28話 マフィア幹部の苦悩
リテンハイム郊外。
知る者のみがその所在を知る――それが、ピエトラ本部である。
「お疲れ様っす!」
門をくぐり、敷地内へと足を踏み入れたロレンツォ・サルヴァトーリは、黒服の構成員たちが一斉に挨拶を寄せる様子を、ぐるりと見渡した。
東方にあるどこぞの国の極道者のように、整然と並んで頭を垂れて――というわけではないが、その光景は壮観だった。
「おーおー、こうやって見ると圧巻だなァ」
ピエトラは、帝国の裏社会で名を馳せる一大犯罪組織。その規模は群を抜き、勢力もまた広大である。
そしてその歴史も長いらしい―― 一説には、この国が『ライオライト』と名を改める以前より、既にその存在を確立していたとか。
脇から一人。「お荷物お持ちします」と、すっと近付き声を掛ける構成員がいた。
「いいって、気にすんな」
ロレンツォは首を振った。
「俺はよォ、部下を顎で使って踏ん反り返る自惚れ屋にはなりたかねェからよォ」
その言葉に、構成員はすごすごと引き下がる。
それを見ていた別の構成員が、頭を掻きながら呟いた。
「謙虚っすねェ、ロレンツォの親父は」
共に本部に来た、サルヴァトーリ班の一員である。
「他の舎弟頭を見てくだせェよ。
ティグレの叔父貴も、ルカの叔父貴も、殿上人って特権を最大限に利用してまっせ。
親父も、もうちっと威張っていいんじゃねェですか」
「そうは言ってもなァ」
ロレンツォは、普段は貧民街トルカーナにある質素な事務所にしか出入りせず、こうしてちやほやされることには慣れていない。むしろ、落ち着かないのだ。
「やっぱ親父は謙虚っすなァ」
構成員は苦笑した。
「親父は、ピエトラっつう大規模なマフィアの、たった五人しかいねェ幹部のうちの一人なんですぜ。
少しくれェ踏ん反り返ってくれねェと、親父の班にいる俺たちまで舐められちまいやすわ」
「そんなに言うんなら、タツィオ、オメェが持て」
ロレンツォは構成員――タツィオに鞄を押し付けた。
タツィオは「うえぇ」と情けない声を上げたが、結局受け取るほかなかった。
重厚なオーク材の二重ドアを開けると、玄関ホールが姿を現す。
高い天井には、金箔で縁取られた巨大なシャンデリアが煌々と光を放つ。床一面に敷かれた深紅の絨毯は毛足が長く、歩を進めるたびに靴底へ微かな沈み込みを伝えてくる。
そこから続く廊下は広く直線的で、壁には金泥仕上げの縦長ガラス窓が等間隔に並ぶ。
その窓の向こうには、昼間でありながら薄暗い中庭が、静かに広がっていた。
「そういやァ」
タツィオが周囲を窺うように軽く見渡し、ロレンツォにだけ聞こえる声量で囁いた。
「本部には、なんの用で?
もしかして――最近保護した、元皇子のガキのことを伝えるために?」
「んなわけねェだろォ」
絨毯に足音が吸収され、代わりに革靴同士が擦れる乾いた響きだけが反響する中で、ロレンツォもまた声を潜めた。
「アイツについては、言わねェつもりだ。
共有するにしても、せいぜい『貴族のガキを保護してる』ってくれェにしとく」
ゼノフォードは、独断で死んだことにした。帝都で無事に葬儀が執り行われたことも知っている。
だが万一、ゼノフォードが生きていることが露見したらどうなるだろう? あの子供は依然として、第一皇子を暗殺しようとした反逆者であり、逃亡犯なのだ。
(――アイツはまた、追われることになっちまう)
情報の漏洩は、何としても防がねばならなかった。たとえ――忠誠を誓うピエトラ相手であっても。
「ただでさえ、トルカーナの住民の一部は知ってる有様だ。アイツ、逃げてくるときに、いろんな奴に姿を見られてるからなァ。
だけど、そこまでにしておきたい」
サルヴァトーリ班の中でも、ゼノフォードの件を知らされている者は限られている。
ここにいるタツィオも、あの場に居合わせ、ロレンツォが死体の用意を命じたからこそ知っているに過ぎない。
(――むしろ、ピエトラにこそ隠しておきてェ)
ピエトラは皇室――少なくとも『ライオライト』の姓を持つ者とは、決して良好な関係とは言えない。
まあ当然だ、帝国の頂点と裏社会の巨頭が馴れ合うなど、世も末である。
だがもし、ピエトラ内部に『皇室と手を組みたい』と考える者がいたならば――?
『逃亡犯の第二皇子ゼノフォード』は、格好の交渉代料となってしまう。
「元皇子の件じゃねェんでしたら」
タツィオの声が、ロレンツォの思考を遮った。
「なんでわざわざ、ピエトラの本部に来たんですかい?」
「俺らの班に、最近ルカんとこから移ってきた奴がいるだろ? ダンテって名前のよォ」
ロレンツォはタツィオに視線を向けた。
「……お、おう。いやしたな。
まあ、何回かしか会ってねェっすけど」
「アイツがよォ、行方不明になっちまったんだ」
「な、なんだって!?」
タツィオが思わず声を張り上げ、周囲の視線が集中する。
彼は慌てて頭を下げ、「すいやせん」と縮こまりながら声を落とした。
「ダンテの奴が行方不明って……」
「まァそういうわけだから、捜査協力を求めてここに来たってわけだ」
ロレンツォが足を止めた。
タツィオもそれに倣う。
――目の前にあるのは、事務所の扉だった。
扉を押し開けると、湿った木と古い革の匂いが鼻をついた。
室内は薄暗い。天井からは鉄細工のシャンデリアが吊り下がっているが、今は使われていない。壁際に配置されたオイル・ランプが、頼りない光を投げかけているのみである。
床には赤黒い絨毯が敷かれ、その色合いが空間全体をさらに陰鬱なものにしていた。
「おう、ロレンツォではないか」
正面には巨大なマホガニー製の執務机。そこに座す壮年の男が、ロレンツォの姿に気付き、声を掛けた。
ロレンツォはつかつかとその正面まで進むと、足を止めた。
「リッチの本部長。ダンテのことだがよォ――」
「ああ、聞いているよ」
壮年の男――リッチは、帳簿らしい冊子をパタンと閉じてペンを置き、ロレンツォに向き直った。
「行方不明らしいではないか。
構成員が姿を消すこと自体は珍しくないが――よりによって、『大金を運ぶ任務中』に姿を消したのが、気になるところだな」
「『任務中』じゃねェ、『任務後』だ。
任務は完了してんだ、取引先のメタロから連絡があったから、間違いねェ」
「では、金の持ち逃げというわけでもないな。
益々わからん」
「まァ……そういうわけだからよォ。
すまねェけど、なんか進展とか、目撃情報とかがあったら、連絡頼むぜ」
「あいわかった。
ああ、それと……」
リッチは踵を返しかけたロレンツォを呼び止めた。
「おまえさんが保管していた、子供の遺体。
あれを持ち出したのは――おまえさんの班だよな?」
「……おう」
リッチはギィと音を立てて椅子を引き、立ち上がった。
そのまま、足音を響かせてロレンツォに近付く。
ロレンツォは内心、冷や汗をかいていた。
(ニコの遺体のことか。――何に使ったか、とか聞いてくるつもりじゃねェだろうな)
ゼノフォードのことを隠したいと思った矢先に。
(もしか、ゼノフォードに偽装させるために使った、ってことが、バレたのか!?)
だとしたら、ゼノフォードを匿っている事実を隠し通すのは、もはや不可能だ。
リッチが目の前に来た。
すっ、と息を吸う音が聞こえる。
「――ちゃんと記録を『済』に書き換えておいてくれ。忘れてるぞ。
使おうと思ったら無かった、ってティグレの班から苦情が届いている」
ロレンツォは人知れず、胸を撫で下ろした。
「お、おう。すまん。――おいタツィオ、犯人オメェだろ」
「す、すんません」
□□□
本部でやることを済ませ、トルカーナの我が家に帰ると、例の元皇子がキッチンで何やらこねくり回していた。
「しょうゆ……しょうゆが欲しいな」
しょうゆ、なる物が欲しいらしい。
ロレンツォにとっては聞き慣れない代物だが、帝国の城には存在していたのかもしれない。
――そもそも、皇子という肩書を持っていた少年が、料理などしたことがあるのだろうか?
そう思ってゼノフォードの手元を覗くと、意外にもちゃんと形になった卵焼きがあった。
「悪くねェな」
「うわッ!」
ゼノフォードはびくりと肩を震わせて振り返った。
「――帰ったなら、そう言ってくれたまえよ。
気配を消して背後から近付くなんて、酷いじゃないか」
「悪ィ。脅かすつもりはなかったんだけどよォ。
――夕飯、作ってくれてたのか」
「そうさ。感謝したまえ」
なんとも偉そうなゼノフォードの態度に、ロレンツォはつい吹き出してしまった。
「ったく。俺にそんな態度取れんのは、オメェだけだ」
そう言って、わしゃわしゃとゼノフォードの柔らかな白金の髪を撫でる。乱れた髪に、ゼノフォードから非難の声が上がった。
ふとキッチンのテーブルに目をやると、レタスとトマトにモッツァレラチーズを添えたサラダが二人分。
そして、補充でもしたのか、今朝見たときよりも量が増えているブリオッシュが入ったバスケットがあった。
どれもゼノフォードが用意したものらしい。
(――こんな甘ちゃんが、なんだって暗殺の首謀者だなんて疑われちまったんだろうなァ)
さしずめ、素直でない性格が誤解を招き、濡れ衣を払拭できなかったか。
あるいは、第一皇子暗殺という重大事件の捜査が進まず、国民の不満を逸らすために、皇室にスケープゴートにされたか。
いずれにせよ、彼は社会の悪意に晒されたのだ。
(俺が護ってやんなきゃあ、コイツは荒波に揉まれて――消えちまいそうだ)
――護ってやらねぇと。
そう思いながらロレンツォは、もう一度ゼノフォードの頭を掻き回した。また、ゼノフォードから非難の声が上がった。
□□□
夜。
トルカーナの運河を、一艘の舟が静かに進んでいた。物資を運ぶ、地元の運送舟らしい。
「すっかり日が暮れちまったなァ。早く帰りたかったのによォ」
船頭は独り言をこぼしながら、ゆるやかにオールを漕ぐ。
舟が橋の下に差し掛かった、そのときだった。
「――ん?」
船首のランプが、橋台――橋の土台部分――にある僅かな陸地を照らした。
何かが見えたわけではない。ただ、見慣れたはずのその場所に、妙な違和感があったのだ。
「……なんだ、あれは?」
ぞわり、と背筋を冷たいものが這った。
つい先日、トルカーナの西の運河で、子供の遺体――それも、第二皇子ゼノフォードのものとされる遺体が見つかったばかりだ。
「まさか……また、死体ってことはねェよな……?」
正直、夜にそんなものを見つけたくはない。
だが、気になってしまった。
船頭は舟を止め、船首からランプを手に取ると、橋台に片足を掛けて身を乗り出し、その『何か』に近付いた。
その『何か』は。
――人だった。
「ひいッ!!」
赤いシャツを着た、金髪の大柄な男が、ぐったりと横たわっていた。どう見ても、遺体だ。
船頭は情けない悲鳴を上げながら、慌てて舟に戻ろうとした。
だが。
「――うう……ッ」
男が、呻いた。
「!」
船頭は、思わず振り返る。
ランプの光を近付けると、男の胸がかすかに上下しているのが見えた。
「――生きている――。
まだ、生きているぞ!」




