18話 貧民街の逃亡者1
城の裏門を抜けてから、どれほど走っただろうか。
城下には早くも『ゼノフォードが第一皇子暗殺計画の首謀者だったこと』と『そんな彼が逃亡したこと』の話が広がりつつあった。
「……どこまで逃げればいいんだ」
通りの雑踏からの話し声が、耳に入ってくる。
「――マリウス殿下の暗殺未遂事件って、ゼノフォード殿下が首謀者だったんですって!」
「本当か!?
でもあり得るな、ゼノフォード殿下は高慢っていうか、自己中心的な人だったらしいじゃねェか」
「しかもマフィアと繋がってたんだって」
「逃亡中らしいわよ。見つけたら賞金が出るんですって!」
「皇族でも、殺人未遂なら国家の敵だろう!
警備隊や騎士は何をしてるんだ、早く捕まえろよ!」
まるで目の前に槍を突きつけられたような、ひやりとした痛みが胸を刺した。
怒号でも叫び声でもない、ただの日常の会話。それが、これほど冷たく響くなんて。
(尋問が終わったのは、ついさっきなのに)
情報の早さに戦慄が走る。
陽はまだ高い。身を隠すにはあまりに不利な時間帯だ。
行く当てもないまま、疲れた四肢に鞭を打って駆ける。
わずかな物音にも、心臓が跳ね上がる。
美貌ゆえに目を引きやすい容姿は、今この瞬間、厄介なまでに目立っていた。
「なあ、もしかしてアイツじゃねェか――!?」
誰かがそう言って、こちらを振り向いた気がした。
ゼノフォードは壁伝いに身を滑らせた。
冷や汗が背中を伝う。
頭の奥がじんじんと焼けるように熱い。
(どうにか……見つからずにやり過ごす方法はないか……!?)
状況を整理しようとする思考が、焦燥にかき乱される。
逃走経路も隠れ場所も、何一つ計画していないまま飛び出した自分を、今さらながら呪いたくなった。
(……無策だった。致命的に)
あの場で、あの瞬間に、最善と信じて選んだ行動だった。
それでも、結果としてこの有様だ。
(――やり直すか?)
だが、あの尋問前に時間を巻き戻したとして、何が変わるだろうか?
もう一度、あの地獄のような時間を繰り返すだけではないか。
(……あれをもう一度?)
喉の奥がひくりと震えた。
言葉を選ぶ余裕もなく、感情を押し殺す術もなく、ただ裁かれるだけの時間。
あの場に戻るくらいなら、今この場で逃げ惑う方がまだマシだ。
ふと、通りの向こうに一台の荷馬車が目に入った。
ゼノフォードは周囲の視線をうかがいながら、慎重に歩を進めて、中を覗き込む。
荷馬車には果物の残り香が漂い、ぱらぱらと野菜の皮が落ちている。中身はすでに降ろされたのか、積まれている木箱はどれも空だった。
どうやら、青果物を運んでいた商人の荷車らしい。
(搬入が終わった後の馬車だ。となると、ここからどこかへ帰るはず)
この辺りに、卸売市場や畑はない。この馬車はここから遠方に行くことが予想できた。
(遠くまで逃げるチャンスだ)
迷っている時間はなかった。
(――乗り込もう)
ゼノフォードは荷台の後ろから身を滑り込ませ、空の木箱の間に身体を沈めた。
やがて馬車が動き出し、車輪のぎこちない振動が体を揺さぶる。ゼノフォードは息を潜め、身を縮めたまま耐えた。
間もなく、さわさわと木の葉のざわめく音が耳に届く。石畳の上を走っていた車輪の揺れも、やがて整備されていない道特有の、がたがたとした不規則な振動へと変わっていった。
(森に出たみたいだ)
人の多い街から離れたことに、わずかながら安堵を覚える。ゼノフォードは静かに目を伏せた。
(もう少し乗って、次の街に入る前に降りよう。森の中なら見つかりにくいはずだ)
しかし緊張とは裏腹に、走る車輪の単調な揺れが微睡みを誘う。
眠ってなどいられない。しかし、慣れぬ子供の身体で長時間走り続けた上に、怪我によって多量の血液を失った代償は重く、疲労はすでに限界を超えていた。
まぶたの裏から、じわじわと眠気が滲み出す。
(――駄目だ、寝るな)
意識を繋ぎ止めようとするほどに、瞼が重くなる。
薄らと開けた目に、隙間から差し込む光が映った。
その光は、次第に橙色を帯び、やがて紫がかって、夕暮れの色へと変わっていく。
(――駄目、だ……)
そこでゼノフォードの意識は、ぷつりと途切れた。
□□□
――ゴトン!
(――!?)
突然の衝撃に、ゼノフォードはガバリと跳ね起きた。馬車が止まったらしい。揺れはもう感じられなかった。
(もう夜なのか? ここはどこだ!?)
カツ、カツ、と硬い足音がする。柔らかな土を踏む音ではない。靴底が硬い石畳を打つ、乾いた音。
ここは森の中などではない、ということだ。
(まさかここは――街か!?)
街の中ともなれば、人が多い。目撃される可能性も、ぐっと上がる。
(――森の中で降りるつもりが!!)
ごそっ、と衣擦れの音がした。近くに人がいるのだ。
「――この街には宿屋がねェからなぁ。ま、森で野宿するよりマシか」
男の声が響いた。
次の瞬間、荷台を覆っていた布がわずかに捲れ、視界が少し開けた。
それとほぼ同時に、荷台がぎしりと軋む。男がそこに腰を下ろしたのだ。――すぐ近くだ。
(――音を立てたら終わる!)
心臓が早鐘を打つ。
息の音すら聞こえてしまいそうで、浅い呼吸を繰り返すしかない。
起き上がったままの不自然な姿勢が災いして、腕がじわじわと痺れを帯びてくる。
少しでも姿勢を直そうと、そっと左手をついた――そのとき。
ぎいっ。
左手の下で、木の板が軋んだ。
「ん?」
男の低い声が、空気を刺した。
「誰かいるのか!?」
ゼノフォードはとっさに息を止めた。
動いてはならない。
だが、もう遅かった。
ばさっ、と覆い布が勢いよくめくられ、カンテラの光が差し込んで。
――目が合った。
「なっ……子供!?」
男の渋んだ声に、ゼノフォードはびくっと身体を震わせた。
(……終わった……!!)
咄嗟に荷台から飛び降りた。
腰が抜けている。そのまま、ぐしゃりと地面に崩れ落ちた。
「おい!」
男が声を上げ、こちらに手を伸ばしてきた。
その手が、肩に触れる。
「ひッ!」
喉から、情けない悲鳴が漏れた。
ゼノフォードは強張った身体のまま、その手を振り払う。
(捕まりたくない……捕まるわけにはいかない!!)
立ち上がろうとするが、足が震える。膝が笑う。ぼたぼた、と太腿から血が滴った。
恐怖と疲労と痛みで、身体が言うことを聞かない。
それでも立ち上がった。
「く……来るな……ッ!」
足がもつれる。だが必死に走った。
うまく進めない。走っても走っても前に進めない、そんな悪夢の中のようだ。
頭から騎士帽が落ちたが、気にしてなどいられない。
「ま、待て!! そんな身体で走っちゃ……」
背後から男の声がする。
追いかけてきているのか、だとすればどれほどの距離なのか。
何もわからない。
ゼノフォードは、ただひたすら、走った。




