29話 証言なき証人
貧民街の朝は早い。
そして、ゼノフォードの朝は遅い。
ゲーム業界というのは、概して始業時間が比較的遅い。前世でその世界に長らく身を置いていた身としては、いまだ夜更かし癖が抜けないのだ。
ベッドの上で、ゼノフォードは整った顔が台無しになるほどの勢いで、大きく口を開けて欠伸をした。
「豪快な欠伸だなァ」
欠伸の途中で、はたと動きを止めた。声のした方へ視線を向ければ、コーヒーを飲みながら心底楽しそうに彼の寝起きを観察するロレンツォの姿があった。
ゼノフォードは乱暴に目を擦る。
「いい趣味してるじゃないか。コーヒー片手に、人の寝起きの顔を鑑賞するなんてさ。芸術品にでもなったような気分だね。
まったく、いくら僕が美しいからって――」
「だいぶブサイクだったぞ?」
「――」
ゼノフォードは頭を掻いた。
最初はアルノー、次はロレンツォ。欠伸中の顔を見られるのはこれで二度目だ。
「――美しく欠伸をする練習でもした方がいいのかもしれないな」
と、不意にコンコンと家の扉がノックされた。来客らしい。ロレンツォが部屋を出ていった。
ゼノフォードはもぞもぞと着替えながら、玄関先で交わされる会話に耳を傾けていた。
別に盗み聞きをするつもりはなかったが、はっきりと聞こえてきてしまっていたのだから仕方がない。不可抗力というものだ。
「――ロレンツォの親父! ダンテの奴、見つかりました」
「なんだって? そいつは朗報だな。アイツ、どこにいたんだ?」
「病院に。俺ら構成員で、奴を探し回ってたでしょう?
んで、下っ端の一人が病院を覗いたら、いた、って、事務所に駆け込んで来たんですわ。ただ――」
ふと、男の声が真剣味を帯びて低くなった。
「どうもダンテの奴、まだ入院してるらしいんすよ。
親父、奴を迎えに行きやしょう。
俺はここで待ってるんで、準備してくだせェ」
会話が終わりバタンと扉が閉まる頃には、ゼノフォードは着替えを終えていた。
「そのダンテって人は、失踪でもしていたのかい?」
髪を後ろで結びながら――自分で結ぶことには不慣れなため苦戦しつつ――ゼノフォードが声を掛ける。ロレンツォは「ああ」と頷いて振り返った。
「ピエトラの構成員の一人でな、最近俺の班に来た奴なんだけどよ。数日前から、行方がわかんなくなってたんだ」
「物騒だね」
「そりゃオメェ、マフィアってのが安全でホワイトな職業なわけねェだろ?
いなくなったと思ったら、次の日にゃ死体で帰ってくる、なんてのもザラだ。今回は運が良かった」
悪者らしからぬ雰囲気のピエトラではあるが、やはりマフィアであることに違いはないのだろう。
ロレンツォは、バサリ、といつもの黒のロングコートを羽織った。
「俺は、ダンテの奴を迎えに行かなきゃなんねェ。あと、何があったかの調査もしなきゃだなァ」
言いながら、いそいそとテーブルの上に置かれたバスケットに手を伸ばした。その中には、山盛りのブリオッシュ。彼は一つを手に取り、頬張った。どうやら朝食の時間は確保できそうにないらしい。
「留守番してもらいてェところだが……調査が、ちと難航しそうでな」
口の中のものを飲み込んだあと、ロレンツォはちらりとゼノフォードを一瞥して、にい、と笑った。その笑みの意味が読めず、ゼノフォードは小さく首を傾げる。
と、不意にロレンツォは玄関へと歩み寄り、ガチャリと扉を開けた。
先ほどダンテの件を伝えに来た男が、扉の向こうで待っていた。
「親父、もう用意出来たんですかい?」
ロレンツォは「いんや、まだだ」と返して再びにい、と笑ったかと思うと、ゼノフォードを指差した。
「おい、タツィオ。紹介してやるぜ。ゼノだ」
「……はあ」
強面の男――タツィオというらしい――は、気の抜けた返事をした。
「そいつが、親父が保護したっていう、元皇子のガキですかい」
タツィオは訝しげに首を傾げる。ロレンツォが急にゼノフォードを紹介し始めた理由がわからないのだろう。その点で、ゼノフォードも同様だった。
だが直後、ロレンツォが爆弾を投下した。
「コイツも同行させる」
「は?」
ゼノフォードとタツィオの声が重なった。
ロレンツォは二人の反応など意に介さず、ゼノフォードの頭をわしゃわしゃと撫で回した。――せっかく苦労して結んだ髪が乱れて、ゼノフォードは「やめたまえ!」と非難の声を上げた。
一方のタツィオは、眉根を寄せてさらに渋い顔をした。
「おいおい。いくらなんでも、ガキの出る幕じゃねェんじゃないですかい?
しかもそいつァ、優秀だっつぅ第一皇子と違って、あんまし頼りになんねェんじゃあなかったでしたっけ」
だが、ロレンツォは泰然とした様子で返す。
「ったく、本人の前で悪口言うなや。いてくれりゃ、役に立つって」
「……まあ、親父がそう言うんなら」
意外にもあっさり引き下がったタツィオとは対照的に、困惑しているのはゼノフォードの方だった。
「なんだい。芸術作品のように繊細なこの僕を、裏社会の因縁渦巻く世界にぶちこんで、馬車馬のように働かせようって? 怖いね君は。鬼だ、悪魔だ」
もう一度髪を束ねつつ、拗ねるように眉を寄せたゼノフォードを、ロレンツォは面白げに眺めている。
「何を今更。俺は鬼や悪魔よりこわーい、マフィアの幹部なんだぜェ?」
そう言って、またしてもゼノフォードの頭を撫で回した。再び髪の毛が乱れて非難の声を上げるゼノフォードをよそに、ロレンツォは顔を覗き込みながら続けた。
「ニノの件を見抜いちまうくれェだ。そんなオメェが力になってくれりゃあ、助かるんだけどよォ。
それに調査が早く片付いたら、美味い飯、作ってやれんのになァ」
「食事で釣るなんて。いくら僕が可愛いからって、ペットだと思われちゃ堪らないね」
寝起きを観察していた件といい、割と冗談抜きで、ゼノフォードのことを保護対象というよりペットのように思っているのかもしれない。
と、ロレンツォがテーブルの上のバスケットを押して寄越してきた。「さっさと食って準備しろ」ということだろう。有無を言わせる気はないらしい。
なんとなく餌を与えられたような気分になりつつ、ゼノフォードは小さく溜息を吐き、バスケットの中のブリオッシュを手に取って頬張った。
「――仕方ないね、まったく」
少なくとも自分を保護してくれた恩は忘れまい、筋は通さねばならぬと心得ていたので、これ以上文句を言うのはやめた。
□□□
貧民街トルカーナの端に、街で唯一の病院がある。決して大規模ではないが、この地域の実情を鑑みれば、むしろ恵まれていると言えるだろう。
「貧民街といえど、意外とインフラは整っているんだね」
待合室を見渡しながら、ゼノフォードは素直な感想を口にした。だが同行していたピエトラの構成員タツィオが「いや」と否定した。
「この病院だけはなァ、最後の砦だってんで、ピエトラが資金援助してるからなんとかなってんだ。……他はそんなことねェよ。なんせ、金がねェからなァ」
そう言ってタツィオは視線を窓の外に向けた。ゼノフォードもつられて外を覗く。
そこに広がっていたのは、崩れかけた建物が立ち並ぶ荒れた街並み。明日の糧を得ようと声を張る商売人。屋根とも呼べぬボロ布の下に身を寄せる浮浪者。学校に行けぬまま路地を駆け回る子供たち――。
「貴族社会のぬるま湯に浸って育ったボンボンにゃあ理解できねェだろうが、ここじゃ一分一秒生きるだけで必死なんだ。
――だから俺たち貧民街育ちは、銭金に憧れんだ」
語るタツィオに、ゼノフォードは何も言葉を返せず、そっと視線を落とした。
「――お待たせしました」
医師が現れた。この病院を取り仕切っている人物だ。
ゼノフォードにはこの男に見覚えがあった。以前トルカーナで水死体が発見された際、その被害者の妹の治療を行っていたのがこの医師である。
「あの病室の方が、ロレンツォさんのお探しだった、サルヴァトーリ班のダンテさんだったとは」
医師は院内を案内しながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
「お聞きしていたというのに、気付けず失礼しました。なにせ彼は、伺っていた失踪時の服装とは違う服を着ていたので……」
「失踪時の服装?」
ゼノフォードが訊ねると、代わってタツィオが説明した。
「当日、俺らは奴に会ってねェんだけどよォ、組のモンが東区画で奴を目撃しとったらしい。白のセーターを着てたってよ」
「しかし、通りすがりの方が病院に運んできた際には、彼は赤いシャツを着ていましてね。――別人だろうと思ってしまったのです」
医師が付け加える。
と、ロレンツォが「気にすんな」と軽く手を振りながら口を開いた。
「そう言うってことは、ダンテの奴が何も事情を話さなかったってことだろ? そりゃアンタが知らなくて当然だ」
そう言いながらも、ロレンツォの表情には釈然としないものがあった。
「にしてもアイツ、連絡は寄越さねェわ、院長にも何も話さねェわで……どうなってんだ?
まさか、話すことすらできねェほどの重傷だったのか?」
ロレンツォの疑問に答える前に、医師が一つの扉の前で立ち止まった。皆もそれに倣う。
「それが……怪我自体は、軽傷だったのですが」
医師は引き戸をがらりと開けた。
病室の中、ベッドの上で一人の男が窓の外を眺めていた。
歳の頃は三十代ほど。
向日葵のように明るい金髪、荒々しい無精髭。鋭さを秘めた青い瞳はしかし、いまはどこか焦点が合わず、空虚だった。
「よう、ダンテ」
ロレンツォが声をかけると、ダンテは視線を窓から外し、ゆっくりとそちらを一瞥した。そして、軽く頭を下げる。
「……どうも」
「なんだァ? 元気ねェなァ。……やっぱ重傷なんじゃねェか?」
ロレンツォが医師を振り返ると、ダンテは小さく首を振った。
「いえ、問題ねェっす。それより」
ダンテは、戸惑うように首を傾げた。
「――誰ですかい、アンタ」
その瞬間、ロレンツォの表情が凍りついた。
――どれほどの時が流れたのだろう。
「記憶喪失――ってことかい?」
しばしの静寂の後、それを破るようにゼノフォードが慎重に問いかけると、医師が頷いた。
「ご自分の名前すら覚えておられませんでした。
サルヴァトーリ班の方が彼を見つけてくださらなければ、今も身元不明のままだったでしょう」
ロレンツォは頭を抱えた後、医師に尋ねた。
「ダンテの奴、記憶は戻るのか?」
「……何とも」
ロレンツォは深く嘆息した。
ダンテの無事は喜ばしいが、これではダンテの身に何が起きたのか、彼の口から聞くことは不可能だろう。
「おい、ダンテ」
ロレンツォがポケットから何かを取り出し、手渡した。
ゼノフォードが身を乗り出して覗き込むと、それは拳銃だった。
「こいつァな、オメェが使ってたマグナムだ。まあ、事務所にあったスペアだけどよ。……何か、思い出せねェか?」
馴染みのある物品に触れれば、記憶を呼び起こすきっかけになるかもしれない、そう考えてのことだろう。
だが、ダンテは静かに首を振った。効果はなかったようだ。
「ロレンツォさん」
ゼノフォードが口を開いた。
「ダンテ君が失踪する前、彼に無茶な任務を任せてたんじゃないかい?」
非難がましい声音に、ロレンツォは一瞬逡巡してから答えた。
「まあ……あの日ダンテの奴には、他の街からトルカーナまで大金を運んでくる、って任務を任せてた」
「その任務に失敗して、何かが起きたんじゃないかい」
「いや、任務はちゃんと果たしてた。取引先から『金はちゃんと受け取った』って連絡が来てるしよ。
それに、ダンテの奴は俺の班に来る前から、何度もこの任務をこなしてんだ。何かが起きるとは思わねェだろ」
言いながら頭を掻いた。『俺のせいにすんじゃねぇ』という意味合いなのだろうが、その言葉とは裏腹に、ロレンツォの声は後悔の色を滲ませていた。
「取引が終わったら、事務所に顔出すはずだったんだが、来なくてな。
それで、失踪がわかったってわけだ」
つまり、取引を終えた後、事務所に向かうまでのわずかな時間に、何かが起きたのだろう。
(ダンテの身に何が起きたのか。
――まだピースが足りない)
それでも、ダンテ本人が見つかったという事実は、大きな収穫だった。
少なくとも、そう思っていた。
その日の午後。
向日葵のような金髪に無精髭の、白いセーターを着た男の遺体が、発見されるまでは。




