4-13 黄昏のミルクティー
――泣いてる?
誰かが泣いてる気がする。
ささやくような、悲しそうな声で。
起きなくちゃ。
起きて「どうしたの」って言ってあげなきゃ。
そんな気にさせる声だから。
一体、誰の――。
「…………」
目をはっきり開けたはずなのに視界が薄暗い。
探った手に、冷たく硬い感触があたる。
次第にクリアになる意識の中、懸命に記憶の糸をたぐった。
わたしはルシエンヌ様のバーステーパーティーでアニーや他の招待客を避難させていて、レッドキャップがきて、それから。
それから?
「!」
起き上がると、木が爆ぜる音にハッとした。
わたしは布を敷いただけの粗末なベッドで寝ていて、石造りのがらん、とした小さな部屋の中央に焚火がある。
その傍で闇より濃い何かがわずかに動いた。
「目が覚めたようだね」
思い出す。黒衣を纏い、黒髪に銀色の一筋。緋色の瞳の美しい青年。
「アレクセイ・スミルノフ、さん……」
「アレクでいいよ」
アレクさんは焚火にかけていた薬缶のような物を下ろし、ポットに注いだ。よく目を凝らすと、小さな台の上にカップや缶がある。お茶を淹れているらしい。
「あの、ここは?」
「ロンディニウムのすぐ外、西の丘陵地さ。ここはかつて、アルビオンの罪人を繋いだ場所でね。こういう簡易な監獄がいくつも残っている」
確かに、黄昏の光差しこむ窓には鉄格子がはまり、床も壁も区別のない石造りで、扉には鎖が付いた頑丈な金属製になっている。
ふと香ってきた芳香に、わたしの鼻がすんすんと反応した。
「紅茶の……良い匂い……」
ぐうううう。
同時に虚しくに闇に響いた音に、静かな笑い声が上がった。
「君は……面白い子だね」
アレクさんが立ち上がった。カップを二つ持っていて、一つをわたしに差し出してくれた。
「どうぞ。こんな物しかなくて申し訳ないけど」
カップからは香ばしい紅茶の香りと、ミルクの優しい香りが立ち昇る。
「毒は入ってないから安心して。ほら」
アレクさんは私の足元に座り、カップに口を付けた。
そんな何気ない所作に見惚れてしまうほどアレクさんは綺麗だ。白い肌も、切れ長の目や顔の稜線も、女性かと思ってしまうくらい繊細で。
「……ね? 大丈夫でしょ? 冷めないうちにどうぞ」
「は、はい、いただきます」
わたしはアレクさんに見惚れていたことに気付かれないように、そそくさとカップに口を付けた。
「……美味しい!」
たぶん一般に流通しているアッサム茶葉だけど、きちんと味と香りが出ていて、渋みがミルクとほどよく絡んでいる。
「こんなに美味しいミルクティー初めてです! お茶を淹れるのがお上手なんですね」
思わず言うと、アレクさんはぷっと吹き出す。
「人質に連れてきたのに、なんだか調子が狂うなあ」
確かに!
「す、すみません」
「いいよ。褒めてもらって光栄だしね」
アレクさんは小さいスプーンを入れた小さい瓶をわたしに渡してくれた。
「お茶と一緒にどうぞ。ミルクティーはアルビオンの飲み方だけど、これは私の祖国の飲み方でね」
「これ、ハチミツですか?」
「うん。私の祖国ではお茶にミルクは入れない。その代わり、ハチミツやジャムを一緒に食べるんだ。こうやって」
アレクさんが自分の器からスプーンでハチミツをすくって口に入れ、お茶を飲む。わたしも真似して瓶の中のスプーンを引き上げ、黄金色のハチミツを口に入れ、お茶を飲んだ。
「甘ーい! 美味しい! クセになりますね!」
ハチミツからお茶、のループが止まらない。
「この飲み方をすると、アルビオンの者たちは貴族から庶民まで大抵嫌な顔をする」
「えっ……」
「西方の野蛮な国の飲み方だってね」
「そんな」
アレクさんの口調は淡々としている。
その口調でわたしは思い出した。
目が覚めたとき聞こえた悲しそうな声。
あれは、どこかで聞いたことのある異国の歌ではなかったか。
「この飲み方を喜んでくれたのは、君が二人目だ。そしてそのもう一人の友を私は今、待っている。――殺すためにね」
わたしは言葉を失った。
だって、だってアレクさんが待っている『友』って。
「エドワードを待っているんですか?」
口の中は甘く、香ばしいお茶で満たされているのに。
声が擦れる。なぜ殺すんですか、と聞きたいのに言葉が出ない。
「彼は弱き者を見捨てられないからね。彼はきっと来る。ガドゥを再び封印するために。そして、君を助けるためにね」
邪悪な美神というものがいたら、こういう顔で微笑むのかもしれない。
ゾッとするほど妖しい笑み。夕陽の残照が照らす緋色の瞳は血のように赤い。
わたしはここで抵抗するべきなの?
暴れて、アレクさんと闘うべきなの?
それがエドワードのため?
こんなに美味しいミルクティーを淹れてくれる人と戦うの?
わからなくなってカップを持ったままじっとしていると、アレクさんが立ち上がった。
美しい顔は微笑んでいて、やっぱりこの人に抵抗して戦おうなんて気にはなれなくて。
「ゆっくり飲むといい。悪いけど、君は大事な人質だからこの部屋から出られない。ここには私しか解錠できない強力な魔法がかけてあるから、物理的な力では無論どうにもできない。無駄な抵抗をして体力を削らずに、エドワードが来るまで少し待っててね」
そう言って、アレクさんは静かに部屋を出ていった。
知っている。アレクさんはきっと、かなりな上級詠唱者にちがいない。
だって『奇跡の封印』作戦の要だった最重要詠唱者だったんだから。
ベルナルド塔で記録も読んだし、わたしをここまで連れて来たときに使ったのは傀儡魔法。アルビオンでも限られた人しか操れない最上級魔法だ。
わたしなんかじゃ到底、太刀打ちできない。だったら。
時が来るのを待つしかない。
エドワードが来てくれることを信じて。きっとここから出られるはず。その時をじっと待つんだ。
わたしはお茶のカップを手に包んで大事に飲んだ。
ハチミツを入れなくても充分に美味しいミルクティーは、身体の芯まで温めてくれるようなのに。
美味しい紅茶を淹れてくれる人に、悪い人はいないはずなのに。
格子窓から黄昏の濃い光が差しこみ、部屋に昏い光と影を作る。
その様子に目を凝らし、わたしは思考を巡らせる。
今のわたしにできることといえば――それは。




