わたくしは物知らずな令嬢だったようです。
「貴女の性根にはほとほと愛想が尽きた!もう、うんざりだ!」
週に一度の婚約者とのお茶会で、わたくしは王太子ルートヴィヒ殿下にこのように詰られてしまいました。殿下は荒々しく席を立ち、薔薇の咲き乱れるあずまやを後になさいます。わたくしを残して。
「性根、とは」
わたくしは頭を拈ります。“根本の心構えや心の持ち方”に愛想が尽きたということは、わたくしの心根がお気に召さないということ。公爵令嬢として、また王太子妃候補として、王宮の教師たちに十年以上指導を頂き、全ての項目で完璧だと認められていますのに。
ここでいくら考えていても仕方がありません。一旦お家に帰りましょう。
立ち上がると、侍女のヨランダは口惜しそうな表情をし、護衛騎士のオスカーは虚ろな目をしています。仕えている主のこんな扱いを見せられては、どんな顔をすれば良いか分からないのでしょうね。しかしここは王宮。誰が見ているか分からないのですから、不敬はいけません。
「帰ります」
わたくしは王宮の使用人に辞去を告げ、公爵家の使用人たちを引き連れて帰宅しました。
❇❈❇❈❇
「納得いきません!」
ヨランダはぷりぷり怒っています。
「マリアさまは、筆頭公爵家のご令嬢、次期王妃となられるお方です!高位貴族淑女の鑑とまで言われている、完璧なご令嬢ですのに!」
そう言うヨランダは侯爵家の三女で、彼女もれっきとした高位貴族のご令嬢です。彼女の目から見ても、わたくしの所作は美しく見えるようです。
「なにやら王太子殿下は、最近下位貴族のご令嬢と仲睦まじいとか。下賤の女に良からぬことを吹き込まれでもしたのでしょう」
「あらあら、ヨランダ。そんなことを言ってはいけないわ。不敬でしてよ」
壁際に控える護衛騎士のオスカーは、わたくしの護衛ではあるけれども、ルートヴィヒ殿下とも仲良くしています。休暇を合わせて一緒に、狩りや遠乗りに出かける程に。
でも。
そうですわね。
良い考えが浮かびました。
「明日、その女性に会ってみましょう」
❇❈❇❈❇
王国の貴族子女は皆、学園に通う義務があります。この学園を卒業しなければ、貴族として認められないのです。当然わたくしも、ルートヴィヒ殿下も通っています。そうでなければ、下位貴族のご令嬢が王太子であるルートヴィヒ殿下と言葉を交わすことなどできません。
「婚約者でもないのに不作法です、とはっきり注意なさってくださいね!」
ヨランダは鼻息荒く、オスカーは呆れたような表情をしています。わたくしは別に、その女性がルートヴィヒ殿下と仲良くされていても気になりません。国王陛下も公妾をお持ちですし、下位貴族の意見を聞くことも為政者としては必要なことです。だから、わたくしが聞きたいのは。
「貴女が、ローゼ=リーリエ・フォン・ベルンハルト男爵令嬢ですね」
「はい、ベルンハルト男爵家ローゼ=リーリエでございます」
ローゼと名乗った少女は、美しいカーテシーをなさいました。
「わたくしはシェーナー公爵家マリア=アントニア・フォン・シェーナー=ブルンネンですわ。頭をお上げになって。以降、自由な発言を許可します」
「はい」
ヨランダがぴくりと反応しましたが、事前に言い含めていた通り、口出しはしてきません。わたくしはオスカーに目配せをし、オスカーを除いた他の使用人たちを下がらせました。
授業中は護衛一人侍女一人を教室の隣室に待機させることができ、他の使用人たちは各々の仕事をしています。放課後はお迎えの使用人が数人来るため、今は少し離れたところにいて貰っています。
ヨハンナは側にいたがりましたが、下位貴族を威嚇しかねないので、なんとか説得しました。本当はふたりきりで話したかったのですが、オスカーは退いてくれませんでした。わたくしの護衛というより、わたくしが彼女に危害を加えないか心配だったのでしょう。オスカーが休日にルートヴィヒ殿下とお出かけされた時、彼女も同行していたようですから。
「率直にお聞きしますわね。わたくしがルートヴィヒ殿下に嫌われるのは、どのようなところかしら」
「は?」
「ルートヴィヒ殿下は貴女を好んでおられて、わたくしを嫌っておられます。貴女から見て、わたくしのどのようなところが至らないと思われます?」
だんだんと青褪めてくるローゼに、誤解のないように言い含めます。
「貴女を貶めるつもりはなくてよ。純粋に知りたいの。何を言われても怒ったり不敬と扱ったりはしないから、正直に仰って」
「で…でも…」
「私が証人となりましょう。何を言われても、マリアさまは決して貴女を罰しません」
「オスカーさま…」
あら。オスカーは彼女に名前で呼ぶ許可を出しているのね。オスカー=フランツ・フォン・フェルセンは侯爵家の次男。いずれは騎士爵を頂くでしょうから、男爵令嬢のローゼと身分的には釣り合うのだけれど。
「ええ、約束するわ」
「では、ひとつお聞き致します」
「何かしら」
「どうして突然そのようなことをお聞きになりたくなったのですか?何かきっかけが?」
ローゼの言葉に、少し眉を下げる。昨日、ルートヴィヒ殿下に言われた言葉は、少し胸に刺さって痛いから。
「昨日、ルートヴィヒ殿下のご機嫌を損ねてしまったの」
「どのような会話をなさいましたか?」
そうねえ。確か、あの時は。
「ルートヴィヒ殿下が市井の民のお話をなさっていたわ。バゲットも買えない民がいると」
「はい、確かにバゲットも買えないほど貧困に喘ぐ層は存在しています」
「ですからわたくし、“バゲットがなければプレッツェルを食べれば良いではないですか”と申しましたの」
ローゼは固まってしまいました。オスカーを見ると、あの時のように虚ろな目をしています。
「シェーナー=ブルンネン嬢、バゲットが食べられない民は、じゃがいもを食べるのです。今この王国には、そのじゃがいもすら手に入らない民が大勢いるのです」
「まあ!なんということなの」
「それを王太子殿下は憂いておいでなのです。そしてそのことに気付きもしない、気付こうともしない貴女にも」
口に出してから“はっ”と我に返り、
「申し訳ありません」
とローゼは頭を下げた。
気付きもしない。
気付こうともしない。
わたくしは。
平民が、どのような生活をしているのかを、知らない。
「ああ…」
「マリアさま!」
ふらりと目眩を起こしたわたくしに、ヨランダが駆け寄ります。ローゼに当たり散らされる前に抑えなければ。
「ヨランダ、下がりなさい」
「しかし」
「わたくしとの約束を、破るつもりなの」
「いえ…」
渋々下がるヨランダを余所に、わたくしはオスカーの手を借りて体勢を立て直します。
「ごめんなさい、少し驚いてしまったの。わたくしの知らないことだったから」
「無理もありません。誰も教えようとしなかった、教える必要性を感じていなかったのだと思います」
ローゼではなく、オスカーが答えます。ああ、ローゼは頭を下げたままですね。
「ベルンハルト嬢、楽になさって。教えてくださってありがとう」
「いいえ。シェーナー=ブルンネン嬢の教育係の方は必要だと思わなかったのですね。王太子殿下も、そこには言及なさらなかった?」
「ええ、何も」
「そうですか…」
ローゼは何やら考え込んでいます。
「ベルンハルト嬢。良かったらわたくしに、ルートヴィヒ殿下に嫌われない方法を教えて頂けないかしら」
「えっ?!」
「どうもルートヴィヒ殿下がわたくしに改善を求めておいでなのは、下位の者に対する考え方のような気がします」
わたくしの周囲にいる人たちは、家族を含め使用人も皆、高位貴族の出身です。屋敷には更に下の下人もいますが、わたくしが接することは禁止されています。聞いても誰も教えてはくれないでしょう。というか、使用人も知らないかもしれません。
「さすがにそれは…」
「ではオスカー、貴方が教えてくださる?」
「えっ?!いや、私もそれ程詳しい訳では…」
やっぱりね。
だとしたら。
「ねぇ、ベルンハルト嬢。春休みの間、わたくしを貴女のお屋敷で働かせてくださらない?」
「は?!」
「我が家ではさせて貰えそうにないし、できたとしても皆気を遣って本当の姿は見せてはくれないわ。他に頼れる人もいないのよ。流石に誰彼構わずお願いする訳にもいかないし」
男爵位のローゼの家に命令して、従わせることは簡単です。けれども、それはしてはならないのだと分かります。ルートヴィヒ殿下のお耳に入れば、より一層嫌われてしまうのは確実ですから。
「ローゼ、俺からも頼めないか」
オスカーが砕けた口調でローゼに頼んでいます。ああ、これが彼の素なのね。
「オスカーさまがそう仰るなら。でも、契約書は書いてくださいね。些細なことで罪に問われるのは困ります」
こうしてわたくしは、約二週間、ローゼの家で働くことが決まったのです。
❇❈❇❈❇
契約書は綿密に書かれました。
父と母と嫡男の兄にはすんなりと話が通り(父と兄にも思うところがあったようです)、わたくしは春休みの間ベルンハルト男爵家で“下女として”働くこととなりました。使用人は連れて行きません。とは言え、何かあってはベルンハルト男爵家に迷惑がかかるので、護衛としてオスカーが来てくれることとなりました。恐らく、わたくしの目に入らないところで、ベルンハルト男爵家全体を外から護衛する騎士も、我が公爵家から派遣されるのでしょう。
家の中はベルンハルト男爵とその夫人、娘のローゼと使用人がひとりだけだと聞いています。わたくしは“シェーナー公爵令嬢から託されたとある貴族の令嬢”で、いずれ平民落ちするのでその練習に、という体で預けられます。男爵よりは上の身分だが気にしなくても良い、ということになっています。
オスカーの調べでは男爵夫妻はおっとりとした人柄で、このふたりとローゼと使用人の四人くらいなら、何かあってもオスカーひとりで守れるとのこと。ちなみにオスカーが休むための夜番の騎士がいて、わたくしが寝てから起きる間に交代するそうです。そしてその者がオスカーの書いた報告書を翌朝父に届けるのだとか。
「では、後のことはお任せしますね、ルイーゼ」
ルイーゼ=ヴィクトリア・フォン・アルフォート=フェルセンはアルフォート侯爵夫人で、我が公爵家の女性使用人頭を務めています。オスカーの叔母でもあります。今回の件で、わたくしが不在の間のことを頼みました。具体的には、使用人たちに有給休暇を与えることと、ルートヴィヒ殿下のことです。
「お任せください」
「マリアさま、やっぱり私も…っ」
ヨランダの言葉をルイーゼが止めました。ヨランダはどうしてもわたくしが心配なようで、付いて来ると言ってきかなかったのです。
「ヨランダ、聞き分けて頂戴。それから、ルートヴィヒ殿下にわざわざ知らせるようなことはしないでね。そんなことをされたら、わたくしは貴女を“処分”しなくてはならなくなるわ」
寂しく笑うと、ヨランダはぐっと堪えてくれました。
そう。
ルートヴィヒ殿下は、“わざわざ”知らせない限り、わたくしに興味を持ってくださったりはしないのです。きっと今回の件も、知らせればローゼに迷惑をかけたことでお叱りになるでしょう。
「いってらっしゃいませ」
ルイーゼを中心とした使用人たちに見送られ、わたくしは公爵邸から出発しました。
❇❈❇❈❇
ローゼに貸して頂いたドレスを身に纏っていますが、布の質が薄く少し心許ないです。わたくしとローゼは体型は似ていますが、わたくしの方がやや華奢なようで、使用人に軽く補正をして貰いました。なぜ彼女のドレスを着ているかというと、男爵家の中でわたくしのドレスに汚れでもつこうものなら、弁償などできないからだそうです。
ベルンハルト男爵家は、領地も領民も持たない、貴族の血を繋ぐためだけに存在している家系です。男子は騎士や文官として王家に仕え、女子は政略結婚の駒になるとか。その辺りは高位貴族も同じですが。
ひとり娘であるローゼは、高位貴族の次男以下の血を取り込むことが求められています。例えばオスカーのような。それでも、もしも求められて嫁入りすることがあれば、血縁の中から男子を養子に取ることも厭わないと、ベルンハルト男爵は言ってくれているそうです。
「いらっしゃい、メアリーアン。まずは私の部屋へ案内するわ」
ベルンハルト男爵家に着くと、ローゼが出迎えてくれました。メアリーアンとは、わたくしの偽名です。マリア=アントニアを文字ることによって作りました。
ベルンハルト男爵夫妻へご挨拶は良いのかしら、と思いつつ、わたくしはローゼに従います。ここではローゼに従うという契約だからです。
「働いて頂く前に、根本的な認識の違いについて確認致します」
「はい」
「朝、起きてから、夜、眠るまでの行動を」
「はい?」
「そもそも、平民は全てひとりで行います。貴女はひとりでは何もできないはずです」
ひとりで何もできない、とは。
「朝、ベッドで目覚めました。さあ、何をしますか」
「大抵は侍女に起こされて目覚めますが、先に目覚めた時はベルを鳴らして侍女を呼びます」
「何のために?」
「履物を履かせて貰って移動し、浴室で顔や髪、身体を洗って貰い、髪を整えて着替えます」
ローゼは両手で顔を覆いました。
「それ、ひとりでできますか」
「やったことがありません」
ああ、なるほど。
わたくしは、ひとりでは、何もできない。
「働く以前に、まずは生活に慣れましょう。できれば三日以内に」
「はい」
いきなり下女の部屋に入れられて働くのは無理だと判断されたのか、わたくしはまず、客室で三日過ごすことになりました。朝、起きてから、夜、眠るまで、ひとりでできるようになるためです。
まずは着替えです。
二枚の布を縫い合わせたようなずぼっとしたワンピースを上から被り、腰の位置で帯を結びます。わたくしでもひとりで着替えられます。足元が心許ないので、下に足首まである長ドロワーズを履きます。これならスカートの裾が少し捲れても、それほど恥ずかしくはありませんし動き易いです。靴も粗末なものをお借りします。
「水がなければ生活できません。さて、水はどこにあるでしょう」
「水魔法の使い手が出してくれます」
「平民で魔法を使える者は多くありません」
「買うのですか?」
「そんなお金はありません」
まあ!水を買うお金もないなんて!
それでは、どこか水のあるところから汲んでくる?
水の多い場所…。
「川、かしら」
「惜しいですね。共用の井戸から汲んできて、溜めておきます。我が家には専用の井戸がありますから、そこを使います」
敷地の角に、小さな井戸がありました。そこから水を汲むのだそうです。まず、ローゼが見本を見せてくれました。真似してみますが、重くて持ち上がりません。
「貴族は脆弱ですわね」
「そんなことはありません。慣れです。そもそも水汲みは平民の子どもが最初にできるようになるお手伝いです。貴女よりも小さくて非力ですよ、ろくに食事もできないのですから。そんな子どもでもできることです」
そう言われては、できないなどと甘えてはいられません。
桶に汲んだ水を厨房に運び、瓶に溜めていきます。大きな瓶みっつ分が満杯になるまで、何往復もします。ここで働く間は、これがわたくしの、朝いちばんの仕事になります。水がなければ顔も洗えないのですから。
「次は火の準備です」
「火魔法の使い手…は、いないのですわね。では…、蝋燭ですわ!」
「は?」
「どこからか火を貰ってきて、蝋燭に灯して置いておくのでしょう?」
「蝋燭は夜の灯りとしては使いますが、明るい内は消しておきます。蝋燭もただではないのですよ」
蝋燭も、使えばいつかなくなるのだと、初めて知りました。
火は火打金で着火するようですが、その都度使うのではなく、炉などの灰に炭火を埋めた埋み火を火種として使用するそうです。火打金や埋み火の使い方も教えて貰いました。
大きな火を使うには薪が必要で、その薪も調達しなければなりません。平民は山へ柴刈りに行くようですが、街中に住む者は買うしかないようです。すぐに使えるように加工してあるものは高く、ここでは丸のままの安い木材を買ってきて、自分たちで割って使うのだとか。刃物を使うのは流石に許可が下りず、そこはオスカーが代わりにやってくれました。
「食事の準備も後片付けも自分でします」
割った薪に火をつけ、鍋に湯を沸かし、野菜を煮ます。これが基本のスープだそうです。男爵家ではベーコンを入れるようです。スープとバゲットが朝食。品数は少ないですが、量は充分ですね。明日からはわたくしもこの食事をいただきます。
「食事は朝夕の二食で、夜はヴルストやカルトッフェルザラートが追加されるけれど、平民はスープと蒸したじゃがいもだけだったりするわね」
なんということ!
平民はお肉類が食べられないの?
それでは力が出ないではないですか。
ぶるぶると震えるわたくしを見かねて、ローゼが困ったように眉を下げます。
「貴女にはちゃんとヴルストも付けますから、安心してください」
「慣れるまでは、それでお願いします…」
そこからも色々なことを習い、衝撃を受けて、夕方にはくたくたになってしまいました。それでも、ベルンハルト男爵にはきちんとご挨拶をしなければなりません。再度ローゼのドレスを借りて、晩餐の席にご一緒させて頂きます。
ご夫妻は前評判通りとても穏やかな方々で、辛ければいつでも相談に乗ってくださると仰いました。夜会等でルートヴィヒ殿下の隣にいる公爵令嬢マリアを遠目に見たことはあるのでしょうが、今、眼の前にいる質素なドレスの素顔の令嬢がそれであるとは、思いもしないのでしょう。
唯一の使用人であるカスターニエ・シュトーレンさん(独身のため“夫人”ではない)とも挨拶を済ませ、明日から世話になる旨を伝えました。
「まあまあ、こんな可愛らしいお嬢さんに下働きが務まるかねぇ」
苦笑するカスターニエさんは、決して見下したように嗤うのではなく、心から心配してくださっているようです。
そんなカスターニエさんの指先が、ひび割れてがさがさになっているのが気になりました。
「あの、痛くはありませんの?わたくしで良ければ治癒魔法を…」
「メアリーアンさん!それは駄目だよ」
カスターニエさんに、ぴしゃりと叱られてしまいました。
「この手は確かに見苦しいものだけれど、この皮の厚さがなければできない仕事もあるんだよ。長年かけてやっと使い勝手の良い使用人の手に育ったのだから、元に戻ると困るだろ」
「まあ、そうでしたのね。出過ぎたことを申しました」
謝罪すると、カスターニエさんはふわりと微笑んで、その温かい手でわたくしの手を包んでくださいました。
「気持ちは貰ったよ。明日からはメアリーアンさんもこの嫋やかな手が傷付くこともあるだろう。その時は、我慢せずに治して良いんだからね」
「はい、ありがとうこざいます。あの、自己治癒力を上げて傷口だけを塞ぐのはどうですか?」
「そんなことができるのかい?」
「はい」
わたくしはカスターニエさんのひび割れた傷口の、赤く血の滲んだ部分にだけ魔力を送りました。微かに光ったそこは、自己治癒によって塞がり、痛みは退いたようでした。
「まあまあ、これはありがたいね。明日からも心置きなく働けるよ、ありがとう」
カスターニエさんの笑顔に、わたくしも心が軽くなりました。
翌日から、本格的に平民に近い生活が始まります。下女として働く予定の三日後までに、せめて自分のことは自分でできるようにならなければなりません。幸いわたくしは魔法が使えますので、最低限自分のことに使うことは許可して頂けました。
起床時間が今までよりも早くなるため、オスカーも付き合わせてしまうことになります。なるべく彼の時間を奪わないよう、夜は早めに休むことにしました。初日からくたくたで、早々に眠りに落ちてしまったようです。
❇❈❇❈❇
朝、目覚めたら自分で服を着替え、ローゼに教えて貰ったように軽く髪を結び、清浄魔法で身支度を整えます。お風呂がなく皆濡らした布で身体を拭くと聞いていたので、昨夜清浄魔法の使用を許して貰ったのです。
水を汲む。
薪を運ぶ。
火を起こす。
食事の準備を手伝う。
洗い物をする。
掃除をする。
洗濯をする。
お湯を沸かす。
細かいことを含めると、もっと多くの仕事があります。公爵家ではそれぞれ専門の使用人がいましたが、ここではカスターニエさんがひとりで全てをこなしています。
「平民は、更に仕事をしていたりするからね。昼間は畑仕事をして、子育てをしながら家のこともする。大変だよ」
想像もつきませんが、それが現実なのでしょう。公爵家に帰ったら、使用人の話も聞いてみたいと思います。
❇❈❇❈❇
ベルンハルト男爵家で働くようになって二週間。最初はどうにもならないかと思われましたが、大分熟れてきたように思います。まだひとりで全てをできるわけではありませんが、掃除くらいなら、どこかのお屋敷で雇って貰えるかもしれません。
「マリア…」
聞き覚えのある声がわたくしの名を呼びました。案内役としてここまで来たであろうローゼの隣には…。
「あら、ルートヴィヒ殿下。ごきげんよう」
約二週間振りにお会いするルートヴィヒ殿下を、カーテシーで迎えるわたくしは下女の姿。見窄らしいワンピースにホーゼ、前掛けをして髪は三つ編みで一本に纏めています。手に箒を持ったままでの礼は不敬に取られるかしら。
「何をしているのですか、貴女は」
怒りよりも戸惑いの声音。
二週間の内、二度の定例お茶会を欠席したわたくしに、流石に思うところがあったのかもしれません。公爵家に問い合わせをされてしまっては、父も誤魔化すことはできなかったのでしょう。
ルートヴィヒ殿下のお姿はお忍びのそれで、何故、わたくしがここにいるのか理解不能といったところでしょうか。いくらかはローゼが説明をしてくれているようで、最初から問答無用でわたくしを悪く解釈なさってはいないようですが。
「ベルンハルト嬢のご厚意で、ここで使用人の生活を体験させて頂いております」
「何故…」
「わたくしは物知らずな令嬢だったようです。ベルンハルト嬢に色々と教わりましたわ。わたくしがお金で解決できるようなことも、元々は領民の血税であると、文字の上では知っていても理解はできていませんでしたの」
ルートヴィヒ殿下は目を丸くされています。わたくしは誇らしげに胸を張りました。
「ルートヴィヒ殿下、わたくし、ひとりで着替えることができるようになりましたの。魔法を使わずに水も運べますし、火も灯せますわ。だから今度は、殿方が学んでおられる経済や法律のことも学びたいです」
「何?」
「わたくし、令嬢としての教育は申し分ない評価を得ておりますの。でも、王妃となるにはそれでは足らない、そういうことでしょう?わたくしはルートヴィヒ殿下に相応しい、対等な会話のできる婚約者になりたいのですわ」
「王太子殿下はメアリーアンさんのことを、過小評価されていたようですね」
「メアリーアン?」
「あら、失礼。シェーナー=ブルンネン嬢のことですわ。誰も教えてくれないことを知らないからといって突き放すなんて、酷いお方。これからは教えて差し上げてくださいね」
もうとばっちりはごめんですわ、とわたくしの肩を持つローゼは、くすくすと楽しそうに笑う。
「その、マリア、辛いことはなかったか」
「慣れるまでは大変でしたけれど、もっと辛い生活を強いられている平民を思えば大したことはありませんでしたわ。わたくしは魔法が使えますし」
「そう、か」
さあ、そろそろお暇の時間です。
「ベルンハルト嬢、お世話になりましたね。色々とありがとう」
「いいえ。こちらこそ、失礼な発言ばかりお許し頂いて申し訳ありませんでした」
「ふふ、わたくしに厳しくしてくれるのはハオスヘルテリンのルイーゼくらいなものよ。ああ、そうだわ、ベルンハルト嬢」
「はい?」
「わたくしのことはこれからも、メアリーアンと呼んでくださらないかしら。わたくしもローゼと呼びたいわ」
「は?!いや、私の名前は自由に呼んでくださって良いのですけれど、メアリーアンさんとは流石に…」
「マリア、それはやめておけ。せめてマリアと呼ばせなさい」
「王太子殿下?!」
「そう、そうね。マリアとなら呼んでくださる?」
「…はい、マリアさま」
良かったわ。わたくしを名前で呼んでくれるお友だちは少ないもの。それに。
「ローゼがルートヴィヒ殿下の公妾になるのなら、更に仲良くなれるわ」
「「「は?」」」
ルートヴィヒ殿下とローゼとオスカーの声が重なりました。
「なんでそうなる?!」
「そんなつもりはありません!」
「殿下に渡すつもりはありません!」
またしても三人の声が重なりましたけれど、今度は違う内容でしたわ。ローゼとオスカーの顔が赤い気がします。
「あら、あらあら、まあ」
わたくしは口を抑えました。
そう、そうなのね。
ルートヴィヒ殿下は、ローゼとオスカーが一緒に出かける口実でしたの。
「ルートヴィヒ殿下。今度お忍びでお出かけの時は、是非わたくしもご一緒させてくださいませ」
「分かっ…た」
ルートヴィヒ殿下の登場に、わたくしのベルンハルト男爵家での使用人生活は、慌ただしく幕を閉じたのでした。
❇❈❇❈❇
今、わたくしたちは繁華街のカフェで流行りのスイーツを楽しんでいます。お忍びなので使用人は連れず、いつもの四人だけです。
「やはり食糧問題が急務だな」
「施すだけでは解決になりませんわ。自給自足、最終的には交易に持って行ければ良いのですけれど」
「自給自足に至るまでには、やはりいくらかは配給も必要です。そのためには民の正確な人数も把握しなければ」
「便乗して水増し請求する輩が増える可能性もありますから、治安維持も考慮しなければなりません」
ただお忍びで楽しむだけでなく、この国の未来について語り合えるようになれるほど、わたくしの“王太子”教育は順調です。ルートヴィヒ殿下の命により、王宮での王太子教育を受けられることとなったのです。
ローゼとオスカーの仲も徐々に深まっているようです。もしもオスカーがベルンハルト男爵家に婿入りすることにでもなれば、伯爵位への二段階陞爵が見込めるとか。早くその日が来ないかと、心待ちにしております。
「難しい話はこのくらいにして、そろそろ休暇を楽しもうか」
ルートヴィヒ殿下のひとことで、議論は終了です。そうです、本来は息抜きのお休みでお忍び探索だったのです。四人とも根が真面目なものですから、ついつい仕事の延長になってしまいますね。
ルートヴィヒ殿下のエスコートで、わたくしは街中を散策します。春休みにわたくしの意識改革が行われ、もう冬が訪れようとしています。学園を卒業したら、わたくしたちは結婚の予定です。物語のように激しい恋情はないのですが、わたくしたちの仲は穏やかに近付きつつあります。
「マリア」
「はい」
「その、私はそろそろ、貴女の信頼を得ることができているだろうか」
「?わたくしはいつでもルートヴィヒ殿下を信頼致しておりますが」
「ああ…いや、なんと言うか、恋心的な…」
「ああ!」
もしかして、ルートヴィヒ殿下は公妾にしたい方がいらっしゃるのかしら。でしたらわたくしにばかり構ってはいられないですわね。立場上、王妃の座を明け渡すことはできませんけれど。でも…。
「ルートヴィヒ殿下。お好きな方がいらっしゃるのでしたら、ご遠慮なくお迎えくださいませ。でも、そちらにばかり構われては、わたくし少し淋しゅうございます。たまには構ってくださいませね」
あら、ルートヴィヒ殿下が目元を掌で覆って天を仰いでいらっしゃいます。
「マリア。私は他に好きな女などいない」
「そうなのですか」
「まあ、少しは淋しいとか構って欲しいとか、そんな感情があると分かっただけ良しとしよう」
「なんですの、それ」
「いや、なんでもない」
その後、ルートヴィヒ殿下はうきうきとした足取りで、わたくしを誘ってくださいました。
わたくしはもう物知らずな令嬢ではありませんが、ルートヴィヒ殿下の心の中は、未だに分からないことが多いです。早く理解できるようになりたいですわ。
わたくしが自分の中の恋心に気付くのは、もう少し先のようです。
〜完〜