23話 聞き込み調査
ひび割れた石畳の隙間に残った水たまりが、靴音に小さく揺れた。
直前に雨が降っていた、などというわけではないのだが、この運河の街では地面に湿り気が帯びやすいのかもしれない。
こつ、こつ、とヒールの音を響かせながら歩くゼノフォードの隣で、店主が小走り気味についてくる。ちょこちょこと慌ただしく動くその姿を見て、ゼノフォードは少し歩調を緩めた。
「なんだか、生臭いね?」
すん、と空気の匂いを嗅ぐと、生っぽい空気が鼻腔をくすぐる。
(スーパーの生鮮食品売り場を思い出すな)
ゼノフォードの呟きに、店主は「ええ」と頷いた。
「あちらの方に、魚屋がありますから。私の飲食店の仕入れ先なんですよ」
「ふうん、魚屋ねぇ」
店主が指差したのは、屋根の割れた石造りの建物だった。貧民街にしては、なかなかしっかりとした構えだ。
足を運んで中を覗き込んでみれば、思いのほか多くの魚が売られていた。
(この辺りの運河で捕れたものなのか、それとも海の方から運ばれてきたのか)
「あら、トニオじゃない」
魚屋にいた一人の若い女性が、戸口の方を見て声を上げた。その隣に、屈強な中年男性もいる。黒髪や黒い瞳が両者ともよく似ているので、二人は父娘なのだろうか。
彼らの目線の先にいたのは、ゼノフォードの隣にいる店主だった。
(この店主、トニオっていう名前なのか。アントニオとかの愛称なのかもしれないけど)
とはいえ、いまさら呼び方を変えるのも面倒だったので、ゼノフォードはそのまま店主と呼ぶことにした。
「店主君、知り合いかい?」
ゼノフォードの問いに、店主は頷いた。
「ええ。看板娘です。それから、そのお隣がこの魚屋の主人。親子で経営されているんですよ」
なるほど、『看板娘』という言葉に相応しい可愛らしい女性だ。
父親の方は、商人魂が疼いているのか何とも逞しい。こんな貧民街で燻っているより、帝都に出て商売をした方がよほど儲かるように思うのだが――その辺りの事情は彼らのみぞ知る、といったところか。
「あなたが、お尋ね者のゼノフォードかしら」
看板娘は、くるりと体の向きを変えて言った。
それを聞いて、ゼノフォードはおや、と思う。
(やっぱり、この街の人たちは僕のことを知っているらしいな)
帝都リテンハイムから逃げる際に、『逃亡犯ゼノフォードを見つけたら賞金が出る』という噂話を耳にしたのを、ふと思い出す。
この貧民街では、それを喉から手が出るほど欲しがる人がいてもおかしくないだろうに。
(それでも彼らは、僕を匿ってくれている。感謝してもし足りない)
もっとも、『ピエトラ』というマフィアの存在が抑止力になっているだけなのかもしれないが。
――が、いま考えるべきことから逸れてしまいそうなので、思考を『水死体について』に戻す。
「やあご機嫌よう、レディ」
――魚屋の主人の鋭い視線が飛んできたので、ゼノフォードは少し顔を強張らせた。
「……それから、ジェントルマン。
聞きたいことがあるんだけど、少しいいかい」
ゼノフォードはそう言って、二人の方を見た。
「最近、変わったことはなかったか、教えてほしいんだ。
特に、誰かが行方不明になったとか、そういうことをね」
「……そうねぇ」
看板娘が口籠る。何か心当たりがあるようだ。
「近所の子が見当たらなくなったって、三、四日くらい前にちょっとした騒ぎになっていたわね。具体的にどこに住んでいたかは知らないけど。――ニコ、って子よ」
やはり行方不明者がいたか。ゼノフォードは眉を寄せる。
「……もしかして、さっきの水死体は――」
「違う」
ゼノフォードが言い切らないうちに、魚屋の主人が否定した。
「今朝、俺も遺体を見たが。あの遺体は、髪の色が薄かった。ニコは茶髪だ」
ゼノフォードは小さく首を振り、目を細めた。
「――髪の脱色なんて、いくらでもできる」
ルネサンス期のイタリアでは、金髪が一大ブームとなった。だがもともと茶髪の人が多かったため、皆こぞって髪を脱色していたという。
「昔から、レモン汁を塗って日光に晒したり、石灰や木炭を水で溶いて髪に塗ったりして、髪を脱色していた」
魔法や、現代のようなブリーチ剤などがなくとも、いくらでも原始的な方法で髪の色を変えることができるのだ。
「髪の色は、あてにならないんだよ」
そうなると――。
「やっぱり、水死体はその『ニコ』っていう行方不明の少年だったのか……? だけど――」
もしそうだとすれば、それはそれで奇妙な話だ。
「ニコ君がいなくなったのは三、四日前。僕がこの街に来たのは昨夜だ。
ピエトラが『僕の遺体に仕立て上げるためにニコ君を手にかけた』とするなら、予知能力でもない限り辻褄が合わない」
「だから言ったでしょう」
店主が口を開く。
「ピエトラは、一般人の殺害なんてしないって。
それに、先ほどの遺体がニコ君だとも、まだ決まったわけじゃありませんしね」
「さっきの遺体が、ニコだって?」
反応したのは、魚屋の主人でも、看板娘でもなかった。だが、聞き覚えのある声だ。
(この声は……)
ゼノフォードが振り返ると、案の定そこには見覚えのある男の姿があった。
「君は確か……荷馬車の業者君」
城下街から逃れる際、ゼノフォードが忍び込んだあの荷馬車の持ち主だ。
ここは店が立ち並ぶ一角なので、この辺りで腹ごしらえでもしていたのだろうな、とゼノフォードは思った。
「ニコ君を知っているのかい?」
「まあな。もし本当に死んじまったんなら、残念だ」
業者は無精髭の生えた顎をざらりと撫でた。
「あいつ、運び屋の仕事しててな。俺も運送業なもんで、トルカーナに立ち寄るときには仕事柄、顔を合わせることもあったんだよ」
「運び屋?」
「そう、個人の郵便屋みてぇなもんさ。たまに、マフィアの運び屋もやってたって話だがな……」
ゼノフォードは眉を顰めた。
ピエトラは、遺体に手を加えていた。それならば、遺体の少年とピエトラの間には、元々何らかの関係があったと考える方が自然だ。
そしてニコという少年は、マフィアと関わりがある。
そのマフィアがピエトラだとするならば、遺体の正体はニコである可能性が高い。
業者は付け加える。
「ニコはな。街から街に、馬を駆って運び物をしてたんだ」
「馬を?」
「ああ」
そう答えると、業者は運河の向こう岸にある建物を指差した。
「昨日、あそこの共用の厩舎に俺の馬を預けに行ったとき、ニコの馬がいるのを見たぜ。
もし気になるんだったら、芦毛の馬を探すといい。ここいらじゃその一頭だけだからよ。見りゃわかるはずだ」
「ありがとう。ちなみに、ニコ君の家が何処にあるか、わかるかい?」
「さあ、知らないな。力になれなくて悪い」
「構わないさ。有益な情報、感謝するよ」
ゼノフォードは満足げに頷き、くるりと踵を返して店主の方を振り向く。
「よし店主君、さっそく件の厩舎に行こうじゃないか」
だが。
「待て」
行きかけたゼノフォードを、一つの声が制した。魚屋の主人だった。
「おまえは、あの水死体の身元を突き止めて、どうするつもりだ。
もしあの遺体がニコだったとして、それを知って――どうする」
ゼノフォードは目をしばたたいた。
それを見て、主人は続けた。
「あの遺体が訳ありだってことくらい、俺たちは皆承知している。
ピエトラが保護を宣言した翌日というタイミングで、ゼノフォードが死ぬわけがないからな」
そうだ。
あの遺体がゼノフォードでないことは、皆が承知している。
にもかかわらず、黙認したのだ。
「俺たちは、あの遺体がゼノフォードではないと知った上で、『ならばあの遺体は誰なのか?』と詮索したりしない。
死人より、生きている人間を優先するべきだからな。
――それを無駄にするつもりじゃないだろうな」
もし、あの遺体がゼノフォードではないと証明されれば。
――逃亡犯ゼノフォードの『死』が覆され、ゼノフォードはまた追われることになるだろう。
「あの遺体は『ゼノフォード皇子』のままにしておいてくれたほうが、都合がいいのだぞ」
「――それでも」
ゼノフォードは、真っ直ぐに魚屋の主人を見つめて言った。
「知りたいんだ。
もし僕のせいで彼が殺されたのだとしたら、僕は彼の命を背負わなくてはならない。
たとえそうでなくても、僕は何の罪もない彼に『第一皇子暗殺計画の首謀者』っていう、最悪な罪を押し付けた責任がある」
あの遺体の彼はこれから未来永劫、それこそ彼が生きていた時間より遥かに長い年月、『兄を暗殺しようとした碌でなしの皇子』として扱われることになるだろう。
それを押し付けた責任が、ゼノフォード自身にあることは自覚していた。
「それに何より、『ピエトラが彼を殺したかもしれない』って疑念を、捨てたいのさ」
ゼノフォードの脳裏に、ロレンツォのことが浮かんだ。
偽ピエトラを、一瞬で鎮圧した姿。
窮地に陥った自身に、救いの手を差し伸べた姿。
甘いコーヒーを淹れてくれて、大量のブリオッシュが入ったバスケットを押して寄越してきた姿。
そんな彼が、罪のない少年を手にかけたなど、信じたくはない――。
(――違う、そんな感情論はどうでもいい)
ゼノフォードは考えを払拭するように首を振った。
「……彼らの庇護下にいる以上、僕自身の身の安全に関わることだから」
ゼノフォードは「心配しなくていい」と、その美貌に笑みを浮かべてみせた。
「別に、あの遺体の真相がわかったからって、どうこうするつもりはないよ。
皆の厚意を無下にする気はないし、僕自身、静かに暮らしたい。追われるのはもう御免だ」
ゼノフォードは背を向けた。
「――どんなことも、墓まで持っていくさ」
そう言い残して、足早にその場を去っていった。
飲食店の店主が、それを小走りで追いかけていく。
その背中を見送りながら、魚屋の主人はぽつりと「青いな」と呟いた。
「……あれが、評判の悪い第二皇子か」
我が強く自惚れ屋で、外見以外に取り柄のない、碌でなしの皇子。徳の高い第一皇子とは正反対の、帝国の恥、皇室の汚点。
貧民街であっても、このくらいの情報は入ってくるものだった。
「――噂とは、アテにならないものだな」
□□□
「これが、ニコ君の馬か」
荷馬車の業者が言っていた厩舎に向かったゼノフォードと飲食店の店主は、そこで一頭の芦毛の馬を見つけた。
まだ若い――幼さの残る馬だった。
「毛並みさえよく手入れしてやれば、王子様が乗る白馬といっても見劣りしないくらいだ」
貧民街の子供が飼っていたというだけあって、毛は乱れ、泥や埃にまみれている。だがその奥にある骨格や眼の輝きには、確かな品の良さが感じられた。
「僕に似て美しいね、君」
そう言った瞬間、馬は舌をべろんと出して、首をかしげた。
「……やっぱり僕には似てないかも」
ゼノフォードは道すがら買ったニンジンを馬に与えつつ、馬に付けられた鞍袋に目をやった。
「これが、生前ニコ君が荷物を入れていた袋だろう」
やや劣化した、革製の鞍袋。ゼノフォードはそれを開いて、覗き込んだ。
「これは――」
その底に溢れた粒を見て、ゼノフォードは眉を寄せた。
革製の古びた鞍袋。その底に、ざらついた粒が溜まっている。
「なんでしょう、これ」
問いかける店主に、ゼノフォードは指先ですくったものを見せた。
茶褐色の塊。中には泥のように粘り気を帯びたペースト状のものも混じっている。その周囲には、それが砕けて乾燥したものらしき粉が散らばっていた。
「小麦粉や砂糖じゃなさそうだね」
指に触れた感触は乾いた泥に近く、ざらついている。鼻を近づけると、妙な甘さと、かすかな苦味の混じった匂いが鼻腔をくすぐった。
「薬……いや、薬物か」
ゼノフォードの表情が曇る。
「……こんなものを手配できるのは、マフィアくらいだ。
ピエトラが、ニコ君に薬の運搬を依頼していた……?」
だとすれば、ひとつの仮説が浮かび上がる。
「――薬物の輸送に関わっていたニコ君が、トラブルに巻き込まれて、殺害された――?」
――という仮説だ。
せっかく、『ゼノフォードに遺体を偽装させるために、ピエトラが少年を殺した』という説が揺らいだばかりだというのに。
「……皮肉だね。
僕は『少年を殺したのはピエトラじゃない』って証拠を探したかったのに。――どうして真逆のものが出てくるんだ」




