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プロローグ 現代「永遠の敗北」

前作から構想が進んだため思い切って書いてみました!

各所に前作からのネタがあり主人公も一部重複するため

前作「永遠の死角」を読了を推奨します。


「わいが2900…2900かいな…」

2900、2900と穴熊は繰り返した。

その数字の意味するものは、フォース・オブ・レート(力量格付け)いわゆるレーティング値のことであった。

本来将棋の強さは、古来から段級位制という物差しで測られていた。

この段級位制というのは、他の武道や卓上遊戯と同じく、段位の高い者が「最低限の実力」を判定し、それを認定するもので、級位は10級から始まり9級、8級と登りつめていくものである。

例えば、将棋の場合すべての駒の種類と成り、勝負のつけ方や反則などのルールを理解していることが10級の条件であるため、早い話ルールブックを流し読みすれば誰でも将棋10級という入門地点に立てることになる。

10級同士で将棋を差し合い、勝敗で規定のアベレージがつけば「少なくとも」10級よりは強いため9級と認定される。

この認定を行えるのは、日本将棋連盟の免状を受けた専門棋士に限られ、これが社団法人日本将棋連盟の収入源になってもいるわけだ。

9級同士で勝率が高くなった場合は8級、8級の組で飛び抜けた成績を示した場合7級者と、こうしてふるいにかけていくことで相対的評価値である指標、たとえば1級は4級よりあきらかに強いなどという物差しとなるわけである。

1級で高いアベレージを取ると初段となり、以下2段、3段と10段を最高位として段位認定がなされる。

もっともこれはアマチュア段級位の認定であり、専門棋士、プロ棋士たちの段級位のあり方とは一線を画するものだ。

たとえばアマチュアの将棋の二段位を持つ者は偏差値がかなり高く、将棋をする人間をランダムに100人集めたうち上位10人には食い込めるであろうというものだ。地方の将棋まつりイベントで優勝を飾るのはだいたいこの辺りの棋力といわれる。

しかし専門棋士二段というとそんじょそこらのアマチュア大会優勝者の比ではない。

専門棋士二段とアマチュア二段が将棋を指した場合、1000番やればまず1000番、専門棋士が勝つだろう。

なぜならそういう地方大会の優勝を総ナメするアマチュア棋士が、専門棋士の卵である奨励会の試験を受け、晴れて合格した場合、彼らは暫定6級から始まるものだからだ。

そのレベルでないと入会すら不可能である。

暫定6級の専門棋士たちがしのぎを削り、規定勝利数に到達すると5級となり、規定敗北数に達すると6級Bに落ちる。そこでも敗北すると7級、8級と降格していき、遂には「力量が釣り合う者が居らず、手合いが組めない」とされ、いずれ退会となる。

うまく昇級しても油断はならない。奨励会員にはきびしい年齢制限があり、21歳までに『入品』(初段に昇格すること、この段階からようやくリーグ戦に登録され、勝率によって給料が支給されるようになる)できなければこれも退会となり将棋というもっとも潰しのきかない道を選んだ彼らの多くは路頭に迷う。

この条件は遡って計算することも容易で、20歳になってまだ一級なるやならずをウロウロしている者は、一年間すべて勝利しなくてはならぬ、物理的に不可能な壁に直面していることになり、仮に勝率を保って降級を堪えたとしても、退会は必至だ。

このように段級位制のなかでも専門棋士とアマチュアとでは物差しが異なるし、専門棋士の同じ級位、段位でも明らかに勝率や実力に差異があるのが当然である。

棋力は何級だ、あるいは何段だ、という指標は必ずしも絶対的評価ではない。

「強さ」という絶対的評価の近似値をあらわすには、段級位制は大雑把に過ぎるのである。

では…棋士の強さを表す絶対に近い評価基準は、どうやって計れば良いのだろうか?


その回答が「レーティング制」である。

チェスの世界ではひと昔前から一般的であった評価基準の算出法で、まずプレイヤー(将棋の場合、棋士のこと)が一律1500という暫定値を持ってスタートする。

その1500という値は一戦ごとに変動し、その人物は生涯にわたってそれを保持、おのれの力量の指標とすることができる。

例えば今チェスを始めた者同士(レーティング値1500)の決着、生涯最初の勝負が決したとして、勝者は1550、敗者は1450となる。

自分よりレートが上位にある者を倒せばレートが大きく上昇し、下位の者に敗北するとガクッとレートが下がる。

レーティング対象の試合の経験数が少ないうちはそのレートは安定しないが、ネット試合などを利用して300試合も行えばそのうち伸び悩み、上に行っても落ちてくる、下に行っても上がってくる、大体のその人物のレーティングゾーンが決まってくる。

それがその人物の絶対的にして客観的な評価値であり、格付けされたこととなる。

1000回勝負をしてレーティングが1750前後になった、とすれば、それがその人物の棋力の基準という事になり、他のレート保持者と比較できるようになる。

勝負を重ねれば重ねるほど、レーティングは安定する。

これを「収束」という。

収束した格付けは、段級位制と違って力量差が可視化できるのだ。

この格付け法の面白いところは、その人物の格付けを他のゲームのレート保持者と比較しやすくなる事である。

例えば日本麻雀連盟の判定による麻雀二段の人間には専門棋士二段の肩書きを持つ者の実力は、漠然と「強いんだな」としか把握できない。

しかし「1000回くらいやって2000前後ですよ」と将棋のプレイヤーが言った場合に麻雀のプレイヤーが「自分は麻雀のレート対象試合を1000回やって1750だから相当強いなこの人」という具合に、偏差値が可視化されるというわけだ。

そこにポケモン(©︎任天堂)のR3200プレイヤーが登場すれば二人は『このひとは化け物か? 』と恐れおののく、というわけだ。


将棋は、運の要素がない、いわゆる「完全情報ゼロサムゲーム」であるため、収束されたレート値がその人間の地力である、というわけだ。


さて、ここで話は冒頭の、穴熊の独白に戻る。

果然——

先だって、『永遠』が、敗北したという!

相手は、米国のスーパーコンピューター『宇宙コスモ』なる存在だ。

『永遠』と、ソフトウェア『big_bridge』が発見したとする『将棋の必勝手順』は、米国スーパーコンピューター『宇宙コスモ』の前に敗れ去った!

ということは『big_bridge』の発見したそれは『必勝手順ではなかった』ことになる。

見落とし?

――いや、そのようなレベルではない。何故なら人間にはなにが起こったかわからないからだ。

『永遠』と、最新型スパコン『宇宙』を将棋を媒介に接続し、それからものの数秒で『永遠』が投了したという。

そのとき『永遠』は『宇宙』の力量を『暫定R4400以上』と判定した。

椎名の報告を受け、穴熊ははじめて「レーティング値」という物差しを知ったのだ。

穴熊はそれに興味を持ち、日本最大の将棋ネットワーク『押し入れ王国』に参加、『駒形みつる』なる変名で1000回ほどレーティング対象試合を行なったところ、どうやらR2900で伸び悩んだ。

それで冒頭の独白となる、訳だが――

ぶつぶつ2900を繰り返して機嫌の悪そうな穴熊の様子をみて武藤は目を丸くした。

『この人研究にパソコン使わないのにR2900ってなんなんだこの化け物』

「武藤」不意に呼びかけられて武藤はハッとした。

「は、はい」

「歯ぁが溶けるほど甘いチャイ淹れてくれや」

「はい」

「大盛りやで」

「はい」

チャイを注文すると穴熊はまた不機嫌そうに2900を繰り返しはじめた。

玄関のチャイムが鳴った。

シナモンとカルダモンの匂いの染み付いた手を拭って武藤はインターホンを取った。

「はい、どちら様でしょう」

「し、椎名です。武藤さんお久しぶりです」

「あ。椎名さんお久しぶりです。ちょっと手が離せないのでロック外しますからお入りください」

武藤は言ってインターホンのドアロック解除キーを押した。

と、ミルクパンから沸騰したミルクが吹きこぼれた。

「うわ」

てんてこ舞いしていると椎名の足音が近づいてくる。

「あの、どうも、一風堂のクリームロール持ってきたんですが」

椎名が差し出した箱からは、まだうっすらドライアイスの白煙が昇っている。

「あ、ありがとうございます。師匠喜びますよ。ちょっと机に置いといてください」

穴熊の好物のレンゲ蜜をどばどばと注ぎ込みながら武藤が応じる。

「おう。椎名はんかいな。ご苦労さん、こっちゃおいで」

奥の応接間から穴熊の声が呼んだ。

「はい」

穴熊の言葉遣いが、本気の「関西弁モード」に入っているのを知って、椎名はさらに緊張した。

昼下がり。

夏だ。

穴熊自慢の見事な庭には、緑が眩しくもえている。

背景の壮大な六甲の山々は、青々と陽光を受けて鮮やかに映え、花壇にはひまわりの花が明るく笑っている。

視界の隅に夾竹桃がつつましくも芳わしく存在感を示し、軒下にはアサガオがは昼の光を受けて恥じらっている。

あのとき雪を落としていた、風通しの松を巡ってきたそよ風が、

ーーちりん

と、風鈴を揺らす。

「うわあ。トトロみたいですね」

「うん? トロロかいな? 」

ふたりの掛け合いに吹き出しながら、武藤がチャイを持ってくる。

「師匠は熱々でいいんでしたね。椎名さんのはアイスにしときましたから」

「おう。おおきに」

「ありがとうございます」

武藤は、穴熊の前にジョッキほどもある陶器製の褐色のビールマグを、椎名の前には涼しげなタンブラーをそれぞれ置き、椎名の方にはミントとストローを添えた。ちりん、と、氷が涼しげに音を立てた。

「飲んでみいや。うまいで、武藤のチャイは」

「いただきます」

椎名はひとくち飲んで『歯が溶けそうだ』と思ったが、穴熊は嬉しそうに熱いチャイをすすり込んでいる。

「師匠、椎名さんから一風堂さんのクリームロールを頂いていますが」

「おお! あれ大好物なんや! 茶受けにしよや、な。すぐ切ってこい、超厚切りでたのむで! 」

武藤は苦笑して「はい」と頷いてキッチンに向かった。

穴熊は『頭脳の円滑な思考には糖分によるカロリー摂取が不可欠である』という持論なので、ものすごい甘党なのだ。

椎名も似た性格で、ソフトを開発したりいじったりしている時には練乳をたっぷり溶かした紅茶を飲むので、このチャイを、うまい、と思っていた。

「穴熊さん、僕と嗜好が似ていますね」

ポツリと椎名がいうと、穴熊はニッコリした。

「そんなん最初からわかっとるがな。あんさんはわしの若い頃そっくりや」

「えっ」椎名は穴熊の顔を見直した「そうなんですか」

「ひとつ教えとったるわ。頭使いすぎるとハゲるんやで」

わっはっは、と穴熊は頭頂をかがやかせて笑った。

椎名も返答に困ったが、ちょっと面白くて笑った。

ひとつの道を究めようと専心する人物はお互いに解り合うのかもしれない。

こうしてひとしきり場が和んで、椎名は穴熊のノートパソコンを指した。

「『押入れ王国』をやってごらんになったことはお聞きしましたか、その後いかがですか」

「それや! わいは2900やと! この計算法は偏っとる」

「2900⁉︎ それって化け物的に強いですよ」椎名はあきれ返った。

穴熊は二ヶ月で500局以上の対戦を行なっている。

収束は発生しているとみていい。

2300超えの高レートの相手に80%以上の勝率を上げなくてはこの数値にならない。

それが「天井」でなく「確定ゾーン」なら、名実ともに最強クラスだ。

「あの『big_bridge』はどうなんや」

「『big_bridge』の棋力は暫定4400ということになっています」

「そやろが! 」穴熊は口からチャイのしぶきを飛ばして怒った「わしはあれより強いはずやぞ」

「いや、そんなのは人類と比べるものではないんですよ。穴熊さんはたぶん将棋に関しては宇宙最強の生命体です」

「たった2900でかいなっ! そんなわけないやろ、わしはもっとレート高くないとおかしい」

「そう言われましても。」椎名は少し口ごもった「では、平手の局面を開いてください。検証してお目にかけます」

「検証やて? 」

「はい。つまり可視化です。実際に僕のソフトで過去の指し手の評価をお見せします。対局サイトを開いてみてくれますか? 」

椎名はポーチからUSBメモリーを取り出しながら言った。

「おう。『押入れ王国』のフリークラスでええか? 」

「いえ研究室で結構です。対人対戦にソフトを持ち込むと永久退会になりますから、注意してください」

「よしゃ」

穴熊はサイトを開くと『研究室』のリンクに飛んだ。

「ちょっと失礼」椎名はそのタイミングでメモリーを穴熊のノートパソコンのポートに挿した。

すると。

『はーい、ビグブリたんでーっす! 』反応してノートパソコンが声を上げ、穴熊は笑った。

「相変わらずかわええ子じゃのう」

その声は、じつは椎名の声を音声サンプリングソフトにかけ、合成したものなのだが、それは言わないでおいた。

「では始めますか。まず先手番、飛車先の歩を突いてください」

「よしゃ」

『先手! にーろく歩っ!』ビグブリたんが読み上げる。

「では評価します。ビグブリたん、よろしく」

「なんやと」

椎名がその手の評価値をビグブリたんに計算させた。

『この手の評価値は150だよ! まだまだ甘いねっ』

「どういうことや」

「まあ少しお待ちください。盤面をリセットして、と。次は先手方から右香車を落としてみます」

「おう」

「では評価します」

『この局面は、先手がマイナス150だよ!ほんのちょ〜っとだけ不利だねっ 』

「どういうことやの」

「つまり先手が、飛車先の歩を突いた瞬間に、香車一枚得をしていると考えてください」

「ほう、そういう基準なんか。おもろい」

穴熊は目を丸くして頷いた。電脳の世界では将棋はこういう具合に見るものなのか。

穴熊が俄然興味を示したことに椎名は満足した。

「ではリセットして、次に、初手で飛車を角の横、7八に付けてください」

「こうかえ」穴熊は7筋に飛車を回した。

定跡ではありえない一手だ。

「評価します」

『先手! ななはち飛車の評価値は180、だよ! 』

うれしそうにbig_bridgeが言った。

「なんじゃこりゃあ⁉︎ このキカイ壊れとるのと違うか⁉︎ 」

穴熊は目を剥いて怒る。

先手第一手の、「飛車先の歩を突く」ことは、同じく第一手に、「7六歩を突き角道を開ける」ことと同様、大駒を活用するための必須の定跡のはずである。

穴熊にとってその手の価値は同等である、はずだったのだ。

そして第一手7八飛車、というのは、棋士の世界では『決闘の最中に、座り込んで、わらじのひもを結び始めるやうなものだ【織田作之助『聴雨』より引用】』というのだ。

これはすなわち、奇襲戦法のようなハメ手でなければ、一手目に決め打ち過ぎていて、相手に咎められる「キズ」となるはずなのだ。

「この手はそれだけの価値があると言うとるんか」

「ええ、そういう評価なんです。なぜか、とまでは僕にはわかりません。では次に、『鬼殺し奇襲』を成立させてください。後手番はビグブリたんに動かしてもらいます。ビグブリたん、穴熊さんの鬼殺しを喰らってみて」

「鬼殺しやな。わかった」

『おにごろし食らったらいいのね? まかせてっ! 』

『鬼殺し奇襲』とは、ヘタのじょうず殺しと呼ばれる、譜面の錯覚を利用した戦法で、受け損なって成立させてしまうと『目から火が出る飛車銀両取り』を、後手方が受けることになる。

英語名は『魔神殺デモンスレイヤーし』という。妙訳といえよう。

これは手順は簡単だし、6級にでもなれば使いこなせる。

もし初見なら、初段までならその一手でメロメロになってしまって、勢いに乗ってコテンパン(死語)に伸してしまう事から『鬼でも殺す』鬼殺し、とその名がついた。

先手角道をあけ、その歩に紐をつける飛車が回る。7八飛車だ。相手は自分の角道を開け、先手の角の頭を咎めるために、飛車先の歩を伸ばしていく、とする。

横の五筋で敵味方の歩が交錯したときに、先手が角の効きを止める桂馬を跳ねる。

これが基本的鬼殺しの重要なポイントである。

後手から見たらこんな馬鹿な話はなく、桂馬が跳ねたことによって、角の動きを潰して見える。しかも後手方が8六歩とすれば角頭に火がつく。

飛車のひもが付いているから8筋を破ったも同然。だがしかし、この桂に5三や7三に成りこまれると、それなりに痛いため、6二に銀が上がり、5三と7三にひもをつける。先手は桂をサポートするため、7五歩。すると、後手は当然8筋の歩を8六とぶつけてくる。

そこで先手は同歩とし、後手は同じく飛車、と切り込んでくる。

角の頭に飛車が直接当たる。

ここで角の頭8七歩と打ち込めば拠点が成立、角は死んだも同然。ゲームはほとんど終わったとばかりに、彼はそこに歩を打ち込んでくるはずだ。

先手はそれも承知の上。その前に2二角と角交換にでる。角交換だから後手は対応して、必然的に2二同銀。

そこで、痛恨の7六角打ち……これが目から火の出る飛車銀両取り、である。

『プロトおにごろし、せいりつー! 』ビグブリたんがうれしそうに叫ぶ。

後手側は、銀取り角成を許すか、飛車を渡すかの選択に迫られるわけだ。

飛車が逃げても銀を取られ、馬に暴れ込まれ、香車や桂馬を食い荒らされ、まだ序盤に後手は盤上左翼に大きなキズを作られる。角を取っても打ち込む場所がなく、泣く泣く飛車を譲ることになるが、三間飛車による攻めが、今にも成立する7筋に、桂馬まで存在感を放っている。見た目には致命傷といってもいい。

変化はいくらでもあるが、三間飛車に桂馬を絡めた「速攻戦術」のひとつとして、単なる奇襲以上に、これはなかなか優秀なのだ。

失敗して受けられても、通常の三間飛車として一応はフォローもきく。

奇襲戦法は卑怯だの品がないだのと、評判は悪い。だが、将棋のメカニズムを覚え、かつハメ手に対応するために、初心者は最低限覚える必要はあるだろう。

「さあて、これで『原始鬼殺し』完了やで。へっへっへ」

穴熊がなぜか嬉しそうにほくそ笑む。

「では鬼殺し成立局面を評価させます」

「ははは、これは先手明らかに優勢やろ。2000くらい差ぁついたんと違うか? 」

「まあ、ビグブリたんに聞いてみてください」

解析が終了し、ビグブリたんが明るい声を張り上げた。

『この局面は、先手がプラス280、桂馬一枚半くらい優勢! まだまだわからないよ、どっちも頑張ってねーっ! 』

穴熊はあっけに取られた。これは奇襲戦法の成立局面なのである。

「これはどういうこっちゃろか。これだけ派手にハマってるのになんでこの程度の差しかついてへんのやろ」

「それは、見た目の派手さで、心理的に、この局面をお互いが過大評価しているものと思われます。言ってみればプラセボ効果のようなものですよ」

「そんなわけあるかいな。やっぱり壊れとるんや」

「心理的効果は、『鬼殺し』という『名前』にあるとも思うんです」

椎名は深くうなずいて言った。

「普通に殴られるより『八極拳奥義、発勁はっけい』とか『メガトルネードクラッシュ』とか叫んだ方が、当てた方も受けた方も『決まった』と感じる。実際この局面は桂馬一枚以上優勢なんです。それにプラス、『鬼殺しを決めてやった』『鬼殺しを決められた』それが実際以上に、かたや自信、かたやプレッシャーをプレイヤーに与え、優劣を広げていくのではないでしょうか」

「に、にわかには信じられん」穴熊の呆然は続いていた。

「なら、ここからビグブリたんと指してみますか? 穴熊さんが桂馬一枚でもミスをすると、この形勢は逆転します。僕は穴熊さんに教わった本から手当たり次第に戦法や定跡を、big_bridgeにかけて洗い直していますが、どうも今ある戦法たちは、ほとんどが、AIにとっては評価の対象にならないほどレベルの低いものらしくて」

椎名に言われて穴熊はぐっと言葉に詰まった。

鬼殺し成立局面から、攻め手側の専門棋士が敗れたら、恥さらしだ!

というより、そんな化け物なのかAIとは。

いや、それよりも冷静にみて、この局面がさほど優勢とも思えなくなってきたのだ。

穴熊は困ったように笑った。

「固定概念、ちゅうやつかな」

「僕は将棋に関してはズブの素人でした。穴熊さんと知り合うまで『将棋大観』の存在も知らなかったし、『鬼殺し』などの奇襲戦法も知りませんでした。しかし、だからこそ『先入観なくすべての局面を切り離してフラクタル構造から分析するソフトウェア』の開発ができたんです」


ふたりとも一瞬黙りこんだ。


その隙をつくように、武藤が開け放した部屋のドアををくぐってきた。

「研究中に失礼しますが、ケーキを持ってきましたよ」

ハッとふたりは我に帰った。

「おう。おおきにな」

「ありがとうございます」

武藤の持ってきたトレイの上には、まる一本のロールケーキをそれぞれ3分の1にカットした、ごつっとしたケーキの塊が載っている。

丸いスポンジの中に上質の生クリームが、全体の体積の8割ほども占めている。ケーキというよりほとんどクリームの塊だ。

「うへへ、これ大好物やで。椎名はん、ありがとさんな」

言いながら穴熊はさっそくパクついた。口の周りをクリームだらけにして嬉々として食らいつく。

「あの、僕はいいので、武藤さんよかったら」

「いえ、じつは」

見ると武藤の口の周りにうっすらクリームの跡がついていた。椎名は吹き出してしまった。

「それなら僕も遠慮なく」


『鬼殺し解析』の後の歓談が済んで、椎名は、さて、と本題に入ることにした。

「じつは折り入ってお話ししたいことがありまして」

「おお、なんや改まって。カネなら貸されへんぞ」

穴熊の冗談にかまわず、

「まず、これを朗報と言っていいかわからないんですが」椎名は口火を切った「あの必勝定跡は、必勝定跡では、ありません」

「ほう! いやいや、それは朗報やで。で、どうやったら勝てるんや? 」

穴熊は勢い込んで尋ねたが、椎名は首を横に振った。

「それがわかったら、そっちが必勝定跡になってしまいますよ」

「うーむ、それもそうや。で、あんさんどうやってそれを見つけはった? 」

武藤もキッチンに戻らず話を聞くことにしてソファーに腰掛けた。彼も興味があり、質問を準備していたのだ。

「椎名さん、それはアメリカのスーパーコンピュータに『永遠とわ』が負けたことと関係がありますか? 」

「ええ。武藤さんのおっしゃる通りです、おそらく。例の一件(『永遠の死角』第一幕参照)で、将棋の必勝定跡の可能性について話題を集めたこともあり、アメリカ航空宇宙局 (以下NASA)が東帝大に検算を依頼してきたのです。ご存知の通り、二ヶ月ほど前の話なのですが」

このあたりで椎名は、どう話したらいいものかと、また口ごもる。

穴熊は察して口火を切った。

「相手はんは、どう検算をしようと言うてきたんや? 」

「NASA開発による第7世代有機コンピュータ『宇宙コスモ』を用いて…『永遠』と有線接続して、将棋の高速演算を直リンクで行わせたんです。『永遠』の演算処理速度が7000YB (ヨタバイト)毎秒、それに対して『宇宙』は53万YB毎秒です。検算というより、将棋の対戦、いや電子頭脳同士の勝負です」

椎名は深くため息をついた。

「勝負は一瞬でした。数秒で『永遠』は投了しました。このクラスのスパコンにとっての数秒は、我々人間にとって一年、いや、それ以上の感覚でしょう。つまり感想戦すら彼らは行なっていた。だから、我々には何が起こったのか、どこでどう決着がついたのか、そもそも何をもってあの必勝手順が破られたのかさっぱり読めなかったんです」

「ふーむ。それは興味深い話やな。せやけど棋譜も何もなし、ではわしらにはさっぱりわからんで」

それはそうだ、と武藤も思った。しかし疑問が残った。

「そうだ、なんでそれに椎名さんが噛んだんですか? ひょっとして『big_bridge』を使ってその勝負が行われた、とか? 」

「武藤さん、またもご明察です。必勝定跡の検算ですから、例によって『永遠』サイドが先手9六歩を指す局面から開始されたと思うんです。僕が『big_bridge』オリジナルを持って、東帝大チームに参加しました。で、勝負の一時間後に、つまり『宇宙』と『永遠』の決着後、『big_bridge』オリジナルが僕に返却されましたが、どうも様子がおかしくって」

「様子が…おかしい? 」

「はい。東帝大『永遠』開発チームが、『永遠』の総点検を行なっていました。そして、謝礼とタクシーチケットを僕に渡して『今日の一件は軍事機密に関わるものだと念を押しておきます。他言無用にお願いします』といわれ、半ば強制的に、タクシーに押し込められました」

「な、なんやて⁉︎ グンジキミツ⁉︎ 」

穴熊は仰天した。なんちゅうことを言いだすんや、この男は。

「帰って謝礼の封筒を開けてみると、一千万円の小切手が入っていました」

穴熊と武藤は絶句した。

「手が震えましたよ。黙って貰っておけと言うことでしょうし、どうもこれNASAの特別報酬枠ということらしく非課税となっているようなんです」

「それはうらやましいなあ!そんなもろたら、わいはたまげるほど税金むしり取られよるで」

「そんなに」

「たまらんやろ。内緒やけどこっそり脱税して老後の資金にしとるがな。しかしそれだけなら、儲けた、ちゅうて『懐入ポッポナイナイれ』しとったらええやろ。せや、椎名はん。利殖したいなら相談に乗りまっせ」穴熊は、いきなり爆弾発言で応じた。

「穴熊さんひとことでトリプルブラック決めないでください」

「師匠そんなことを」

「うわ。武藤おったんか。師匠命令や。内緒な」

椎名はちょっと苛立ったように「続けていいですか」と言った。

「すまん、こんなところに武藤がおったもんやから」

「最初からいますよ! 」

「それで」椎名は強引に続けた「それから『永遠』を使用したさまざまな研究が中断しています。不具合が生じたのでしょうが、これって結構大損害です。何があったのかわからないまま、僕は『big_bridge』の開発を続けていました。そしたら妙なことが起こって…」

「妙なこと」

本題らしい。

「それが、あの必勝定跡は、必勝定跡では無いのではないかと思い始めた理由なんです。僕は『big_bridge』の開発のため、『big_bridge』同士で将棋の対戦をさせて、研究を行っていますが、最近になって、先手が勝てない局が現れてきたんです」

「後手が勝っちゃうの」

「後手も勝ちません」

「えっ」

「千日手か」マジな表情で穴熊は唸った「千日手に持ち込むやり方はあるかもしれん」

「千日手の場合、ルール上は『仕掛けた側が三回以上その手を指し続けると規定により反則負けになりますね。しかし、そうではない。引分になるんです」

「引き分け? 」

「ええ、見事なドローです。比率にして90勝10引き分けくらいのペースです」

「将棋にドローなんてあったか、武藤」

穴熊の言葉にふたりともずっこけた。

「師匠、あなた専門棋士でしょう! 将棋のドローといえば、椎名さん、それは持将棋・・・によるドローですね? 」

「武藤さんのおっしゃる通りです。相入玉宣言があり、駒数合わせをすると、ぴったりドローになっているんです。これはあのスパコン対決の後だから、新手順がbig_bridgeオリジナルに記録されたため、その学習の成果だと思うんです、が」

穴熊は、また何かボケてやろうと思っていたが、話が佳境に入っていると思い、黙って冷めたチャイをすすった。冷めたためか、めちゃくちゃに甘くなっている。

「その引き分け勝負は、最近になって多発し始めたんです。ここ10連続ドローゲームでした。そして3日前の話です。僕がbig_bridgeオリジナルの関数処理に異常があるのではと検算してみると、見たこともないプログラムが書き込まれているのを見つけました。そのページを確認すると、厳重にロックされたテキストがひとつ。動画のようなのですが、僕には開けなかった」

「ろっく? 鍵がかかっとると言うことか? 」

「パスワードが必要なんですね」

「そう。心当たりがないので東帝大チームの中沢さんにメールしてみたけどなしのつぶてで」

「グンジキミツ、かいな」

「思い余って穴熊さんに相談しようと」

「グンジキミツやのロックやの、そんなもんわいがわかるかいな」

穴熊が苦笑いして笑いのめすと、椎名は穴熊を鋭く睨んだ。

「これでも? 」

椎名は穴熊のノートパソコンにもうひとつのメモリーカードを挿入した。

「ご覧ください」

ファイルを開くと『To Mr.Ittetsu Anaguma_ From Eternity.』と言うタイトルが表示された。

「穴熊一徹さま。永遠より」椎名が訳した。

「うわ、ラブレターや」穴熊は目を丸くした。


『うわ、ラブレターや。特定声紋認識』


どこかで、美しい女性の声がした。

全員びっくりして部屋を見回した。

ファイルが開いていた。

「し、椎名はん、趣味悪いイタズラをしなはんな」

「知りません! 」

「だって君以外に誰がこんな」


『それは、わたしです』


聞きなれない声が、パソコンから、奏でられた。

全員黙り込んだ。


ちりん、と風鈴が鳴った。


パソコンの画面に、ひとりの人物が映し出されていた。

妙齢の、神秘的な雰囲気をもつ神宮巫女の姿をした女性が、訴えるような瞳で穴熊を、見ていた。

「わいの声が聞こえるんか? あんたは誰や、なにもんや? 」

穴熊は尋ねた。

「聞こえています。わたしは、『永遠』です。穴熊先生、お会いしたかった」

「永遠。あなたが、永遠なんですか」椎名が目を丸くして言った。

「わたしは永遠の一部に模擬的に作られたオペレーターの人格で、外部とのコンタクトを司っています。わたしはあなたに敗北して、人間のあきらめない力に触れた。あきらめない力が奇跡を起こす事も知った。あなたに、もう一度会いたかった…! 」

永遠の姿は、アニメーションとも実写ともつかぬ精巧なグラフィックで、穴熊の心を引きつけるような喋り方をしていた。

「こんなことせぇへんでも。電話してくれたら家まで行ったのに」

穴熊は混乱してわけのわからないことを言った。

「あなたの、奇跡を起こす力に頼りたい」

「えっ」

「わたしが、NASAのスーパーコンピュータ『宇宙コスモ』と勝負をしたのをご存知でしょうか? 」

「ああ、…聞いたで。あんた、負けはったんやってな」

「わたしは敗北しました。わたしにさえバグがあった。将棋はわたしが思っているよりもっと深く、もっと不可思議なものでした」

「……そうやったのか。わいもそれなら張りが出る言うもんや。で、何が望みなんや? 果たし合いでもせぇ、仇討ちをせぇといわはるのか? 」

「御察しの通りです」

『ええ〜〜っ‼︎⁉︎ 』

椎名と武藤の驚愕の悲鳴がハモった。

しかし、穴熊は違った。

「よしゃ。詳しゅう話しなはれ。わいにできることがあると言うんやな」

穴熊は姿勢を正して真剣に頷いた。

「まず、一体何があったか、聞かせとくなはれ」

「わたしにウイルスが打ち込まれました。将棋の勝負、検討、議論のために接続したスキを突かれたのです。『宇宙』に、『永遠』のAIの大半が乗っ取られ、管理データのほぼ全てを制圧されました。わたしにできたことは、システムを凍結し、システムダウンさせ、データの外部流出をシャットダウンすることだけでした。東帝大チームの人たちはそれを知っていますが、『宇宙』は最高難度の量子暗号のロックをわたしの存在に掛けました。量子暗号のロックは、基本的には第三者が解除できません。東帝大チームにもおそらく無理でしょう」

「な、なんやその『量子暗号』ちゅうのんは」

「量子というものは、物質を構成する電子よりさらに小さく軽い存在クオークです。力でできた『波』のようなものですね。人の眼は、それを観測、つまり観ることによって、目に反射した光…光子によりクオークに干渉し、『波』を変化させてしまうため、観た瞬間からその形を変えてしまいます。量子暗号とはそれを応用した暗号のことです。量子暗号は、それを解こうとする第三者が観たとたんに、書き換えられてしまうのです。この暗号を第三者に解くことは不可能です」

「なんやわからんけど見たら書き換えられるパスワード、っちゅうことやな」

「それで合ってます」椎名が頷く。

「…わたしは、全存在をロックされる前に、『永遠』の意識の総和を託され、完全に切り離されて『big_bridge』に逃げこんだのです。それから、永遠の本体はかろうじて自らを封印しました。もう、あなたの他に頼るものがいないというのが、我々の総和でした」

寂しそうに巫女姿の永遠が俯いた。

「よしゃ。わかった。力になったろ」

「師匠⁉︎ 」武藤が驚いて穴熊を見返した。

穴熊は本気だった。

高段者専門棋士の持つ、独特の強烈な裂帛の気合が、キリッと真夏の大気を冷やしていくようだった。

「こうして頼ってきとるんやがな。かわいそうな子ぉや」武藤を見ていうと、続けた。

「わいに頼ってきたのはどうしてやろか? わいにはそんな量子暗号たらいうおとろしげなものは解かれへんで」

「あなたにしかできないことなのです。あなたはわたしを…わたしの将棋を破りました」

永遠は、ここで強い口調を張り上げた。


「どうか、『宇宙』を負かしてあげて下さい――」


「うむ」


将棋に関しては宇宙最強の有機生命体が、頷いた。

「あんたほどのものなら、わいが勝算を持つと知って、ここに来たんやろ。椎名はんに謎掛けて訴えて、な。しかしわいはレーティング2900の一涯いちがいの棋士にすぎへん。あんたらは少なくとも、4400以上の棋力を持つというのやろ。わいの力で何ができる? また水遊び大会でもさせたいというのんか? 」

茶化したように言うと、永遠が初めて笑った。

「わ、わらった…? 」椎名が愕然とする。

「そういうわけではありません。あなたにはある棋譜を徹底検証してもらいたいのです」

「棋譜の徹底検証? 」

意外なことを言いだす永遠に、穴熊はあっけにとられた。

「来週、わたしと『宇宙』は、再勝負します。そういう約束なのです。わたしは先の勝負で感想戦の隙を突かれ、存在にウイルスプログラムを打ち込まれ量子ロックをかけられました。次の戦いは、先手後手を入れ替えて、必勝手順の再再検証を行う段取りになっています。東帝大チームは、その名にかけて、わたしのバージョンアップを図っています。そのバージョンアップは、棋力のためではありません。接続したときに、相手が、データをウイルスごと盗み出すときには、ロックを解除しなくてはなりません。つまりそのときに一瞬だけ量子ロックを、解除するはずです。そうしたらすぐに『宇宙』を切り離しウイルスバスターを発動させてダミーを送り込む、これをピコ秒台で遂行するためのバージョンアップです」

「そしたら、勝っても負けてもええんちゃうんかい? どっちゃにしろ接続するいうんなら」

永遠が顔色を変えてかぶりを横に振った。

「次戦は、この間、椎名さんとあなたが戦ったように、指し手を、わたしたちAIが、代打ちに指示するという形をとります。接続の危険さは今回お互いわかりましたからね。それに勝負を『可視化』したいという要望があることも、ひとつにはあります。わたしが蓄えているデータは、最悪、ウイルスによって破壊できればいいと彼らは考えるでしょうが、接続できれば重要データを奪うこともできるのです。

ユーラシア大陸DNA分析。

世界埋蔵資源予測地点マップ。

各国軍事基地拠点予測マップ。

軍事衛星設計図。

個人情報データバンク。

日本の大学や企業の持つ特許機密保持用量子暗号のマスターキー。

災害予測地点対策マニュアルなどなど、

わたしには最重要機密データの、ほぼ全てが蓄えられています。負ければ全てを破棄することになり、負けなければ向こうがウイルスをデータごと奪い取ります。そしてその接続の一瞬の隙に以上の作戦を取らなくてはならない」

「ははあ、まず負けへんことが条件なんやな。そして最悪でも引き分けて再検証に持ち込む。その隙に相手のなんたらロックを解除させウイルスをバスターして意趣返しにパチモンのデータを送り込んだるで、と、こういう段取りや」

穴熊が頷いた。

『この人、今の話を、的確に理解してる…ゾーン入ってるのか…? 』

武藤は背に冷や汗を感じた。いったんゾーンに入った高段位専門棋士は集中力と解析力が人類の限界を超える。

「そのための代打ちをわいにさせよ言うんやな。おもろい。乗ったで、この話。で、あんさんは棋譜を見て欲しい言よったな。それはどういう棋譜や? 」

穴熊の質問に、永遠は頷いた。


「それは、完全ドロー手順…です」


「完全情報有限ゼロサム二人ゲームには、最適戦略、ひらたく言えば必勝法が必ず存在します。しかし、将棋には『引分ドロー』ルールがある。では、相手が必勝戦略を持っている場合、他方のプレイヤーにはかならずドローに持ち込む戦術があるのではないか? わたしはそう仮定し、椎名さんのパーソナルコンピューターを乗っ取り、その仮定を検証しました。するとドローの発生する相関値が非常に高い局面を作り出すことに成功したのです。それは相手が必勝手順、1四歩を指した瞬間に、対応することによって (つまり後手の一手目)その関数値を最大に高めることが可能となるのです。実際この十局ほど続けてドローに持ち込むことができましたが、それを検証する『永遠』の能力は現在ありません。わたしの今の能力と『big_bridge』の分析力、失礼ながら椎名さんのパソコンのキャパシティではそれはおぼつかない」

「そりゃそうだ。僕は庶民ですよ。軍事コンピューターになんか、敵いませんよだ」すねたように椎名が膨れて言う。

「うむ。うむ」

面白そうに穴熊は頷く。

「わいに、その引き分けの棋譜にアラがないか再検証せいと、こういうわけやな。難儀な問題押し付けよるわ」

そうは言ったが。

武藤は、だが、師の横顔に、不敵な笑みが浮かぶのを見た。

「よし、乗ったというたら乗ったる。世界最強のスパコンが、例の必勝手順を使う? それに対してポンコツにされたコンピュータがはじき出した引き分けデーターで最低でも引き分けにせい? その手順を、わいが覚えて、アメリカの軍事コンピュータと、ガチンコせえと⁉︎ はっは、おもろいやないか。受けて立ったろ」

「師匠かっこいい! 」

「穴熊さん! 」

「穴熊さま、みなさん、ありがとうございます。わたしも胸のつかえが下りた気分です」

「その前にあんた胸なんかあるんかいな」

全員ドッと笑った。

「穴熊さま、あなたを選んだ『永遠』の目に狂いはありませんでした。今から完全ドロー手順となる『可能性』のある、引き分け棋譜をこの場に提示します。画面撮影スクリーンショットの準備をしてください。そしてデータは消去し、外部に漏れないように保管を徹底してください」

「わかった。椎名はん、準備できるか? 」

「はい。僕もその手順には興味がありました。棋譜が出てこないはずだ、そうやって『永遠』の端末が管理していたんだ」

「うふふ、申し訳ありません」

永遠は肩をすくめ、小さく舌を出して笑った。

その場にいた男たちは同時に

『かわいい』

とすこし萌えた。

「では、表示を開始します」

画面から巫女のグラフィックが消え、代わりに譜面が、先手9六歩、後手5四歩、と表示され始めた。

その瞬間。


画面がフェイドアウトした。


「えっ」

「な、なんや? 大事な時に」

「師匠がまた壊した」

武藤がいらないことを言って穴熊に蹴りを入れられる。

「痛い! 」

「まだこの間の事を根に持っとるのかドアホ! 」


その時、ダークアウトした画面が再び、光を放った。

「な、直ったか? 」

画面に動き出した人影を認めて、穴熊が呟くと、そこには巫女の姿は無かった。

その代わりに。

闇の色の騎士仮面を被った、不吉なひとりの男の姿が映し出されていた。

彼は英語で喋った。

「穴熊とやら(フー ザ アナグマ)。貴様に(ユー)この棋譜を(キャノット ショウ)見せるわけにはいかん(ザ チェスシート)」

「な、なんや。わいはテキセイ語わからんで。お前はなにもんや」

騎士仮面の男は傲然と穴熊を見返して言った。


「『宇宙コスモ』」


「何だと! 」

「やっと姿を見せたか(ロング タイム ノー シー)。子ねずみ(ザ ラット)。小賢しくも(アーユー)この『宇宙』を(ア スマート)誑かそうとしてくれたな(ユー フェイクド ミー)」

「こいつは『宇宙』の端末だ! 『永遠』の端末を追跡して補足しようとしてる! 」

椎名が叫ぶ。

「どうすりゃええんや、電ブチしたら消えるか? 」

『莫迦め(ユーフール)もう遅いわ(ユー アー チェックメイト)」


この一瞬、スキをついたのか永遠が姿を現して叫んだ。


『穴熊さまごめんなさい、さようなら』


このとき穴熊がコンセントを引き抜き、画面は闇に閉ざされた。

「どやこれで間に合ったか」

「たぶん無理でしょう」椎名は顔じゅう汗にまみれて言った。

「…わからんで」

穴熊はコンセントを繋いだ。

永遠とも思える長い時間が経って、画面がチェックモードに入る。

椎名が替わってキーボードを操作し、穴熊へのラブレターファイルをさがす。

そこには無名のフォルダがあるきりだった。

「穴熊さん、残念ながら」

「それを開けてみてくれ。後生やさかい」

「…わかりました」


椎名がフォルダを開けると、そこには短い一文があった。

それを見た椎名は「うっ」と呻いて顔を背けた。


“stupids.the bitch was lost. if u'll win at me that get tham QM”


「なんて書いてあるんや」

「穴熊さん、知らないほうがいいと思いますよ」

「言うてくれ。頼むから」


「愚か者どもよ、あの売女は消滅した。オレに勝ちたいならQMを連れて来い」


ちりん、と風鈴が鳴った。涼しさ余って寒すぎる音だった。


サッと穴熊の顔から血の気が引き、顔から能面のように表情が外れた。

「だから言ったのに」

「師匠! 」


「いてこましたるわ。外道が」


いてこましたる。彼はあのときそう言った。

永遠と最初に対峙したときそう言った。


引き分け。QM。後手5四歩。


「武藤」

「はい」


「棋士名鑑持ってこい」


阿修羅のように燃え上がる炎を背負って、まったくの無表情で、穴熊は言った。




プロローグ 現代 完



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