17話 偽悪の告白
世界が、反転する。
時が巻き戻り、空間そのものが軋むように歪んでいく。
音も光も、空気さえも逆流するような感覚のなか――ゼノフォードは、再び『過去』へと降り立った。
「異議はあるか」
聞き覚えのある言葉。
皇帝の静かな問いが、広間に響く。
まだ尋問が始まったばかりの時間に、戻ってきたのだ。
ゼノフォードは、ほんのわずかに笑った。
本来の歴史には存在しなかった『自分の行動』によって、無実の人達を巻き込むわけにはいかない。
それにこうすることで、『暗殺計画の実行犯を探して第一皇子を守り、彼を皇位に押し上げよう』などという面倒事をせずとも、必然的に己の皇位継承権を永遠に放棄することができる。
これが最も確実で、最も速やかな方法なのだ。
「――異議はありません」
その一言に、場が揺れた。
ゼノフォードは、氷のように透き通った双眸を細め、にっこりと微笑んだ。
あまりにも美しく、冷たい笑顔を浮かべて。
「僕が、兄上の暗殺を計画した――首謀者です」
――これでいい。
これでいいのだ。
「わざわざ薄汚れた貧民街にまで足を運んで、乱暴で品のかけらもないゴロツキ共に会って……さ。
誰よりも高貴で美しい、この僕がね」
適当に出まかせを言えば、空気が強張るのがわかった。
ヒルデガルトは目を見開き、言葉を失っている。
アルノーが、震える声で「……殿下……?」と名を呼ぶ。
だがゼノフォードは、誰の目も見ようとはしなかった。
「オスヴァルトを脅してまで、綿密に練った計画だったのにさ。
まさか午餐会の最中に邪魔が入るなんて、夢にも思わなかったよ。おかげで兄上は殺せなかった。
僕の計画は、ぜーんぶ水の泡ってわけさ」
言葉は流れるように、口をついて出た。
演技も嘘も、思いのほか自分は得意だったのかもしれない――そんな皮肉な驚きすら覚えながら、ゼノフォードは小さく笑い、薔薇色の口の端を吊り上げた。
「だから僕は、もう一度計画を立てることにしたんだ。――今度こそ、兄上を殺すためにね。
この答えが聞きたかったんだろう?
これで満足かい」
ふっと目を伏せ。
――次の瞬間、強い声で言い放った。
「――捕まえられるものなら、捕まえてみなよ!」
叫ぶや否や、ゼノフォードは床を蹴って疾走した。
「捕らえよ!!」
皇帝の怒声が雷鳴のように響き、瞬間、玉座の間が爆ぜた。
騎士たちが一斉に駆け出す。
だが、ゼノフォードの方が一瞬素早かった。
衛兵の足の動きを読み、音を聴き、すり抜けるように角を曲がった。
「ッ!」
絨毯に足を取られ、高いヒールが滑る。
そのまま体勢を崩し、ゼノフォードは転がるようにして柱の陰へと身を投げた。
「見失ったぞ! 階下か!?」
「第二皇子宮へ向かった可能性あり!」
怒声とともに、複数の足音が響き渡る。
駆け抜ける兵の気配が、やがて遠ざかっていった。
柱の陰に身を潜めたまま、ゼノフォードはインターフェースを開く。
この逃走に失敗すれば、本当に命はない。セーブスロットを選択し、上書きを承認する。
だが、悠長にしていられる状況ではない。左手から、ひとりの騎士が接近してくる。
(……ここに留まっているわけにはいかない!)
書き込み完了を待たず、ゼノフォードは柱の陰から飛び出した。
「!」
その途端。
出会い頭に、一人の騎士と鉢合わせた。
先ほど左方にいたと思っていた騎士だ。
「ゼノフォード殿下――!!」
剣閃が走る。
ザシュッ!
「うッ――!」
白いズボンに、血の線が一閃。
ゼノフォードの足を止めるための一手だった。
今更、画面に『記録中』を示すUIが表示される。
つまり、時間を巻き戻しても、この怪我を負った『後』になるということだ。
とはいえ溢れ出るアドレナリンのせいか、動けないほどの痛みは感じていない。
「――悪く思うな!」
ゼノフォードは即座に飛び上がり、回し蹴りを叩き込む。
硬質なヒールが、騎士の顎にめり込んだ。
「んぐぅッ!!」
ガツン!
音が響き、騎士は脳震盪を起こして、そのままバタリと床に倒れた。
ゼノフォードは迷わず、その服を引き剥がす。取り上げた制帽を被り、服を着て、最小限整えると、再び走り出した。
広間を抜け、渡り廊下へ。
磨かれた大理石の柱に、騎士の格好をして逃走する自身の姿が映る。
ほんの数日前、柱に映る姿を見て『ああ自分はゼノフォードなんだ』と自覚した。だが今その姿は、ただの『逃亡者』だ。
「誰か倒れてるぞ!!」
「なんで裸なんだ!?」
広間の方から、怒号と混乱の声が上がる。
ゼノフォードが倒した騎士が見つかってしまったのだ。
「ゼノフォード殿下は、騎士になりすましているかもしれん!」
「剣に血が……殿下は負傷している。動きが鈍っているはずだ!」
「各所に連絡を!」
舌打ちしながら、ゼノフォードはさらに加速する。
騎士に化けたことが露呈するのも、時間の問題だとは思っていたが。
(――思ったより早くバレた!)
渡り廊下を抜けて、中庭へ。
傷を負った太腿が熱い。
ゼノフォードは痛みに歯を食いしばりながら、一直線に庭を突っ切った。
「おい、血が滴っているぞ!」
「こっちか!?」
背後から追っ手の声がする。
門が見える。あと少し。あと、ほんの少しで――外だ。
門衛は二人。まだ情報が届いていないのか、警戒している様子はない。
(このままだ! このまま外に出れば――)
「ゼノフォード!」
背後から飛んできた、鋭く、どこか震えた声。
息が混ざるその声は。
――ヒルデガルトのものだ。
(――しまった)
そう思った時には、すでに反射的に足が止まっていた。
それが命取りになると、頭ではわかっていたのに。
彼女に見咎められれば、終わる。
応援を呼ばれれば、逃げ場はない。
ゼノフォードは咄嗟に感情を殺し、振り返りたいのをこらえて歩き出した。
「やはり! ゼノフォードだな!!」
ヒルデガルトは追い縋るように、再び声を掛けてきた。
「おまえは――どうして!!」
その先に続くであろう言葉は、容易に想像がつく。どうして兄の暗殺など企てたのだ、といったところだろう。
自分が吐いた『兄の暗殺を企てたのは僕だ』という嘘の発言が原因なのは、明確だ。
だが、少なくとも消し飛ばされた過去において、自分を信じてくれたヒルデガルトの口からそれを聞くのは、どうしても堪え難かった。
足を止め、ゼノフォードは肩越しに彼女を見た。真っ直ぐな黒髪の間に見える瞳の奥に、微かな痛みがあった。
「――人違いです」
静かにそう言い残し、再び歩き出す。
その刹那。
「――おい、あれじゃないのか!!」
遠くで、男の怒声が飛んだ。
「……くそッ!」
もう時間がない。
ゼノフォードは、全速力で門に向かって走り出した。
「城外に出ようとしているぞ!」
「門衛! 門を閉めろ!!」
その声に振り返る、二人の門衛。彼らはすぐに門を掴んだ。
鋼鉄の門がギィ、と鈍く唸りながら、動き始める。
重厚な音が鼓膜を揺らす。
閉じていく視界。
消えていく出口。
(――まずい!)
徐々に狭まっていく行手。
負傷した脚の痛みにゼノフォードは歯を食いしばりながら、さらに加速した。
風を切る音すら置き去りにして、ただ前へ。
門の隙間は、もう人ひとりが通れるかどうかの幅しかない。
門衛の手に力がこもる。
重々しい鉄の軋む音が、ゼノフォードの鼓膜を打つ。
(飛び込め!)
太腿の痛みともに、地を強く蹴る。
全身の筋肉が爆発するように動き、地面を滑るように突っ込んだ。
目の前で門が完全に閉じる直前。
ゼノフォードの身体が、すんでのところで、その隙間をすり抜けた。
がしゃん、と門が完全に閉じた音が背後で響いた。
着地と同時に、ゼノフォードは振り返る。
閉ざされた門の向こうで、ヒルデガルトが、じっとこちらを見つめていた。
ゼノフォードは一度だけ深く息を吸い込み、そして感情を振り切るように走り出した。
□□□
「どうして」
門の内側。その場に残されたヒルデガルトは、乱れた髪を振り払うこともせず、呆然と立ち尽くしていた。
「どうして、あんな嘘を」
その震えた悲痛な声が、ゼノフォードに届くことはなかった。




