンツォはハァー、と大きく溜息を吐いて立ち上がった。
「んな堂々と『不正します』なんて言われちゃあ、黙ってらんねェなァ」
□□□
「ん?」
タツィオのあとを追って一、二分も経たぬうちに、ロレンツォが声を上げた。
「こっちに飲食店はねェと思うんだけどよォ」
それもそのはず。ここは店が立ち並ぶ賑やかな通りではない。
タツィオが足を踏み入れたのは、廃墟同然の建物が並ぶ通りの、小屋とも倉庫ともつかぬ崩れかけた軒下だった。
「……誰かいるな」
人影がある。工具でも入っていそうな、大型のツールケースを携えた細身のスーツ姿の男。
ゼノフォードはこの男に見覚えがあった。
回帰前、メタロの事務所で対面した男――マッシモだ。
ゼノフォードは荒れた柱の陰に身を潜め、『赤シャツの男』も引き寄せて隠した。不穏な気配を察したロレンツォも、後に続いて身を隠す。
「――マッシモ」
タツィオが声を掛けると、マッシモは振り向いた。
「やべェことになった。親父があの男を連れて、オメェんとこの事務所に行くって言い出してる」
マッシモは状況を察し、静かに頷いた。
「もし、今生きている記憶喪失の『ダンテに似た方』が、ダンテ本人でないと露見すれば――『彼を本物に仕立て上げる』計画は破綻します」
「そうなりゃ、さっき見つかっちまった遺体がダンテだってバレんのも、時間の問題だ。
俺たちがアイツを殺したってことがバレりゃ、ピエトラの奴から報復される」
マッシモは眉を寄せ、低く呟いた。
「……口封じをします」
「頼む。あと、万一に備えて逃走手段も用意してくれ――」
「おい」
突如として響いた、第三者の声。――ロレンツォだ。
タツィオとマッシモはびくりと肩を震わせた。
直後。
――バシュッ!
ロレンツォの手に握られた銃の銃口から、丸められた網が弾丸のように飛び出した。
それは空中で大きく広がり、二人をまとめて包み込んだ。
「ぐっ……!?」
「な、なんだこれ――ッ!」
極太の縄で編まれた網は、二人の四肢を床へと押しつけた。
抵抗するたびに縄はさらに食い込み、木製の床にはひびが走る。
「――つまり、なんだ?」
ロレンツォは地に伏した二人を見据え、ゆっくりと歩み寄る。
「テメェらは――ダンテを殺したってのか!?」
さらに引き金を引くと、網の締め付けが増し、二人の身体が床へと沈み込んだ。
その様子を見ながら、ゼノフォードは胸を撫で下ろした。
「共犯者はあの男だったか。
ともあれ、裏も取れたし、確保もできた」
タツィオに逃げられ、共犯者の正体も掴めなかった回帰前とは違い、今回は順調だ。
「ロレンツォさん」
ゼノフォードはロレンツォの隣に歩み寄り、静かに告げた。
「そっちのスーツ君には近付かないほうがいい。
彼は――『ガス』を使って、人を殺害するからね」
「ガス?」
ロレンツォの疑問系の口調に、ゼノフォードは頷いた。
「昼間の、白セーターを着た遺体。彼の表情を覚えているかい」
穏やかで、薄く口角が上がった奇妙な笑み。
それが、死者の顔に残されていた。
「――おう。笑ってやがったな」
「多幸感による笑顔、口角を上げる筋肉の収縮、そして死後硬直で固定された表情。
――『笑気ガス』を使われた痕跡さ」
笑気ガス。正式には亜酸化窒素。
十八世紀に発見され、十九世紀には『笑わせる気体』として知られるようになった。
吸入すれば陶酔と多幸感に包まれ、やがて意識が途切れる。高濃度なら命をも奪い、その瞬間の表情を死後まで貼り付けたままにする――そうした性質をもつ気体だ。
実際のところ、ゼノフォードが確信を得たのは、消し飛ばされた過去――取引先であるメタロの構成員の殺害現場でのことだ。
凶器の痕跡は見当たらない。そして、部屋に充満する、鼻を突く甘い匂い。遺体の口元に残る、何かを無理矢理くわえさせられたかのような圧迫痕。これは、薬品を飲ませたり、吸わせたりした痕跡に他ならない。
(すべてが、単なる暴力ではなく、薬品や気体を用いた殺害の手口を示していたんだ)
あのメタロの構成員は、笑気ガスをホースか何かで吸入させられたのだろう。
そして、あの白セーターの男も――。
「ぐッ……くそッ!!」
タツィオが呻いた。マッシモは無言のまま奥歯を噛み締め、顔を歪めている。
ロレンツォは表情を崩さぬまま、ふたりを鋭く睨み据えた。
「なあ、もう一度聞くぜ。オメェらは……ダンテを殺したのか!?
あの白セーターの遺体は、ダンテだっていうのか!?」
「……あの……ッ」
マッシモは重圧に押し潰されながら、モゴモゴと口を開いた。
「解除してはくれませんか……ッ、これでは、話すらできないではないですかッ」
ロレンツォはしばし黙し、眉をひそめたが、やがて小さく頷いた。
「逃げんなよ、クソ野郎ども」
手元の銃型装置のレバーを軽く引く。
網がふっと緩み、隙間からタツィオが荒い息を吐きながら抜け出し、よろめきつつ立ち上がった。
「……はぁ、はぁ……死ぬかと思ったぜ……」
マッシモもまた、続いてゆっくりと立ち上がった。
「――感謝しますよ」
その瞬間だった。
――マッシモが、手元のツールケースを開いた。
「油断してくれてね――ッ!!!」
鋭い金属音。
同時にケースの側面から白い霧が「シュウッ!」と勢いよく噴き出す。
直後、甘ったるい匂いが鼻腔を刺した。




