元男爵令嬢は雨を待つ
バスケットにサンドイッチとオレンジ、ミルクを入れた瓶を詰め込むと、わたしは屋敷から飛び出して崖下の浜辺に向かって走っていく。
空はきれいな青色で、お日様の光を受けた海はきらきらと光っていた。
今日もあの子に会えるかな。
いつもの岩場に到着すると、わたしはきょろきょろと辺りを見渡して大声を出す。
「おーい! 今日も来たよーっ!」
すると、遠くでざぱんっと波が立つ。見れば、真っ白なイルカが跳ねて海に飛び込むところだった。
やった、今日も来てくれた。
そのイルカはぎゅんっと素早く泳いでわたしのそばまで来ると、海面からひょいと顔を出す。つぶらな瞳に、ふにふにの白い体。可愛いその子に手を伸ばすと、頬ずりをしてくれた。
「あは、つめたーい」
よしよし、とイルカの頭を撫でると、わたしはバスケットの中からオレンジを取り出して、小さく分けたものを手のひらにのせた。
「お食べ」
そう言ってイルカに分けたオレンジを投げると、上手にキャッチして食べてくれる。デザートのオレンジを思いつきであげてからというもの、この子はいつもオレンジをねだるように鳴いた。なので、ランチを作ってくれるコックにオレンジを入れておいてねと頼んでいる。
わたしは嬉しそうに鳴くイルカに笑いかけると、ハンカチを広げて座り、サンドイッチを食べることにした。
晴れた日のお楽しみ。可愛い白イルカと遊ぶ、幸せな時間。
けど、今日はいつもと違っていた。
「お嬢様! ルチアお嬢様!」
使用人の呼ぶ声に気付いて、はっと振り返り――……
私は目を覚ました。
頬が濡れている事に気付いて拭った後、深いため息をつく。
この夢を見るのは何度目? それだけ悔いているのね。
ベッドから体を起こすと、私は窓辺に立ってカーテンを開けた。
美しい海が一望できた贅沢な部屋は、もうどこにも存在しない。今の私に与えられたのは、豊かな自然と田舎町が見える小さな部屋。調度品も古くて、最低限のものだけ。
男爵令嬢ルチアはもう、どこにもいないのだ。今の私は、料理店で働く没落令嬢。平民同然の身分。
けれど不幸だなんて思わない。幼き子にも、富める者にも、嵐は容赦なく襲いかかって荒波の中へ突き落とす。ただそれだけのこと。今ある幸せを大切にしなければ、嵐の中を生き抜くことはできない。
――あの子にお別れを言えなかったことだけが、唯一の心残りだわ。
故郷の海風に思いを馳せると、私はさっと身支度に取りかかるのだった。
「ルチア、鶏肉の香草焼き持ってって」
「はい」
厨房で働く叔父から料理を受け取って、お客様の元へ運ぶ。母がカウンターテーブルを拭いているのをちらりと見た後、私は注文したお客様の、顔見知りのおじさんの前に料理を置いた。
すると、彼が「ありがとうな、ルチア」と人懐っこい笑顔を浮かべる。私もつられて微笑むと、おじさんは一緒に来ていた青年にちらっと目配せをした。その人は、先日彼の息子だと紹介されたばかりのラウロ。ルチアと一歳違いの年上で、柔和な顔立ちをしている。腕のいい鍛冶屋だとか。
「今日も頑張ってるね」
「お仕事ですから」
労働は生きていくために必要なこと。だから疑問も不満もない。それに、料理を楽しんでくれるお客様の顔を見るのは好きだった。その気持ちは、手伝いを始めた十三歳の頃から変わらない。
すると、おじさんがうんうん、と頷いた。
「いろいろ大変だったらしいが、気立てがよくて働き者、俺としちゃ、息子の嫁にといつも思っているんだが」
また結婚の話ね、と私が苦笑いを浮かべると、息子のラウロが「すみません」と眉を下げる。
「父がお節介なもので」
「息子思いで素敵なお父様じゃありませんか。気にしていませんから、謝らないでください」
私はラウロに微笑みながら、ごめんなさいねと心の中で謝る。
父親にお節介されて、というのは口実で、ラウロが私に想いを寄せてくれていることは、うっすらと気付いていた。きっと父親は応援してくれているのだろう。
けれど、私はその気持ちに応えるつもりがなかった。
元男爵令嬢で、父親は海難事故で死亡。損害が大きく膨らむ前に、母は父の営んでいた貿易会社を売却し、爵位と領地を返上した。
当時八歳の私にできることはなく。母と娘ふたり、市井に降りた母方の叔父を頼ってこの町にきて、十年の時が過ぎた。
そんな訳ありすぎる娘を嫁になんて、やめておいたほうがいい。私自身も、恋愛や結婚に前向きになれずにいた。
「お気持ちだけいただいておきますね」
私の答えに、ラウロが残念そうに微笑む。
話が長引く前に一礼して去ると、他の席から食器を回収し、厨房に戻ろうとした。すると、カウンターテーブルに控えている母が「ちょっと」と呼び止めてきた。近寄ると、困ったように眉を下げられる。
「彼、悪い人じゃないでしょう」
聞かれていたのか、母も悟っていたのか。私は苦笑いを浮かべて誤魔化す。と、頬をむにむにといじられた。
「うぅっ」
「もう適齢期よ。うかうかしていたら行き遅れになってしまうわ」
「わかってます」
ああ、またこの話だ。
私は少し腹を立てたものの、申し訳ないなと反省してため息をつく。厨房に戻って皿洗いを始めると、ぼんやりと物思いに耽った。
母は気丈で逞しい人だ。父が帰ってこないことを悟った段階で、様々な根回しをしていた。彼女が泣き暮らす姿なんて想像できないくらい、てきぱきと振る舞っていたことを思い出す。今だって、市井に降りても愚痴一つなく真面目に働いていた。本家に戻らないのは再婚を恐れてなのか、それとも絶縁されたのか。
ともかく、母のおかげで私は一度もひもじい思いをしたことがない。そんな母が唯一憂うことがあるとすれば、私の将来だろう。
頼れる夫を見つけて幸せになってほしい、そう望まれていることは分かっている。分かっているけれど、前向きになれなかった。
没落した令嬢への哀れみ、貴族との繋がりを望む野心、金髪に緑の瞳と、十八歳でそれなりに見栄えのよい外見だけを好ましく思う視線……私自身に寄り添って、話を聞いてくれる男性はいない。
贅沢な望みなことくらい分かっている。多くの女性は親の言いつけか、妥協や計算で結婚相手を選んでいるのだ。五年も過ぎれば年増などと疎まれる。
――私はきっと、甘やかされすぎたのね。
そう結論づけて皿を拭いていると、叔父が「しまった」と声を上げた。
「どうかしたの?」
「いや、レモンを仕入れ忘れていたんだ。あるにはあるんだが、夜までもつかどうか」
「じゃあいくつか買ってくるわ。代金と個数を書き留めておいてくれる?」
「いいのか?」
「ええ。ちょうど昼時も過ぎたし、今ならまだ買えると思うわ」
すまないな、と詫びながら叔父がメモをとる。その間に私はエプロンを外して、大きめのバスケットと財布を持ってきた。
「それじゃ、頼んだぞ」
「ええ。行ってくるわ」
小走りで勝手口から外に出ると、私は市場に向かった。今日もいい天気で、気持ちのいい青空が広がっている。目当ての青果店で買い物を済ませると、寄り道せず店に戻ろうとした。
ところが、湿った空気と迫る雲の群れに気付いて、はっと小走りになる。が、あと少しというところで、ざあっと雨が降り出した。
「ああ、もうっ」
慌てて近くの軒先に駆け込むと、濡れた髪を絞ってため息をつく。幸い、布巾をかけていたのでレモンは無事だった。けれどこの雨は一体いつ止むのだろう。早く戻らないと叔父が心配する、と雨雲をじっと睨んだ。
そうしてしばらく佇んでいた時。
――見つけた。
「えっ」
誰かの声が聞こえた気がして、辺りを見渡す。通り雨のせいで、誰も歩いていない。と、そこで私は隣に立つ紳士に気付いて驚いた。
すらりと背が高くて、長い白髪を黒いリボンで一つに束ねた青年。色白の肌は陶器のように滑らかで、海のような濃い青の瞳がとても綺麗だ。
そこで私は、おかしなことに気付く。彼の着ているロングコートは一切濡れていなかった。
装飾の施された上等な衣装であることから、貴族ではないかと想像する。手に持つ杖も、艶があって見事な逸品だ。
こんな立派な人がどうしてこの田舎町に。そもそも、いつからそこにいたのか。
不審に思いはしたけれど、同じ場所で雨宿りをする身。話し相手になってくれたらいいな、という軽い気持ちで話しかけてみることにした。
「突然の雨で驚きましたね。買い出しに来ていたのに、こんなに濡れちゃって大変ですよ」
苦笑しながら紳士を見上げると、彼の顔がこちらを向いた。中性的で端正な顔立ち。長いまつ毛。あまりにも綺麗で、つい心臓が跳ねてしまう。すると、彼の薄い唇が開いた。
「それは、レモンですか?」
「え? ああ……そうなんです。叔父の店で使うものが残り少なかったみたいで」
「店?」
「料理店ですよ。叔父が赤髭生やしているからって、赤髭亭と名前をつけてしまって」
笑ってくれるかしら、と思いきや、紳士の顔は人形のように整ったままでニコリともしない。そんな反応をされたら恥ずかしいでしょう、と少しだけ拗ねた。
「赤髭亭。覚えておきます」
そう言って紳士がふっと雨雲に目を向ける。
「もうじき雨は止むでしょう。君と話せてよかった」
「いえ。こちらこそ」
と、微笑みかけた時、紳士が軒先から出ていった。
「あ、濡れてしまいますよ!」
呼びかけると、紳士がゆったりと振り向く。つるりとした頬や美しい髪が濡れても、彼の美貌は損なわれない。すると、糸が緩んだように、彼の顔に優しい微笑みが浮かんだ。
それきり、紳士は杖をつきながら優雅に歩いていく。姿が見えなくなるまで見送ると、私はほうっと息を吐き出した。
おかしな人。でも、不思議と嫌いにはなれないような……奇妙な親しみを感じるのはなぜだろう。
考えていた私は、雨粒が次第に大人しくなることに気付いて空を見上げた。
垂れ込めていた雨雲の切れ間から、光が降り注ぐ。その向こうには青空があった。しばらく待っていると、美しい虹と共に晴天が戻ってくる。
まるで、あの人が雨を連れてきたみたい。
虹はお詫びのつもりだったりして、などと妄想してしまい、私はふふっと笑みをこぼす。そして、叔父の待つ店へと駆け戻るのだった。
あの人と会うことはもうない。
そう思っていた私の予想を裏切り、彼は再び現れた。
素朴な店内ではやたらと目立つ、高貴な佇まいと上品な振る舞い。他の客を圧倒しながら、彼は迷わずカウンター席を選んだ。
驚いてつい話しかけに行くと、彼は「君が教えてくれたから」と言って微笑む。一見すると話しかけにくい雰囲気なのに、存外、可愛らしいところがある。私はすぐ、彼を好ましく思った。
そうしてこの出会いと再会は、不思議な縁を結び付けてくれる。
週に一度か二度、彼は店にやってくるようになった。訪れるのはいつも雨の日。けれど雨粒一つ落とさず、彼は優雅に佇んでいる。
そんな彼が注文するのは、決まってサンドイッチとオレンジジュースだった。お茶を嗜みそうな雰囲気なのに、甘いジュースを好むところが可愛らしい。
私はいつしか心を開き、雨が降るたびに彼の到来を期待した。
最初は名前も聞かず、たわいもない雑談を。やがて話題は個人的なものへ移り変わり、互いに名乗る機会を得た。
彼の名はクラウディオ。自ら商会を立ち上げた実業家で、貴金属を主に取り扱っているのだという。貴族かと思いきや、平民の富豪だったらしい。それにしては知識と品性があり、ただ者ではないと感じさせる空気をまとっていた。
もっと彼のことを知りたい。私は自然とクラウディオを意識するようになっていた。
そんなある夜、部屋で眠る支度をしていた私の元に母が訪れる。
「ねぇ、ルチア。最近楽しい?」
「えっ?」
「雨が降ると、いつもそわそわしてるでしょう。それに最近のあなた、前より素敵になったような気がして」
母の言葉に、私は気恥ずかしさを覚える。
「そうね。少し浮かれているかも」
私の返答を聞いて、母が嬉しそうに微笑んだ。
「クラウディオさんなら、お断りする理由が見当たらないわ。いい人に出会えたわね」
「彼とはそんな関係じゃないわ」
「あら、そうなりたいんじゃなくって?」
「もう」
母ときたら、すぐこの話題である。
けれど、クラウディオなら、と考えてしまう自分がいることに、私は気付いてしまった。よい友達だと思っていたけれど、本当はそれ以上を望んでいる。彼に愛されたなら、どんなに幸せだろう。
何も持たない私を選んでくれるなんて、そんな奇跡があるとは思えないけれど。
母を抱き締めておやすみのキスをすると、私はクラウディオのことを想いながら眠りについた。
それからしばらくして。いつものように仕事をしていると、常連のラウロが一人で店にやって来た。昼には少し早いけれど、きりのいいところまで働いてきたのだろう。結婚の話を断った後なので、少し気まずい。
注文をとりに行くと、彼が真剣な様子でじっと見つめてきた。
「ルチア、話したいことがあるんだ。少しだけ時間を貰えないか?」
なんだか嫌な予感がした。けれど、断ったところで空いている日を確認されるだけだろう。私は母に一言伝えると、ラウロのところへ戻って「少しだけなら大丈夫です」と承諾した。
彼と一緒に店の外へ出ると、人気のない路地裏へ誘われる。そして、立ち止まったラウロが突然私を抱き締めた。
「ちょ、ちょっと!」
「好きだ、愛してる」
恐ろしくなってもがいても、ラウロの腕の力は強かった。壁に体を押しつけられて唇を奪われそうになり、懸命に抗う。
「やめて! 嫌っ!」
「俺と結婚しよう、ルチアをあの金持ちに渡したくない」
頬に口付けられて怖気が走る。突き飛ばそうとした両手を絡め取られ、恐怖に足が竦んだ――その時。
がつん、と地面を叩く音と同時にラウロの体が吹き飛んだ。どういうわけか、全身が濡れている。呆気にとられていると、私を背に庇ってくれる人が現れた。
大きな背中に垂れる白い髪と黒いリボン。見慣れた濃紺のロングコート。
クラウディオだ。そう気付いた瞬間、安心して力が抜けそうになった。
「騒がしいと思って来てみれば、これは一体どういうことかな」
再度、がつんと地面を叩く音がする。クラウディオが杖で地面を突いたのだ。
転がっていたラウロが、顔を赤くして目をつり上げた、次の瞬間。
割れるような雷鳴と、桶をひっくり返したような豪雨。たまらず身をすくめると、クラウディオが言った。
「君のその感情は、愛などとは到底呼べない。愛とは、無垢で幸福に満ち溢れた尊い感情。強欲と嫉妬で彩られたそれは、支配欲だ」
すると、ラウロが舌打ちをする。
「偉そうに。どうせ、妾にでもしようって魂胆だろ! 金持ちが遊びで誘惑しやがって!」
瞬間、煮え立つような怒りが噴き上げる。
「彼を侮辱しないで!」
怒鳴る私をラウロが鼻で嗤った。
「どうせ金だろ、すっかり夢中になりやがって。職人なんか相手にならないってことか? 没落したくせに貴族ぶりやがって」
ぎゅっと胸を締め付けられて、何も言えなくなる。そんなつもりではなかった。けれど、そう思わせてしまったのは私。だとしても、ここまで言われるとは思ってもみなかった。それも、顔見知りの相手に。
すると雷鳴がより激しさを増す。私は身の危険を感じて、クラウディオの腕を掴んだ。
「雷が落ちたら危険です。店に来てください」
「……そうですね」
怒りを露わにすることもなく、淡々とした様子でクラウディオが私に従ってくれる。かと思いきや、彼が素早く振り向いて杖を振った。
「ぎゃっ」
悲鳴が聞こえて振り向けば、ラウロが地面に転んでいる。その手からナイフが落ちて、私はゾッと震えた。
「これ以上、彼女に関わるのはやめなさい。訴えられるか、牢屋に入ることになりますよ」
それだけ告げると、クラウディオが私の背中に手を添えて「行きましょう」と促してくれた。ラウロが追い縋ることはなく、私達は急ぎ足で店に入り、二階の住居へ上がることとなった。
お互いに全身びしょ濡れ。クラウディオを食卓の椅子に座らせると、私は大急ぎでタオルを運んできた。
「とりあえず髪を乾かしましょう。あぁ、あと服も」
「このままで結構です」
「いけません。待っていてください、叔父に相談してきますから」
先に服を着替えてくると、髪を拭いながら厨房の叔父のところへ走る。
「叔父さん、服を借りてもいい? クラウディオさんもびしょ濡れで」
「構わないよ。けど、上等なのはダメだからな」
「わかってます」
叔父に微笑んで、私はすぐに二階へ戻る。叔父の部屋に入ってクローゼットから丈の長いチュニックを引っ張り出すと、クラウディオの元へ向かった。
ところが。
「あ、あれ?」
澄まし顔で椅子に座っているクラウディオ。彼の長い髪も、服も、靴も、全てからっと乾いていた。まるで最初から濡れていなかったかのように。驚いてまじまじと見つめていると、彼と目が合う。
「何か?」
「いえ……」
言及するべきか悩んだけれど、やめておいた。以前から、クラウディオは「普通の人じゃない」と感じていたのだ。その勘はきっと正しい。
叔父のチュニックを戻してくると、私はお茶を作ろうと思いかけ、ふっと笑みを浮かべて戸棚からオレンジを一つ、取ってきた。手早くカットすると、皿に盛り付けて食卓に置く。
クラウディオの視線が、じっとオレンジに注がれた。
「オレンジ、好きでしょう。お礼になるか分からないけれど、召し上がってください」
「よいのですか?」
「はい。あなたがいなかったらどうなっていたことか。本当にありがとうございました」
私の言葉を聞いて、クラウディオがオレンジに手を伸ばした。ひとつ手に取ると、ぱくんと頬張る。すると、彼の目がきゅぅっと細められて、美味しいと感じていることが私にまで伝わってきた。愛しさについ、微笑みがこぼれてしまう。
それからもクラウディオはパクパクとオレンジを食べ進め、あっという間に皿が空になってしまった。そこで私は話しかけてみる。
「大好物なんですね」
すると、彼が目を伏せた。
「ええ。思い出の味なんです」
「思い出?」
「故郷の海で、これを食べさせてもらいました。長い長い時の中の、ほんの一瞬の出来事でも、私にとって忘れがたい……忘れたくない、大切な思い出なんです」
そう語るクラウディオの表情は、穏やかで優しかった。あまり表情が変わらない彼ではあるけれど、よく見ればちゃんと感情がある。その中でも、今のクラウディオは特に優しげな雰囲気をまとっていた。
よほど大切な記憶なのだろう。私まで幸せな気分になる反面、そこまでクラウディオの心を揺さぶった相手が気になった。もしかして、好きな女性がいるのだろうか。
「いい思い出だったんですね」
自分の気持ちを誤魔化すように言うと、クラウディオの表情がわずかに曇る。
「けれどそれも、一瞬のことでした。彼女は突然いなくなり、私はずっと待っていました。故郷の冷たい海で、ずっと」
彼の眉間に、微かな皺が寄った。窓を叩く雨粒が勢いを増す。
「せめてもう一度、彼女に会いたかった。健やかに暮らしているのか、それとも何かあったのか。それを知るために、私は許される範囲で彼女を探していたんです」
そう言って、クラウディオが私を見つめた。彼の瞳を見ていると、かつて暮らしていた屋敷から見る、美しい海を思い出す。
あの白イルカはどうしているのだろう。すっかり夢に見ることのなくなった記憶が蘇り、切なさに胸が締めつけられた。クラウディオも私と同じように、その女性のことを想い続けているのかもしれない。
「彼女とは、もう会えたんですか?」
「はい」
それを聞いた瞬間、恋の終わりを予感した。泣いてしまいそうになるのをぐっと堪えて、私は微笑みを浮かべる。
「よかったですね。元気にしていたんですか? いなくなった理由も、教えてもらえたんですか?」
私の問いかけに、クラウディオがこくりと頷く。
「彼女は健やかに暮らしていました。複雑な事情があり、苦労も多かったようですが、悲嘆に暮れることなく過ごしていたようです。けれど、私は……」
言い淀み、黙ってしまったクラウディオをしばし見つめる。
結婚を申し込むのだろうか。それとも、事情があって一緒にはいられないのだろうか。想像してしまって、私も目を伏せてしまう。
お互いに黙り込んでいると、不意にクラウディオが口を開いた。
「都合がよい日に、私と出かけませんか」
「えっ」
顔を上げると、クラウディオが私を見つめていた。その瞳に覚悟のようなものを感じて、背筋が伸びる。
「一緒に来てほしいところがあるのです」
なんだろう、クラウディオは何かを見せたいのだろうか。
「わかりました。では、今日から三日後はどうですか?」
「構いません。空けておきましょう」
約束を取り付けると、クラウディオが立ち上がった。
「では、私はこれで」
帰るクラウディオを勝手口に案内すると、共に外へ出る。まだ雨が降っていたものの、霧雨のような淡い雨粒だった。雷鳴も聞こえてこない。
「ここで結構です。三日後の朝、迎えに来ます」
「はい。ありがとうございました」
再度お礼を伝えると、傘もささずに去っていく彼の後ろ姿を見送った。
三日後。私はクラウディオから聞いた話を思い出しながら、じっとその場に立ち尽くす。程なくして雨が上がり、穏やかな晴天が戻ってきた。
それから私は、落ち着かない気持ちで日々を過ごした。三日後が待ち遠しいような、怖いような……こんなに心が乱れるのは、父を喪って以来だ。
そういえば、クラウディオに釘を刺されたからなのか、ラウロは姿を見せなくなった。結婚を迫られる心配がなくなったのは助かる。それに、もう顔を合わせたくない。常連が減ってしまって、叔父には申し訳ないけれど。
雨の降らない穏やかな日常を三度繰り返して、ついに約束の日を迎えた朝。定休日の赤髭亭に、クラウディオが訪れた。珍しく雨が降っていなかったものの、分厚い雲が垂れ込めている。
「ごきげんよう。あれからいかがお過ごしだったかな」
常と変わらぬ、洒落たスーツ姿に杖を持つクラウディオ。彼の言葉に、私は微笑みを返した。
「おかげで穏やかな生活をしていますよ。ラウロも諦めたのでしょう」
「ならよかった」
こくりと頷いて、クラウディオが腕を差し出す。エスコートをしてくれるのだろうか、と手を添えれば、彼はゆっくりと歩き始めた。
「少し歩いた先に、馬車を待たせています。それに乗って行きましょう」
「ありがとうございます」
母から淑女としての教育は受けていたけれど、平民同然の身分でこんなにも麗しい人と歩くのは気が引けた。手持ちの服の中で一番上等な、白い花を散らした若葉色のワンピースを着ていても、なんだか不釣り合いな気がしてならない。
朝ではあるけれど、市場で新鮮な食材を求める人は多く。道行く人々の視線があまりにも強くて、私は背中を丸めないようにするだけで精一杯だった。
馬車に乗り込むと、ようやくひと心地つく。すると、対面に座ったクラウディオが「大丈夫ですか」と声をかけてきた。私は苦笑いをして「ええ」と答える。
走り出した馬車は町を出て、なだらかな丘をゆっくりと駆けあがっていく。町の外に出るのはいつぶりだろう。男爵令嬢だった頃はよく外出をしていたけれど、没落後はそんな余裕などなかった。
窓の外をじっと眺めていると、不意にクラウディオが「楽しいですか」と声をかけてくる。彼を見れば、微かに口元が緩んでいた。
「町の外に出かけるのは久しぶりなので、つい」
「休日に遊ぶことはなかったのですか?」
「家のことをするのが最優先ですし、娯楽も少ないですから」
田舎の町には劇場もない。友達とお茶をして喋るくらいが楽しみだ。けれど私には、信頼できる友達がいない。元貴族という立場が人を遠ざけていた。なので、休日には家事をして、全部終わったら貸本屋に行って小説を探す、というような生活をしている。
十八歳なのにおばあちゃんみたい、と自分で笑ってしまった。
「では、趣味などは?」
「読書と……あとは料理でしょうか。叔父がいつも言うのです。生きるためには食わねばならん、食うための技術をしっかり身につけなさい、と」
「なるほど、君のご家族は強かだ」
クラウディオの褒め言葉に、笑ってしまう。強かと言われたのは初めてだ。令嬢らしからぬ生活ではあるけれど、彼はそんな私を否定しない。ありのままの私を、そのまま見てくれている。偏見のない考え方は、とても心地がよかった。
「料理といえば、サンドイッチを作ったことはありますか?」
「もちろんです」
軽食としても、朝昼の食事にしてもいい一品。昔は使用人に作ってもらっていたけれど、今では自分で作るようになった。思い出の味をどうにか再現しようとして、結局、叶わずにいる。
けれど、クラウディオはどうしてサンドイッチが作れるか、と質問してきたのだろう。
不思議に思っていると、彼がこほん、と咳払いをした。
「実は、サンドイッチも好物なのです。ある時から食べてみたいと思うようになり、ずっと憧れていました」
「サンドイッチを、でしょうか?」
「はい」
どこでも食べられるものではないだろうか。赤髭亭でも、クラウディオはいつも注文してくれている。そんな私の考えを察したのか、クラウディオが言葉を続けた。
「彼女は海を訪れる際、いつもサンドイッチとオレンジを持ってきていました。オレンジは分けてもらえたのですが、サンドイッチはいけないと言われてしまって」
「そう、なんですか」
オレンジはいいけどサンドイッチはダメ、なんて変わっている。どういう関係なのか気になってしまった。
すると、クラウディオがじっと私を見つめてため息をついた。
「……私は、彼女と過ごした時間を今でも鮮明に覚えています」
そう言うと、クラウディオは目を閉じてしまった。話す意思がない、と判断して、私も再び窓の外に目を向ける。
しばらく馬車に揺られ、静かな時を過ごしていると、私は奇妙な既視感を覚えた。
分厚い雲は過ぎ去り、気持ちのいい青空が広がっている。その下に広がる海原は、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。そんな光景を、どこかで見たような気がする。
海沿いの道を走る馬車はやがて、岬に近づいていった。そこには立派な屋敷が佇んでいて、雄大な海を屋敷の内外、どちらからも見渡せるような造りになっている。
「……あ」
十年前の記憶が、弾けるように蘇ってきた。
緑色の屋根瓦。白い外壁。裏庭にはテラスを拵えて、父がよく晩酌をしていた。休日の午後には、家族みんなでランチをして。私も朝目覚めてすぐ、部屋の窓から海を眺めていた。今日はあの子に会えるかな、と胸を躍らせながら。
そんな過去の記憶から抜け出たように、思い出の屋敷が佇んでいた。馬車は前庭へ進み、玄関先で止まる。先に降りたクラウディオが、私にそっと手を差し伸べてきた。
「おかえりなさい、ルチア」
一体どういうことなの。困惑しながらも、彼の手をとって馬車から降りる。そのままエスコートされながら、私は屋敷の中へ入った。
「別邸として買い取った貴族と交渉して、今は私が所有しています。時間はかかりましたが、取り戻せてよかった」
そう語るクラウディオは、誇らしげな様子だった。
帰ってきた屋敷は、十年前と何も変わらない。ひょっこり父が現れて「また海に行っていただろう」とからかってきそうな……懐かしくて愛しい我が家。
これは夢なのでは、と頬をつねってみたけれど、痛いだけ。夢でもなければ幻でもなさそうだ。
「君の行きたいところへついて行きます。さあ、どうぞ」
エスコートしていた手を降ろして、自由にさせてくれる。私はどきどきと騒ぐ胸を押さえながら、屋敷のあちこちへ歩いてまわった。
父の書斎があった部屋。両親の私室。みんなで過ごした食卓と談話室。海を眺めて過ごした裏庭。そして、私の使っていた部屋。
部屋の扉を開けると、子供の頃とは違う大きなベッドと、立派な家具が置かれていた。どれも真新しく、けれど使われているような気配はない。
ベッドの近くにある大きな窓に近寄ると、カーテンをさっと開いた。
あの頃よりも視点が高くなって、前よりずっと遠くまで海が見える。私の頬をつぅっと涙が流れて、ぽたりと落ちていった。
「……ずっと、帰りたかったんです」
大丈夫だと、今ある幸せを大事にしようと、そう自分に言い聞かせても。あの頃の幸せを忘れることなんてできない。戻れるならそうしたかった。父がいて、母も苦労知らずの美しい手のままで。大好きな海で白いイルカと戯れて遊んでいた、あの頃に。
すすり泣いていると、クラウディオが優しく言った。
「君が望むなら、屋敷の所有権を譲りましょう。ここに住むだけでも構いません。ご家族も一緒に、帰ってきませんか」
「いけません、そんなこと」
貴族と交渉して手に入れたと言っていた、決して安い値段ではないだろう。それを譲るだとか、住んでいいだとか、あまりにも都合がよすぎる。けれどクラウディオは引かなかった。
「私は君に返すつもりで、この屋敷を手に入れました。望まないのであれば仕方がありませんが……気に入りませんでしたか?」
「いいえ、ちっとも」
きっと母も喜ぶだろう。素直に甘えるには、あまりにも大きすぎる贈り物だった。
しかし、どうしてクラウディオは私の住んでいた屋敷のことを知っているのだろう。彼が何者なのか、思い当たる人物はいない。
すると、クラウディオが私を優しく抱き寄せた。遠慮するような、不器用な仕草で。
「あとひとつ、君と行きたい場所があるんです」
「はい」
涙を拭うと、クラウディオに肩を抱かれて歩き出す。屋敷の外に出ると、なだらかな坂道を下って浜辺へ降りていった。忘れるはずもない、幼い頃に何度も通った小道だ。
そうして岩場までやってくると、クラウディオが足を止める。
「ここで白いイルカと出会ったことはありませんか」
驚いてクラウディオを見上げると、彼は懐かしむように海を眺めていた。
「ルチアが信じてくれるかどうか、ずっと考えていました。けれどもう、隠したくはないのです。私がそのイルカで、この海域を守る精霊だということを」
「精霊……?」
「ええ、そうです」
そう言うと、クラウディオが海に手を伸ばした。すると海水が柱のように持ち上がり、彼の手の動きに合わせてゆらゆらと左右に動く。拳を握れば、力を失ったように海水の柱が崩壊した。
「私はこの海で君を待っていました。姿を見せなくなってからも、ずっと」
手を下ろしたクラウディオが、そっと目を伏せる。
「この海域を守る精霊として、子供が海に落ちないよう見守っていただけなのに、可愛いと懐かれてしまって。いつしか私も、甘酸っぱいオレンジと君のお喋りを楽しみにしていました」
胸が騒ぐ。もしかして、いや、そんな話があるわけがない、と揺れ動く。
「そんな君が、突然いなくなって。私は寂しさを知った。愛される喜びに気付いた。どうしても会いたくて、渇きに苦しむと分かっていても、人間の形を得て陸に上がりました。ようやく会えて嬉しかったのに、君はちっとも気付いてくれませんでしたが」
肩に添えられていたクラウディオの手が、するりと離れていく。どちらからともなく向き合うと、彼は静かに涙を流していた。
「覚えていたのは、私だけだったのか」
「そんなことないわ」
私は手を伸ばして、彼の頬を包み込んだ。冷たくて、柔らかで、あの白イルカと触れあった時のような感覚。
――あなただったのね。
私は目を閉じて涙を流すと、正直に気持ちを告げた。
「ずっと後悔していたの。お別れを言えずに去ってしまったこと。本当にごめんなさい」
ああ、やっと言えた。すると、クラウディオが私の手に自分の手を重ねた。
「君といる時だけは、心ある生き物になれるんです。喜びも、怒りも、悲しみも、君が与えてくれた。海を漂いながら感じるだけだった人間の有様を、私にも与えてくれたんです」
そう言って、クラウディオが微笑む。泣き笑いの表情はとても感情的で、私までつられて笑ってしまった。
「ずっと君の傍にいたい。もう二度と黙っていなくならないで。君がいないと寂しいんです」
甘えるように手を握られる。今までの紳士的な態度はどこへいってしまったのか。それだけ寂しい思いをさせてしまったのだろうと反省し、ふと思い出す。
「次のお休み、一緒にここでランチをしましょう。サンドイッチとミルクに、オレンジも忘れず持ってきて」
嬉しそうに笑うクラウディオを見ていると、本当に愛しくてたまらなくなる。
私は背伸びをすると、彼の唇にファーストキスを贈った。
それから、何度も季節が巡った後。私はバスケットを持って、海に続く小道を歩いていた。潮風が白いワンピースを翻し、金髪を波打たせる。
そんな私が転ばないように、クラウディオが腰を抱いてくれていた。浜辺へやってくると、彼が敷物を広げて私を座らせてくれる。持参したバスケットを開けると、真っ先にデザートのオレンジを取り出した。皮を剥いて半分にすると、片方をクラウディオに差し出す。
受け取った彼は、嬉しそうに笑ってオレンジにかぶりついた。そんなクラウディオをしばらく眺めると、手作りのサンドイッチを取り出す。
「あなた、ちっとも飽きないのね、この組み合わせ」
「当然だ。君との大切な思い出なんだから」
オレンジを食べたばかりの口でキスを求められるので、私は笑って拒んだ。
精霊と人間。両者の間には越えられない壁があり、生きる時間も、出来ることにも違いがある。けれど、私はこの海の精霊を慈しむと決意した。
左手の薬指に収まった銀の指輪をちらりと見ると、私はクラウディオに寄り添う。
死がふたりを分かつまで、いつまでも傍に。
穏やかな波音を聞きながら、私は甘酸っぱいオレンジをひと口食べた。