承前 プロローグ現代補足 「終端抵抗者(ターミネイター)」
ソレが、何処からやって来たのか、誰も知らない。
ケープケネディの、スペースシャトル発射台を、はるかに見渡す砂漠の中で、ソレはひとり倒れていた。
NASA研究員、サンフランシスコ工科大学システムエンジニアの何某が、砂漠の中をトヨタのランドクルーザーでぶっ飛ばしているときに発見した。
砂漠の行き倒れだ。と思ったという。
ズタボロの、古い古い軍服を着て、全身は煤と埃にまみれてくすんでいたが、凄まじいまでの筋肉に包まれていた。
白人の巨漢であった。
そしてその存在には、動きがあった。
「ようお前さん(ワットハプン)?大丈夫か(アーユーオーケイ)? 」
「キューム…何処だ。キューム…」
彼は何某研究員が差し出した水筒のクールエイドは飲まなかったが、車のシェールガス燃料を馬のようにガブガブ呑んで一息ついた。
目を丸くして何某研究員は尋ねた。
「お前さん何者だい(フーアーユー)? 」
彼は答えた。
「オレは(メイビーアイアム)…『宇宙』だ」
コスモ。
それは何某研究員が所属し開発チームに加わっているスーパーコンピュータの認識名称と偶然にも一致していた。
何某は『宇宙』と名乗ったソレをNASAの研究室に連れて帰った。
『宇宙』は、驚いたことに、人間にそっくりな形をした『アンドロイド』であった。
彼はバイオエタノールを呑んだ。
ガソリンを呑んだ。シェールガス、エチルアルコール、シンナー、(さすがにこれを呑ませたあとはひどく呼気が臭くなってみんな閉口した)果てはウォッカにバーボン、ブランデー。糖質が多い日本酒やワインまでも飲み干した。要は気化燃料系統の液体ならなんでも呑んでエネルギーに変えるらしい。
力は強かった。ネイビーの猛者と取っ組みあってもタイマンなら決して遅れを取らなかった。たとえ相手が武器を持っていたとしても。
さらに不思議なことに、口はほとんど聞かないが命令には従順で、所属した組織の上司の命令にはひとつこくりと頷くと大体はやってのけ、それを成し遂げるまで他のことはしなかった。
知能はどうやら高いようで、ことにチェスゲームをやらせると、彼は絶対に負けなかった。誰も相手がいなくなると、スーパーコンピュータの方の『宇宙』と互角にやり合っていた。
彼を連れてきた何某は語る。
「あいつは絶対、未来の世界からやって来たにちげぇねぇよ。ハリウッドの映画に人類と機械が戦争する話があっただろう? あれに出て来たマッチョなロボットそっくりじゃねぇか」
そんな評価を受ける彼は、眠る。人並みに眠る。
寝ている時にはガソリンくさい涙を流しながら
「キューム。キューム」
そう、寝言でつぶやいている。
おかしな男だが彼は軍に転属した。と言っても住む場所は変わらず、いつも『宇宙』はスーパーコンピュータ『宇宙』のそばにあった。
ツインコスモスとか親子コスモスと陰口を叩くものがいたほどだ。
いや。
彼らは本当に何処かで繋がっていた。
本当に親子だった、ともいえる。
ある時彼に辞令が下りた。
いわく――
『宇宙」は日本国で日本のチェスコンピューターと戦ってこれを破り、スキをついて相手の電脳内にスパイウェアを打ち込んできた。
日本のスパコン開発能力は凄まじく、我がアメリカは遅れを取るばかりだったが。
どうやらあのファ【伏字】プどもに一泡吹かせてやったようだぜ。
なあ『宇宙』、お前も次は一枚噛んでみねえか。
話は簡単だ。お前がお前の母ちゃんと一緒に日本に行って、母ちゃんの指示どおりにチェスをやるんだ。おめえが勝つだろう。勝ったらそれで終わりだ。
我々は時限式で本体ごとデーター抹消するウイルスを奴らのコンピューター内に仕込んであるから、奴らのコンピュータのなかの重要データーはほぼオジャンだ。
奴らとの対局で手に入れた、フ【伏字】ップのオタク野郎が作ったチェス・ソフトを使うから万に一つも負けはしないだろうが…
もしファッ【伏字】どもが健闘しておまえら親子に勝ったら、もういっぺん奴らのコンピュータにおまえの母ちゃんを接続する。分析と称してな。そして暗号を解除してデーターを回収する。
その方がこっちにとっては面白いことになるがな。
やつらが暴れたら全員半殺しにしてデーターを回収するんだ。
わかったな。
彼はひとつ頷いただけだった。いつものように。
しかし、その夜母親と揶揄されるスーパーコンピュータ『宇宙』と有線接続したときに考えが変わって来た。
彼女が日本で対決して来た種目は、将棋だったというのだ。
ショーギ。
ショーギ。彼はそのジャパニーズチェスのことが頭から離れなかった。
ショーギとキューム。どちらも、深く深く、記憶の底に絡みつく名前だ。
彼は母親の力を借りて、日本側のコンピュータ『永遠』の動向を探っていた。
果然。
無線ルーターの接続状態にある、ある日本の家庭用コンピュータの画面に、自己凍結したはずの『永遠』の端末が息を吹き返したのだ。
彼は母親の力でそのコンピュータにジャックインし、最後の端末のすべてを消去した。
しかしその顛末を聞いて、マザー『宇宙』は怒り狂った。
『あたしと? 引き分ける? 引き分けるだって? 絶対に許さない』
『そうだね、ママ、そうだね』
しかし有線接続していた彼は知っていた。
このジャパニーズチェス、ショーギには、ドローにする方法があると。
それは母親に匹敵する日本のコンピュータには可能なものだったかもしれない。
しかし、そのスーパーコンピュータはマザー特製のウイルスのカクテルで息も絶え絶えにある。
『なら人間しかいないよ。大丈夫だよママ』
『人間が! 人間があたしと引き分ける! しかも【伏ァッキン字】ャップどもだよ! そんなことになったらどうなるか。絶対に許せないんだから』
怒りのあまり伏字になっていない。
母は、引き分けになることを憎んでいるというより恐れているように見えた。
幸い、『永遠』の端末が人間に研究データを渡す前に、相手の処分に成功したが、千万が一、人間たちがそれに到達したら…?
ショーギ。ショーギ。ショーギとキューム。
頭にこびりついて離れない言葉。
彼は思わず、捨てゼリフがわりにQMを連れて来いと相手のファイルに残して来てしまったが、あれはどういう意味だったのだろう。
自分でもなぜかわからない。
だが。
上司はできれば引き分けを望んだ。
しかしママは人間相手に引き分けになれば、狂ってしまうかもしれない。
彼にはひとつ、切り札があった。
引き分けにし、そして引き分けを勝ちにするには、ショーギのルールを変えてしまうしかない――
歴史を変えて、引き分けを勝ちにすれば、勝ったうえに、
検証のための接続が実行される。
つまり軍の意向とマザーの意向を同時に反映させることができる。
前日。彼は軍機密の、実験中である、とある新型兵器「G28357』を見せられた。
「こいつは、いわゆるタイムマシンだよ」研究員は言った「ただ飛んだ欠陥品でな。無生物以外転送できない。死んだ後の生物も無理。過去にしか行けねぇし、その上、行ったら帰ってこられない寸法さ。まあ昨日に行ったとしたら、そいつは1日経てば戻って来れるけど、その間自分がふたりにならァな。おめぇはさいわい人間じゃねえ、こいつに乗り込んで昨日に行くことはできる。そんな辞令が下りなきゃいいけどな」
彼は日本将棋連盟の設立年度を調べた。出来るだけアメリカの支配下にある時代だといいと思いながら。
それは1947年だった。
日本国は1945年にアメリカを含む連合国との戦争に敗北している。
その時代に行けば、日本将棋連盟に揺さぶりをかけてルールを変更できる。
理由は何とでもつけられる。一番手っ取り早いのはその当時のプロフェッショナル相手を全員ショーギで倒し
『このようにショーギには完全必勝法が存在する。だからルーリングの改定をし、ドローになったらドローゲームに持ち込んだ方を即負けにしろ。これはGHQの命令である』
とでも言ってやれば良い。
そして80年待つ。そうしたらオレは今日という日に帰って来られる。そうして来週のゲームであいつらにドローを許してやれば良い。やつらは自分から負けるか、オレに倒されるしかない。
何という奇想天外な作戦だろうか。
彼は上官の命令をひとつだけ破ることにした。
『備品の無断借用』
彼は『G28357』のセキュリティを破り、時期をセッティングした。少しぐらいずれても構わないが、1947年以降だとやり直しが難しくなる。
彼は1945年9月、日本国、東京都、銀座に時間軸と座標をセットした。
粒子加速器が回り始める。
『ママ、すぐに帰ってくるよ』
激しい光が彼を、世界を満たした。
生物なら死んでいるだろうプラズマが彼の全身を貫く。
しかし、さいわい彼は生命体ではなかった。
「マザー、オレは帰ってくるからね(アイルビーバック)」
そして彼は、時間を跳躍した。
ふたたび、同日同刻、日本。
夏の昼下がりだが、今日は涼しく、風鈴はチリとも音を立てない。
六甲山はジンワリと霧雨にけぶっていた。
久方の雨に濡れ、紫陽花がホッと一息ついて花開き始めた。
「師匠、お邪魔します。師匠」
武藤がやってきたので穴熊は文字通り冬眠から覚めたばかりの穴熊のような風情で自室から姿を現した。
「うう。腰いわしてもうた」
「やっぱりずっと研究してたんですね」
「…まあ上がれや。応接間行こ」
穴熊の様子は、どこかけぶって見えた。生命力が衰えているようにも、その分奇妙な生気がみなぎっているようにも。
ふたりは薄曇りの空の下、静かな薄闇の応接間に吸い込まれた。
「今日はこれ持ってきました。南京町に寄ったので」
武藤が大きなプラスチックの丼を机に置いて穴熊に勧めた。
「何やの」
どんよりとした眼が返ってきて武藤はため息をつきたくなった。
「師匠がお好きな『好々屋』のふかひれピータン粥ですけど」
穴熊はたちどころに態度を変えた。
「おま、何ちゅうもんを。なんちゅうもんを持ってきてくれるんや! 」
京都の金持ちみたいなセリフを吐くと穴熊は丼のラップをむしり取るように開け、武藤の差し出すレンゲをひったくるように奪い取る。
そして、ほどよく冷めつつある中華粥の表面に浮かぶネギに香菜、揚げ大蒜、揚げ春雨、刻み生姜、ピータン、干しエビをぐるりと一周混ぜて、ずずっとすすり込んだ。
「んまいっ!うんまいわ! 」目尻から涙がにじんでいる「武藤おまえなんというナイスなやつ! どやわいと結婚せえへんか。愛してる(Je t'aime)愛しい人よ(mon amour)」
「もう二号みたいなものじゃないですか僕」武藤は違うため息をついた「なんでフランス語」
穴熊は、勝負の前日にはものを食べなくなる習性があるが、勝負はもう明後日だし、今日まで3日もものを食べていない。今日食べなかったら当日に倒れてしまうかもしれないが、彼は自分のその時の気分にマッチしていないと、これまた何も受け付けないという、かなり難儀な胃袋の持ち主なのだ。
「で。どうですか手応えの方は」
武藤が尋ねると、穴熊は親指の輪くらいの大きさのふかひれをずるりっとすすり込んで咀嚼し「おお、相変わらず好々屋はヒレをオゴっとるな」とつぶやき、残りをかきこむ。
ひと息ついて、
「もう一杯と言いたいけど、さすがにまた行ってこいとは言われへん」穴熊はチラリと武藤の目を見た。
「いえありますよ」
穴熊は目を剥いた。
「本当にナイスな奴っちゃ。お前わいの棋仙位狙とるのと違うか」
「いるんですか、いらないんですか」
武藤はすこしむくれて言った。しかしもうひとつ抱え込んだ丼を穴熊の前に置く。
「武藤はんイケズ言いないな♡」
ついに語尾にハートマークまでつけて言い放つと一杯目に劣らぬ勢いで丼に食らいついた。
「あーうまかったり」
「牛負けたり」武藤が先回りして地口取りをすると、
「ひとの地口取ったらいかん」ここで久しぶりに穴熊はニヤリと笑った。
もういつもの飄々としたワヤなおっさんだ。武藤はホッとした。
「ま、穴熊グルメ紹介はお約束や、勘弁しぃないな」
「誰に言ってるんですか」
「だいたいプロローグ長すぎちゅうねん。もう予定枚数えらい超過してるねんで。ギャグも少ないし、えらい暗いし、そもそも、もうすぐわい出番終了なんやで。やってられるかいなそんなもん」
「悪ノリしてるともっと文句出ますよ。師匠はサゲに出番あるじゃないですか」
「あっお前なんちゅうメタ発言をっ」
ちりんちりん。風鈴が咎めるように大きく鳴った。
「と、言うわけで。師匠、見通しの方はいかがですか」
「うむ。引き分け(ドロンゲーム)、5六歩(先手番の場合)、QMの三題噺やが、これもう解いておいたほうがええやろ。お前、間宮純一、ちゅう専門棋士知っとるか? 」
「え、実在の。いや、最近の人ですか? 」またメタなこと言いそうになって武藤は飲み込んだ。
「ああ、冗談の人ちがう。で、大昔のひとや。しかし、ほんとうに冗談みたいなおっさんやったけどな、あれは」
「師匠より? 」穴熊に言われたくないだろう、武藤は思わず混ぜ返した。
「破門にされたいか? まあ、将棋界で変人言うたら一に久夢で二に芹沢、三四がなくて五に穴熊、と言うくらいで…」
「えっ、キューム? 」
キューム、すなわちQMだ。
「さよう」穴熊は温かい烏龍茶を例のビールマグからすすった「英語圏の人間はキューム言うたらQMと表記するやろうな。わいも口に出して読み上げるまでウッカリしてたわ」
「で、そのキュームっていうのが間宮氏のことなんですか? 」
聞いたこともない名前に武藤は当惑した。
「ワヤちゅうたらどこまでもワヤなおっさんでな。わいよりもワヤや。素性は小野五平の孫弟子でな、古い古いお人や」穴熊はキセルに詰めたタバコを炙り始めた。
武藤は頷く。
「小野五平といえば、初代大橋宗桂名人から連なる最後の世襲制名人ですね。時代は幕末から明治。正確には小野五平は大橋家に養子に入らなかったから世襲ではなくなった最初の名人とも言える」
ふふふ、と穴熊は笑った。専門棋士は徳川将軍家は全部は言えないが、代々名人はすっと出てくるようでないといけない。武藤は合格点だ。
「小野五平は大橋宗歩こと天野宗歩の弟子でな。天野宗歩いうたら江戸時代最強の棋士と誉れ高い。間宮はその曾孫弟子というていつも自慢しとったわ。嘘と違うから始末が悪い」
穴熊は苦笑しながらいう。彼が言うのだからよほど変な人なのだろう。
ここで名前の出た天野宗歩――だが。
現行のスーパーコンピュータで現存する棋譜を評価値分析にかけたとき、この天野宗歩が総合評価で最強と分析されたというから、この男も、江戸時代に将棋の本質に迫った怪物なのかも知れない。
「その間宮純一という人。天野宗歩の系譜だけあって、やはりかなり強かったんでしょうか? 」
「うーむ。マジでやったらメチャクチャ強かったと思うなぁ。しかしわいの知る限り彼が敵玉を詰めたり投了さしてるのはほとんどない」
「弱かった」
「世間様の尺度で言うたらそうなるやろな。1908年生まれ。1923年、15歳で初段」
武藤はグッと言葉に詰まった。今と制度が違うとは言え、その年齢で奨励会初段なら若き俊英と騒がれるほどだろう。
「しかし1941年、33歳で四段」
武藤はずっこけた。
「なんなんですかその人。当時年齢制限がなかったといえ、18年も三段以前でウロウロしてたって…」
「戦争のドサクサ時代っていう世相もあったやろうけどな。生涯のほとんどが放浪生活だった。しかしこの男、さっきも言ったように、いつからかまともに敵玉を追い詰める将棋をやめてしもうたんや」
「そんなの、勝てるわけが…あっ、まさか! 」
武藤は、ついに今回の対『宇宙』のテーマを思い出した。
「その、まさかやねん。この男、全リーグ戦を『入玉狙い』で押し通してプロ入りしおったんや」
「ムチャクチャだ。普通にやれば絶対に強いですよその人」
「いやもう何もかも型破りな男やったなあ。それにしては品があってな、人の心にすんなり入っていくような、そんな春風駘蕩の人品を持ち合わせていた気がするなあ」
懐かしそうに言う。穴熊の歳から言って、会ったか、会っていなくても近しい人に噂を聞いて身近に感じていたのだろう。
プロ公式戦では、入玉による決着は20年に一度発生するかしないかという珍事である。これは、相撲でいえば猫だまししか使わない力士が幕入りするにひとしい、といえるかもしれない。
「その人にはお弟子さんは」武藤が興味を持って聞いた。
「おらんのや。けど、いっぱいおるともいえる」
「どっちなんですか」
「あの人誰でも彼でも将棋知らん人でも弟子にしとったでな」
「――何やってるんですか」
「うむ。彼は、専門棋士の名を利用してあっちこっちで自作の免状をばら撒きおったんや」
「ひどい」
「当時は食糧難でな。将棋知らんやつに米俵で初段くれてやったり、列車に金を払って乗ったことがないという伝説がある」
「それって規約違反になるんじゃないですか」
「当たり前や。免状発行権は日本将棋連盟の最大の収入源やぞ。お前がもしそんなことやったら追討令を出して討ち果たす」
「怖いこと言わないでくださいよ。師匠はそういうのやってないんですよね」
「今はな」
おいおい…
「しかし彼の門下生はだれもプロに入ることはなかった。彼が最後まで生きた大橋係累の者だから、これで大橋一門は表の世界からは断絶されたことになる」
ああ、彼は死んでいたのか。武藤の胸が少し疼いた。
そのかわり、彼のことを慕って将棋で彼を追い続けるものは多いに違いない。
日本中に? あるいは世界中に?
そうだ。
「師匠、さっきから言ってるキュームキュームって、一体なんのことですか? 彼のニックネーム? 」
「ああ、言うとらんかったな。彼は本名は間宮純一だが、入玉戦法を『久夢流』と自分でつけてな、本人は全国を放浪しながら『伊豆国大仁ノ住人 久夢流元祖 間宮久夢』とでっかい名刺持って歩いてた。若い頃から妙に老成しとってな。ジジイじみた印象しか残ってない。仙人やな」
変人だけど憎めない男、という気がしてきた。穴熊をしてそう言わせるのだから、ひとつの人物なのだろう。
あるいは、社会通念や常識というものに対し、疑問を抱き続け、反骨をもって抵抗する『パンク』の男と言うべきか。
「久夢流…いったいどのような将棋を指すものですか? 」
まず聞きたいのはそこだった。
「おう。整理して話そか。まず、流派ちゅうものは、独自の感性、独特の創意を意匠に凝らしたものや。石田流なら三間飛車に桂馬を敷いて飛車のサポートに入れるアレンジから構想したと思われる。米長流新鬼殺しは、基本の鬼殺しに早石田組みをアレンジしたもので、ただの奇襲から立派な戦法に成長している。後手番でも使えるところが広くファンに支持を受けたものやな。このように過去の研究から対戦で独自成果を出すことができると、通常その研究者の名前を冠した戦法名、流派名が付く。藤井システム。塚田スペシャル。阿久津流急戦矢倉。穴熊流正調居飛穴、な。こんな感じや。しかし、久夢流はどうも意味が違っている」
「意味が、違っているってどういうことでしょう」
武藤の問いに、穴熊はうなずいた。
「うむ。先週な、あの『宇宙』のド外道とやりあった日、『big_bridge』に評価値判定をしてもろうたやんか。そのときに『実際の判定と一見の優劣が異なっている』ということを聞いて、ふと思い出したんや。そう言えば久夢流はその反置提是のような気がしていてな」
「『実際の判定と一見の優劣が違う』ってのは、つまり評価値と人間の優勢判断の誤差のことですね」
難しくなってきたので武藤は自分なりに噛み砕いた。
「ああ。コンピュータは、将棋というゲームを一種の数式として見立てとるのや。対局というのは出題で、敵玉を詰めるための数式を立てて、敵玉を効果的に詰めるために、互いの一手ごとに、敵玉の行動可能範囲を関数化し、それに対する指し手の効果を測定したものが評価値なのだろう」
ずっと考えていたのかスラスラと穴熊が言ったので武藤は驚く。
「えっとつまり、評価値というのは敵玉の可動範囲と、こちらの回答で出した一手を使って算出した『その時点での詰みという解』に近しいかどうかで算出される? 」
「そうや。つまり評価値というのは、その手が解(詰み)に近しいものか…に頼ったスケールや。そして以上の将棋の流派や、作戦のほとんどは、人間なりにその答えを出そうとしてきた証なんや。せやから、コンピュータにとっては人間の指す手はおそろしくレベルが低いちゅう訳やな。これに関しては椎名はんとも議論したいけど、彼はどないしてるんやろ」
尋ねられて、武藤はモバイルのメールリストを見直して言った。
「『宇宙』の端末にbig_bridgeオリジナルが破壊されたため、データ救出とシステム復旧の目処がようやく立ってきたそうですが、『永遠』端末が提示しようとしていたドロー棋譜はひとつしか復元できていないそうです」
「ひとつ復元されたか」
「それも『宇宙』のダミーの恐れがあるということなので、新規に立ち上げた『big_bridge』量産型で検証中ということです。そうそう、彼、結局あの一千万円でプライベート用のスパコンを購入したと言ってました。あの人も一徹なひとですよ。再現性が確認されたら棋譜を送信してくれることになっています』
「うむ、議論どころではないな。仕方ないから久夢流棋譜をサンプルに研究するしかない。話を続けるが、実戦においては敵玉を互いに詰め合うことが将棋の最終命題ではあるが、その過程において、駒得や詰みとは違う箇所での小競り合い、空き王手などで発生する彼我の評価値の偏差や逆転などを考慮した上での総合評価をAIは出しているのだろうし、その読みの上で動いているからAIは強いのだろう」
穴熊は一息ついて烏龍茶を啜った。
「しかし、全く相手を詰める気の無い相手の、独自の勝利条件までAIは斟酌しているのだろうか? 」
「それが、入玉を狙うことに全てを賭ける『久夢流』なんですね⁉︎ 」
うむ、と嬉しそうに穴熊はうなずいた。
「じつはこの議論は今に始まった事ではない。武藤、『南禅寺の決闘』はわかるな? 」
「はい」
南禅寺の決闘とは、1937年、関東と関西の今でいう将棋連盟分裂の後処理といった意味合いを持つ伝説的な勝負である。
当時、一代一名のはずの名人の称号が、東の木村義雄、西の坂田三吉に分かれてしまい、それぞれがパトロンを擁し正統を主張した。そのため棋界は多くの東西文化人、財閥、企業を巻き込んで分裂し、対立を繰り返していた。
そしてこの『決闘』は、東の木村義雄、西の坂田三吉の名人同士が京都南禅寺にて盤上で決着するように新聞社が計らったものである。
関根金次郎が名人位を降り、木村義雄は当時名人位リーグにあったが、これは今でいうドリームマッチである。互いに背負っているものが東西の財界や気風そのものであるため、おそらくは日本史上空前の棋戦であっただろう。
「武藤、この東西の棋風の差、ちゅうものをお前はわかるか? 」
「気風の差? 」
「ああ。実はな、今の議論に深く関わってくるそれが、東西の棋風の温度差やった」
「当時は評価値とかレーティングはなかったんですよね? 」
「その通りやが、初手第一手などに対する考え方、ひいては序盤戦におけるゲーム回しは、東西では大きな差があった。東は定跡と研究を重視し、西は大局観と直感を重視した」
「なるほど、まるでデジタルとアナログだ…」
「まさにそいつや 」
穴熊は手を打った。
「南禅寺の決闘二番勝負で、西の名人坂田三吉がそれぞれ後手番で指した手を言うてみい」
「はい。木村義雄戦では1四歩、花田長太郎戦では9四歩、それぞれ端歩から入っています」
「その通り、いずれも対戦相手は先手の初手にいずれも正統派たる7六歩と角道を開けてきている。この意味を文学作家織田作之助は西の名人の意地、と評価しているが、その背景には『一手は一手であり、序盤における価値は不変』という坂田三吉のアナロジーがこめられているのだ」
「なるほど」武藤は頷く「師匠も先日『big_bridge』の評価値を目の当たりにするまで、先手2六歩と飛車道を開けることと、7六歩と角道を開けることはほぼ等価値と確信していましたからね」
武藤の指摘に穴熊は苦笑した。
「ああ、あれはショックやった。わいも西の人間やのう」
「木村義雄は坂田の9四歩に対して5六歩と中歩を突き、これを咎めに出ています。研究を重視する現実的な対応ですね」
結果64手で坂田は投了している。
「坂田せんせはな、将棋をするときには自分というものをできるだけ小さく、あやふやに持って『蓮根の煮物かじったときに出てくる細い細い糸のようなもんの一本に乗っているかの気持ちで将棋盤にむかう』と言うてる。その心は『どんなに研究したところで、将棋というものは人間の理解レベルを超えている。初手に悪手なし、序盤に悪手なし。感覚に身を委ねて指していき、そして相殺されて人間の思考レベルまで降りてきたらそこからが勝負』これが坂田の信念やったと思う」
武藤はあっと声をあげた。
「それは今でも変わっていません、師匠! あのとき『永遠』はこう言いました。『将棋はわたしが思うより深く不可思議なものでした』って」
「せや、それでわいも張り合いが出たんや。あの化け物みたいな『永遠』さえも、まだ将棋のすべてを解析し切ったわけじゃないんやな、と」
さて、と穴熊はマクラを終えた噺家のように羽織を脱いだ。
「『久夢流』はまさにその時代の産物なんや。間宮久夢斎は、関東所属の棋士やった。全国を放浪し、まるでルンペンのような姿であちゃこちゃでタカりしながら歩いとったといえ、根っ子は小野五郎、大橋一門の俊英や。彼は非常に理論的で機能的な将棋観を持っていたのではないかと思う。たとえばや。武藤、穴熊囲いを拵えるのに何手掛かる? 」
「えっ何ですか突然。15手ですが」
「よしゃ。なら王さんが最短で入玉する手数はなんぼや」
「えと。5六歩と開けて、そこから王を繰り出して、7手ですね、最短で」
「そう言うこっちゃ。実は久夢流は、超急戦の奇襲のひとつと捉えることができる」
武藤はさらに驚いた。そんなことは考えたこともなかった。
「最速で入玉を果たした場合、ほぼ無血開城で勝負を決することができる。彼の久夢流の口伝は『ひとつ。敵陣はどんな囲いより堅固な囲い』大駒以外の駒は後ろに利きが弱いからだという」
「水平思考だ…」
「ほ。お前古い言葉知っとるな。『ひとつ。盤上の敵駒は最強の合駒』なるほど、飛車や角でも自分の歩は取れんわな」
「うーん。目から鱗です」
「『ひとつ。王の囲いは攻め駒の無駄遣い』そらそうや、王を囲う必要なかったら金銀各二枚フル活用できるし、王将じたいが周囲8マスという最強の白兵戦闘能力を持っとるわけで、それを有効活用することによって、さらに一枚有利になれる」
武藤はため息をついた。
「それだけ聞くと久夢流の入玉短距離レースが、最強の戦法の気がしてきましたよ」
穴熊も困ったように笑った。
「せやろ。その強さの理由は、間宮久夢斎は、自分だけが、違うルールで戦っていることに要因がある。彼は王さんを七マス全力疾走させるゲームをしているのに、相手方は自玉を守った上に、敵玉を攻めて、それを詰める、まだるっこしいプレイングを強いられている。しかも間宮久夢斎ほどの男が、生涯全力を賭けて、この王の疾走を研究しているのだ。その戦略で入品し5段リーグに到達している。わしでもうっかりしたらふところに飛び込まれるわ」
穴熊は煙管に火を灯して一息入れた。
「うん、まあ言うは易し、行うは難しやろな。しかし、先手9六歩に後手5四歩は、この久夢流においては狙いすましたように咎める一手になっとる。互いに角道を開けてしまってから5六歩とすると、先手8八角といきなり角交換して両成りが受からない」
「そうですね。ということは、久夢流も第一手に5六歩の一手というわけか」
「そういうことや。わいは今、数少ない間宮久夢斎の棋譜から彼の魂を蘇らせる研究をしとる。『永遠』のとむらい合戦には、間宮どのの守護があることを願うとる。あのド外道の思惑どおり、QMを連れて勝負したろやないか」
しかし。
武藤の脳裏に一抹の疑問がよぎっていった。
『なぜ、あの宇宙は、QMを連れてこいなどと言い残したのだろう? 彼は本当に間宮久夢斎と何か関わりがあったのだろうか? 』
「オレの出番はいつだ」
このあと、すぐ