1.フレデリックの場合
つがいとは、本能が求めるものだという。
だが、理性でそれは抑えられるものではないか?
好ましくない相手がつがいであった場合、果たしてそれをつがいと認める必要はあるのか。
自分のつがいが悪役令嬢と呼ばれている娘であると知ったフレデリックは、頭の中で何度も上記の問いを繰り返した。
宰相補佐官候補として、王宮で法務についているクロフォード伯爵家子息のフレデリックは、常に冷静であることを自分に課している。
もともと、つがいというものには否定的であった。
本能が求めるなんて、まるで獣のようだと感じてしまう。勿論それを声高に話すほど周りが見えていないわけではないので、つがいが見つかったという話を聞けば「おめでとうございます」と卒なく微笑むくらいはできる。だが、内心では政略で相手を選んだ方が、より家のためになるだろうと考えてはいたが。
確かにつがい相手の方が、出生率が高く、また高魔力の子供が生まれやすいという俗説はある。実際に昨今子供の魔力は低迷しており、魔力の無い子供も珍しくない中で、つがいの子の方が魔力持ちである可能性は高いのかもしれない。だがその魔力量も、他者を凌駕する程では決してない。あくまでも僅差だ。
ならば、同程度の家格同士のつがいならいざ知らず、女性の家格が著しく低い場合は、その後不幸しか生まない場合の方がはるかに多い。
貴族の女性のみが参加するお茶会に、元平民であったり元男爵家の女性が、高位貴族の夫人ですと言って現れても、高位貴族の会話についていけないので弾かれるのは当然の結果である。せいぜい、男爵家夫人たちとの会話程度ならば熟せるのかもしれないが、それは高位貴族の夫人として許されるものではない。
お茶会とはいえ、自領のことから参加者の領地の特色や特産品、果ては参加者の親族等を含む派閥の繋がりまで、すべてを網羅していなければ高位貴族の夫人として認められないからだ。
何より高位貴族と下位貴族では、開催されるお茶会も別々であることが一般的だ。夜会のようにすべての貴族が一堂に揃う機会などそうあるまい。
そうなると彼女たちは友人すら作ることができず、一人屋敷でつがいに囲われるだけの生活をするしかなくなってしまう。それこそ女主人としての家政すら、満足に熟すことができないレベルなのだから。そして、しわ寄せは夫及び家門に来る。
それを考えると、格差婚の最たるものとなるつがい同士の結婚など馬鹿らしい、とフレデリックが思うのは仕方が無いことであろう。
それに、実際にそう思う年長者が多いからこそ、未だ高位貴族間では政略結婚が推奨され、つがいを見つけることがないように、フェロモン抑制剤を飲むことが良しとされているのだから。
ただ、同じような家格でつがいが見つかる可能性もないわけではない。政略よりもつがいの方が相性が良く、何より当事者同士が多幸感を持ちやすいため、つがいを見つけることに期待をかける若者も多い。そのため、婚約者がいない場合には、抑制剤を飲まないことを選ぶ者たちも一定数いる。フレデリックも婚約者を持たないため、今のところ抑制剤は飲んでいない。
つがいフェロモンは第二次成長期ごろに顕現すると言われており、15歳を過ぎる頃に他者がその匂いを判別できるようになるという。そのため、現在20歳のフレデリックが夜会で社交界にデビューする15,6歳の高位貴族の令嬢とつがいである可能性もあるからだ。
そんな風に考えていたフレデリックがとある夜会で見かけた令嬢は、壁の花となっていた。けれど、その眼差しは、よくある壁の花令嬢たちのように気後れしている様子ではなく、何かを見据えるように強いものであった。
つがいだ、とフレデリックは思った。デビュタント用の白いドレスではないが、まだ年若く見える。社交界デビューからまだ間もないに違いない。彼女の方は、まだ自分がつがいであることには気付いていないようだ。
フレデリックは何気ない風を装って、近くにいた友人に彼女について聞いてみた。ちらりと彼女を見た友人は、彼女のことを知っていたらしく簡単にその正体を教えてくれた。
「ああ、スノードラム子爵家のイライザ嬢だな。しかし、変わった令嬢を気に入ったな? 彼女はやばい噂持ちだぞ」
「別に気に入ったわけじゃない。壁の花のわりに、目つきが鋭くて気になっただけだ」
やばい噂持ちと言われて、慌てて取り繕う。少なくともつがいだと宣言するのは、相手の性格を見定めてからだ。
「確かに。彼女はさ、グリンドノム侯爵家の子息と婚約話があったんだけど、話が確定する前から婚約者気取りで、子息の恋人に嫌がらせしたりする性格の悪い女なんだとさ。それで、婚約話が進んでないんだそうだ」
学園にいる俺の妹がそんな噂が流れていると言っていたよ、と友人はイライザのことを馬鹿にするように告げた。
婚約者がいるのか、とがっかりしかけて、その後の内容に目を剝きそうになった。
婚約をしてもいないのに、相手の恋人に嫌がらせをする、性格の悪い女!
そんなのが自分のつがいだというのか。
それに、子爵家の令嬢が、何故に侯爵家と繋がりを持とうとしているのだ。子爵家から侯爵家に嫁ごうなどと、そんな格差婚は後々苦労するのが目に見えているのに、認められるわけもない。
フレデリックの承認など彼らの結婚に必要もないのだが、彼はその怒りを抑えることができなかった。ふつふつした怒りが体中に湧いている。
つがいだと理解した相手が、嫌がらせをするような性悪であるということ。子爵家令嬢でしかないのに、侯爵家子息の婚約者候補となっていたこと。どちらも許されることではない。
伯爵家子息である自分と子爵家令嬢である彼女ならば、家格的に問題がないのだ。なのに、なぜ侯爵家と。いや、だが、自分は性悪な相手を結婚相手に選ぶつもりなどはない。
頭の中を、ぐるぐると色々な考えが回り始める。本能が彼女を望み、無意識に家格を確認して問題ないと思い、けれど慌てた理性が彼女の性格を理由にそれを否定をする。
フレデリックは、自分が抑制剤を飲んでいなかったことを心底後悔した。そんなに性格の悪い相手がつがいだと分かっていたら、さっさと抑制剤を飲んで、政略相手を見繕っておくべきであった。
「ふうん。確かにあのきつい目、性格が悪そうだもんな」
フレデリックは友人に何とかそう答えると、興味を失った振りをして別方向を向いた。頭の中では彼女の何かを見据える強い眼差しがずっと映し出されていたが。
その後、友人との会話は気もそぞろであった。会話もどこかちぐはぐとなってしまい、不審に思われる前にフレデリックは体調不良を装い、早めに夜会を辞退することにした。
翌日からの王宮での仕事には、影響はさせなかった。フレデリックは、宰相補佐官候補として公私混同はしてはならないと決めている。また抑制剤を飲み始めたため、今後イライザに会ったとしても、彼女を欲することはないはずだ。何より自分が抑制剤を飲んだことで、相手からつがいと気付かれないことが一番ほっとできることであった。
性悪につがいだと叫ばれて結婚などに持ち込まれたら困る、とフレデリックは思った。宰相補佐官候補である自分のような出世間違いなしのエリートは、あんな性悪な娘と結婚するためにいるわけではない。高位貴族の娘に乞われて婿に入り、その家の当主となるべき存在なのだ。
そんな気持ちのまま仕事をしていたある日、宰相から第三王子宛に法務資料を届けるようにと言いつかった。
第三王子はフレデリックと同い年であるが、学園時代はそれほど親しくはなかった。彼の側近になってやってもよいとフレデリックは内心思っていたが、彼から少し足りないものがあると言われてしまった。残念ながら伯爵家でしかなかった自分では、第三王子の傍にいるに身分が低いと思われたのだろう。権力で周りを固める使えない男の典型だな、とフレデリックは第三王子のことを思ったが、黙ってその場を辞することにした。
側近への道が絶たれたフレデリックは、嫡男ではないために王宮で仕事をする必要があり、今こうして宰相補佐官候補の地位をいただいている。継承権の低い王子の側近より、宰相補佐官候補から補佐官へ、そしていずれ宰相の地位を得た方がよほど出世だ、とフレデリックは今の状況に満足している。
フレデリックから見たところ、第三王子は身の程を良く弁えており、いずれ長兄が王位を継いだ際に、次兄は軍部を、自身は法務関係をそれぞれ把握して兄の手伝いをしようとしているようで、そのために色々な人間と話をすることを好んでいるように見えた。色々な会話からあちこちの情勢をさり気なく伺い、違法な貴族を摘発することも多いという。
そのために、第三王子の執務室には、色々な人間が顔を出す。勿論事前に先触れを出し、許可された者たちであるのは前提ではあるが。
王子の執務室に向かったところ、執務室には何故かイライザがいた。
思わず挙動不審となってしまったが、彼女はフレデリックを一瞥しただけで、王子へ退去の挨拶をし、そのまま部屋を出て行った。行われたカーテシーは子爵家としては、かなり洗練されたものであった。少なくともつがいだと気付かれた様子はない。抑制剤を飲んでおいてよかった、とフレデリックはホッとした。
「……今のは?」
思わず聞いてしまいたくなるのは人情だろう、とフレデリックは思う。何故に子爵家の娘がこんなところにいるのだ。イライザも入室を許可された人間であるということが信じられなかった。子爵家でしかない年若い令嬢が、一体王子に何の用があったというのだろう。
抑制剤を飲んでイライザのフェロモンには中てられていないはずなのに、フレデリックは再びイライザに対して怒りの気持ちが湧いてきた。
お前は俺のものだ。つがいだろう? 黙って俺の帰りを待つ身であろうが! 王子に色目など使うんじゃない。
いや、違う。あんな娘はいらない。つがいなどではない。
「彼女はスノードラム子爵家のイライザ嬢。スノードラム子爵家は色々問題有りでな。彼女とその兄が、家の悪事を調べては報告をしてくれているんだ」
頭の中で再び本能が渦巻き始めた時に、第三王子の返事があった。
本人が性悪なだけでなく、家自体も問題有りか。結婚相手として絶対にナシだな、とフレデリックは心の中で決意した。あいつは決して、つがいなどとは認めない。
「そうでしたか。それでは宰相からの資料をお渡しいたします」
何でもないようにイライザの話を終え、フレデリックは資料を渡してその場を辞した。いつもならこの後王子ととりとめのない会話などをするのだが、今はそんな気分にはなれなかった。
本来であれば、そのまま仕事場へと戻るべきだと分かっていたが、足が無意識に彼女の後を追った。イライザは階段を下りている途中であった。周りに人の気配はなかった。抑制剤を飲んでいるはずなのに、彼女の体からは心惹かれる匂いがするようだった。それが、周りの男たちを誘っているような気がして、余計にフレデリックの怒りを誘った。フェロモンはつがい以外には感じられないことは分かっていたが、そんなことは関係なかった。
フレデリックは怒りのまま、その背中を押した。つがいなんて、いらない。抑制剤を飲んだのに、彼女を見かける度に何故か本能が騒いで彼女を欲してしまう。ならば彼女自身がいなくなれば、フレデリックはこれ以上心乱されることはない。
追いかけたのは本能だ。彼女を自分の腕の中に捕まえたいと思った。けれど、彼女の背を押したのは確かに理性であったはずだ。損得を計算し、その上で不要と判断したのだから。
フレデリックは、落ちた彼女の様子を確かめはしなかった。下で血だらけで倒れているであろうつがいの様子を見たら、半狂乱になってしまいそうな気がしたからだ。
それに、怒りのままにその背を押してしまったが、そんな感情的なことをした自分に、フレデリックはひどく驚いてもいた。自分はもっと冷静沈着な人間であったはずなのに、と。
急ぎ仕事場へ戻り、何もなかったように過ごせば、自分が犯人だとばれることはないはずだ。そう自分に言い聞かせ、フレデリックは急ぎ仕事場へと戻った。時間が夕刻であったことも幸いし、その日はもう重要な案件などはなく、フレデリックの手が止まりがちであったことに気付かれることはなかった。
誤字報告いただきました。ありがとうございます。修正いたしました。