70.出会い
自分の身体をサンドバッグにしてようやく手に入れた水も、情け容赦ない暴力で大半を吐き出してしまった。
「うぅっ…。くそぉ、こんなところで負けるもんか…。」
呻きながら、重い足取りでいつもの路地裏に戻っていく。
ロッカがねぐらにしているその場所は捨てられたゴミが山のように積まれているすぐ近く。
スラム街の中でも特に異臭が強く、害虫や害獣が蔓延っていて、同じ住民たちでさえ避けて通るような場所だ。
ハエややぶ蚊、ねずみはもちろん、ゴキブリや蛇の類まで出てくるような場所だ、
若干8歳の少年にとっては苦痛でしかないこの環境で、しかしロッカの心は折れてはいない。
いや、もしかしたら最愛の両親から浴びせられた強烈な侮蔑と憎悪を経験した彼には、折れるような心すら残っていなかっただけなのかもしれないが、それでもどうにかこの場所で生き延びてきたのだ。
「…?」
違和感があった。
人の気配を感じる。
ロッカは小さくため息をついた。
(また、寝る場所を変えなきゃならないのかな?)
まだまだ子供のロッカは、後から流れ着いてきたならず者にねぐらを奪われ、その度に、さらに酷い環境へと追いやられてここに至る。
誰もが避けて通るようなそんな場所に人が来るのは、何かろくでもないことの始まりに違いなかった。
「…ここは、お前のねぐらか?すまないが、ちょっと…借りてるぞ…」
ろくでもないその何かが声をかけてきた。
30代か40代くらいの男だった。
紫色に山吹色の服を着ていて、身長がとても大きく、短く丸めた金色の頭が目立っていた。
ロッカは小さなため息を吐いた。
(はぁ。やっぱり、ろくでもない事みたいだ…。)
男の身体から血が流れ出ている。
面倒事に違いなかった。
右肩と太ももに矢が1本ずつ。
背中にもナイフが1本刺さっている。
「…おじさん、大丈夫?」
面倒事はごめんだが、彼を邪険にしたせいで、話がややこしくなってもつまらない。
世間話でもするように、とりあえず声をかけてみた。
「…なんてことはない。だが少しだけ休ませてほしい」
不愛想な男だと思った。
だが、乱暴な人間ではなさそうだ。
(なんてことない?)
「…ねえ、おじさん。」
肩と足に刺さった矢は別にしても、わき腹に刺さったナイフの傷は浅くはなさそうだ。
「どうした、ボウズ…?」
「…おじさん死にそうじゃない?」
歯に衣を着せないロッカの物言いに男は苦笑した。
「お前、随分とはっきり言うな…。まあ、子供から見てもそれくらいは分かるか。」
強がりだったのか何なのか、やはりなんてことないケガではなかったようだ。
「回復薬とか持ってないの?」
「…はぁ、はぁ……ない。」
「どうしようもないね。」
「ああ…。どうしようもないな…」
男の荒い息遣いが少しずつ弱っていく。
「…………」
「…………」
少しの間、ロッカはこうなった理由を聞くべきかどうか考えていた。
聞いたら面倒なことになりそうだと思ったからだ。
だが、なんとなくこの男を放っておけない気がしたロッカは、怪我をした理由を聞いてみることにした。
「なんで、ケガしたの?けんか?」
「…はあ、はあ………ボウズ。あ、あまり余計なことに首を突っ込まない方が身のためだぞ。特にここではな。
まあ、死ぬかもしれないし、教えてやるか…。俺はな、この国に追われてるんだ。」
少しだけ呼吸を整えた後、男は質問に答えてくる。
「ふーん」
矢とかナイフとかが刺さっている時点で誰かに襲われたことは明白。
あまり、予想外の事でもなかったのでリアクションも薄い。
「はぁ、はぁ…。」
「…。」
男の呼吸が弱い。
会話が途切れたが、ロッカもこれ以上無理させようとは思わなかった。
「あ、そういえば…」
男にも聞こえないように小さく呟くと、しゃがんでいたロイは立ち上がって横になっている男を跨いで、奥のゴミ山の方へ行ってしまった。
ゴミ山の麓に行くと、近くにあった手ごろな石を拾い、ガリガリと地面を掘り始めた。
―。
――。
―――。
カツンッ
「あ、これだ!よかった……まだここにあったんだっ」
掘り進めた場所に埋まっていたのは、液体の入った小振りな瓶。
世間では『ポーション(回復薬))』と呼ばれる高級品である。
どうしてこの街最底辺の薄汚い子供がそんなものを持っているのか。
それは、ロッカがここに流れ着いてから2か月程経った時に起こった。
『起きろ』
『ん、んん…?』
寝ていたロッカは、頭をゴスゴスとつま先で小突かれて目を覚ます。
『あ、あなたは…?うぐぅ…ッ!』
ぼんやりとした意識の中でロッカが問うと、顔を踏みつけられて地面に釘づけにされてしまった。
『俺のことなどどうでもいい。
いいか?お前にこれをやる。死ぬかもしれないケガを負った時に飲め。運が良ければ生き延びるだろう』
コトン
と耳元で地面に何かが置かれた音がしたと思った瞬間、顔を踏みつけていた足が無くなり、既に人の気配も何もなかった。
『あれは、一体…?』
踏みつけられていた鼻と目を抑えながら起き上がると、そこには小瓶とパンが一切れおかれていた。
何も分からないまま、しかしロッカはその瓶を御守代わりにずっと持っていた。
ねぐらを奪われたときも、見つからない場所に隠してやり過ごした。
そんな大事なお守りを、ロッカは見ず知らずの男のために使おうと思っていた。