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82.魔術の師匠

 ハオランが、ここに来る。

 まずい。


 急いで遠くのフォルカーさんの方向に足を踏み出し、しかし直後、全身に冷水を浴びせかけられたような怖気と震えが走った。頭より先に、体が反応する。


 反射的に、雪原全体を防護障壁で覆う。凄まじい衝撃に押し潰される——私の首に残った魔力の残滓と同じ魔力が、私の防護障壁を叩き壊した。

「…っ!」

 ありったけの、強力な障壁だったのに。耳の奥で、きん、と耳鳴りがする。誰かが私のそばに駆け寄って、肩を支えてくれた。


「……沙耶」


 どこまでも静かな声だった。恐怖で全身から汗が吹き出す。

 こちらではあまり見かけない顔立ちの青年は、私の前に降り立ち、周囲を睥睨した。

 あたりはしんと静まり返り、皆その場から一歩も動けない。


 その静けさのせいで気付く——ハオランの息が荒い。彼らしくない違和感に、ほんの僅かに平静を取り戻した。


 純白の雪原に、赤い液体が落ちている。

 顔色が悪い。

 よく見れば額に汗が滲んでいる。


「…?」

 視線を下に下ろして、彼の胸元から血が溢れていることに気付いた。立っているのが不思議なくらいの出血量だ。

「支部長の姿が見えない」

「……」

 読心術も使っていない。私の心を読めば、状況はわかる筈なのに。

 支部長は確か、読心術は効率的ではないから使わない、と口にしていた。読心術は魔力の消費が大きいのだ。使っていないということは、それだけの余力が無いということ。

 …アデル達が、確実に追い詰めたのだ。


「支部長に何をした?」

 無感情の瞳がこちらを向く。

「答えろ、沙耶」

 ハオランの手がこちらに伸びた。その手が私に触れる前に、眼前に防護障壁が張られる。

「サヤさん、下がってください」

 動揺して反応が遅れた私の前に、フォルカーさんが立った。

「…っ」

 駄目だ。彼とは戦ってはいけない。

「…邪魔をしないでほしい」

 消耗しているとは思えない魔力の気配。ハオランの周囲を、他の魔術師達が取り囲み、分厚い防護障壁を張った。

 フォルカーさんの背中越しに、ハオランと目が合う。苛立ちのこもった鋭い目が私を睨んだ。

「死にたいのか」

 低い声が囁いた。

 消耗している、筈なのだ。それを感じさせない重圧。それが膨れ上がり、周囲の全ての防護障壁がばきりと砕けた。

 誰かが息を呑んだ。いや、誰もが、かも知れない。

「化け物か…」

 背後から、愕然とした誰かの声が聞こえた。

 私を含め、この場には23人の魔術師がいるのだ。それでも止められないのか。

「沙耶」

 ハオランはこちらに向かって足を踏み出した。フォルカーさんの背中に緊張が走る。

「裏切っただろう、沙耶。…ベアトリスもいないのか」

「……」

「裏切り者には制裁が必要だ。そうだろう」

 こちらに向けて飛んできた魔術を、フォルカーさんの防護障壁が弾く。同時にその防護障壁も壊れた。

「…っ」

 長くは持たない。フォルカーさんの命の方が危険だ。フォルカーさんの前に出ようとしたが、フォルカーさんは私の体を腕で制した。どうして逃げてくれないんだ——そう思ってフォルカーさんの横顔を見上げたが、彼は落ち着いた静かな表情で、真っ直ぐハオランを見据えていた。

「総攻撃を」

 鋭く命じられた声に、皆即時に反応した。ありとあらゆる攻撃魔術が、ハオランに向けて投じられる。彼は防護障壁で難なくそれらを防いだが、爆炎と風で巻き上げられた雪で彼の姿は見えなくなった。


 フォルカーさんはその攻撃には加わっていない。ハオランの姿が見えなくなったのに合わせ、嘆息すると、小さな声で何かの呪文を唱え始めた。

「…?」

 長い呪文だったが、あまりに早口で、殆ど聞き取れなかった。僅かに聞き取れた単語も全て知らないもので、彼が一体何をしたのか、その時は全く分からなかった。

 空気が張り詰めるような、魔力が迸る気配。瞬時、攻撃魔術が止んだ。

 ハオランの体を、光の壁が覆っている。ハオランはその障壁を睨め付けるように見据えて、鼻で笑った。

「凡人の防護障壁ごときで、僕を止められると思うな」

 ハオランは傲然と言い放つ。

 彼は軽く手を上げて、いつもそうするように強い魔力を込めて障壁を叩き壊そうとした。

「…?」

 壊れない障壁に、ハオランは不思議そうに眉根を寄せる。彼はもう一度同じように力を込めたが、やはりその障壁は壊れなかった。

 フォルカーさんは続けて、早口で呪文を唱えた。今度はハオランの胴体に光の紐が巻き付き、完全に彼の動きを封じる。ハオランは驚愕の表情でフォルカーさんを見た。

「…ふう」

 フォルカーさんは大きくため息をついて、私の方を振り返った。

「一か八かでしたが、どうにか上手くいきました」

 彼はそう言って、小さく笑う。

「……?」

 何が起こったのか分からない。傍目には、ハオランを覆っているのはただの防護障壁にしか見えなかったし、彼の体の自由を奪っているのもただの魔術の紐にしか見えなかった。

「…何をした」

 ハオランは呆然とした様子でフォルカーさんを見ている。


 そう——フォルカーさんは、魔力がそう多い方ではなく、器用さでカバーしているという人で。

 普段も書類仕事や事務仕事に追われている人で。

 知識欲はとても強く、魔術書を読み漁っているが、その殆どを実践している様子はなくて。

 だから、呪文が必要になるような魔術を使っているのも、あまり見たこともなくて。


 かつて一度、私の脳内を覗いたハオランが、フォルカーさんのことを「危険視する相手ではない」と評価しているのは察しがついた。私も今この瞬間まで、彼を「守らなければならない人々の中の1人」だと思っていたのだ。


「貴方が万全の状態なら、破られていたかも知れませんが。奥の手というやつです」

 フォルカーさんはそう言う。

「手錠の用意を。3つでは足りないようなので、ありったけ持ってきて繋いでください。手に嵌められないなら足でも首でも何でも。それから、ゴンドラの連絡役の方。前線にいる大隊で用意している手錠もこちらに送ってもらうよう段取りしてください。なるべく早くでお願いします」

 フォルカーさんはハオランの質問には答えず、私の背後にいたミュラー部隊長とゴンドラの魔術師にそう指示を出した。

「ひとまず手持ちの錠を繋ぎ終わったら、師匠は彼の治療をお願いします。このまま放置しても失血死しそうなので…ああ、血が」

 我に帰ったように青い顔になったフォルカーさんは、呆然としたまま動けないハオランから視線を外した。

「………」

 平然と進められる後処理に、私の方がついていけなかった。


 ◇ ◇ ◇


 ここ、拠点での戦いは、きっと1時間に満たない時間で集結した。


 ハオランは何重にも手錠をかけられ、体を縛られ、今は荷台の中に押し込められている。師匠の手によって胸元の傷は止血され、縫合された。どうやらかなりの深手だったらしく、「これでよく動けたものだな」と師匠が呟いているのが聞こえた。肺に達する一歩手前、肋骨も何本か砕けていたらしい。


 未だ炎の燻る拠点跡地で、フォルカーさんは淡々と後処理の指示を出していた。

 本は全て燃やしたが、残っていた書類には【蝙蝠】の情報が残っている。フォルカーさんはそれらにも目を通し、整理しているようだった。

 私の方は「動くな、休め」の指示が出されたので、建物の体をなさなくなった拠点の瓦礫の上で、ぼんやりと座ってそれを見ていた。


 実感が湧かない。

 この数年私を苦しめ続けてきたものが、1時間足らずで崩壊したということが。

 膝を抱えて目を閉じる。…もう、私を追い詰めるものはない。それが分かっていても、まだ心は不安に追い立てられる。


「サヤさん」

 掛けられた声に顔を上げる。この1ヶ月、ずっと心配していた人の声。

 コンラート君は私の横に腰を下ろした。最後に会った時から少し痩せて、少しやつれて、顔色も良いとは言えない。だがその表情は明るかった。

「…ずっと心配だったんです。サヤさんが無事で良かった」

 彼はそんなことを言って笑った。…本当に、もう。


 我慢してたものが、瓦解した。急に鼻の奥がつんとして、ぼろっと目から涙が溢れた。

 コンラート君は焦った顔で私の顔を見て、「ごめんなさい」「ええと、すみません、俺何かしちゃいましたか」と慌てた。違う、ただ、安心しただけなのだ。

 彼が無事で良かった。

 巻き込んで、痛い思いさせて。本当に申し訳ない。

「サヤさんは何も悪くないじゃないですか」

 違う、もっと上手くやれてれば、誰も巻き込まないで済んだ。

「サヤさん」

 コンラート君は私の手を掴んだ。3ヶ月前よりも痩せた、細い手。その手は微かに震えていて、驚いて顔を上げる。彼は真っ直ぐ私の目を見返した。

「サヤさん、俺、何もできなかった。サヤさんが必死に戦ってる間、何もしなかった。俺の存在が、サヤさんの足枷になっているのも分かっていたのに、何も。…すみません。謝るのは俺の方です」

 コンラート君は顔を歪めて、頭を下げた。

「サヤさんは、自分のことを責めないでください。少なくとも俺は、あなたを責めていません」

「……」

 コンラート君の膝の上に、水滴が落ちた。

 2人手を握り合ったまま、そこから動けずに、涙が枯れるまで泣いていた。


 ◇ ◇ ◇


 少しして、コンラート君は師匠に連れられていった。安静にしろ、とぷりぷり怒っていたが、そんな姿ですら懐かしくて笑ってしまう。


 そして落ち着いた頃を見計らったように、フォルカーさんが近くにやって来た。

「サヤさん、お加減はいかがですか?」

 疲れてはいるが、大丈夫。

 フォルカーさんの方こそ、大丈夫だろうか。

「ええ、問題ありません」

 彼はそう言って、いつも通りの落ち着いた様子で頷いた。

「寧ろ気分が良いですね。あの傑物を、僅かな間でも足止めできたので」

 最後に使ったあの魔術は、一体どういうものだったのだろう。

「そうですね…」

 フォルカーさんは視線を遠くの景色に向けた。少しの間沈黙して、彼は口を開く。


「複合魔術の一種なのですが。貴女が不在の3ヶ月、頭を絞って作り上げたものです。元々、研究畑の人間ですから、こういったことは得意としておりまして」

 フォルカーさんは私の方に視線を戻すと、小さく苦笑した。

「貴女もご存知の通り、私は魔力量自体は少ない人間です。魔術を扱うにあたり、常に効率を考えてきました。そういった性質もあり、大隊に所属する前は、魔術機関を組み込んだ道具の開発、魔術自体の開発を専門とする部署で働いていたのです。器用な方でしたから、それなりに天職でもあったと思います。何の因果か、今は兵士の端くれですが」

「……」

「魔力が少ないからこそ、考えました。きっと私は、彼に脅威だと思われていない。だから私が考える一手は、彼に届くかもしれない。これまで身に付けてきた知識を全て注ぎ込んで、魔術を構築しました。ただ…彼が万全であれば、私を侮っていなければ、隙がなければ、これだけの味方がいなければ、決して通用しなかったとも思っています」

「………」

「魔道具の構築式を防護障壁に組み込み、複数の魔術と言語を重ね合わせ、精密な機械のように作り上げました。ゴンドラの魔術師の前で使わざるを得なかったのは誤算です。私が作った呪文は、あまり大っぴらに使って良い類のものではありませんので」

 フォルカーさんは懐から何かを取り出して私に見せた。それは、魔力のこもっていない大きな魔硝石だ。最大規格のものよりもずっと大きい、成形されていない石塊だった。

「魔力が足りなかったので、魔硝石も使いました。本当に、奥の手でした」

 それは…魔硝石を使うのは、危ないんじゃなかったか。驚いてフォルカーさんの顔を見つめるが、彼は平然としている。

「お気になさらず、器用なのが売りなので。それに——」


 フォルカーさんは私の頭を軽く撫でて、穏やかに笑った。

「魔術の師匠として、たまには弟子に良いところを見せなければ」

 そんなことを言う彼は、最高にかっこいい「大人」で、

 最高に自慢の、私の「魔術の師匠」だった。

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