19話 貧民街の逃亡者2
店じまいをする露店のあいだを通り抜け、帰路につく人々の波をすり抜ける。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
ぶつかったり、ぶつかりそうになったりした人々から、驚きの声が上がる。
申し訳なく思いながらも、なりふり構ってなどいられない。
既に、あまりにも多くの人に姿を見られている。
せめて少しでも人の少ないところへ――そう願いながら、ゼノフォードは角を曲がった。
薄暗い街灯が、建物の壁を斜めに照らしている。
その灯りに照らされた『あるもの』が目に入った瞬間、ゼノフォードの足が止まった。
「――な、なんだ……ッ、この張り紙は!」
――第一皇子暗殺未遂事件の首謀者、第二皇子ゼノフォード、逃亡中。情報求む、生死問わず――。
「まだ、尋問から半日しか経ってないだろう……!」
声に出したところで、何が変わるわけでもない。
だがその現実が信じられず、叫んでいた。
不意に足音がした。
追手か、単なる通りすがりの誰かか。判断はつかない。それでも心臓が跳ね上がる。
ゼノフォードは再び駆け出した。
息が詰まる。
足元がぐらつく。
「どこに逃げればいい、どこに――?」
周囲を見渡す。
と、景色に既視感があることに気が付いた。
ゼノフォードの前世――“輝石”がこの街をデザインしたから、という理由ではない。
朽ちた屋根。水のにおい。石畳。迷路のような路地。
知っている。
ここは。
「――トルカーナ!?」
以前に来た時とは違い周囲が暗いためか、その時に見たよりも若干荒れているように見えるためか。あるいは単に、精神的にそう感じるだけかもしれない。
とにかく受ける印象が少し違うために気付くのが遅れたが、間違いない。
汚職警官がのさばり、偽物のピエトラがはびこっていた場所。
つい先日訪れた、運河のある貧民街。
トルカーナだ。
まったく見知らぬ土地よりはまだましだ。あのときの記憶を頼りに、ゼノフォードは走り出す。
「確か、店の裏側に裏路地があったはずだ!」
あの、汚職警官に脅され、偽ピエトラの被害に遭っていた店だ。
「そこなら、身を隠せるかもしれない――!」
僅かな希望を抱きつつ、角を曲がったその先で――。
「ゼノフォード様!?」
声がした。
「――!!」
顔を上げるとそこには、かつて助けたあの飲食店の店主がいた。
名を呼ばれたということは、店主はゼノフォードの正体を知っているということだ。
「――くそ!」
ゼノフォードは引き返して走り続けた。
「僕はどこで、間違えたんだ――!」
またもや視界に、あの張り紙が飛び込んできた。
『ゼノフォードを探せ』――そう言わんばかりに、どこにでも貼られている。
逃げ場のない現実が、これでもかというほど目の前に突きつけられる。
「どうして、こんなことになったんだ――!」
『生死問わず』――。生死――死――。
「――死にたくない――!」
死にたくない一心で、足掻いてきたのに。
一体どこに逃げればいい?
どうやって逃げ続ければいい?
「僕は……僕は……!」
バサッ!
唐突に、視界いっぱいに網が広がった。
気付くより早く、全身が荒縄の網に絡め取られ、そのまま石畳に引き倒された。
「ッ!?」
膝が抜けたわけではない。意識が飛んだのでもない。
重いおもり付きの網が肩や背中に食い込み、両手両足を縛りつける。指先すらろくに動かせない。
知っている。このやり口は――。
「やーっと捕まえたぜ。――『ゼノフォード殿下』?」
黒いロングコートを着た、この男は――。
その顔を見て、ゼノフォードは名を叫んだ。
「――ロレンツォ・サルヴァトーリ!」
マフィア組織、ピエトラの幹部。
このトルカーナの街を拠点にする、捕縛使いだ。
「見逃してくれ!」
ゼノフォードは懇願した。
疲労と喉の渇き、そしてうつ伏せに押し付けられたその姿勢、そして込み上げてくる感情のせいで、潰れたような声になる。
なんて情けないのだろう。
「願いを、聞いてくれるって! そう、言ったじゃないか!」
あの偽ピエトラとの一件で、ロレンツォはこう言っていた。
『お礼によォ。なんか頼みがありゃ、何でも一つ聞いてやるぜ』
――と。
「引き渡さないでくれ……頼む、見逃してくれ……ッ!!」
顔を伝った汗が、網目を伝ってぽたぽたと地面に吸い込まれていった。
「約束、してくれたじゃないか……ッ!」
動かしづらい頭を、無理やり持ち上げる。
視線の先――ロレンツォは、ただ静かにこちらを見下ろしていた。
いくつもの足音が聞こえてくる。
多数の人の気配。視界の隅に、さっきの店主と荷馬車の業者の顔が見えた。他にも沢山の人がいる。
(――もう駄目だ)
これ以上は、逃げきれない。
身体を拘束されている以上、セーブデータを読み込んで時間を戻すこともできない。
(手遅れ、だ――)
「僕を城に引き渡すつもりなら!
――いっそ、殺してくれ!!」
あの暗殺事件。第一皇子が命を落とした瞬間の、生々しい恐怖が脳裏をかすめる。
背から胸へと貫いた刃。
崩れるように膝をつき、苦しげに空を掻いた手。
立ちのぼる血のにおい。
死にたくない。
そう思って、ここまでもがいてきた。だが、それすら叶わないのなら。
「せめて、苦しまずに死にたい――!
殺してくれ――!!」
そのとき。
ロレンツォがふっと口元をつり上げた。
「そんなチンケな望みでいいのか?」
ゼノフォードは思わずぽかんとした。
言葉の意味がわからなかった。
その様子を見て、ロレンツォは小さく肩を竦めた。
「オメェが望むならよ、俺たちはオメェを匿うことだってできる。そういうことだ」
――『俺たち』。
その言葉に、ゼノフォードは思わず周囲を見渡した。
周囲の人々は、誰一人として逃げ場を塞いでいなかった。
まだ、理解が追いつかない。
そんなゼノフォードに、ロレンツォが続ける。
「別に、オメェを捕まえようって身動きを封じたわけじゃねェ。
ただ、オメェがパニクってあっちゃこっちゃ暴れ回ってたからよ。これじゃあ、助けられるもんも助けらんねェからな」
ロレンツォがフックを外すと、網の錠がカチャリと外れた。
重く絡みついていた縄がずるずると緩み、ようやく身体が自由になる。
だが、ゼノフォードの思考はなお混乱の中にあった。思考が荒れた海のように掻き乱され、何を信じていいのかすらわからない。
と、いつの間にか人だかりとなっていた群衆の中で、あの店主が静かに口を開いた。
「お礼を言わせてください。
警官と、そして偽のピエトラから救っていただいたあの日のこと、決して忘れておりません」
ゼノフォードは、瞠目した。
しかし、それで終わりではなかった。
「大丈夫か、坊主? ――怪我、してただろう?」
今度は、おずおずと、荷馬車の業者が声をかけてきた。心配そうな面持ちで、まっすぐにこちらを見つめながら。
それを皮切りに、ひとり、またひとりと声が上がった。
「もう『治安維持費』なんて名目の賄賂、払わなくてよくなったんだよ!」
「偽のピエトラを追い払ってくれて、ありがとう」
「汚職警官のやつ、懲りたみたいでよ。もう来なくなったぜ」
「オメェは暗殺なんてするような奴じゃないって、俺らはみんなわかってるぞ」
誰も、責めない。
誰も、剣を抜かない。
その事実に、ゼノフォードは――今、初めて気が付いた。
ここには。
――味方がいたのだ。
「……ッ」
唇が震える。
張り詰めていた緊張が切れた途端、ふと涙腺が緩んだ。耐えていた涙が、つ、と頬を伝った。
ゼノフォードは最後の力で、声を絞り出した。
「……助けてくれ……ッ!!」
薄れ行く意識の中で。
――ロレンツォの、にっ、と笑った顔を見た気がした。
「おうよ。――約束だからな」
□□□
極度の緊張から解放されたゼノフォードは、そのまま糸の切れた操り人形のように意識を手放した。
崩れ落ちた彼の身体をしっかりと抱きとめたのは、ロレンツォだった。
深い眠りに落ちたゼノフォードを腕に抱え連れ帰りながら、ロレンツォはぽつりと呟く。
「――おい」
その呼びかけは、どこに向けたものとも知れない。
だが、すぐに「おう」と応じる声が返った。
と、闇の中から、一人の男が姿を現す。
ロレンツォは、短く言い放った。
「――死体を一つ用意しろ」
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