本編 夢の果ての邂逅 part 1 『将棋放浪記』
1945年(昭和20年)9月、銀座。
焼け野原の東京を、夕日の残照が照らす中、チンドン屋の小隊が最後の演奏を始めた。
サックスの音色が響き、テノールボイスの歌声がそれに乗る。
〽︎(著作権現存歌詞につき削除)
「東京の花売り娘」だ
〽︎(著作権現存歌詞につき削除)
その歌声のかすかに届く焼けたビル、『Ginza OX Club』とネオン看板のかかったその二階の一室に、小さな落雷のような、あるいは球電現象のような青白い光が宿った。
ジジ…パチパチというかすかな音。オゾンの臭気が周囲を満たす。
その電気的な青白い光に触れた所は、黒い焼け焦げを作っていた。
そしてその青白い光がフイと消えたあとには、ひとりの筋骨隆々とした、全裸の男がひざまづくような姿で残されていた。
かれの名は『宇宙』。将棋のルールをくつがえし、マザーコンピュータの『宇宙』を守るため、自らをこの時代に送り込んだのであった。
突如――
「何だてめえ(ワットハプン)。日本人に博打で負けたかよ(アーユーベットザロストバイジャップ)? 」
下卑た英語が彼にかけられた。
『宇宙』が声のほうを見返すと、その一室は、闇営業であろう小規模のカジノであった。
進駐軍を接待するためか、はたまた彼ら進駐軍自身が持ち込んだものか、店の調度は周囲の焼跡の中では際立って整っていた。
しかし、時間が早いためかまだ人は少なく、GI(米軍の下級兵士)と思しき面々、そして店のメンバーやバーテンが、幾ばくか麻雀卓に居るだけだった。
下卑た英語で声をかけてきた男は銀髪の若々しい巨漢で、まだ新しい軍服を着てヘラヘラと馬鹿にしたように笑っていた。
『宇宙』は、彼から、ほかの麻雀プレイヤーに目を移す。
もうひとりは鷲鼻の中年、日に焼けた軍服を着ている。将校の階級章があるが、やや小柄だ。
彼の着ている軍服に、ぴ。と照準を合わせる。LLサイズ。
《オレに合う大きさではない》
もうひとり。ぴ。まだ少年の面影を残すあどけない青年兵士だ。麻雀を覚えたばかりらしく手牌を抱えこんで『宇宙』をビクビクと見返している。Lサイズ。これもオレには合わん。
ぴ。最後のメンバーは女だ。黒髪で長身、美貌の顔立ちで三十がらみといったところか。麻雀ではもっとも勝っているようで、ややきつい顔立ちをしていて、これは日本人のようである。白いホステスドレスを纏っているが、これはオレには論外だ。
もうひとり卓の横に、ウイスキーとグラスの載ったトレイを持った、胸の名札に「SUZUKI」と書かれたチンチクリンの眼鏡のバーテンダーが立っているが、彼の背格好では論外だ。ぴ、とやるまでもない。
『宇宙』は観察を終えると立ち上がり、ためらいなく『銀髪』に間合いを詰めた。
服のサイズがもっとも適当であったからだ。
「君の服と武器と軍票が欲しい」
「おい(ヘイ)何だ(ワッツ)うわっ⁉︎ 」
いきなり手を伸ばすと『銀髪』の胸ぐらをつかみ、そのままポーカーテーブルの方に彼の巨体を突き飛ばした!
テーブルの脚がへし折れ、ひどい音を立てて『銀髪』ごとひっくり返る。
だが『鷲鼻』も俊敏だった。卓から飛ぶようにして『宇宙』と間合いを取ると、腰のホルスターから38口径の拳銃を抜き、両手でホールドして『宇宙』を狙った。
「両手を上げろ(ホールドアップ)! 俺の銃は(マイガン)おとなしく黙っちゃいないぞ(ウォントサイレンス)」
『宇宙』は『鷲鼻』に目もくれず『銀髪』に向かった。
「動くな(ドントムーブ)!撃たれたいのか(ショットユー)⁉︎ 」
『宇宙』は振り返りもせずにポーカーテーブルから飛び散った一枚のチップを後ろに指で弾いた。それは弾丸の速度で宙を奔り『鷲鼻』の手の拳銃を弾いた。不意を突かれ拳銃は麻雀卓の上に音を立てて落ちた。
『鷲鼻』は痛みに声をあげてのけぞり返った。
《怪物だ…! 》『鷲鼻』は右手の親指を抑えて呻いた。爪が割れて紫色になっていた。
『宇宙』は機械そのものの精密な動きで、うめく『銀髪』の軍服のベルトを外すと、袋からものを取り出すように軍服を脱がしてしまった。
「馬鹿者! ケニー、撃て(ショット)、殺せ(キルヒム)! 」
青年兵は慌てて卓の上の銃を取ると、震える手で『宇宙』を狙い引き金を引いたが、それはロクに狙いもつかない暴発気味の発砲だった。
しかしなんたる奇跡か、その弾丸は、『宇宙』の肩甲骨のあたりに食い込んだ!
が、彼の動きは止まらなかった。悠々と裸の『銀髪』をねじ伏せて彼から脱がした軍服を、手慣れた職業軍人の着こなしで身につけていく。
「もっと撃て(ショットモア)! ケニー! 」
「だ、駄目だよ(アイキャンノット)、殺せないよ(キャントキル)…」
怯えるケニーに比して、女は勇敢だった。すっかり着替えて振り返ろうとする『宇宙』に、ホステスドレスの女が毅然と声を張り上げた。
「貴方! 店を滅茶苦茶にして(ワットドゥユードゥ)どういう心算り(ブロークアワゲームルーム)⁉︎ ねえ、ジョニー、大丈夫? 」
女は『宇宙』をものともせず怒鳴りつけてから、生まれたままの姿にされた『銀髪』…ジョニーと呼ばれた…に駆け寄ると、壊れたポーカーテーブルから剥ぎ取ったラシャメンのクロスをかけた。
ジョニーは頭を振りふり、
「オウ、ユキ、アリガト」
と虫の鳴く声で呻く。
それを尻目に『宇宙』はドアーを目指してずんずん進んでいく。
「待ちなさいっ(ユーウェイト)! 」
「女。オレは服が欲しかっただけだ。余計なことをすれば皆殺しにしてもいいのだが、お前たちを殺すと時空逆説が起きる。お前たちの存在は歴史に記録されている」
『宇宙』は流暢な日本語でいった。あまりに平坦な言い方だったため、ゆきは却ってぞくりとして、それ以上追求する気が吹っ飛んでしまった。
その間に『宇宙』はドアーを押し開けて、部屋から去った。
「ケニー、なぜ撃たなかった(ホワイノットショット)!このチキン野郎! しばらく禁足令を食わしてやる(ユーキープ ア ホーム)! 」
『鷲鼻』がかわいそうな青年兵に八つ当たりを始めるのが、聞こえてきた。
…それから一ヶ月ほどのち、禁足を喰ったケニーを除くこの四人は、後に雀聖と呼ばれるある博徒と立ち会い、その人生を変えていくことになるのだが、それはまた別の物語である。Jキャメロン氏及び色川武大氏においては平にご容赦願いたい所存である。なお、色川先生、殴られたカタキは取っておきました。私信。
この年の東京は暑かった。
山手線内外の土地のほとんどが焦土となって、日差しが直に人々を焼き付けていたことも、その一因だろう。
チンドン屋の演奏はもう終わりを告げ、焦土と焼けたビルと青空マーケットが大地をおおう東京に、夜の薄闇が忍び寄っていた。
『オックスクラブ・東洋経済研究所』というひとを食った名の賭博場の入った焼けビルを出た『宇宙』は、ナビ機能が効かないことに気付いて苦笑した。
衛星もない、インターネットもない。そもそも先月までに丸の内(江戸城本丸の内側)を除く全土に、540万発の爆弾と焼夷弾を落とされた東京に、機能する地図が存在するかどうか疑問ではあるが。
戦後の日本地図のデータは持っていたが、なぜかアクセスできなくなってきた。いくつか記憶が抜け落ちている気もするが、自己診断を走らせてみると、オールグリーンと出た。ジャンクデータや解決済みのメモリーを自動消去するとずいぶん動作が軽くなった。
彼が時間移動後の座標軸に銀座を選んだのは他でもない。
ここには戦前から戦後にかけて続いた老舗、大成会(将棋連盟)直轄クラブのひとつ『桂馬倶楽部』があったからだ。
焼け跡のだたっ広い道路を、『宇宙』は『桂馬倶楽部』を求めてさまよい歩いた。
街に闇が影を落とし、人々がねぐらに帰り、暗い街は現在の『不夜城』銀座とは思えないほどに閑散としていた。
やがて、一群の仮設住居に、カーキ色復員服の男たちが窓から中を覗き込むように群がっているところを、『宇宙』は目撃する。
そのバラックの掘っ建て小屋の扉には、『大成会直営・桂馬倶楽部』とひどい字で書かれた板切れがぶら下がっていた。(当時、日本将棋連盟は日本将棋大成会という名だった)
ここか。
『宇宙』は復員服の男たちの群れを押しのけ、扉の前に立った。彼を進駐軍と見て男たちは引く波のようにじりっとさがった。
彼はやおら扉板を手刀で貫き、向こうからノブを回すと扉を押し開ける。
鍵はかかっていなかったが彼の流儀らしい。
米兵の仕草に恐れおののき、復員服の男たちは蜘蛛の子を乱したように逃げ出した。
中は、民家をあちこちなんとか修復したような塩梅で、小上がりこそ畳敷であったが、奥の間は板敷のようであった。8畳の部屋に将棋盤が6面あり、裸電球の暗がりで、八人の男たちが盤を囲んでいた。
将棋に加わらず、奥の間の小卓で、土瓶の茶を欠けた椀に注いでいる老人が席主のようであった。その横に二人の男が将棋も指さずに、廻り将棋の手慰みに興じているところを見ると、彼らはクラブの客を相手にする従業員ででもあろうか。
彼らは扉をぶち壊して入ってきた白人の巨漢に恐れおののいているようだった。小銭を賭けていたのか、十円札をふところやポケットに隠すものもいる。
土瓶から茶を淹れていた席主ーー小柄な、古びた着流し姿の老人が立ち上がった。
「米兵さん、あんた店の戸をぶち壊してどういうつもりかね」
「ここに日本将棋連盟のものはいるか」
『宇宙』が日本語をしゃべったので、席主の老人はややホッとした。
「あたしゃア、ここの席主の堀井というものでございやす。もと大成会の会計をやっておりやした。そのご縁で、こうして銀座で将棋の店をやらせていただいておりやすが、今ここには専門棋士のものはおりやせん」
みごとな江戸弁で口上を流した。
「日本将棋連盟…大成会というのか? それはどこにある」
「米兵さんが大成会になんの御用で? 」
「大成会はどこだ、と訊いている」
『宇宙』が押しを強くすると、廻り将棋をやっていた二人が立ち上がった。
ひとりが着流しの袖をまくると、彫り物の昇り竜のアタマがのぞいた。いわゆる筋ものという連中らしい。
若い方は二十代ほど、昇り竜の男は三十代後半か。いずれも銀座の夜の闇の匂いがする男たちであった。
将棋とはいえ、ここでは少額の金銭を賭けあっている。彼らは面倒ごとが起きたときの、用心棒がわりにここに巣食っているのだ。
「米兵さんが将棋とはおもしれえな。サブ、いちおう銀辰のオヤジさんに声を掛けてきてくれ」
「へい」
サブと呼ばれた若い方の男は、『宇宙』の立ちはだかる表戸を避け、勝手口から姿を消した。
そして昇り竜を右肩にのぞかせた、年かさの方の筋ものは、『宇宙』に値踏みするような鋭い一瞥を向けた。
「なァ、どうだい。俺とひとつ手なぐさみをやってみねえか。米兵さんが勝ったら俺が大成会に紹介してやってもいいぜ」
「お前がオレを案内してくれるというのか」
「そうとも」
昇り竜の男は『宇宙』をさし招いた。
「俺は鳶蔵ってえケチな真剣師だ。あんたも大成会に用があるってェなら、将棋のひとつも指せるだろう」
どんと盤の前に腰を落とした。
「一丁勝負と行こうや。米兵の兄ィさん」
「オレと将棋を指すのか。面白い」『宇宙』は応じて、鳶蔵の差し向かいに腰を下ろした。
客たちは小博打を放り出して鳶蔵と『宇宙』の周りに集まってくる。
「平手か」
「まァ待ちなよ。手なぐさみと言っただろう」鳶蔵は『宇宙』の奇妙な気迫に、すこし不安を覚えていた「まずは小手調べだ。こいつを解いてみな」
鳶蔵は盤上に駒を並べ、詰将棋の局面をつくった。
「持ち駒は香車四枚だ。詰められたら二十円くれてやるよ。そのかわり、解けなきゃア諦めたところから一手一円いただくよ。それでいいか」
「金など要らん。これを解いたら大成会の場所を教えるというのか」
「まあ焦りなさんな、兄ィさん、こいつは小手調べだ。この『やりぶすま』が詰め上がったら俺が勝負しようじゃねえか」
「やりぶすま…。検索。槍衾、か。面白い名だ」
大道詰将棋、古典名作やりぶすま。アマチュアなら有段者でもすこし悩ましい詰将棋である。
大道詰将棋とは、いわゆる普通の詰将棋とルールこそ同じだが、見た目の容易さ、長手数かかること、合駒のトリックがあり、特定の駒のただ捨てなどで勝負が長引く仕掛けがある。
一手一円と言ったが、長手数だから間違えると永遠に詰ませることができず、諦めたら三十円近く取られることになる。相手の棋力を推し量ることもできるため、鳶蔵にとってはどちらに転んでもまあ良しというところだ。
しかし…。
『宇宙』は、マザーコンピュータ『宇宙』の代打ちである。詰将棋の解読機能は標準装備だ。
迷いなく香車を連打して王を追い詰める『宇宙』に、鳶蔵ははじめて焦燥感を覚えた。
『これでどうだ』トリックの肝、角合で受ける。
『宇宙』はためらわずそれを取り、正解手順を指してゆく。
観客はどよめいた。
「なんだこの進駐軍の兄ィさん、なかなかやるじゃあねえか」
目を丸くして鳶蔵もたずねる。
「兄ィさん、あんたこの詰将棋を知っているのかい」
「知らん。しかしこの詰将棋の仕掛は理解した。17手詰めだ」『宇宙』が言ったので鳶蔵はカッとなって盤面を崩した。
「その通りだよ。もってけ泥棒」
鳶蔵はふところからしわくちゃの十円札を二枚出して盤上に抛った。
「ではテストは終わりだな。つまらんクイズでうんざりした。オレと勝負してくれるんだな」
「焦るなよ兄ィさん」心中に冷や汗をかきながら鳶蔵は言った「将棋てぇものは所詮は遊びよ。気楽にやろうや。もうひとつやってみなよ。こいつに勝ったら四十円やるぜ」
鳶蔵は、気を逸らせながら駒を並べ始めた。
『こいつでどうだ』将棋図巧第百番、『ことぶき』。伊藤看壽作。彼の切り札だ。
譜面を並べている間に、サブが勝手口から帰ってきた。
そっと耳打ちする。
「兄ィ、銀辰のおやっさんは進駐軍なら巻き上げて畳んじめぇッて若ぇ衆を五人貸してくれやした。裏手で待たせてありやす」
鳶蔵は頷いたが苦笑した。こいつは611手詰めの将棋だ。若ぇ衆たち待たせると怒り出すんじゃないか。
「さアどうだ、米兵の兄ィさん。ちょっと複雑だろう? 」
「複雑だな。611手詰めのつもりか」『宇宙』はことも無げに言った「だが持ち駒が余っていいのなら355手に詰み(チェックメイト)があるぞ」
まるで手品のタネを明かされたようなものだ。鳶蔵は満面朱に染めてまたしても四十円をふところから投げ出した。
金には目もくれず、『宇宙』は言った。
「次はオレに出題させてくれんか」
「なんだと」
『宇宙』の唐突な問いに鳶蔵は目を剥いた。
「やめておくか? 」
鳶蔵は見栄を張って笑った。挑戦を受けて引き下がっては侠客の名折れだ。
「兄ィさんの詰将棋を見せてもらうよ。解けたらどうする? 」
「今いただいた金を全て返そう。その代わり降参したなら一手一円、きさまのルールと同じでよい」
『宇宙』が並べた譜面は、鳶蔵には見たことも聞いたこともないものだった。
どこからどう詰めたらよいかわからない。居玉に『と金』で攻めるのか、龍で王手をかけるのか。
一同固唾を呑んでこの奇妙な勝負を見守る。
長考に長考をかさねたすえ、鳶蔵は第一手の王手をかけた。
「これでどうだ」
「ほう」『宇宙』は王を避けながら言った「正解だ」
恐ろしい。こんな将棋は見たこともない。いったいこの男は何者なんだ。
席主の堀井老人もこの勝負の行方を手に汗を握って見つめている。
鳶蔵も真剣師である。彼もまた、八十一の升目の海に深く潜り込んでいた。
みすぼらしいバラックの中の気温が、すこし高くなったような気がした。
夜半。
観衆は一人減り二人眠り、とうとう最後の堀井老人まで、鼻ちょうちんを出してウトウトと船を漕いでいた。
895手目。
鳶蔵は万策尽きた。
「どうした。指さないのか」『宇宙』が問う。
「ねぇ。指す手がねえンだ。降参だ」
血を吐くように鳶蔵は言った。
「あ、兄哥ィ」サブが泣きそうな声を上げる。
「気の毒だが、きさまは六十手ほど前に不正解の手を指していた」冷徹な声で『宇宙』は言った「鳶蔵とやら、人間にしてはなかなかの健闘だった」
「教えてくれ。こいつァなんてぇ名の詰将棋なんだ? いってえ何手詰なんだい」
「この詰将棋には名などない。今オレが即興で作ったものだ。2155手詰だ。名前をつけるなら、オレの名から取って『宇宙』と付けよう」
「『宇宙』…」鳶蔵は呆けたように繰り返した。サブは焦った。
鳶蔵が今までに費やした手数は895手。一手一円として895円だ。当時の大卒の初任給が四~五百円、浮草暮らしの真剣師にはかなり重たい金額である。
「今はそんなに金はねぇ。俺の親分、銀座の辰吉、銀辰さんに借りて払うから、ツケ馬に付いてきてくんねえか」
「その必要はない。大成会の場所を教えろ。ずいぶん手間取らせてくれたな」
「…いや、俺も男一匹の博徒だ。俺に恥をかかさせねえでくれ、兄ィさん」
鳶蔵は強情に言い張った。サブは勘よく一足先にさりげなく勝手口から出て交代で座り込んで眠っている若い衆たちを起こして回る。
どう説き伏せたか、鳶蔵は『宇宙』を連れて勝手口から出てきた。
瞬く間もなくドスの銀光を夜やみに舞わせて、七人の侠客が『宇宙』を襲った。
熟柿を立て続けに踏み潰す音がした。
「救いがたい。人間というものは、ほんとうに、救いがたい」
七人の屍を残して、『宇宙』は闇の中に消えていった。
皇居を見下ろす第一生命ビル。
丸の内のこの一画は、戦後に証拠資料となる書類を残させるため、米軍が空襲の手を緩めていた。皇居、東京駅など千代田区を中心とした区画は、国会議事堂や警視庁など主要な公的施設がほぼ無傷で残っていたのである。
第一生命ビルはその一角にあり、GHQの接収によりダグラス=マッカーサー提督を筆頭とする連合国統治本部となっていた。
その最上階、8階にはマッカーサーの私室と公務室が設えられていた。
敗戦国日本を圧倒してみせるため、連合国は、皇居を見下ろす位置に陣取ることにしたのだという。
冷酷で勤勉な軍人マッカーサーは、今日も定刻に公務室に赴いた。だが、入室すると、秘書官も速記タイプ室の書記官の姿も部屋にまだなかった。
《たるんでおる。叱ってやらねば》
マッカーサーはかすかな苛立ちを表情に浮かべるとつかつかと執務テーブルに向かった。
いきなり背後から鉄の腕がムチのように彼の首に巻きついた。
しなやかなムチはマッカーサーの首に巻き付くとただちに鋼鉄の枷と化した。
「動くと絞め殺す(ドンムーヴアイルハングユー)」
押し殺した声が言った。『宇宙』のものだった。
「なんだきさま(フーアーユー)。アカか(アーユーレッド)? 」
「オレは米軍情報工学特殊技術班所属『宇宙』大尉だ。きさまより格下だが本国参謀司令部より、密命を受けている」時空を超えてはいるが、これは嘘ではない。
マッカーサーはギョッとした。
「密命だと」暗殺指令か? いくつも身に覚えのあるマッカーサーは恐怖に震えた「どのような任務だ」
「GHQは敗戦国統治のため日本の各種文芸組織団体を規制管轄している。そのうちのひとつ、日本将棋大成会の処分を自分に一任してもらう」
相手の意外な言葉にマッカーサーは拍子抜けがした。
「なんだと、将棋⁉︎ ジャパニーズチェスのことか? 」
「そうだ。日本将棋大成会は日本メディアや財界の後援を受けて今後社団法人として公認される。そのための会則と規約に介入する必要があるのだ。しかも極秘のうちに」
何をバカなことをとマッカーサーは言いかけて口ごもった。日本における文教統制はGHQの重要任務のひとつだ。ひとつとして見落としがあってはならない。とくにメディアが絡むとなればなおさらだ。本国から密命があっても不思議ではない。
「委任状の書類はできている。ここにサインと蠟印を捺印すれば良い。さもないともう少し物分かりの良いものに首をすげ替えることとなる」
『宇宙』は酷薄にいった。有無を言わせぬ口調だった。
マッカーサーは頷いた。
「秘書と書記官はどうした」
「眠っている。外傷はない」
「わかった。言う通りにしよう」
『宇宙』が首にかけた手を緩めたので、マッカーサーはその鉄のような腕を軽く叩いて承諾の意を示した。
そうしてマッカーサーは執務卓の紫檀の板の上で、『宇宙』の差し出した書類に委任認めのサインと印を押した。
「このことは忘れろ。その椅子をまだ温めていたければ」
「何のためだ。なぜ本国はこのような非公式な手段を用いてまで、日本のチェスにこだわるのだ」
『宇宙』はマッカーサーの息がおさまるのを待っておもむろに敬礼した。
「閣下。われわれも戦争をしているのです」
『宇宙』の言葉に、マッカーサーは振り返った。しかしすでにそこには、『宇宙』の姿はなかった。