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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー系のお話

婚約破棄の宣言をされる前に自ら命を断った令嬢のお話

「リスカーティア! リスカーティアはいるか!?」


 貴族たちの通う王国の学園。和やかに営まれていた夜会に鋭い声が響いた。

 声を上げたのは伯爵子息ヴィーアトロス・トレームヴァル。金髪碧眼のすらりとした青年である。整った細面は、今は緊張にこわばり、焦りに顔を染めている。

 その傍らに寄り添うのは子爵令嬢カーネディリア・フィーラントロプ。柔らかな黄色がかったベージュの髪に、深い緑の瞳。優し気な顔つきに豊かな胸。温和な雰囲気の可憐な令嬢だが、今、その表情は固い。

 

 夜会の会場に入ってきたときから二人は注目されていた。

 なぜなら伯爵子息ヴィーアトロスと子爵令嬢カーネディリアはただの学友である。そして伯爵子息ヴィーアトロスには正式な婚約者が別にいるのだ。

 学園の夜会に、婚約者でもない令嬢を伴ってやってくるなどおかしなことだ。そして会場の中央に立ち、正式な婚約者である子爵令嬢リスカーティア・カルマティードを呼び出しているのだ。

 会場の誰もがひと悶着あるに違いないと注目していた。

 

 伯爵子息ヴィーアトロスは何度か婚約者の名を呼んだ。しかし、彼女は姿を現さなかった。

 夜会の参加者のうち、彼女と同じクラスの生徒も辺りを見回しているが、子爵令嬢リスカーティアの姿を見つけることはできないようだった。

 これはおかしなことだった。学園の夜会は、原則として事前に出席を申請することになっている。学園の夜会は社交の練習の場であり、出席者を事前に把握することは貴族の務めと言える。学生なら誰でも出席者の名簿を閲覧できる。伯爵子息ヴィーアトロスの様子からして、婚約者が出席することは名簿で確認済みなのだろう。

 なにか急に夜会に出れない事情ができたのか。あるいはなにかの事故に遭ったのか。会場の生徒たちは様々な憶測を語り合った。会場はざわめきに包まれた。


「失礼いたします!」


 突如、会場の扉が大きく開き、燕尾服姿の壮年の男性が入ってきた。その身なりからどこかの家の使用人と思われた。随分と慌てた様子で、人の合間を縫って伯爵子息ヴィーアトロスの元へと小走りにやって来た。

 伯爵子息ヴィーアトロスは驚いた様子ではあったが、不審な顔はしなかった。どうやら彼の見知った使用人であるようだった。

 そして使用人は一枚の手紙を彼へと差し出した。

 喧騒に包まれていた会場は、その内容に注目して水を打ったように静まり返った。

 手紙を読み始めた伯爵子息ヴィーアトロスの顔はたちまち驚愕が占め、その身体はぶるぶると震えた。

 そして茫然とつぶやいた。

 

「そんなバカな……リスカーティアが、死んだというのか……?」


 ただのつぶやきだったが、静まり返っていた会場には大きく響いた。

 しばらくは会場の生徒たちもその驚くべき出来事に言葉を失っていたが、やがてぽつりぽつりと話し声が漏れ始め、やがて大きなざわめきと化した。

 誰も彼もが、この予想外の事態に黙ってなどいられなかったのだ。

 そのざわめきの中心にいるヴィーアトロスとカーネディリアの二人だけが静かだった。二人は言葉を失い、立ち尽くしていたのだった。

 

 

 

 伯爵子息ヴィーアトロス・トレームヴァルが婚約したのは、2年ほど前、学園への入学まで3ヶ月後に控えたころのことだった。

 縁談相手のカルマティード子爵家は学問に秀でた一族だった。歴史を研究する者が多く、学者となり功績を上げた者が何人もいた。王宮の文官となり、王国史の編纂に携わる者も少なくない。

 その働きは派手なものではなかったが、それでも歴史ある名家だ。カルマティード子爵家との縁談は貴族として歓迎すべきものだ。

 しかし、ヴィーアトロス個人としては、あまり嬉しい話では無かった。

 

 縁談の相手である子爵令嬢リスカーティア・カルマティードは、一言で言えば薄暗い令嬢だった。

 肩まで伸びた髪は、月のない夜の静かな湖面を思わせる深い黒。顔立ちは整っているが、いつも下向きで、顔の上半分は長い前髪に隠されてしまう。前髪の隙間からときおり覗く瞳の色は、暗い紅。黄昏時を思わせる、どこか不吉な色合いだった。

 何を考えているかわからない。愛想というものがない。まるで夕闇のように薄暗い令嬢だった。

 

 初の顔合わせはトレームヴァル伯爵家本邸で行われた。愛想笑いを向けるヴィーアトロスに対し、リスカーティアは感情一つ見せず、すぐに顔を伏せて前髪で顔を隠してしまった。人見知りの激しい娘で申し訳ないとカルマティード子爵は頭を下げた。

 

 両親を交えての歓談のあとは、二人きりで伯爵家の庭園へ赴いた。伯爵家には先祖伝来の庭園がある。いつもは心和ませてくれる色とりどりの花々も、薄暗い令嬢を連れて歩くと、どこか色あせて見えた。

 ヴィーアトロスは様々な話を振った。伯爵家のこと。この庭園のこと。これから学園に通うことの期待と不安。リスカーティアは「はい」だの「そうですか」だの、短い言葉で相槌を打つだけだった。感情がまるで見えない。壁に向かって一人でボール遊びをしているような虚しさがあった。

 

 伯爵家の人間は家に招いた女性に庭園の花を贈る習慣がある。ヴィーアトロスもそれに倣ってリスカーティアに一輪の花を渡した。


「ありがとうございます」


 この時ばかりはリスカーティアもはっきりと聞こえる感謝の言葉を口にした。しかしその声は抑揚に欠けていたし、すぐに前髪で顔を隠してしまい、どんな感情によるものかはわからなかった。

 いつも薄闇の中にいるような令嬢だった。せっかく贈った花も、その闇に紛れて色を失ってしまうのではないかと思われた。

 

 

 ヴィーアトロスは結婚というものに多くを望むつもりはなかった。貴族の結婚と言うものは家の都合で決まるもので、当人の意志が介在する余地はない。

 結婚相手に求めるのは、ある程度の家柄と当主の足を引っ張らない程度の能力。それと夫の行いに細々と文句をつけないことぐらいだ。

 

 リスカーティアはそうした条件を満たしてはいた。

 彼女のカルマティード子爵家は伴侶として迎えるのに申し分ない名家だ。能力面でも問題なかった。学園に入学後、リスカーティアは座学において優秀な才覚を発揮した。婚約者の行いに文句を言うこともない。それ以前に自分から何かを言い出すということがほとんどなかった。

 

 客観的な要素だけ挙げれば、ヴィーアトロスの要求した通りの婚約者だった。必要な要素を満たしただけで人間関係がうまくいくわけではないということを、ヴィーアトロスは初めて知ることになった。

 

 リスカーティアとの付き合いは、両家の取り決めで週に2回、お茶の席を共に過ごすというものだった。

 お茶の席ではヴィーアトロスが一方的に話題を振り、それにリスカーティアが相槌を打つというだけのものだった。たまにリスカーティアが話を振ることもあるが、それは学園の授業に関することだけだった。歓談というより勉強会のようなやりとりだった。

 それだけなら退屈な時間と言えただろう。だがヴィーアトロスにとって、リスカーティアとのお茶の時間は心落ち着かない苦痛の時間だった。

 出会って以来、彼女と一度も目が合ったことがない。その瞳はいつも前髪に隠れている。前髪の隙間から瞳が見えることがあっても、視線を伏せておりどこを見ているかもわからない。声から感情が読み取れることもない。彼女が何を考えているのか想像もつかなかった。

 

 それなのに、リスカーティアは時折笑みを浮かべた。

 こちらが面白い話をしたわけではない。話題に関係なく、よくわからないタイミングで笑みを漏らすのだ。

 理由を尋ねても「なんでもありません」と返すのみだった。

 

 こちらは相手のことが見えないのに、相手はこちらを一方的に観察している。密かにあざ笑われているような薄気味悪さがあった。

 

 そんなリスカーティアだったから、社交の場ではまともな立ち振る舞いができるとは思えなかった。しかしそれは杞憂に終わった。

 普段は長い前髪で顔すらろくに見せないリスカーティアだった。落ち着いたデザインのドレスを身に纏えば、貞淑で慎ましい令嬢に見えた。相変わらず前髪で目元を隠していたが、はた目から見る分には神秘的と言えなくはない。派手さはないが社交の場で連れ歩くのには問題ない器量だった。

 

 口数が少なく、貴族令嬢が備えるべき社交性には欠けている。だが彼女は学者の家系であり、学園入学当初からその優れた才覚を示してきた。既に名家の令嬢であり、無理に人脈を広げる必要性は薄い。

 婚約者にそっと静かに付き従うリスカーティアは、慎ましい令嬢として生徒たちから好意的に取られられた。

 

 家柄は申し分ない。優秀な成績を収め、能力的にも十分だ。婚約者としてお茶の席にはきちんと出席する。社交の場に連れ歩くのも問題ない。

 要素をひとつひとつ挙げれば何一つ落ち度はない名家の令嬢だ。それでも、ヴィーアトロスは彼女を良き婚約者と思うことはできなかった。必要な要素は満たしているのにそれ以外が欠落している。そのなんとも言えない歪さに、得体のしれない不安を覚えているのだった。

 

 

 婚約者との関係に悩むヴィーアトロスを癒してくれたのは、子爵令嬢カーネディリア・フィーラントロプだった。

 学園の魔法の実技においては、魔力の近い者同士がペアを組むことになっている。カーネディリアはちょうど魔力の強さも性質もヴィーアトロスのものと近く、ずっとペアを組んできた。自然と会話する機会も多くなった。

 婚約者のリスカーティアを秋の物寂しい夕暮れとするなら、カーネディリアは春の暖かな昼下がりだ。そんな穏やかで優しい令嬢だった。

 やわらかな黄緑がかったベージュの髪。深い緑の瞳。可憐な面貌。ちょっとした冗談に微笑みを返してくれる。そんな当たり前の仕草に、ヴィーアトロスは心が癒されるのを感じた。

 

 カーネディリアと過ごすうち、自然とお互いについて語るようになった。そしてヴィーアトロスは婚約者との関係について愚痴を漏らすようになった。カーネディリアは嫌な顔一つせず、親身になって相談に乗ってくれた。

 

 三人とも同じクラスだった。カーネディリアは相談に乗るうちに、リスカーティアのことを気にかけるようになった。そして彼女の奇妙な行動に気づいた。

 リスカーティアは常にヴィーアトロスが見える位置にいる。授業中も教室移動の時も、常にヴィーアトロスが見える位置にいるのである。前髪に隠され、その目が何を見ているかは容易にわからない。しかしヴィーアトロスの悩みを聞いていたことで、リスカーティアが彼のことをじっと見つめていることに気づいたのである。

 

 本来なら、それはいいことなのだろう。暇があれば婚約者を見つめるなど、恋する乙女のかわいらしい行動と言えるかもしれない。

 しかしヴィーアトロスには気味が悪いとしか思えなかった。彼女は、好意というものを見せたことなどない。見つめ合ったことすらないのだ。会話の端々でよくわからない微笑みを浮かべることはあっても、こちらに向けて笑いかけてくれたことすらない。

 そんな令嬢が学園にいる間は常にこちらを観察してくるのだ。悪意を持って弱みを見つけようとしているとしか思えなかった。




 こんな不気味な令嬢と一生を共に過ごすことなどできない。きっといずれは伯爵家に災いをもたらすことになる。

 ヴィーアトロスは両親に婚約解消を申し出ようと考えた。だがリスカーティアに明白な落ち度と言えるものはない。人を使って彼女の身辺を探らせたが、特に不審な点は見つからなかった。名家との縁談を理由もなく反故にすることはできなかった。

 だが、彼女の家、カルマティード子爵家は違った。調べるうちに最近新たに手をつけた事業に失敗したという情報が入ってきた。その損失は小さなものではないらしい。

 

 ヴィーアトロスはこれを好機と捉えた。そこで学園の夜会で婚約破棄を宣言することにした。

 先に婚約破棄したという既成事実を作り、父には子爵家の失敗を理由に納得させる。強引な手だ。もっと他にやりようはあるだろう。だがこのくらいのことをしないとリスカーティアとの関係を絶てないように思えたのだ。

 

 夜会で婚約破棄を宣言するとなれば新しい相手が必要となる。ヴィーアトロスにとって、その相手はカーネディリア以外に考えられなかった。

 真摯に頼むと、彼女は迷いながらも受け入れてくれた。

 

 常識的に考えれば婚約者のいる男に言い寄るなど、許されることではない。良識があり心優しいカーネディリアも、それが許されないことだとわかっている。

 だが、彼女は貴族令嬢だ。上位貴族とのつながりができるのならば無視することなどできない。それが汚れた手段だとしても関係ない。個人の良識より家の利益を考えるのが貴族の令嬢と言うものだ。

 それに婚約者との関係に苦しむヴィーアトロスの助けになりたいという気持ちもあった。彼女もまた、彼に心惹かれていたのだ。そして彼女は婚約破棄と言う舞台に踏み出すことを決めたのである。




 婚約破棄を宣言すると決めた日が近づくにつれ、カーネディリアは不安を訴えるようになってきた。学園内では常にヴィーアトロスの姿を追うリスカーティアの黄昏の瞳。それが自分にも向けられているように思えてならなかったのだ。

 それは十分に考えられることだった。リスカーティアがヴィーアトロスの弱みを探っているのなら、当然彼女にも注目がいくことになるだろう。

 

 日が経つにつれてカーネディリアの怯えはひどくなっていった。どうやらリスカーティアの言葉にできない不気味さが彼女にも伝わったようだった。

 自分が悩んでいた時、カーネディリアは手を差し伸べてくれた。それならば今度はこちらが返す番である。

 ヴィーアトロスはカーネディリアに守り刀を贈った。装飾の施された鞘に収まる優美な短刀だ。ヴィーアトロスの伯爵家では結婚後、伴侶に守り刀を贈る習慣がある。彼は今、その決意を確かなものとするためにカーネディリアに渡したのだ。

 これに手にすると、カーネディリアの顔から恐れもためらいも消えた。

 そうして二人は手を携え決意を胸に、力強く夜会の会場へと入場したのだった。

 

 しかし、二人が婚約破棄の宣言をすることはなかった。その必要がなくなってしまった。

 二人にもたらされたのは、リスカーティアが死んだという訃報だったのだ。

 

 

 

 ヴィーアトロスはまず実家であるトレームヴァル伯爵家に帰り、両親に話を聞くことにした。

 そこで知ったのは、リスカーティアの不可解な死因だった。

 

 婚約破棄の宣言をしようとした夜会の日。その昼過ぎの事。リスカーティアの父親、カルマティード子爵の下に奇妙な手紙が届いた。それはリスカーティアがこれから自ら命を断つという内容だった。自殺する場所も手段も記されていた。両親への謝罪も記されていた。しかし、どうして自殺するに至ったかについては曖昧だった。

 ただ、「生きる必要がなくなった」ということしか書かれていなかった。

 

 普通なら質の悪いいたずらと断じたことだろう。しかしその手紙の筆跡は、まぎれもなく愛娘のものだったのだ。

 カルマティード子爵はすぐに人を手配し、手紙へ記された場所へ調査に向かわせた。

 

 カルマティード子爵家の所領の中、森深い場所にある、地図にも載っていないような小さな沼。そのほとりで、冷たくなったリスカーティアが横たわっていた。右手にナイフを持ち、沼に浸された左手の手首は深く切り裂かれていた。死因は出血多量。彼女は手首を切って自殺したのだ。

 場所も自殺の手段も手紙に記された通りだった。

 

 リスカーティアは夜会の前日までは学園にいた。だが深夜に学園寮を抜け出し、転移魔法陣と馬を駆使して所領の沼へと向かったのだ。その迅速さは一時の気の迷いとは思えないものだ。

 夜会の日は準備のために授業を休む生徒が少なくないため、リスカーティアの不在に不審を抱く者はいなかった。彼女は人を使って授業を欠席する届けに夜会の出席申請をきちんと当日に出していた。昼過ぎに子爵邸に手紙が届くよう取り計らったことといい、明確な意思に基づいた計画的な行動に思われた。

 

 遺書の内容も現場の状況も自殺にしか見えない。だがその状況があまりにも異様だった。なぜわざわざ、付近の住民しか知らないような森深くの沼まで行く必要があったのか。

 

 王国から派遣された犯罪捜査専門の騎士たちは徹底的に調査した。だが、自殺を覆すような証拠は見つけられなかった。街での聞き込みも現場の魔力痕跡も、彼女が一人で沼まで来たことを裏付けていた。どれほど異様であろうとも、自殺と結論づけるほかなかった。




 リスカーティアの訃報から一月ほど過ぎた。彼女の葬式も終わり、諸々の後処理も一段落ついたころにヴィーアトロスは学園に復学した。

 放課後の空き教室でカーネディリアと落ち合い大まかな事情について説明をした。


「彼女のことは結局よくわからなかったよ……」


 そう言って、話を結んだ。

 言葉の通り、最後までよくわからない令嬢だった。

 

 相手が普通の令嬢なら、婚約者の浮気を気に病んだ末の自殺と考えるかもしれない。彼女はヴィーアトロスのことをよく観察していたようだから、カーネディリアとの関係にも気づいていたかもしれない。

 リスカーティアはいつも前髪で隠して表情を見せず、好意を示すことはなかった。そんな彼女が、婚約者の浮気によって自殺に至るほど思い悩むとは思えなかった。

 

 かと言って、他に自殺する理由も思いつかない。リスカーティアとの接触は義務として決められたお茶会のみであり、彼女は自分のことをほとんど話さなかった。

 

 葬式の席では、リスカーティアの父、カルマティード子爵と少し話をした。同じ学校に通う婚約者がいるのに愛娘が自殺したのだ。いくら上位貴族の子息と言えど、婚約者としての義務を怠っていたのではないかと、文句のひとつも言われるものと思っていた。

 だがカルマティード子爵は恨み言のひとつも口にしなかった。むしろこちらに迷惑をかけたと恐縮した様子だった。妙に腰の低い態度で、何かにおびえているようにも見えた。

 

 ヴィーアトロスは婚約者の死に対し、悲しむ気持ちがあまり湧かない。困惑しかない。

 そんな彼と違い、カーネディリアはひどく悲しそうな顔をした。

 

「カーネディリア、どうしてそんなに悲しそうな顔をするんだい? 君だって、リスカーティアのことは疎ましかったはずだ」

「そんな風に言わないでください!」


 カーネディリアは高く声を上げた。

 彼女にしては珍しい大声に驚いていると、カーネディリアは目を伏せた。

 

「学友が一人、命を失ったのです。その死の意味を、誰もわかってあげられない。それはとても悲しいことだと思うのです」


 カーネディリアはヴィーアトロスの手をぎゅっと握った。彼女の手から、温かさが伝わってきた。


「きっと、ヴィーアトロス様はまだ混乱されていて、彼女の死を受け止められていないのです。どうか今は、理屈だけで結論を求めようとしないでください。今は彼女の死を悼むべき時なのだと思います」


 形だけとは言え、見知った婚約者が死んだのだ。薄暗く不吉な令嬢だと思っていた。だからと言って、その死を軽んじていいはずがないのだ。

 そんな当たり前のことに気づかなかった。カーネディリアが近くにいてくれてよかったと心底思った。

 彼女の手を握り返そうとした。

 

 その時、意識が途切れた。

 ヴィーアトロスの手はいつの間にか彼女の手を離れていた。カーネディリアは驚いた顔をしている。どうやら無意識のうちに、彼女の手を振り払ったらしい。

  

「し、失礼しました。婚約相手が亡くなったばかりだというのに、わたしの方こそ考えが足りませんでした」

「いや、気にしないでくれ。どうして君の手を振り払ったのか、私にもわからないんだ……」

「やはり、あなたも心の奥底では傷ついているのです。どうかご自愛ください」


 そう言われても、自分が傷ついているという自覚はなかった。

 ただ自分の意思に反して動いた手をじっと見つめた。




 その後、カーネディリアとの関係はぎくしゃくしたものとなった。

 あの日、彼女の手を振り払ったことだけではなかった。

 

 ふと教室で目が合った時。これまではしばらく見つめ合い、微笑みを交わしていた。それなのに、気づくと視線を逸らしていた。

 教室移動の時、誰も見られないようにそっと手をつないでいた。それなのに、気づくと手を振り払っていた。

 空き教室での逢瀬。いつも彼女の肩をそっと抱いていた。それなのに、気づくと彼女のことを押しのけていた。

 

 それらのことでカーネディリアが怒ることはなかった。まだヴィーアトロスが婚約者の死を気にしているためだと、むしろ気遣ってくれた。

 ヴィーアトロスとしてはリスカーティアの死にショックを受けたという自覚がない。それなのにどうして想い人を遠ざけてしまうのか不思議でならなかった。

 そして、事件が起こった。




 放課後の空き教室。いつもの逢瀬のはずだった。

 

「ヴィーアトロス様……おやめください……」


 涙に濡れた声が耳を打った。

 さきほどまで、二人は並んで座り、日常の他愛ないことを語り合っていたはずだ。

 今、ヴィーアトロスは、空き教室の机の上に、カーネディリアを押し倒していた。彼女の上着のボタンは引きちぎられ、白い肌が垣間見えている。カーネディリアは悲し気に顔を背け、涙を流し震えていた。

 信じられない光景だった。だが状況は明らかだった。

 ヴィーアトロスは、カーネディリアに暴力を振るい、みだらな行為に及ぼうとしたのだ。

 

「す、すまない! こんなつもりはなかったんだ……」


 ヴィーアトロスはすぐさま身を離すと、彼女に向けて頭を下げ、謝罪の言葉を述べようとした。だが言葉は途中でしりすぼみになった。

 ほんの少し前まで、彼女とは楽しく雑談をしていたはずなのだ。肩を抱くくらいのことは考えていた。だがこんな行為に及ぼうなどとは考えていなかった。

 意識が一瞬途切れ、気がついたら彼女を押し倒していたのだ。わけがわからなった。

 カーネディリアは身を整えると、教室の扉へと向かった。

 

「わたしたち、しばらく離れていた方がいいのかもしれませんね……」


 そう言い残して、彼女は教室を去ってしまった。

 ヴィーアトロスは呼び止めようとしたが、言葉が出なかった。何を言えばいいのかわからない。

 あんなことをするつもりはなかった、身体が勝手に動いた……傷ついた彼女に対して、そんなことを言ってどうなると言うのだろう。

 困惑し、後悔の念に苛まれ、ヴィーアトロスは彼女を追うことすらできなかった。




「いったい私はどうしてしまったんだ……」


 学園寮の自室の中で机に向かい、ヴィーアトロスは一人つぶやいた。

 伯爵子息である彼に用意された一室は、貴族に相応しい広々とした作りで、各調度品も高級品で整えられている。

 使用人も下がらせてあるので、彼の独り言を聞き取られることはない。防音もしっかりしているので、少々騒いだところで聞き取られることはない。ヴィーアトロスはいっそ叫び出したい気持ちだった。

 

 リスカーティアが自殺してから二か月が過ぎた。未だに悲しいとすら思えない。悲しむには彼女と言う人間を知らな過ぎた。よく知らない人間が、よくわからない理由で自殺した……それ以上の感想を抱けない。

 カーネディリアを避ける理由がない。彼女のことを愛しく思っている。それなのに気づくと身体が勝手に彼女を拒絶する。今日にいたっては乱暴を働こうとした。その理由がまるで分からない。


「お困りですか?」

 

 妙な声がした。聞き憶えはあるのに、誰の声か思い出せない。そもそも今、私室にいるのは一人きりだ。誰かが部屋に入ってきたのなら気づくはずだ。ノックもせずに部屋に入る不作法者はこの貴族の学園寮にはいない。

 幻聴だろうか。ありもしない声が聞こえるほどに自分は参ってしまっているのだろうか……そう思いながら、声のした方に目を向けた。

 

「うわああああああ!?」


 ヴィーアトロスは叫び声をあげた。

 そこには令嬢がいた。

 肩まで伸びた、月のない夜の静かな湖面を思わせる黒い髪。顔の上半分を隠す長い前髪。隙間から覗く黄昏時を思わせる暗い紅の瞳。

 二か月前に自殺したはずの、子爵令嬢リスカーティア・カルマティードがいたのだ。

 

「バ、バカな! 君は死んだはずでは!?」

「はいそうです、わたしは二か月ほど前に死にました」

「では今いる君は何なんだ!?」

「幽霊です。幽霊となってあなたの前に姿を現したのです」


 リスカーティアは実に落ち着いた態度で、いつものように簡潔に答えた。

 受け答えを重ねることで、ヴィーアトロスもようやく驚愕から立ち直った。彼女がまるで慌てないのでこちらだけ驚くのも馬鹿らしく思えた。

 よくよく見れば、彼女の身体を通して、部屋の反対側の調度品が見える。身体が透けて見えるのは幽霊の特徴だ。知識としては知っていたが、実際に見るのは初めてだった。


 だが幽霊とわかればそう恐れるものではなかった。魔法の発達したこの王国において、幽霊はそこまで脅威ではない。物理攻撃は効かないが、低級な幽霊なら通常の攻撃魔法で撃退できる。伯爵家の由緒正しい血を引くヴィーアトロスは、学園内でも上位に属する魔力を持っている。

 だがさすがに知人の幽霊を問答無用で魔法で撃退することは躊躇われた。それより、話ができるのなら確かめたいことがあった。

 

「幽霊というものは、この世に未練のある者がなってしまうと聞く。君にはどんな未練があるんだ?」

「あなたの近くに居たいと思ったのです」

「なんだって?」

「ヴィーアトロス様、あなたのことをお慕いしているのです。だからこの世にとどまったのです」


 冗談だと思った。今までと変わらず顔の上半分は前髪で隠れている。表情が読めない。声にも抑揚が無い。だが、冗談を言っているようにも見えない。

 リスカーティアが好意を示したことはなかった。学園にいる間、自分のことを見つめてきたのは、弱みでも探そうとしているのだとヴィーアトロスは思っていた。

 これまでの付き合いと彼女の言葉がつながらず、ヴィーアトロスは首をひねるばかりだった。

 するとリスカーティアは胸元から一枚のしおりを取り出した。


「それは?」

「初めてお会いした時、一輪の花をもらいました。その花を押し花のしおりにして、ずっと大事に持っていたのです」


 そう言われて、ヴィーアトロスは思い出した。

 伯爵家では家に招いた女性に庭園の花を贈る習慣がある。あの日、義務として一輪の花を彼女に渡していた。


「わたしはあの時、あなたに心を奪われたのです」


 さらりと前髪が流れ、その隙間から彼女の瞳が垣間見えた。

 その瞳は潤み、熱を持っていた。それは恋する乙女の眼差しだった。


「じゃあどうして、お茶の席ではあんなに素っ気なかったんだ?」

「いっしょにいられるだけで胸がいっぱいだったのです……」

「たまによくわからないタイミングで笑っていたのはどういうことなんだ?」

「あなたと共に過ごす時間がしあわせすぎて、つい笑みが漏れてしまったのです」


 ヴィーアトロスは思わず「なんてわかりづらいんだ!」と叫んでしまいそうになった。

 花を渡しただけで好きになって、それを全然表に出さない。一緒に過ごすお茶の時間も、一人だけ勝手に満足して、愛想笑いのひとつも見せない。そのくせ執着心だけは人一倍で、学園にいる間は監視するみたいに付け回す。

 まるでストーカーのような一方的な愛し方だった。気味が悪いと感じていたのは、決して彼の思い込みによるものだけではなかったのだ。

 

 だが、リスカーティアがヴィーアトロスのことを愛していたと言うのなら。これまでわからなかった彼女の自殺に明確な理由がつくことになる。

 

「では……君が自殺したのは、浮気をした私を見ているのが辛くなり、この世を去ろうとしたからなのか?」


 リスカーティアの愛し方が異常だったとしても、彼女は婚約者だ。ヴィーアトロスのしたことはその裏切りに他ならない。それが理由で幽霊となったなら、なんとかして償わなければならない。

 だがリスカーティアの答えは、ヴィーアトロスの懸念とは少々異なるものだった。

 

「わたしが自殺したのは、あなたと結ばれるためです」


 意味が分からなかった。

 恋を成就させるために命を断つのなら、心中だ。家の関係で引き離されそうになった男女が、二人そろって命を断つことで永遠に結ばれると言うのは、小説や演劇では珍しくない。

 だがリスカーティアは一人で自殺した。それで結ばれるとはいったいどういうことだろう。意味が分からず、ヴィーアトロスは眉を寄せた。

 

「殿方には理解しづらいことかもしれません。それでは順を追って説明いたします」


 そう言ってリスカーティアは穏やかに語り始めた。

 

「あなたのことをずっと見ていました。だから、あなたがカーネディリア嬢に惹かれていくのはわかりました。彼女は可憐でかわいらしい人です。わたしのようなかわいげのない令嬢では恋の勝負にとても勝てないと思いました。婚約者として彼女と接触しないように訴えたとしても、かえって恋の熱を高めることになってしまったでしょう」


 ヴィーアトロスは思わず言い返したくなった。

 リスカーティアが婚約者としての付き合いをもっとまともにしていれば、カーネディリアに心惹かれることもなかったかもしれない。彼にもそれくらいの自制心はある。

 

 一方で、その戦力分析の正しさは認めていた。

 夕闇のように薄暗く、愛想のないリスカーティア。

 陽だまりのように温かで、優しいカーネディリア。

 恋の勝負でどちらが勝つかは、あまりにも明白だった。


「普通のやり方では決して勝てません。だから普通ではないやり方を考えたのです」

「普通ではないやり方……?」


 不穏な響きにヴィーアトロスが問い返す。

 リスカーティアは口元に微笑みを浮かべ、その手段を口にした。

 

「自殺して、幽霊として憑りつく。そうすれば永遠にあなたと離れずにいられるのです」


 ヴィーアトロスは言葉を失った。

 死というのは、永遠の別れだ。死んだ人間とは二度と会えないのだ。死は絶対であり、誰も避けることができない。苦しく悲しいものであるはずなのだ。

 死んで幽霊となり憑りつき、永遠に結ばれる。常軌を逸した発想だ。狂った考えだ。

 

 なにより異様なのは、それを語るリスカーティアの態度だ。狂った人間特有の、異常な興奮や論理の破綻といったものが無い。

 彼女は実に淡々としていた。普通の料理のちょっとした隠し味を説明する料理人のように、ちょっと誇らしげではあるけれど、でも当たり前の事実を告げるような調子で言っているのだ。

 言っている内容の異様さと、それにそぐわない彼女の態度。そのあまりの歪さに、ヴィーアトロスは目眩を覚えた。

 

「ヴィーアトロス様が疑問に思うのも無理はありません。王国では女神を信仰しています。女神は原則として自殺を禁じています。ただ自殺しただけでは、女神にとがめられ、あなたに憑りつくことなどできなかったでしょう」


 そんなことを疑問に思ったわけではない。ヴィーアトロスは言葉を出せないまま、目で違うと訴えた。だがリスカーティアはそんな視線を気にした様子もなく説明を続けた。

 

「だから女神とは別の神に頼ったのです。『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様。かつて我が所領で祀られていた土着の神です。王国で女神信仰が広まり信仰を失ってしまいましたが、かつては力ある神でした。『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様の神域である『沼』に家畜の生き血を捧げると、豊作がもたらされたとのことです。それを怠った村は、泥に呑まれて泥土に消えたと伝えられています」

「『沼』だって?」


 ヴィーアトロスが思わず問いかけた。『沼』という単語になんとも言えない不吉な予感を覚えたのだ。

 リスカーティアはその反応に気を良くしたように説明を続けた。


「ええそうです。我が所領にある沼です。『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様への信仰は、実は少しだけ続いていました。付近の猟師たちが狩猟の成功を祈願して、獲物の生き血を沼に捧げるという風習が残っていたのです。歴史に詳しいカルマティード子爵家の令嬢として、もちろんわたしは知っていたのです」


 ヴィーアトロスはその先を聞きたくなかった。

 だがリスカーティアの説明は実に淡々と聞き取りやすく、彼の頭の中にしみこんでくる。


「だからわたしは、『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様に自分の命と血を捧げて、あなたといっしょになりたいと願ったのです。願いはかない、私は『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様の加護を受けて、こうしてあなたに憑りつくことができたのです」


 ヴィーアトロスは理解した。

 なぜ、リスカーティアがわざわざ自分の所領の沼で手首を切って自殺したのか。

 そもそも自殺方法が不自然だったのだ。沼まで来たのなら、そこで入水自殺するものだろう。わざわざ手首を切ったのは、得体のしれない土着の神に願いを叶えてもらうためだったのだ。

 

 葬式の席で彼女の父、カルマティード子爵が怯えていた理由も悟った。きっと子爵は、『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』の伝承を知っていたのだ。そんなものに縋って自分の娘が命を断ったことを知られるのを危惧していたのかもしれない。いや、あるいは、娘が命をかけてまで願った内容を恐れていたのかもしれない。


 だがなにより恐ろしいのは彼女の態度だった。

 手首の傷は深かったという。相当な痛みがあったはずだ。沼に手をつけるのは痛みと共におぞましさが伴うことだろう。失血と共に死を感じるのは恐ろしいことであったはずだ。

 それなのに、それを語るリスカーティアは実に落ち着いている。わずかな興奮はある。誇らしさも感じられる。だがそれらはせいぜい、廃墟を探検したことを自慢する子供と同程度だった。日常からちょっと踏み出した程度の感覚で、彼女は得体のしれない神に命を捧げ幽霊になったのだ。

 

 夕闇のような不吉な令嬢だと思っていた。だがリスカーティアはそんな生易しいものではなかった。彼女はある種の怪物だった。人間のように振る舞いながら、その根本は人とは全く異質な怪物なのだ。

 

「そんな風に万事うまくいって幽霊になれたのですが、それでも今まではこんな風にはっきりと形を作ることができませんでした。ぼんやりした霞みたいな霊体では、あなたをがっかりさせてしまうと思って、これまでお話しするのは我慢していたのです。日中は目立つからあなたを眺めるだけにしますが、夜にはこうして楽しくお話ししたいと思っています」


 そんなものが自分に憑りついた。永遠に離れないと言っている。その事実に、ヴィーアトロスは震えた。


「ああでも、カーネディリア嬢とはあまり仲良くしないでくださいね。あなたの身体を動かすのも大変なんですからね」


 恐怖に震えていたヴィーアトロスだったが、その言葉だけは聞き逃せなかった。

 

「私の身体を動かす? どういうことだ?」

「わたしとあなたはこうして結ばれたのですから、もう我慢する必要はなくなりました。カーネディリア嬢といちゃいちゃしようとしたとき、あなたの身体を操って邪魔したのです」


 そう言われてここ最近の異常が頭の中をよぎった。

 カーネディリアの手を振り払ったこと。彼女の視線から目を逸らしたこと。すべて意識が途切れていた。それはつまり、リスカーティアに操られていたということだったのだ。

 

「なら、彼女に乱暴をしようとしたのも君なのか!?」

「ええ、そうです。ヴィーアトロス様の身体を操るのにもだいぶ慣れてきましたから、ちょっと痛い目を見てもらおうと思いました。でも途中で身体の主導権を取り返されてしまいました。さすが、ヴィーアトロス様。意志がお強いですね。またあなたのことを好きになりました」


 あんなに酷いことをしたというのに、リスカーティアには悪びれる様子もない。カーネディリアは涙を零すほど傷ついていたというのに、その痛みをまるでわかっていない。

 彼女は良心の呵責なく非道な行いをする。それもヴィーアトロスの身体を使って、だ。

 その間、ヴィーアトロスに意識はない。強い意志をもって抵抗すれば抗えるようだが、リスカーティアがいつ身体を操るかわからない。ずっと気を張り続けることなどできない。事実上、彼女に逆らうことはできないのだ。

 どうすればいいのか。恐怖に心を苛まれながら、ヴィーアトロスは必死に思考を巡らせた。

 

「……今日はいっぱいお話しできて楽しかったです。いろいろなことを一度に話して、ヴィーアトロス様もお疲れでしょう。今夜はこれで失礼いたします。でも、わたしはいつでもあなたのそばにいます。だから安心してくださいね」


 その言葉にヴィーアトロスは凍り付いた。

 彼女はいつでもそばにいる。姿は見えなくても自分のことを見ている。

 安心などできるはずもない。ヴィーアトロスから心の平安は奪われたのだ。

 その晩は恐ろしさに震え、とても眠れなかった。




 翌朝早く、ヴィーアトロスは登校した。

 授業が始まるまで2時間以上ある。この時間なら教師が授業の準備を始めているはずだった。ヴィーアトロスはまずは神聖系魔法の教師の下を訪れた。


「先生、おはようございます」

「やあ君は伯爵子息ヴィーアトロス・トレームヴァルだね。こんなに朝早くからどうしたんだい?」

「実は神聖系の魔法で教えていただきたいことがあるのです」


 リスカーティアの監視下にあることはわかっている。だから他愛ない世間話から、少しずつ神聖系魔法について聞くつもりだった。話の流れによっては幽霊に憑りつかれているから困っていると訴えてもいい。一度疑いを持たせれば、何らかの対策を講じてくれるかもしれない。

 だがそれは失敗に終わった。


「なんて失礼な生徒だ! 君が伯爵子息でなければ叩き出してやるところだ! さあわたしが理性を保っている間にここから立ち去るがいい!」


 気がつくと、顔を真っ赤にした教師から怒声を浴びせかけられていた。

 リスカーティアに身体を操られたのだ。彼女は相当ひどいことを言ったらしい。もはや悩みの相談どころではなくなってしまい、ヴィーアトロスはやむなく退散した。

 その夜、またしても現れたリスカーティアはこの出来事についてこう語った。

 

「学園の教師ごときに『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様の加護を受けたわたしを祓えるとは思いませんが、余計な勘繰りをされて二人の時間を減らされては嫌ですからね。少しお体をお借りしました」




「実は購買で聖水を買ってきたんだ。君が神の加護を受けているというのなら、聖水ぐらい浴びても平気なのだろう?」


 翌日の夜。ヴィーアトロスはリスカーティアにこう提案した。

 学園の購買では様々な魔法の触媒が売られている。危険な物もあるため、所属学科によっては購入できないものもある。

 その中で聖水は簡単に入手できる品だった。普通の人間にとっては無害なものだからだ。

 購買で売られているもののうち、もっとも高価な聖水を購入した。低級アンデッドなら数滴浴びただけで霧散する強力なものらしい。並の幽霊相手なら過剰と言える代物だった。


「ええ。わたしも一度試してみたいと思っていたのです」


 リスカーティアはあっさりと了承した。

 ヴィーアトロスは瓶のふたを開けると、何度かリスカーティアに振りかけた。

 聖水は幽霊に浴びせれば酸のような効果を発揮する。だがリスカーティアに振りかけても、そのまま通り抜けて絨毯を濡らすばかりだった。

 ならば憑りつかれた自分になら効果があるかもしれない。そう思って、ヴィーアトロスは自分自身にも振りかけてみた。

 

「なんの痛痒も感じませんでした」


 リスカーティアはそう述べた。本当にまるで効果が無かったらしい。

 だがこれは半ば予想していた結果だった。もし本当に彼女にとって危険なものなら、購入時に身体を操られていたことだろう。

 

「わたしのことを知ろうとしてくださってとても嬉しいです。でも、心配しないでください。わたしは簡単に祓われたりしません。ずっとあなたのおそばにいます」


 リスカーティアの悪意のまるで感じられない言葉は、これ以上ないくらいヴィーアトロスの心を打ちのめした。

 

 

 

 次の日の放課後。ヴィーアトロスは街に繰り出した。何気ない買い物を装いぶらついた。そして目的の場所に少しずつ近づいて行った。

 十分に近づいたところでヴィーアトロスは全力で走った。向かう先は教会だ。教会に入れば神父や神官がいるはずだ。ドアをぶち破って飛び込んできた貴族子息を、彼らは不審に思うことだろう。そうすれば幽霊に憑りつかれていることがわかり、何らかの対策をしてくれるはずだ。

 これだけ勢いがつけば、身体を操って止めることも容易ではないはずだ。教会の扉があと少しに迫ったところで、意識が途切れた。

 

 気がついたら酒場にいた。ひどく頭がふらふらする。机の上に転がるジョッキの数からして、既に相当な量の酒を飲んでしまったらしい。

 

 教会には行けたのだろうか。わからない。どちらにせよ、こんなに酒気を帯びては教会に行けない。教会は酔っぱらいをよく思わないのだ。ひとまず学園寮に帰ることにした。

 

 寮の自室に入ると、リスカーティアが現れた。

 

「急に走っては危ないですよ。あなたは教会の前で盛大に転んで気を失ったのです。でも、心配しないでください。すこし膝をすりむきましたが、あなたの身体を操って、回復魔法で治しました。そのとき心配してくださった方に誘われて、酒場に入ったのです」


 まだ酔いは覚めきってはいなかったが、それでも何が起きたのかは分かった。

 転んで気を失ったのではない。彼女に身体を操られて転んだのだ。怪我は避けられないが、合理的な判断ではある。

 そして教会に行けなくなるように酒場で酒を飲まされたのだ。


「初めて飲みましたが、お酒ってなかなかおいしいものですね。あなたとお酒を楽しめて、今日はとても楽しかったです」


 リスカーティアは楽し気に感想を述べた。

 どうやら教会に突入する作戦は無駄なようだった。




 その後もいろいろな策を講じてみた。

 学園で除霊に詳しい生徒と仲良くなろうとしたり、高額な魔道具を取り寄せたりした。

 どれもが無駄に終わった。効果がありそうなことはことごとくリスカーティアに阻まれた。

 幽霊には攻撃魔法が有効だ。ヴィーアトロスも一度は彼女に向けて攻撃魔法を試みたことがある。しかしたちまち身体を操られ、魔法は不発に終わった。

 

 カーネディリアには一度だけ手紙を出した。

 内容は「リスカーティアのことで気持ちの整理がつかないから、しばらく一人になりたい。あまり近づかないようにしてほしい」という内容だった。

 いつリスカーティアに身体を操られるかわからない。彼女をもっと傷つけることになるかもしれない。そのためには距離を置く必要があった。


 手紙の内容についてはリスカーティアと相談し、書き上げた後は内容を確認してもらった。彼女に叛意があることを見せればどんな改ざんがされるかわかったものではないからだ。

 リスカーティアは手紙を出すことを了承した。彼女にとってカーネディリアの存在は疎ましかったようで、距離を置くと言うのなら都合がいいようだった。

 

 リスカーティアは日中はなにもしてこなかった。姿を見せるどころか声をかけることすらしてこない。いかに異教の神の加護を受けているとはいえ、日中に行動すれば霊感の鋭いものには察知される可能性があるようだ。

 食事を終えて自室に戻ると、リスカーティアは姿を現した。そしてその日起きた出来事について楽し気に語るのだ。

 生前、彼女は寡黙で、必要最小限の事しか語らなかった。今は実に饒舌だった。もう離れ離れになることは無いという安心感と、肉体と言う制限をなくした解放感が、彼女の口を滑らかにしているようだった。

 

 楽し気に語る彼女を見ていると、生前もこうだったら少しは違っていたのかもしれないとヴィーアトロスは考えた。だがそれは最初のうちだけだった。

 リスカーティアは日中、ヴィーアトロスのことを実に執拗かつ丹念に観察していた。

 授業の内容について、ヴィーアトロスも憶えていないような細かなことまでしっかりと把握していた。それどころか周囲もよく見ていた。授業中にどの令嬢が目線を何度送って来たとか、そんな細かなことまで把握していた。

 異常な観察力で得た結果を、まるで当たり前のように語る。自分が見ている世界と彼女の見ている世界はまるで異なるものなのだと知らされた。

 

 こちらが何もしなければ害はない。身体を操られることもすっかり減った。それはつまり、ヴィーアトロスの取り得る手段がなくなってきたということだ。

 彼女と過ごす生活は、まるで檻も鎖もなしで魔物を飼うようなものだった。表面上は従順に見える。しかしいつ牙をむくかわからない。

 彼女を怒らせたら、どんな恐ろしい結果を招くかわからない。

 光明は見えず、耐えるばかりの日々は、ヴィーアトロスの心と体を削っていった。

 日が経つにつれて彼は痩せていった。もともとスマートな体形だったが、今は枯れ木のようだった。

  

 そしてついに、限界を迎えた。

 

「もういいかげんにしてくれ!」


 学園寮の私室で、ついにヴィーアトロスは不満を爆発させた。

 ヴィーアトロスの限界を迎えた叫びに対し、リスカーティアはきょとんとした。それ以上の反応はなかった。それがなおさらヴィーアトロスの怒りに火を注いだ。


「君に贈った花は特別なものじゃない! 誰にでも与えるものだ! そんなことで勝手に好きになられても困る!」

「それでも、わたしには大切なものです。あなたを愛するきっかけとなった、大切な思い出なのです」


 リスカーティアは押し花のしおりを取り出すと、大事そうに抱きしめた。

 激しさを増すヴィーアトロスに対し、リスカーティアは穏やかなものだった。

 ヴィーアトロスはそれを奪い取ろうと手を伸ばしたが、しおりも含めてリスカーティアは霊体だった。手は空しく空を切るばかりだった。


「何度も君を排除しようとしてきた! もうわかるだろう!? きみのことが嫌いだ! 私の前からいなくなってくれ! この世から消えてしまえ!」


 ついに言った。明確な拒絶の言葉を口にしてしまった。

 さすがのリスカーティアも平静ではいられないだろう。愛が深ければ深いほど、それが憎しみに変わると苛烈なものになる。彼女の底なしのいびつな愛がどんな結果をもたらすか、想像するだけで恐ろしかった。

 だが彼に向けられたのは、慈しみに満ちた目だった。

 

「お気持ちはわかります。わたしも愛に迷い、愛を疑ってしまったこともあります。でも、どうか心配しないでください。愛は確かにここにあるのです。あなたとわたしは、決して離れることはありません。ヴィーアトロス様にもこの愛の素晴らしさが分かる時が来ます。わたしはそう信じているのです」


 ヴィーアトロスは泣いた。言葉は通じている。それなのに想いはまるで通じていない。

 リスカーティアはヴィーアトロスのことを本当の意味では見ていない。ただ自分の中にある歪な愛だけを見ている。

 彼女のことをどれだけ嫌おうと、それが伝わることなどないのだ。

 その絶望が、ヴィーアトロスに涙を流させたのだ。

 

 リスカーティアはそんな彼を包み込むように抱いた。おぞましさに総毛立ったが、霊体に触れることができないから、押しのけることすらできない。こちらからは触れられないのに、彼女からは触れられる。なされるがままだった。


「なあ教えてくれ……もし私が死んだら、君と別れることができるのだろうか……?」

「もしあなたが命を失ったなら、その魂を絶対に放しません。そしてあなたはわたしと同じ存在になるのです。そのとき、わたしたちは本当の意味でひとつになれるのです。何も心配はいりません。どうか安心してください」


 生きている限りリスカーティアが付きまとう。死んでも逃れられない。ヴィーアトロスは泣いた。リスカーティアはそんな彼を聖母のように優しく抱きしめるのだった。




 学園が夏季休暇に入り、ヴィーアトロスは実家に帰った。学園寮にこもっていたら日中でもリスカーティアは姿を現す。実家に帰った方がまだましだった。

 伯爵邸に着くと、やせ細った姿を使用人たちから心配された。

 両親は婚約者の死が息子をやつれさせたのだと思ったらしく、心を強く持つようにと言われた。ヴィーアトロスは空しく微笑みながらその言葉を受けた。とっくに心は折れている。あまりに遅すぎるアドバイスだった。

 

 夜になるとリスカーティアは当然のように姿を現した。使用人は下がらせてある。無理に部屋にとどめても、リスカーティアに身体を操られ人払いされるだけだ。それは既に試行済みだった。彼女は二人きりの時間が減るのを嫌がるのだ。

 

「伯爵邸に来るのは縁談の顔合わせ以来ですね……」


 リスカーティアは感慨深そうにつぶやいた。

 それをヴィーアトロスは苦笑で受け止めた。

 

「あのころとはすっかり立場が逆転してしまった」

「どういう意味ですか?」

「あの時は私が君に話しかけて、君が相槌を打っていた。今はすっかりその逆だ」

「ふふっ、そうですね」


 もうヴィーアトロスは諦めていた。

 考え得る限りの手段を試してきたが、全てリスカーティアに阻まれた。なにしろ一日中監視されているのだ。彼女の目を盗んで策を講じることなど不可能だった。

 生きている限り付きまとわれる。死んでも逃れることはできない。

 ならば結末は一つだ。ヴィーアトロスはいずれ正気を失う。気が狂ってなにもわからない状態になって、リスカーティアに人形のように世話をされるようになるのだろう。

 ヴィーアトロスはその日が遠くないことを覚っていた。

 

 今夜もリスカーティアは一日の出来事について、細かく執拗に語ることだろう。それに対して、ヴィーアトロスは適当に相槌を返す。そんな穏やかで優しく、歪で狂った時間を過ごすのだ。

 そんな時。急に部屋の扉が開いた。

 

「そこまでだ! この悪霊め!」


 そう言って部屋に入ってきたのは、白い甲冑に身を固めた神官騎士と、数人の神官たちだった。

 彼らは部屋に入ると一定の距離を保ちヴィーアトロスたちを取り囲んだ。その洗練された動きは、教会の中でも精鋭の者たちと思われた。

 ヴィーアトロスにはわけがわからなかった。もし教会からこんな大勢の神官を招くなら両親たちから一言くらいはあったはずだ。全く以て予想外のことだった。

 狼狽して思わずリスカーティアの方を見た。

 

「どうやってわたしの存在を知ったのですか?」

 

 リスカーティアはこの異常事態に対してさえも慌てずに、落ち着いた声で問いかけた。


「わたしが教会に伝えたのです!」

 

 騎士たちの後ろに信じられないものを見た。やわらかな黄緑がかったベージュの髪。深い緑の瞳。ヴィーアトロスの想い人、子爵令嬢カーネディリアがいたのだ。

 

「ヴィーアトロス様! あなたがおかしな行動をとるたびに、その悪霊の存在を、守り刀が震えて知らせてくれたのです! それで教会に助けを求めたのです!」

 

 そう言われて思い出した。婚約破棄の宣言を計画した時。不安に揺れるカーネディリアを落ち着かせようと守り刀を渡したのだ。

 伯爵家の伝統に基づいて作られた守り刀は、次期当主の危機を真実の愛の相手に伝えていたのだ。

 

「ヴィーアトロス様ったら、伯爵家伝統の守り刀を浮気相手にあげるなんてずるいです。あとでわたしにもくださいね」


 この状況に至ってさえ、リスカーティアはいつもの態度を崩さなかった。彼女とのやりとりには慣れたつもりのヴィーアトロスも、その異常性に改めて恐怖を感じた。

 神官騎士は剣を抜き払い、彼女に剣を向けて告げた。


「後も先も無い! 貴様はここで祓われるのだ!」

「わたしは『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様の加護を受けています。女神の使い走りごときでは、傷ひとつをつけることすらできませんよ?」


 あくまで平静を保つリスカーティアを見て、カーネディリアが戦慄に顔をこわばらせた。彼女の異常性を初めて目にすれば誰だってこうなるに違いない。

 だが神官騎士は違った。そんな言葉に惑わされず、一息に間合いを詰めると剣を振るった。

 この時、初めてリスカーティアが動いた。『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』の加護に絶対の自信を持つはずの彼女が、初めて引いたのだ。

 剣はリスカーティアの左腕を斬った。斬り飛ばされた左腕は、霞のように消え去った。

 ヴィーアトロスは驚きのあまりあえいだ。高価な聖水をかけても何ら効果を発揮しなかった霊体が、神官騎士の剣の一撃でたやすく断たれたのだ。


「……どうやら『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様の加護が届いていないようですね」


 リスカーティアは斬られた左手をしげしげと眺めながらつぶやいた。

 

「伯爵邸一帯に神官たちが結界を張った。今宵だけ、この伯爵邸は女神さまの聖域だ。邪神の力など届かぬものと心得よ!」


 神官騎士は決然と告げた。

 

「なるほど。どうやらもうおしまいのようですね。あなたに斬られると、わたしは消滅してしまうのでしょうか?」

「女神さまは慈悲深い。女神さまから祝福を受けた剣に斬られた貴様は、行くべき場所へ導かれる。行先は地獄だろう。そこで罪を償うがいい!」

「それのどこが慈悲深いのでしょうか?」

「今の一撃で仕留めなかったことこそ慈悲だ。最後の言葉を交わすくらいは許してやろう」


 リスカーティアは肩をすくめると、ヴィーアトロスの方に向き直った。


「『安寧をもたらす(ピースフル・)泥濘(マッド)』様の加護なき今、あなたの身体を操ってこの窮地を脱することもできません。どうやらここでお別れのようです。ヴィーアトロス様、あなたとずっといっしょにいると誓ったのに、約束を守れなくて申し訳ありません」

「うるさい! お前なんてとっとと地獄へ行ってしまえ!」


 もう逃れられないと諦めていた絶望から脱することができる。その解放感がヴィーアトロスの言葉遣いを粗暴なものにしていた。

 明確な拒絶の言葉を受けて、しかし、リスカーティアは微笑んだ。

 

「あえて突き放すことで、別れを悲しいものにしないようにしてくださるのですね。そんなあなたのことが大好きです。あなたを愛したことに、なんの後悔もありません」


 リスカーティアは夢見るようにつぶやいた。ヴィーアトロスは鼻白んだ。結局最後まで、彼女には何も通じなかった。

 それは愛する者たちの別れなどではなかった。狂人とそれにおびえる男。見るに堪えない醜悪な光景だった。

 

 もはや情けをかける余地はない。神官騎士は動き出した。

 旋風のような踏み込みから繰り出したイナズマのような一撃は、リスカーティアの胴を両断した。

 上半身と下半身、二つに分けられてなお、リスカーティアは愛しい者を見つめ続けた。


「……でも守り刀をいただけなかったのは、やはり心残りです。だから代わりに、あなたの大切なものをもらっていくことにしますね」


 リスカーティアは崩れ落ちながら右手を伸ばした。ヴィーアトロスは退いてよけようとしたが間に合わない。だがその手は彼の胸を軽く撫でただけで、なんの痛みももたらさなかった。

 微笑みを絶やさずに、床に落ちる前にリスカーティアは消え去った。

 

 彼女が消えると、ヴィーアトロスは崩れ落ちた。

 神官の一人が駆け寄る。調べてみると、彼は眠っただけのようだった。これまでの心労は相当なものだったのだろう。緊張の糸が切れ、眠りに落ちたのだ。

 その寝顔は実に安らかなものだった。

 

 

 

 ヴィーアトロスは伯爵邸の私室のベッドで目を覚ました。

 ベッドの脇には両親と一人の令嬢がいた。

 ぼうっとしていると、令嬢や両親たちが事情を説明してくれた。どうやらヴィーアトロスは、リスカーティアの消滅と同時に気を失い、三日も眠っていたようだった。

 

 令嬢は彼の目覚めをとても喜んでくれた。

 やわらかな黄緑がかったベージュの髪の、可憐で優しそうな令嬢だった。

 彼女はずっとヴィーアトロスのことを甲斐甲斐しく看病してくれていたと聞いた。

 

「どうもありがとう。それで……君はいったい誰なんだ? できれば名前を教えてもらえないだろうか」


 令嬢――カーネディリアは驚き目を見開いた。

 ヴィーアトロスは、カーネディリアに関する記憶をすべて失っていたのだ。





 「砂風の牢獄」という地獄がある。

 この地獄に落ちた亡者は、一人ずつひとつの檻に閉じ込められる。檻の床は所々が鋭くとがった荒い岩でできている。檻の格子も鋭いトゲがびっしりと飛び出ている。

 この檻は野外にあり、時折、砂を含んだ強い風が吹く。檻の中の亡者は、砂の混じった風に肌を削られながら床を転がることになる。とがった床と格子の棘に肉を削られ、更なる苦痛を味わうことになる。

 どれほど傷つこうと亡者が死ぬことはない。既に死んでいるからだ。

 亡者たちはいつ吹くかもわからない風に怯え、痛む身体に苦しみ続けることになる。

 誰もが痛みとそれに耐えることしか考えられなくなるその場所で、しかし、ただ一人別なことを想う者がいた。

 リスカーティアだ。

 彼女は血にまみれながら、胸の中にある大事なものを抱くように、ぎゅうっと自らの身を抱きしめていた。


「愛があれば、どんな苦しみにも耐えられるものなのですね……」


 幽霊は生者の生命力を奪う能力を持つ。神官騎士に斬られ、地獄に送られる間際。その能力を応用して、ヴィーアトロスの大切なものを奪い取った。

 それは、誰かを愛する気持ちと、愛に関する記憶。だからヴィーアトロスはカーネディリアのことを忘れてしまった。

 ヴィーアトロスはリスカーティアのことをなにひとつ忘れてはいない。胸に抱く愛の中に、リスカーティアの居場所はない。

 その意味を、リスカーティアは理解しない。


「ここに愛がある限り、あの人の魂はきっとここへとやって来る。愛する人を待つ時間が、こんなにも幸せなものだとは思いませんでした。ヴィーアトロス様。あなたのことを愛しています。いつまでもいつまでも、あなたのことをお待ちしています」


 亡者たちが苦悶に顔を歪ませるその地獄で。

 リスカーティアは、花のようにしとやかに微笑んだ。



終わり

夏と言えばホラーです。

でも考えてみたら、自分はホラー作品を投稿したことがありません。

そういうわけでホラーを書いてみようと思ったらこういう話になりました。


2024/9/4

 誤字指摘ありがとうございました! たくさん指摘していただいてとても助かりました! ……すみませんでした。

 その他、読み返して気になった細かなところをあちこち直しました。

2024/9/6、9/11

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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― 新着の感想 ―
愛の形の一つではある。ただ、とんでもなく一方通行。 ヤンデレに愛されるのと変わりない。想いの強さって恐ろしいですね⋯ こうなっては壊れてしまう方が楽なのですけど、ここまでぶっ飛んで意識を切り替えられ…
[一言] なんかある意味ハッピーエンドかも? ・ヴィーアトロス→カーネディリアをまた好きになる ・カーネディリア→とりあえずヴィーアトロスの両親には認めて貰えそう ・リスカーティア→待ってるのって幸せ…
[良い点] ありがちな公開婚約破棄ものかと初め思わせての ホラー。意外な展開で面白かった。 ストーカーメンヘラ地雷女の狂愛だった 最後まで自己チューな末路な話。 人の話聞かないよね〜自分の世界で生き…
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