3.オースティンの場合
第三王子オースティンは、今回の一連の出来事を、ただ見ていることしかできなかった。
スノードラム子爵家のイライザは、オースティンの乳兄弟であった。彼女の兄であるスノードラム子爵家嫡男のダニエルが赤ん坊の頃、ダニエルの母エマが乳母として王宮に上がったのだ。
エマは、スノードラム子爵から常日頃暴力を受けていて、我が子を守るため身重の体で逃げる先を探していたらしい。5歳上である第二王子の乳母がエマの姉で、その繋がりで第二王子の乳母の元で匿われていたが、妊娠が判明したばかりの王妃がその話を聞いてエマと面談し、気に入ったからということで、王妃が自身のお腹の子供の乳母となることを望んだのだ。
そうしてやってきたエマと赤ん坊のダニエルは、スノードラム子爵に見つからないよう王宮の奥に一室をもらった。もともとオースティンは第三王子で王位継承権が低かったため、彼の乳母の爵位などを気にするような周りがいなかったことが幸いした。また、エマ自身が結婚前は伯爵令嬢であったため、高位貴族としての最低限の振る舞いができていて、オースティンを教育できる身分にあったことも大きい。
エマは心優しく、第二の母として十分すぎるほどの愛情で慈しんでくれたし、同い年のダニエルとは、本当の兄弟のように仲良く過ごすことができた。
だがエマは、ある日王宮でスノードラム子爵に見つかってしまった。もしかしたら彼は、執念深くエマの逃げた先を探していたのかもしれない。
一旦は無理矢理子爵家に連れ戻されたエマとダニエルであったが、王妃がエマにはオースティンの乳母としての役割があるのだと言い、何とかエマを王宮へと連れ戻すことができた。
やはりエマは暴力を受けており、再び体中痣だらけになっていたという。
スノードラム子爵は、対外的には理知的な紳士と見られていた。しかし、エマに対する態度を鑑みるに、家庭内では加虐性に溢れた人物であったらしい。
エマは自分たちの身の安全のために離婚を望んだが、彼は反抗的なエマに対して躾をしていただけで、これは暴力ではないと言い続け、家庭内のいざこざ程度で離婚などするわけがない、とエマの言い分を認めなかった。また、もしエマが乳母を続けるにしても、嫡男であるダニエルを連れて行くことは認めないと言い張った。そう言うことで、エマが諦めて自分の元へと戻ってくると思ったのだろう。
しかし王家はエマを帰さなかった。ただ、乳母の役割としてエマを引き取ると言った手前、ダニエルも寄越せとは言うことはできず、ダニエルは子爵家に残ることになってしまった。
そこで王妃は、エマのために王家の使用人からダニエルの世話係の女性を出し、世話係とその夫を監視人として、子爵がダニエルに暴力を振るわないか確認し続けた。また、オースティンの遊び相手としてダニエルが必要であると言って、ダニエルを足繁く王宮へと連れだすことに成功した。
王妃がエマのためにここまでしたのは、エマを気に入ったということもあるが、実は王妃が慈善事業として行っていた孤児院や修道院の実情改善を狙ったことによる。
修道院は、通常の修道士の生活の他、逃げてきた女性や子供を一時的に匿うことも多い。そこに逃げ込んでくる女性は、家を追い出された者、伴侶を亡くした者などがいるが、その他に伴侶の虐待から逃げてきたという者もそれなりにいて、そうした一時保護した人たちにかかる経費が修道院の経費を圧迫していたのだ。
追い出されるのも、伴侶が亡くなるのも止める手立ては中々に見つからないが、せめて伴侶の虐待を止めることが出来たら、逃げ出す女性が減り修道院の経費に余裕も出るのではないか。
では、虐待を止めることは現実的に可能か、と王妃が考えていた矢先の出来事であったことが大きかった。いわば、スノードラム子爵家は実験の場でもあったのである。
そうしてエマは再び王宮で過ごすことができたが、残念なことにエマは子爵家に連れ戻された時に子ができていたようで、生まれたのがイライザだった。エマは妊娠に気付き、乳母としてオースティンの世話ができないと辞意を表明したが、彼女を子爵家に戻すのはあまりに危険すぎると判断した王妃は、そのまま乳母として王宮にいるよう勧めた。
身近で赤子を見る機会を得たオースティンは、生まれたイライザを可愛がった。自分より4つ下のイライザは、抱きしめるといつも柔らかくて温かかった。王宮にたまに来るダニエルよりも、身近でイライザを見ることができたオースティンは、イライザの第二の兄のつもりで彼女を守るとその赤子の手に誓っていた。
乳母としての役割は、赤ん坊のうちはただ乳を与えるだけだが、以降はトイレトレーニングや情操教育を行い、また7歳前後から始まる本格的な教育の前段階である、基本的な教育指導も含む。それ以降の乳母は、より高度な教育係やメイド長などに形を変えて王家に仕えることが多いが、エマは家に残してきたダニエルを心配していたため、オースティンが7歳で本格的な教育が始まる頃には、エマは職を辞してイライザと共に子爵家へと戻ることになった。勿論王妃が与えた監視人たちには、そのまま子爵家にいてもらうこととしたが。
以降エマと会うことはなくなったが、12歳から学園に通うようになったオースティンが自身の側近としてダニエルを指名したこともあり、ダニエルから子爵家の様子を聞くことができた。エマも元気そうで、何よりイライザが無事に成長していることが嬉しかった。
子爵は監視人がいるためか、表立った暴行はなくなったようだが、その分屋敷内では絶え間なく暴言をまき散らすようになったようだ。また、酒を飲むと箍が緩むのか、エマを殴ろうとすることは往々にあるらしい。段々とダニエルの体が大きくなってきたため、危険な時はダニエルと監視人二人で間に入るようになり、事態を収めているとのこと。
ダニエルはエマのためにも子爵を早く隠退させて、自分が子爵家を継ぐのだと意気込んでいた。
側近であったダニエルから、イライザが15歳で社交界にデビューする聞いた時は、久しぶりに見ることができるイライザを楽しみにしていた。第二の兄のつもりでいたのだが、実際に夜会でイライザの姿を見たオースティンは、成長したイライザの美しさに目を奪われてしまった。
お互いにダニエルを通して相手の話は聞いていたので、久しぶりの会話でもぎこちなさはなく、話は弾んだ。
また会いたい、そう思ってダニエルに仲介を頼み、何度か顔を会わせる機会を得た。幼い時分に守りたいと思っていた庇護欲は、話をすればするほど情愛に変わっていった。イライザを愛おしく思う気持ちが強くなり、今は公にできないが付き合ってほしい、と懇願して了承を得た時は天にも昇る気持ちだった。
オースティンの王位継承権は低いので、いずれ臣籍降下する。その時の爵位はおそらく侯爵家か伯爵家となるため、望みさえすればイライザを妻にと迎えることは難しくはなかったのだ。
ただ、子爵の加虐的性格を考えた際に、王家として子爵に弱みは見せたくなかった。オースティンの弱点がイライザだと子爵が知ったら、それをネタに何をするか分からない。理解しがたい加虐性を持つ人間の前で、隙を見せるわけにはいかなかった。
だから、イライザには少し待ってもらうことになるが、早めにダニエルに爵位を継いでもらって、彼が当主になってからイライザに求婚をしようと思っていたのだ。
しかし、それが仇となった。確かにイライザの年齢を考えると、婚約者が宛がわれる可能性を考えなくてはいけなかったのに。
婚姻は家長が権限を持つ。子爵が侯爵家と政略結婚を行うとなったら、もうオースティンには止める手立てはない。嘆き悲しむしかなかったオースティンであったが、運良くというべきか、グリンドノム侯爵家嫡男のランバートは屑男であった。
イライザの悪評を流し、自分のつがいを堂々と周りに紹介する。たとえ学園内とは言えつがいを紹介するということは、式を挙げていないだけで自分の妻であると言っているも同じこと。ならばイライザと結婚などできるわけがない。
ランバートの婚約の話が出た時、ずっとオースティンの傍にいたかった、と静かに涙を流して別れを告げたイライザを思い出し、オースティンは心を決めた。イライザの悪評を広めることで、イライザ有責で婚約破棄を狙っているらしいランバートのために、婚約破棄は許そう。
しかし破棄した後に、王家公認で真実を広めてやるのだ。イライザの悪評はすべて事実無根であると。そして、全ての状況が落ち着いたらイライザと結婚するのだ。子爵を何とかして。
そう考えて策を練っていたある日、側近であるダニエルが他の側近がいない隙にボソッと呟いた。優男が顔を顰めると、かなり嫌そうに見えるものだ、とオースティンはダニエルの顔を見ながら思った。
「実はですね、イライザにつがいが見つかったんですよ」
え、と声が漏れた。もう会うことができなくなっていたイライザの顔が頭の中にちらつく。
イライザは抑制剤を飲んでいなかったのか。
オースティンはつがいなどを求める気持ちは全くなかったし、王家として厄介な相手――例えば犯罪者だったり、敵国のスパイだったりした場合だ――がつがいとなる可能性は排除しなくてはならないので、抑制剤を当たり前のように飲んでいた。
イライザも自分と恋仲となってくれていたので、つがいを求める気などないと思っていたのに。
オースティンの落ち込んだ様子を見て、ダニエルが慌てて話を続けた。
「あ、抑制剤を飲んでいないのは父のせいです。父が、イライザが高位貴族のつがいである可能性に賭けて、ずっと飲ませてもらえなかったんです。今回も婚約してすぐは飲ませてもらえましたが、破棄されそうだからとまた飲ませてもらえなくなりましたね。イライザは殿下のことを想って、ずっと抑制剤を望んでたんですけどね」
ダニエルの言葉にホッとした。イライザは、つがいなど探す気はなかったということか。しかし、つがいが見つかったということは……。そこで先ほどのダニエルの表情を思い出した。つまりは、良くない相手だったということなのだろう。
「相手がね、さすがにヤな奴で。覚えてます? 直ぐに自慢を始めるフレデリック。あいつがつがいだったらしいです。先日の夜会で、つがいを見かけたとイライザが俺に耳打ちしてきたんですよ。『つがいだと思うんだけど、すごく性格が悪そうな人なの。馬鹿にしたような目で周りを見ているわ。ばれないと思っているのかしら』と。一体誰かと思ってみたら奴で、一目見ただけで性格がわかるってすごいな、とイライザの観察眼に笑ってしまいましたけどね」
イライザのつがいが、事もあろうにフレデリックだと知って驚いた。
フレデリックは在学中頭は良かったが、その頭の良さを鼻にかけ、他者を見下す傾向にあった。一度はオースティンの側近になりたそうな様子を見せていたが、その性格がどうしても認められずに遠回しに断ると、学園卒業時にはこれ見よがしに自分が宰相補佐官候補となったことを自慢してきた。第三王子の側近などより、将来性があると匂わせるその言い方に、呆れるしかなかった。
『いや、宰相補佐官の、さらに何人もいる候補の一人でしかないんだよな?』
そう言い返したくなったが、本人がいたく大真面目に自慢しているらしいと知り、却って空恐ろしくなった。自分はいずれ宰相になるのだとでも言わんとしているその態度に、他者を見下すその性格を直さない限り決して上に立つことはないと思うがな、とオースティンは心の内で思うに留め、おめでとうと返しておいた。
そんな男が、イライザのつがいだと? 内心苛立ちを覚えたが、イライザが相手を全く気に入ってなさそうなことに安堵した。
つがいは、本能がフェロモンを感受して惹かれるものだとはいえ、相手の表情や醸し出す雰囲気によっては、そのフェロモンを超えるほどの嫌悪感を持つ場合もあるのだ、とその話を聞いて納得した。やはりつがいというものは、何にも勝るものなわけではない。というか、つがいであっても出会って以降は通常の恋愛と同様に、相手に選ばれるためには努力が必要なのだ。
「フレデリックは気付いてないみたいでしたね。イライザも気付かれたくないのか、直ぐに帰ると言い始めましたし。途中退場することで父に罵倒されましたが、それでも体調不良だと言い張り、私と一緒に先に帰ってきましたよ。父につがいが見つかったなんてばれたら、どういうことになるか分かったものじゃないので」
確かに子爵につがいが見つかったとばれたら、婚約破棄されそうな今、イライザの新たな売り込み先が見つかったと、半ば無理矢理にフレデリックに娶らせようとするに決まっている。
「ダニエル、お前子爵家継げないか」
オースティンは、結構本気でダニエルに聞いてみた。早めにダニエルが子爵家を継いでくれないと、子爵が何をしだすかわかったものではない。イライザを手に入れるためには、やはり子爵に早めに身を引いてもらわなくては。
「父を追い落とせる方法を探しているんですけどね。細々した悪事は見つかっても、王家に子爵交代を進言できるほどのものじゃないんですよ。どこかで酒に酔っ払って、外部の人間に怪我でもさせてくれれば一発なんですけどね。それこそイライザの婚約者の侯爵家子息とか」
「おいおい」
確かに良い案だと言いたくなったが、外面の良い子爵が子爵家以外で暴力を振るうことは流石にないだろう。ただ、夜会に現れた子爵に、強めの酒を差し入れるくらいは駄目元でやってみてもよいかもしれない、と頭の片隅にメモしておくことにした。可能性は一つでも多いに越したことはない。
「とりあえず、フレデリックにつがいだと気付かれないようにしてくれよ」
イライザが面倒なことに巻き込まれるのは可哀そうすぎる。それでなくともランバートによる婚約者騒動で、イライザは理不尽な悪評に塗れているのに。これにフレデリックが混ざると、不貞騒ぎにすらなりかねない。これ以上イライザの悪評を増やすわけにはいかない。それがわかっているだろうダニエルは、深く頷いた。
「勿論。イライザも、しばらく夜会には顔を出さないと言ってますよ」
そう聞いて、オースティンはやっと落ち着くことができた。
イライザに会いたい。それは事実だ。けれど夜会で見かけたら、声を掛けたくなってしまう。声を掛けたら、その手に触れたくなる。その背に触れて、ダンスを踊りたくなる。イライザを愛おしいと思う気持ちが溢れ出てしまいそうになる。
だから今は、どれだけイライザに会いたくても我慢するしかない。夜会で彼女の姿を見れないのは寂しいが、会わないのが一番だと分かっている。
彼女が明らかに事実無根だとわかる悪評で、婚約破棄されるまで。
その間にイライザを迎える準備をしっかりしておくから、と心に決めて話を終えた。
宣言通りイライザはしばらく夜会を欠席していたが、子爵から夜会参加を義務付けられたようだ。捏造された噂であっても、悪いのはそれを抑えられなかったイライザだと言って憚らない子爵は、婚約破棄される可能性が高い今、つがいを見つけるかより良い高位貴族を必ず落として来いと厳命したのだという。まだ一応婚約中なんですけどね、とダニエルがやれやれといった顔つきで知らせてくれた。
そうして行われた夜会の日、オースティンは静かに壁際に立っていたイライザを見つけた。おそらくフレデリックに見つからないようにと、わざと壁の花に徹しているのだろう。
そのまま見つめていたいのを必死で我慢して目線を逸らした時、フレデリックが熱い眼差してイライザを凝視しているのが見えた。
あぁ、フレデリックも気付いてしまったか。
イライザは、少し離れたところにいるダニエルの方を見ていて、その目線を動かすことはない。きっとフレデリックから見られていることに気付いて、あえて視線を逸らし続けているのだろう。
しかしフレデリックの目付きは、慈しむものではなかった。熱い眼差しではあるものの、その眼は決して優しくはなかった。つがいを見つけたというのに、何故にその眼差しに優しさが滲まないのか、オースティンには不思議で仕方が無い。
相手を愛おしく思わないのか。つがいは本能で求めるものではないのか。勿論イライザのように、それ以上の嫌悪感を相手に持ったというのであればそれは仕方ないと思うが、欲目かもしれないが、華奢で見目の良いイライザの印象が悪いとは思えない。ただ、事実無根な悪評が流れているだけだ。
隣の男と話をして、フレデリックが顔を歪めるのが見えた。おそらく噂を聞いたのだと思われる。だがオースティンには、フレデリックの様子は嫌悪というより憤怒に溢れているように見えた。
フレデリックも子爵のようなタイプなのかもしれない、とその時にオースティンは理解した。おそらくフレデリックも加虐的な性格で、自分の思うように動かない相手に対して一方的に怒り、他者を虐げることに躊躇がない人間だ、と。
それでも、オースティンはフレデリックに、子爵のようにはならないでくれと祈った。つがいを見つけたことによって、その愛おしさを認識して自らを振り返り、他者に対して優しさを得てくれるようにと。勿論イライザを渡すつもりはないが。
けれど、祈った結果は最悪であった。フレデリックは、イライザを殺そうとした。噂の中身を精査することもないまま、何の躊躇いもなくイライザの背を押したのだ。
つがいが嫌であれば、最初から抑制剤を飲むべきであったのに、とオースティンはフレデリックを殴りつけたい気持ちになった。
他者からつがいの紹介を受けた際には、馬鹿にしたような笑みで祝辞を述べているくせに、自身は高位貴族の婿となれる可能性に賭けて、つがいを探す。その矛盾に気付かない時点で、フレデリックの頭の出来など大したことはないと言いたくなる。
学生時代の頭の良さなど、教えられたことをどれだけ覚えられたかでしかない。百点満点の解答など存在しない現実に起こる多くの難問に対して、より最適な解決策を生み出すような柔軟さがないフレデリックが、宰相補佐官の地位にすら上がれるわけもない。
せめてイライザを信じて、噂の真偽を確かめるくらいすべきであったのに。
あの日、イライザが執務室に来たのは偶然だった。
側近であるダニエルが面倒臭がった子爵の代わりに領地に行く必要が出て、数日休暇をもらっていたが、その間に子爵が酒に酔って暴れたとのこと。いつもはダニエルも止めに入っていたため、監視人一人では止めきれずにとうとうエマに暴力を振るったらしい。見かねたイライザも止めに入り、壁に打ち付けられはしたが、その反動でか子爵も倒れ頭を打ったのだと。
そして、打ち所が悪かったのか子爵は現在記憶が混濁しているようで、この状態が続くのであればダニエルに爵位の譲渡は可能か、と質問に来ていたのだ。
この状況を誰に話して良いか分からなかった。頼れるところがここしかなかった、と泣きそうな表情のイライザは、その手にダニエルが纏めていたという細々した子爵の悪事の記録を持って現れた。
別れを告げられてから会って話をすることはなかったが、それでも困った時に自分を頼ってくれたことが、オースティンは嬉しくて仕方が無かった。
フレデリックが来たのを見て、イライザは表情を戻して直ぐに去っていった。
フレデリックの様子が、イライザを見てまた苛立っていたように見えたが、足早に立ち去ったフレデリックに特に思うところはなかった。
まさかイライザの後を追い、その背を押すほど人間性が崩壊していたとは。
王宮での出来事を、誰も気が付かないはずはない。彼が背中を押したその瞬間を見た者がいなくとも、オースティンの執務室を出てイライザの帰る方向へ向かったところ、慌てたように早足で仕事場まで戻っていったところなどは、通りがかった使用人たちにしっかり見られているのだ。
もし彼が単なる通行人であったならば、叫び声や倒れているイライザを見て、騒ぎ立てたことだろう。それをせずに逃げ帰った時点で、犯人だと自身で言っているも同じであったことに彼は気付いていなかった。
さて、昨今個人の魔力量は低迷していると言われているが、公にしていないだけで、王家の魔力量は実はかなり多い。
そしてその潤沢な魔力を、王家の者は他者からの悪意や物理攻撃から身を守ることに使用している。
実際には悪意に限るわけではないが、魔石と自身の魔力を融合させることにより、強く自分に向けられる感情が、オーラという形で大まかに見ることができるのだ。
例えばフレデリックからは常に薄赤黒いオーラが出ていて、オースティンに対して表情は取り繕っているものの、馬鹿にしながらも苛立っているのだろうとわかる色合いだ。
そうしたオーラを確認し、自分に不快感を持っている者からは適度に距離を取るようにし、それでも相手が近寄ってくる場合は、明らかに裏があるか物理攻撃をしてくる予兆なので、詳しい調査を行うこととしている。
また、物理攻撃に対しては、自身の持ち物に魔力を籠め続けることで遮断が可能となる。オースティンは幼い時から自身の魔力をブレスレットに集め続けて、死に瀕した際は防御膜が発動するようにしている。
そしてこのブレスレットとお揃いの物を、オースティンは恋人であるイライザへ渡してあった。勿論オースティンがイライザを想うようになってから、自身の魔力を込めて作った物なので、幼い頃から自分が身に着けている物に比べて精度の低い物であったが、それでも少しでも危険を回避する手助けとして持っていてもらいたかったのだ。
イライザはこのブレスレットの効果を知らなかったが、愛するオースティンからもらった物なので、別れを告げた後も外すことができなかったらしい。それが今回生死を分けた。
階段から突き落とされたイライザは、本来であれば死んでもおかしくない怪我であったが、簡易ながらも防御膜が発動し、怪我を軽減させた。叫び声を聞きつけて、倒れていたイライザを見つけた使用人たちが王宮内で慌てふためいたことで状況を知ったオースティンは、すぐさまイライザを診察した王宮医師に彼女の状況を確認し、その上で王妃に話をしにいった。
もう、これ以上黙って見ていることはできなかった。イライザを守りたかった。守る立場が欲しかった。
階段の途中に散らばったイライザの荷物から、少なくともどこら辺から落ちたかは想像がつく。それは、落ちたら死んでもおかしくないほどの高さであった。
イライザが助かったと分かれば、フレデリックの罪は軽くなるだろう。
また、今後噂は撤回させるとはいえ、イライザは現在醜聞塗れだ。この状態で、階段から落とされた理由が恋愛沙汰だと噂が流れたら、一体どうなるだろう。
噂とは往々にして、尾ひれがつく。フレデリックが一方的に思慕したという噂ならともかく、イライザが誘ったなどと勝手に話が盛られたら、イライザはもう人前に出ることができない。
人は亡くなった人間に対しては冒涜を許さないが、生きている人間には平気で悪辣な噂を流すものなのだ。
イライザはまだ意識も回復せず、全身ひどい怪我で骨折箇所も多かったが、とりあえず死地は脱していた。
オースティンの話を聞き、また現状を踏まえて、これを機にイライザを亡くなったことにして、現在メイド長として第二王子に仕える元乳母の家に、養女として入れるのはどうかと王妃は言った。以前から第二王子の元乳母は、エマの姉としてエマと子爵の離婚を望んでおり、エマ達を自分のいるガルシア伯爵家で引き取ってゆっくり休ませたいと言っていたのを、王妃は覚えていたのだ。
もともと元乳母とエマの母は隣国出身だったので、隣国の親戚を養女にしたと言えば、その素性は探られない。そうしてイライザを養女にして新しい戸籍を与えれば、イライザはすべての醜聞から解放されることができるはずだ。
王妃は、オースティンから真摯に頭を下げられ、イライザを守りたいので知恵を貸してほしいと言われたことに心打たれ、オースティンのためにイライザに安全な環境を提供してあげたかった。
イライザは亡くなったことになり、その葬儀は粛々と営まれた。
その間に、まだ意識は戻っていなかったがイライザはその名をエリザベータと変え、元乳母の家の養女となる手続きが進められた。また、子爵当主の引継ぎも認められ、ダニエルが当主となった。
そうした色々な動きの間に、罪悪感に苛まれた者たちがイライザの噂の撤回を行い始め、つがいを周りに紹介していたランバートが嫡男の座を追われたのは、あっという間であった。
フレデリックはイライザの噂が捏造であったと知って、反省したのだろうか。
伯爵家の子息であるために、慎重に捜査が進められていたので、フレデリックが捕まるまでにはそれなりに時間があったのだ。
イライザの名誉が回復し、ランバートが嫡男の座を追われたと知ったならば、自らを反省し自首してくれるのではないかとオースティンはずっと望んでいたのだが、フレデリックは最後まで自首しなかった。言動が多少不審ではあったものの、彼は通常通りに仕事をし続けたのだ。その胆力を褒めるべきなのか、人を殺してそのまま暮らせる彼の異常性を恐れるべきなのか。
つがいを求めるのは本能だろう。けれど、見つけたつがいを慈しみ、守ることができないならば、それは獣以下だと思う。獣であっても、自身の伴侶を大事に愛することはできるはずだ。つがいとは、あくまでフェロモンによって心惹かれる相手というだけで、それ以降の付き合い方は、結局自身の性格が物を言うのだ。
イライザを殺すことに躊躇がなかったフレデリックは、本能でつがいを求めることはしても、つがいを想うという、他者に対する優しさが根本的に欠けていて、当初からオースティンが思った通りに傲慢な人間であったということなのだろう。人によってはつがいを見つけたことで、他者に対する優しさを学ぶ者もいるというのに、フレデリックはそれができなかった。
法務に関わる宰相補佐官候補の逮捕に、王宮に激震が走った。そして、フレデリックがつがいに対して一方的に思慕した結果の理不尽な殺意である、として数年間の炭鉱での強制労働が判決として下った。
この強制労働を経てフレデリックが自身を反省し、他者への慈しみを持つ真っ当な人間へと変わってくれるように、とオースティンは願うしかなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「オースティン様、ご準備はよろしいですか?」
今日の良き日を迎え、しばし思い出に耽っていたオースティンに、執務室に入ってきたイライザがそう声を掛けた。
「ああイライ……、済まない、エリザベータ。準備はできたよ」
エリザベータと呼ばれたイライザは、にっこりと微笑む。イライザと呼ばれていた時分から成長したためか、あるいは長期間の療養のためか、現在のイライザは、かつてのイライザによく似た別人で通るレベルになった。
意識が戻るまでかなりの時間を要し、栄養を取れずに一時期はかなりやつれてしまった。その後食事ができるようになったが、面差しも変化したように思う。以前よりその細さと華奢さが際立って、より庇護欲が湧いてしまう。
今日は、王宮でエリザベータ・ガルシアと第三王子オースティンの婚約の署名がこれから行われる。王家とガルシア伯爵家当主による署名はかなり以前に完了しているが、成人した者の場合は、当人の署名も必要となるからだ。イライザの体が本格的に回復するまでに時間がかかり、イライザは先日18歳の誕生日を迎えていた。
イライザは今日のために早めに王宮に登城し、わざわざオースティンを呼びに来てくれたのだろう。イライザが、自身の意思でこの婚約を望んでくれているとわかる様子に、オースティンは笑みが隠せない。
机に向かっていたオースティンの傍まで歩いてくるイライザ。怪我の後遺症で、どうしても歩みがゆっくりとなってしまうが、これ以上は治らないと医師からは言われている。また、疲労がたまると足は動かなくなってしまう。
オースティンはイライザに無理をしてほしくないのだが、イライザは少しでも歩けるようになりたいと、リハビリを怠らない。あの事故の日から、こうして杖を持たずに歩けるようになるまで、1年半以上を要した。
ガルシア家で療養しているイライザを何度も見舞っていたオースティンだが、こうして王宮でその姿を見るのはあの日以来であった。
「行こう」
急いで立ち上がり、イライザの隣に並んで腕を出す。少しでもイライザが歩きやすいように、これからずっと隣で支えられるように。
こうして、最終的にイライザをその手に掴むことはできたが、オースティンは今回の一連の出来事については、酷く悔やんでいた。もっと早くにイライザを救う方法はあったのではないかと。イライザが死にそうな怪我をする前に、どこかでフレデリックを、ランバートを止める方法があったのでは、と見ているだけであった自分を思い出し、何度も遣り切れない思いに胸が苦しくなる。
けれど、イライザは気にしなくていいと微笑むのだ。少なくとも自分は生きていて、これからの人生をオースティンと共に生きることができるのだから、と。
つがいは、本能が求めるという。それ故にその想いの強さに、人は時に暴走してしまうのかもしれない。けれど、その想いをどうするかは、やはり本人の心持ち次第なのだと思う。ならば、想いは本能を超えた先、感情なり理性なりと呼ばれる部分になるはずなのだ。
そして、そうであれば、通常の恋愛と何ら変わるところはないはずだ。
つがいなどでなくても、相手を愛おしく思う気持ちは誰しもが持つことができるものだから。
だからオースティンは思う。つがいを求める必要など、最初からないのだと。
誤字報告いただきました。ありがとうございます。修正いたしました。