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レジ打ちおばさんの孤独な人生

作者: 平末さくら

 私は侑里。45歳、独身、彼氏なし。近所のスーパーでレジ打ちのパート。毎日、ピッ、ピッと商品を通して、お客様にときどき言われる「ありがとう」にちょっとだけ救われている。


 そんな私の数少ない楽しみが、休みの日のパチスロ。朝から並んで、お気に入りの台に座るのがちょっとしたイベント。でも最近、全然ダメ。メダルは出ないし、音だけが派手で、財布の中身はどんどん軽くなっていく。

 「今日こそは……」って思って回すけど、ボーナスは来ない。隣のお兄ちゃんは笑ってるのに、私は黙って追加投資。千円札が機械に吸い込まれていくたびに、なんだか心も一緒に持っていかれている気がする。

 気づけば、財布の中は小銭だけ。手元に残ったのは空っぽのメダルケースと、ちょっとだけ重くなった疲れだけ。帰り道、夕暮れの寒風がやけにしみる。


 光熱費がまた上がった。食料品も日用品も値上げラッシュ。手取りが少ないパート従業員にはとても厳しい世の中。もし家賃まで上げられたら、どうすればいいのかわからなくなる。

 少しでも家計の足しにしたいと、いつもより気合いを入れて打っていた。でも、今日もやっぱり、ダメだった。朝から粘って、台を変えて、また戻って……。気づけば財布は空っぽ。ボーナスなんて夢のまた夢。情けなくて、虚しくて、もう立ってるのもしんどい。ラウンジのソファーに沈んで、無料のコーヒーを手にする。ぬるくて、苦くて、でも今の私にはちょうどいい。


 そんなときだった。

「おばさん、今日は負けっすか?」

 急に声をかけてきたのは、学生っぽい若い男。キャップを後ろにかぶって、ちょっと生意気そうな顔。名前は……。田島って言ったかな。何度かホールで見かけたことはあった。

 「おばさんって……。失礼ね」って言いかけたけど、口から出たのはため息だけ。どうでもよくなっていた。そうしたら、田島がニヤッとして言った。

「メシでもどうすか? 俺、出しますよ。おば……。いや、おねえさん、今日は疲れてるっしょ?」

 なんなの、それ。でも、断る理由もなかった。誰かと話したかったし、空っぽの心にちょっとだけ、誰かの声が欲しかった。

「じゃあ……。奢ってくれるなら、行こうかな」


 田島と一緒にホールを出て、近くの定食屋に入った。彼はチャーハン、私は生姜焼き定食。妙な組み合わせ。話す内容もとりとめなくて、パチスロの話、芸能人の話、将来の話。私にはもうないけど、彼にはまだ未来がある。

「侑里さんって、面白い人っすね」

 その一言に、なんだか胸がじわっとした。誰かにそう言われたの、いつ以来だろう。思い出せなかった。


 その日もいつもと変わらず、スーパーのレジに立ってた。制服の袖を半分だけ捲り上げ、無表情でピッ、ピッとバーコードを通す。何も考えず、ただ流れるように仕事をこなしていた。

 そこに、田島が来た。いつもよりちょっとだけマトモな服を着てて、カゴには弁当とお菓子、あと缶ビールが二本。軽く会釈して、私のレジに並んだ。何も言わないけど、視線が合って、私の中で何かがふっと揺れた。


――ピッ、ピッ、……通さない。


 カゴの中からいくつかの商品をスルーして、そのまま袋へ。手元のスキャンはまるでなかったことにする。田島は一瞬だけ目を見開いて、それから、ニヤッと笑った。あの、生意気でどこか憎めない笑い方。私も、小さく笑い返した。


 それが、始まりだった。

 田島は週に数回、私のレジに来た。弁当と飲み物とお菓子、ときどきは肉や魚、お酒まで。私はその中から、2、3点、時にはもっと通さずに袋に入れた。目は合わない。けれど、空気で分かる。私たちは共犯関係。

「また助かりましたわ、侑里さん」

 レジを離れるときにボソッとそう言う田島の声が、ちょっとだけ甘く聞こえた。

 悪いことをしているのはわかっている。でも、心のどこかが満たされる。誰かと繋がってる感じ。寂しさが、少しだけまぎれる。

 夜、ひとりで部屋に戻って、鏡を見た。「バカだな、私」って呟きながら、口元にうっすら笑みが浮かんでた。


 最初はほんの軽いノリだった。田島が「侑里さんちってどこなんすか?」なんて冗談混じりに聞いてきて、「駅から10分のボロアパートよ」って返したら、次の週には本当にやって来た。スーパーの袋を片手に、笑いながら「お世話になりまーす」って。図々しいにもほどがあるけど、断らなかった。

 部屋は狭くて、古い畳の上にミニテーブルがあるだけ。テレビも小さいし、壁紙はところどころ剥がれてる。そんな部屋で、二人並んでカップ麺をすする。

 テレビから流れるバラエティ番組に笑う田島の声と、カップ麺の湯気。まるで、普通の生活みたいに錯覚する瞬間もあった。けれど……。

 そのあと、田島は自然に、というか当然のように、私の隣に来て腕を回す。私は何も言わずにその腕を受け入れた。抱き合う時間は甘いけれど虚しい。キスのとき目を閉じるふりをして、彼の表情を盗み見る。どこか冷めているその目を見てわかった。


――ああ、この子は、カラダ目当てなんだなって。


 それでも、やめられなかった。誰かが自分の体を求めてくれる、その事実がどうしようもなく、身も心も疲れた私を癒してくれる。

 終わったあと、彼がタバコを吸いながら「侑里さんってさ、優しいよな」なんて言うと、その優しさにすがってるのはこっちなのにって、胸の奥がきゅっとなった。

 寂しさに境界なんてない。ただ、今日も誰かに触れられることで、自分の存在を確かめている。そんな夜が続いた。


 新しいレジが入ったのは、ある肌寒い朝だった。スーパーのバックヤードに集められた私たちパート従業員の前に、店長が少しだけ誇らしげな顔で言った。

「今日からセルフレジを試験導入します。慣れてくださいね!」

 明るい声だったけど、私には冷たく響いた。大きなタッチパネル、聞いたこともない操作音。パソコンを使えない私には、まるで宇宙人の道具みたいだった。

 次の週から、勤務日が減らされた。「他のパートさんにも公平にね」なんて言われたけど、実際には若くて飲み込みが早い人たちが優先された。新しいレジの前でうろたえる客に「ここ、どうやるの?」と聞かれても、私自身がわからない。後ろに並ぶ人たちのため息と、焦る心音だけが響く。


 その日の夕方、店長に呼ばれた。

「侑里さん……。長く頑張ってくれてるのは分かってます。ただ、この先の勤務体制を見直す中で、今後の働き方について一度、話をしたいと思っています」

 やわらかい言い方だったけど、その裏にある言葉ははっきり聞こえた。


――リストラ候補。


 頭が真っ白になって、「はい」としか言えなかった。店長は少し申し訳なさそうに眉をひそめていたけれど、それが逆につらかった。私はもう必要とされていないのだと、その目が教えてくれた。


 帰り道、いつもの自販機で缶コーヒーを買って、ベンチに腰かけた。冷たい風が首筋を撫でて、缶の温かさだけが、わたしの手をほんの少しだけつないでくれた。

「時代って、残酷ね……」

 ぽつりとつぶやいた声が、自分のものとは思えなかった。


 その夜、狭いベッドの中で、天井を見上げながら、私はぼそっと田島に言った。

「リストラ候補だってさ……。もう終わりかもね、私の居場所がなくなる」

 田島は枕元の缶ビールをひと口飲んで、なんの感情も乗せずに言った。

「じゃあ、店長と寝れば? そういうの、意外と効くっすよ」

 あっけらかんとした声。まるで、天気の話でもするみたいに。

 私は、冗談だと思って笑った。でも、心の奥のどこかで、その言葉に少しだけ引っかかってる自分がいた。

「私なんか、相手にされるわけないじゃない。あの人、まだ30になったばかりでしょ。奥さんも、子どももいるって聞いたし……」

 そう言うと、田島は私の腰に手をまわして、笑った。

「熟女って、案外イケるんすよ。なんつーか、余裕ある感じが、逆に興奮するっていうか。侑里さん、結構イイ線いってますよ」

 あの目――。ふざけたようで、どこか本気の目。私は目をそらして、何も答えなかった。


 だけど、次の日、私は制服にアイロンを丁寧にかけた。口紅はピンク色のものを少し濃いめに。勤務中、他の従業員がいないタイミングを見計らって声をかけた。

「店長、少しお時間いいですか? 今後の勤務のことで……。よかったら、食事でもしながら、話せたらなって思って」

 店長は戸惑いながらも、「あ、はい。じゃあ、今日のシフト終わったら、近くの店でどうですか」と答えた。

 私の鼓動は妙に静かだった。何かが壊れているのか、それとも、目をつぶって進もうとしてるのか。もう、自分でも分からなかった。

 外は夕暮れで、店の灯りが、まるで舞台の照明みたいに私を照らしていた。


 その夜、店長と一緒に居酒屋を出た帰り道。

「少し、寄り道しませんか?」

 店長が小さな声でそう言ったとき、私は既に答えを決めていた。

 ホテルのベッドの上、店長は終始よそよそしくて、慣れてない様子だった。けれど、私の方は静かに受け入れた。自分が何をしているのか、分かっていたし、見返りも期待していた。でも、それは惨めな交渉というより、生き残るための手段だった。


 数日後、シフト表を見て、私は田島に感謝した。名前が、増えている!

 しかも、週5日。以前とほぼ同じ勤務日数。誰かが削られた分、私がその席に戻ったのだ。

 削られたのは、陽子だった。同じくリストラ候補に名前が上がっていた、ぽっちゃり体型で無口な女性。勤務歴は長いが、融通が利かず、最近は客からのクレームも増えていた。

 バックヤードで品出しをしているとき、陽子が不自然に近づいてきた。目に見えて怒気を含んだ声だった。

「なんで、侑里さんだけ急にシフト戻ったのよ?」

 私は一瞬、心臓が跳ねるのを感じたけれど、次の瞬間には言葉が勝手に出ていた。

「辞めたくないなら……、あんたも抱かれたら?」

 その場の空気が凍った。陽子は目を見開いて何も言い返さない。だから、私はさらに続けた。

「でも、無理かもね? 店長、ぽっちゃり苦手そうだし」

 その瞬間、自分の口から出た言葉の冷たさに気づいた。でも止められなかった。陽子の唇が震えていた。私は目を逸らさず、そのまま立ち去った。背後から何も聞こえなかった。

 ロッカールームの鏡に映った自分の顔は、知らない女みたいだった。冷たくて、ずるくて、でも少しだけ笑みも浮かんでいる。

 この場所にしがみつくために、私は何かを捨ててしまったのだ。


 春が近づく頃、新しい制服が配られた。レジ周りは完全にセルフになって、私はサポート係として立っているだけ。お客様の様子を見ながら「いらっしゃいませ」と声をかけたり、機械トラブルに対応したり。


 田島は、来なくなった。

 ある日ふっと連絡が途絶えて、それっきり。LINEの最後のメッセージは既読にもならないまま。

 私は追わなかった。たぶん、そうなるって最初から分かってたんだと思う。寂しさを体温で紛らわせていただけだった。


 陽子は、辞めた。

 ある朝突然、出勤してこなくなって、その後「体調不良のため退職」とだけ告げられた。あのときの言葉がどれだけ彼女を傷つけたのか、考えないようにしている。でも、思い出すたびに胸がチリチリする。


 私は、残った。

 何も変わらず、でも確かに何かを失って。

 店長は前よりも私と目を合わせなくなった。たぶん、あれは一度きりの処理だったんだろう。私も同じ気持ちだったはずなのに、心のどこかがざらついていた。


 ある日、誰もいない休憩室で、古い制服を畳みながら思った。


――わたし、いつまでここにいるんだろう。


 家に帰ると、相変わらずの古いアパート。冷蔵庫の中は、割引シールの貼られた惣菜ばかり。缶チューハイを見つけると、滑りの悪い窓を開ける。夜風が頬を撫でて、ふと星がきれいだと気づいた。それだけで、少し泣きそうになった。

 私は侑里。45歳、独身、彼氏なし。

 誰にも必要とされないようで、でもどこかで、まだ誰かに触れていたくて。

 そんな私の人生は、これからも静かに続いていく。

近所のスーパーにセルフレジが導入され、リストラされたレジ打ちのおばさんを見たのがきっかけで書きました。

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