黄金の短冊
初めまして。鴨川山賽と申します。
この度、短編小説を投稿いたします。読んでいただけると幸いです。
――――――気づけば俺は灰色の空を眺めていた。
目の前のカーナビの画面には、七月七日と表示されている。
少し気分が悪い。胃のあたりが閊えて、少々吐き気がする。体もだるい。
そんな体の不良を意識的に自覚することをやめた俺は、車のエンジンを切る。先ほどまで出ていたクーラーの冷風もアップテンポな音楽も消える。
車のゴミ箱に俺の足が当たる。捨てられた大量の錠剤のゴミが、カラカラと音を立てた。
車から降りた俺は、むせ返るような暑さに顔を歪める。
「……懐かしいな、ここは」
日が出ていないにもかかわらず目の前の鉄が、灰色の空を反射している。
俺の目の前には、巨大な鉄のドームがそびえ立っている。周りには大きなシャッターが付いており、それが等間隔に並んでいる。無機質な鉄の間から見えるのは、水色の観覧席だ。その中央にある整備されたトラック。
俺は車の鍵を閉め、ドームに沿って歩き始めた。薄汚れたコンクリートブロックを歩く感覚が懐かしい。
――――――俺は、ここに何度も来たことがあった。
花壇にマリーゴールドとサフィニアが咲いている。それらは風に揺れ、灰色の空に抗うかのようにゆらゆら揺れる。
あれから、何年経っただろうか。大学生のころ、俺はよくここに来ていた。
俺はふと、在りし日の何気ない会話を思い出す。
『なあ。若いことって、そんなに羨ましいことなのかねぇ』
『えっ? なんでさ』
俺の友人のカイは、陸上競技場の傍にある木造の東屋で、そう言った。
当時、俺たちはよく夜通し話をしていた。所謂〈だべる〉つもりだったのだが、今思えばそんなレベルではない。
俺たちが二十歳になったころ、ここで朝まで酒を飲んだ。“キリシマ”という名前の焼酎で、それを自販機のミネラルウォーターで割って飲んだことは、忘れがたい初めての酒の記憶である。喉が焼けそうな感覚を思い出して――――――。
俺は自分が、乾いた笑みを浮かべていることに気づいた。そして急に込み上げてくる寂寥感が、気持ちを陰鬱にさせる。
――――――もう、あの日々は戻って来ない。
そう思った時、道沿いを等間隔に埋め尽くすセコイヤの木が見えてくる。俺の進行方向右手には、フットサルができる小さなグラウンドがあった。寝かされたサッカーゴールが、どことなく物寂しさを冗長している。
『どいつもこいつも、若いっていいねー、なんて言いやがる』
『うんうん。わかる。バイト先とかでよく俺も言われる』
『でもさ、若いからって、希望を持って前に突き進んでいるとは限らねーじゃん? 今を生きることが辛い奴だっている。何かをやろうにも、若いからって前に踏み出せないことだって、ないか? しがらみ、とかさ』
『あるある。やりたいことをやれ、って言われてもそんなのないじゃん、って思うこと結構あるな』
俺は、しがらみという幻想にかまけて何もしてこなかった。いや、自分が本当にしたいことなど考えず、見つけようともしなかった。毎日をそれなりに生きて、両親の期待に応えるために大学に行き、適当な会社の面接を受け、内定をもらった。
未来なんて、見てはいなかった。大人が若さを称賛する意味をはき違え、年齢を重ねた俺は絶望した。
でもカイは、あいつは違った。俺のことを理解してくれたが、あいつには夢も希望もあった。
『俺はな、年取った時に、若さをうらやむような生き方はしない。何歳になっても挑戦し続けるし、何歳でも新しいことにチャレンジし続けたい。そうして死ぬ直前に、俺の人生はよかったなって、言えるように生きる。絶対だ』
『はは。すげーよカイは。俺は、そんなかっこよくは生きられないな』
苦笑いする俺を見つめるカイ。今になって、その力強い瞳が脳裏に焼き付いて離れない。当時の俺は、あいつの目を見ることさえしなかったというのに。
『シンはさ、優しすぎんだよな。何でも受け身だろ? 自分の意見もろくに言わず、周りがいいと言うならそうしてしまう性格』
『はは。ぐうの音もでないわ』
『もっと、自分の意見を言えよ。俺、結構心配してんだからな』
『はーい』
俺はカイの言う通り、昔から周りに合わせて生きてきた。優秀な兄がいて、俺は兄の背中を見て後を歩けばよかった。でも幼い時に、俺の兄が事故で死んで、それから両親は俺を大切に大切に育て始めた。何でもやりたいことをやれたし、選択肢はたくさん与えられた。
その行動が、兄への劣等感を加速させるなんて知らずに。
――――――俺は、兄のストックじゃない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しばらく進むと、目の前に東屋が見えてきた。蜘蛛の巣が張っている天井の下に、泥や砂で汚れた木製の机と椅子が置いてある。寂しげに誰かが座るのを待っているようなその席の真ん中に、俺は腰かけた。
あの時はよかったな―――そう思った俺の顔に、湿った風が吹きつける。
――――――もう、あの日々は帰ってこない。俺に残されたものは、何もない。
誰よりもカッコいい生き方をしていたカイも死んだ。あいつは病院のベッドの上で泣いていた。自分が生きられないことを強く恨んで、どうしてこうなったと運命を責め続けた。
俺は、彼の死が訪れるタイミングで糸が切れたように動かなくなった。俺の体は死体になって、立ち上がることすらできなかった。やる気が湧いてこないというレベルではない。目が覚めても、体が動かないのだ。
いや、俺は――――――そんな状態を本当は望んでいたんじゃないか?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「貴方は今、幸せですか?」
俺を救おうと、玄関口で女性がそう言った。
だが、この世界に神様はいないだろう。
生きたい者には死を。逝きたい者には生を。そんな残酷なことを神は許すはずがない。俺は訳の分からぬ宗教家の書いた本を読まされて、そう思った。
愛を以って、救われるのならば、今俺やカイを救ってみせろ―――!
憤りすら覚えて、俺はあの本をベランダから投げ捨てた。
――――――兄貴、カイ。俺、お前らみたいに生きたかったんだ。でも、できなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺は、感極まって東屋の机に泣き崩れた。
もう、すべてが遅かった。自分への励ましの言葉も考えつくした。自分を必死に奮い立たせようとしても、できなかった。
気分を変えようと色々なことをした。色んなところに行って、色んなものを食べて。でも――――――。
辺り一面の景色が、真っ青に染まっていく。
日が傾き、次第に夜が訪れようとしている逢魔時。
――――――ギー、ギー、と鳴く虫の声。遠くで聞こえる野球青年の掛け声。時折香る、草とも花とも違う自然の芳香。
これらは生きているからこそ感じ取れる感覚だ。この運動公園に流れる何気ない時間が、俺の時間を遅らせている。
――――――俺は、本当はどうしたかったんだろう。
もう少しだけ、すべてを閉ざす前に、俺が確かに生きているのだと感じたい。死にたいと願う俺にとって、そう思うことは矛盾している。
目をつむるのは簡単だった。走馬灯のように、俺のつまらない人生が浮かんでは消えていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「どうしてこんな簡単なこともできないんだよ!」
会社の上司は、毎日のように俺を叱責した。俺に投げつけられた書類が、勢いで床に散らばる。俺は泣きそうになるのを堪えながら、それを必死にかき集める。助けてくれるものなど何もない。俺の味方は誰もいない。当時の俺は、なぜ自分がここまで嫌われるのか理解することができなかった。
今考えれば、あの時の自分は、すべての事象を自分のせいにして、どうしてこうなったのかを深く考えて、自分の非を探すことしかしていなかった。それは一見、善い行いにも見える。しかしそれを見た、周囲の人たちはどう思っただろう。
ただ、「はい、すみませんでした。すべて僕が悪いです」と表明するだけの俺は、何よりも怠惰で、自分の考えを持たない人形に見えたことだろう。
「いいか、お前みたいなブラック人材はな、この会社だけじゃない。社会に必要ない存在なんだ。だからせめて、俺の目の前から消えてくれ」
上司のこの言葉がきっかけになって、俺は会社を辞めた。
誰も止めなかったし、誰も心配などしなかった。
道理も、理不尽も、全てを受け入れた俺の末路は、なんとも滑稽な孤独だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お願い! 母が病気で、お金がいるの……必ず返すから百万円貸してくれない?」
高校の時から、唯一と言っていいほど俺と親しくしてくれていた女性が、目を赤くしながらそう言った。
哀願、懇願。嘆願、切願。
俺には彼女が、泣いているように見えた。俺しかいないのだと。俺だからこそ頼むのだと――――――俺は彼女のことが昔から好きだった。
俺は彼女にお金を貸した。「お母さんを大事にね」と柔和に笑ってお金を出した。
それっきり、彼女は俺の前に現れなかった。
心のどこかで、薄々気が付いていた。この女性は、『俺のことをただ都合のいい優しい人』くらいにしか思っていない。だから簡単に関係を絶つこともできるし、心も痛まないのだと。
だが、それを認めることは、どうしてもできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺は目を閉じたまま笑っていた。思い返せば思い返すほど、つまらなく滑稽な人生だった。何も考えず、自分の意見も言わず、ただ流されるだけの人間を、どうして優しい人などと言えるのだろうか。そんなもの、優しさなどではない。ただの愚かな怠惰である。
俺の嘲笑は、誰もいない公園を侵食する闇に吸い込まれて消えた。
ひとしきり、自分を嘲笑ってから、しばらくの沈黙を待ち、俺はふと目を開ける。
俺が目を開けた時、美しく無垢な瞳が俺のすべてを覗き込んでいた。
「うわっ!」
夜空を内に秘めたような、雄大で、繊細な青い瞳―――その持ち主は、パチパチと瞬きをして、光がこぼれぬよう瞳の中に収める。
俺はつい、体のバランスを崩して背後に転んでしまった。頭を打ちかけて咄嗟に手で庇う。
「……だいじょうぶ?」
その澄み切った声は、まるで世界を浄化していくように東屋の中に染みていく。俺はじっと、その声の主を見つめた。
幼い少年だった。黒髪の上に、おだんごのような髪飾りが乗っている。よく、奈良時代くらいの貴族がつけていそうな髪飾りだと思う。袖が大きく広がった藍色の半纏には、天の川のような美しい意匠が施されている。
「モ~」
少年の背後に、巨大な茄子があった。その茄子は、木の足がついている精霊馬のような姿で、牛のように鳴いてのっそりと動く。少年はまるで空中浮遊するかのように、ふわふわと茄子の元へと向かい、茄子をなだめる。
俺は、まるで夢の世界にいるかのような不思議な感覚に襲われた。
何が何だかわからず、戸惑っている俺を見た少年は、にっこりと笑って俺の手を取る。
少年の細く繊細な手から、とても温かいぬくもりが伝う。俺は自然と、全身の緊張が解けていくのを感じた。
「よぞらがまってる」
「夜空……?」
そういえば、今日は七月七日だ。
しかし雲に覆われ、星は見えない。
少年は俺の手を引っ張ると、東屋の外に連れ出す。幾重にも重なり、空を覆う黒い雲は、夜の訪れと共にその色を濃くしていた。
「おにいさんは、ほしはすき?」
少年は唐突にそう聞いてきた。俺の頭はまだ混乱している。
「え……うん。好きだよ」
適当に返事をした俺を見て、少年は楽しそうに歩き始めた。公園の先、森の中にぐいぐいと入っていく。
「あの……君は誰なの? 俺は夢を見てるのかな、なんて」
つい、思っていることを口走ってしまう。少年の見た目、声、いや存在そのものが現実を否定するようなものに思えて仕方ない。俺は少年と手をつないでいない方の手で頬をつねってみるが、特に何も起こらなかった。
「ぼく、あるた。おにいさんは?」
「……俺はシン」
アルタと名乗った少年は俺の顔を見て、またにっこりと笑う。その笑顔に一切の曇りはない。まるで宇宙そのものが笑ったかのような、広くすべてを包み込む優しい笑顔だった。
「ぼくはね、シンおにいさんのねがいをかなえにきたんだ」
「俺の願い?」
「うん。きょうはたなばたまつり。みんなのねがいが、そらにとどくひ」
アルタは不意に立ち止まると、前を指さす。
――――――そこにあったのは一本の大きな笹だった。
いつの間にか空は晴れていた。雲が逃げるように四方へ散って、うっすらと赤い空が、笹の奥に見える。俺の瞳に、まるで絵画の世界を切り取ったかのような、美しいグラデーションが映る。
空には、多くの星が浮かんでいる。その一つ一つに照らされるようにそびえる笹が、俺を呼んでいるような気がした。
――――――星が、生きている。
不思議な感覚だった。これから死のうとしている俺に、星々が生の美しさを説いているような、そんな感じ。いや、星々の輝きそのものが生であるとさえ思える。
そのあまりの美しさに、俺の目には自然と涙が溢れていた。
「あれ、おかしいな」
俺は必死に涙を手の甲で拭う。しかし壊れた蛇口のように、俺の目は涙を止めてくれなかった。
「……シンおにいさんのねがいはなに?」
アルタは、俺に再び夜空のような瞳を向ける。この瞳で見つめられると、俺の中の邪悪な部分がすべて浄化されるような気がする。
――――――死にたくない。
俺が絶望した世界が、今更このような美しい景色を見せてきた。そんな考えが少しでも浮かんだことで、これまで堪えてきたものが一気に吐き出される。
俺は笹の前で膝をつく。
「俺は……俺は! この世界から消えたい。だけど、こんなものを! 世界の美しさを見せられたら、俺は。どうしたらいいんだよ!」
俺は、俺の生きる世界が嫌いだった。兄が死に、会社を辞めた。貯金をだまし取られた。親友は病で死んだ。
誰よりも楽しく生きようとしていた親友が、死んだのだ。俺なんかの命より、神はそんな奴の命を奪った。こんなふざけたことはない。俺はすべてに絶望した。生きていることに、意味など感じない。だから、死のうと思った。親友と、カイと同じ場所に行ければいいと思った。
『さらさら揺れる 笹の葉は きらきら流れる天の川。
一つ一つと願いを込めて 空の彼方へ届けよう』
そんな時、俺の耳に童歌が聞こえた。この美しい空全体に響くような、澄んだ声で。
聞いたことはなかったが、どこか哀愁を感じて俺はアルタを見つめる。
「みて。あれ、あまのがわだよ」
俺のズボンをぎゅっと引っ張ったアルタは、天を指さす。
一際輝く星が密集している箇所があった。川と言うより、宇宙を切り裂く亀裂のように見える。そんな圧巻の光景に、俺の涙は止まる。
「どんなにあえなくても、どんなにとおくはなれていても、だいじょうぶ。
こころがつうじあっていれば、さびしくないよ」
アルタは、袖から、一本の細い棒を取り出す。その先には、吹き流しがついていて、色とりどりの綺麗な飾りが、風に揺れる。アルタは小さな体を大きく使って、それを振った。すると、小さな星が吹き流しからたくさん放出され、その輝きが俺を包み込む。
――――――温かく、優しい人の光だった。
くるくると俺を励ますように回り、徐々に小さくなって消えていく。
俺は少し悲しくて、つかもうとするが、つかめない。
「ほしはね。かたまって、おおきなはしをつくるんだ。そしていちねんにいちど、あまのがわにかかる。
ぼくらはかんしゃをこめて、ほしをあつめる。
そしてみんなにおすそわけをするんだ」
アルタはもう一度、棒を振る。
星々が一つに集まり、形を成していく。
それはやがて、四角い黄金色の短冊になり、俺の手元に落ちてきた。
「ささにかけてね。シンおにいさんの、ねがいごと」
俺が、こんなに温かい人の思いの結晶を――――――使うというのか。
そんな資格が俺にあるというのだろうか。俺は世界に絶望したのだ。生きていても仕方がないと。俺が生きてきた時間には、たくさんの人の思いがあったのに。それをすべて台無しにしてまで、俺は死のうとしたのだ。そんな、俺が――――――。
俺の体は震え始める。怖かった。
世界を嫌った俺に、世界がほほ笑んだ。そんな都合のいい話があるはずない。
しかし、アルタは俺の心を静めるように、ぎゅっと抱きしめてきた。優しくて、温かくて、いい匂いがした。それだけで俺が、幸せだと感じられるように。
「……ありがとう。本当に、俺が使ってもいいの?」
「もちろん。ぼくはシンおにいさんが、やさしいいいひとだって、しっている。みんなもそれを、しっている。だから、かいて。たんざくに、ねがいを」
俺はもう一度、天を見上げる。
人の温かさが星になり、すべてを照らすのならば。
人の思いが形となり、それが叶うのならば。
俺が書く願いは、もう決まっている。
俺は、アルタから受け取った筆に、心を込めた。
そして、願いを書いた。
『この世界中の人々が救われますように』
俺が感じた光を、俺と同じ境遇の人に感じて欲しい。人の心、温かさを否定しないで欲しい。
どんなに絶望しても、きっと未来はあるのだと。
俺を救うのではなく、すべての不幸な人たちを救って欲しい。それが俺の傲慢な願いだった。
黄金の短冊を笹に懸ける。
短冊は、一際大きな輝きを天に向かって伸ばす。やがて、光の柱となって、星々と同じところまで行きついた。
俺はその様子をいつまでも見つめていた。
いつまでも、ずっと――――――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アルタは大きな茄子に跨ると、空を駆けた。ぐんぐん高度があり、雲を突き抜け、星の海を進んでいく。
七月七日。町のいたるところにあった笹には、色とりどりの短冊が懸けられていた。
――――――人の思いが形となって、星は生まれる。
東屋で、眠るように天に旅立ったシンは星になった。
涙で顔は濡れていたが、とても安らかだった。
ありがとう。
アルタが握っていた光の粒が、そう言ったような気がして、アルタは寂しそうに光の粒を見つめた。