25話 荒天の中の真相
三日前の夜は、嵐だった。
古びた家屋が多く立ち並ぶこの貧民街では、老朽化した建物が暴風に耐えられるはずもない。
ジーナの家も、例外ではなかった。
屋根の一部と、もともと脆くなっていた梁や壁板が崩れ落ち、彼女はその下敷きになった。
彼女の体にはいくつもの裂傷でき、肋骨は折れ、内臓も損傷した。
そんな彼女を助け出したのは、兄のニコだった。
彼は嵐の中、ひとりで瓦礫をかき分け、ジーナを瓦礫から引きずり出した。
だがその頃には、ジーナは痛みと出血で何度も意識を失いかけ、苦しさから痙攣で体を震わせていた。
「――どうしよう、だけど医者は呼べない!」
薄れゆく意識の中で、兄がそう叫んでいたのを、なんとなく覚えていたらしい。
仕方がないことだった。
二人きりの兄妹暮らしで、財産といえば亡き両親が遺したこの家くらいのもの。収入源は、まだ子供であるニコの運び屋の仕事だけ。
つまり、金がないのだ。
「このままじゃ、治る前に……ッ!」
ニコはぎゅっと拳を握りしめ、立ち上がった。
「……待ってろ、ジーナ」
そう言い残し、彼は嵐の中へと飛び出していった。
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それが、ジーナの語った話のおおよその内容だった。
「もしかしたら、あの薬は――」
ゼノフォードは、馬の鞍袋の底に残っていた薬物を思い出しながらそう口にした。
ゼノフォードが言わんとしていることを察して、店主が頷いて言葉を引き継ぐ。
「ジーナさんを治すためのもの――ということですね」
ゼノフォードは一瞬思案顔を浮かべたが、すぐに眉根を寄せる。
彼の脳裏には、あの甘い香りを放っていたペーストのことがよみがえっていた。
「そうだ。そうなんだけど、あれは――」
と言い掛けて、言葉をぐっと飲み込んだ。目の前の少女に対して言うべき内容ではない、と判断したからだ。
(あれは恐らく――阿片だ)
未熟な芥子の実から採れる成分を原料とした、依存性の強い薬物。残念ながら、この国においても合法ではない。
悪名が先行しているが、その一方で、しばしば医療用麻薬として使われる。二十世紀初頭までは、広く麻酔薬として用いられていた時代もあった。
(つまり、痛みを抑えるための薬……治す効能はない)
ゼノフォードはちらりとジーナを見た。
包帯にぐるぐる巻きにされた小さな体。その下には、おそらく見るも無残な傷跡が隠されているのだろう。
そして少女が語った、意識が遠のき、痙攣していたというほどの激痛――。
(ニコは判断したんだ。このままでは傷が癒える前に、妹が痛みでショック死してしまう、と)
少年が思ったのは、『治すこと』ではなく、『苦しませないこと』だったのだ。
たとえ根本的に治せなくても、せめて痛みだけは和らげてやりたい。
その一心で、彼は薬を求めたのだろう。
だが、医者には頼れない。
ならばと、彼は思い出したのだ。かつて依頼をしてきた、『ピエトラ』という組織の存在を。
(ピエトラなら、マフィアだから……『痛みを抑える薬』くらいはあると思ったのか。それが例え――違法であったとしても)
そして、いまジーナが生きているということは、彼が無事に戻ってきて、薬を接種できたということだろうか。
「ニコ君は君に薬を渡せた、ってことになるのかい?」
ゼノフォードはそう言いながら、少女の目線までしゃがんだ。
しかしジーナは、かすかに首を横に振った。
「お兄ちゃん……あれから、戻ってないよ」
ゼノフォードは瞠目した。
(ニコはこの家に着く前に死亡した……ってことか?
だとしたら、ジーナは薬を飲まないで、その状態を耐えきったのか?)
いや、それどころではない。
この家には、他に誰の気配もない。医者も、親も、介抱してくれる大人もいない。
(そもそも――重傷の少女を、誰が手当したんだ?)
――と、そのとき。
玄関の扉がノックされ、開けられる音がした。
続いて、ゼノフォードの背後でギィ、と部屋の扉が開く。
「薬を持ってきたのは、このおじさんたちだよ」
ジーナの声に、ゼノフォードは振り返った。
人影が二つ。
一人は診療用の鞄を手にしていた。医者だろう。
そしてもう一人。少女が『このおじさん』と呼んだ人物は。
――ロレンツォ・サルヴァトーリだった。
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「ニコはな、満身創痍だったんだ。トルカーナに戻る途中で、落馬したんだろうよ。嵐の中の乗馬は危険だからな。視界が悪いし、地面はぬかるんでる。……そりゃあ、落ちるってもんだ」
ジーナの治療が進む様子を扉越しに見ながら、ロレンツォが口を開いた。
室内では、医者の脇で店主が包帯を片付けたり、手渡された薬瓶を鞄に戻したりと、忙しなく手伝っている。
『トルカーナに戻る途中』だったということは、ニコは、『別の街から』薬物を持ち帰っていたということだ。
ピエトラはトルカーナ以外にも拠点、もしくは取引先があるのだろう。
荷馬車の業者が言うには、ニコは『街から街に、馬を駆って運び物をしていた』とのことだったし、ピエトラもそういう用事でニコを使っていたとも考えられるので、不自然ではない。
「――ってことは、やっぱりあの遺体はニコ君なのか」
あの遺体に見られた、頭部や背中の打撲痕。それは、落馬によるものだったのだろう。
また、遺体に付着していた場所に合わない土汚れについても、落馬時についたのか。あるいはもしかすると、ピエトラが遺体を一時的に保管した際についたものかもしれない。
(腐敗を遅らせるための、一時的な埋葬で)
外気に触れさせず、腐敗を防ぐために、土に埋めて保存する。古典的な手法だ。土中は温度が安定し、暗所でもあるため、短期間の遺体保存には適している。
だが、この点について深く問い詰めるのは気が引ける。真相は闇の中だ。
「アイツはな」
ロレンツォはぼそり、と口を開いた。
「這って家に帰ろうとしてたんだ。それを偶然、俺が見つけてな」
「……偶然?」
ゼノフォードは思わず問い返した。偶然にしては出来すぎた話だと思えたからだ。
視線を向けると、ロレンツォは頷いた。
「嵐だったからな。こういうときは、街を巡回するようにしてる」
「地回りかい? 嵐の中よくやるよ、まったく」
「困ってる奴がいるかもしんねェだろ?」
「……へえ。マフィアっていうのは、随分と親切なんだね」
「俺のシマで、何かトラブルでもあったら嫌だからよ」
「……」
ゼノフォードは答えず、視線をそらした。
その様子を一瞥したロレンツォは、構わず続ける。
「ニコはな、ジーナのために持ち帰ろうとしていた薬を、俺に託してきたんだ」
死にかけた妹を、なんとしても救ってほしいと。
「……その気になりゃ、自分で使うこともできたんだけどなァ」
その言葉に、ゼノフォードは言葉を失った。
ニコは、自分の痛みを和らげることよりも、妹の命を繋ぐことを選んだのだ。
「もっとも」
ロレンツォは付け加える。
「俺は薬物に関しちゃド素人だからよォ。医者を引っ張ってきて、対処してもらったんだ」
阿片には鎮痛作用があり、古くから麻酔薬として利用されてきたとはいえ、用量を間違えれば過剰摂取になりかねない。
あくまでも『医療目的』として使う以上、その分野に明るい専門家の知識が必要だった――ということなのだろう。
ゼノフォードは、ロレンツォが連れてきた医者を見やった。
「薬を投与して命を繋いでやった上に、医者を呼んで治療までした……ってわけか。至れり尽くせりだね」
「ニコには、世話んなったからな」
ゼノフォードはロレンツォに目を向けた。その声は淡々としていたが、その目にはわずかに陰が差していた。




