81.その程度の
私は何を呼び出したのだろう。
『同じ人間が何度も使うのは珍しくは無いが…今回は自分で呼んだのか』
男とも女ともつかぬ、幼子とも老人ともつかぬ、不思議な声だった。形を視認できない黒い靄のような塊が、瓦礫の上に倒れ込む男の近くを這っている。
『それで、今回は何だ?残った耳か、目か。はたまた嗅覚か、味覚か?そういうものを捧げるやつは少ないが』
「………」
これは、一体何だ。何者だ。
『おや、本質を知らないまま呪文を使ったのか』
くつくつと笑う声。
『これは召喚術さ』
「………」
召喚術。この世ならざるものを呼び出す魔術。私にも使われた禁術。
ふと、脳裏を過ぎる本の内容があった。ファウストの図書館で読んだ禁書——馬鹿げた「悪魔」について語られた本。
『悪魔!悪魔か。面白いことを知っているな』
「……」
『だが、俺の正体は良いだろう?さあ、何を捨てるんだ?願いを言え』
これまで、私はこの存在を認識できなかった。呪文を唱えた人間にしか、これは見えないのだろうか。
視線を男に戻す。唇の端から血の泡を吹いてこちらを睨み上げる男を。
この男から、記憶を奪え。
『…へえ』
黒い塊がゆらりと縦に伸びた。
『記憶を奪うのは初めてだな。これは何かを代償に多大な魔力を得るための方法だ。記憶を奪っては元も子もない』
構わない。これは、ただの私の自己満足の、復讐なのだから。
ちなみに——この男から記憶を奪ったとして、私よりも強くなることはあるのか。
『それは無いな』
声はまた笑った。それに思わず乾いた笑いが漏れた。
なんだ。
なんだ、その程度だったのか。
男の前に膝をついて、その美しい瞳を見上げる。
今からお前の記憶を奪う。
「……は?」
男は一瞬呆然とした表情をしたが、直後私を鼻で笑った。
「ふ、【蝙蝠】で使われる忘却術など、私には効きませんよ」
ああ、そうか、私が何の魔術を使ったか分からないか。
これは忘却術などではない——代償の魔術なのだ。
ゆっくり腰を上げ、黒い塊に視線を向ける。
——やってくれ。
黒い塊はゆらりと一度揺れ、男の頭の上を通過し、霧散して消えた。
『もう二度と会わないことを願っているよ』
最後に聞こえた声はそんなことを言う。当たり前だ、私ももう二度と使うことはないだろう。
「………」
私の方を憎悪の表情で見据えていた男の顔から、感情が失せた。
直後、苦しげな顔で肩の傷を押さえる。
「ぐっ、う…」
自分がいかに残酷な仕打ちをしているか。十二分に理解している。
男の傷を魔術の糸で縫い、出血を止めてやる。
殺す気は無い。殺した程度でこの怒りは、憎悪は収まらない。
復讐なんて何も生まないだとか。
憎悪の連鎖が始まるだけだとか。
そんなことはどうでもいい。ほら——こうして記憶を失ってしまえば、連鎖なんて起きないじゃないか。
男は戸惑った表情で私を見上げた。今の男の目からは、私が命の恩人にでも見えているに違いない。その事実に思い当たり、無性に笑えた。
ここもじき、炎に包まれるだろう。
男の体を浮かせ、外に飛び降りた。
◇ ◇ ◇
「サヤさん」
あまりに懐かしい声。フォルカーさんは私の方に駆け寄り、安堵の表情で息を吐いた。その後ろから、コニーとディー、レナートもこちらに駆け寄ってきた。
懐かしい顔ぶれに安心する。離れていたのはたったの3ヶ月だったのに、何年も顔を合わせていなかったような、そんな気分にさせられた。
「サヤ殿、ご無事で何よりです」
「何というか、やつれたな。怪我はしてねえか?」
双子とレナートにそう声をかけられた。大丈夫だ、と頷きを返す。そういえばレナートは病み上がりじゃないんだろうか、彼の方が心配なのだが。
ふと視線を上げると、困ったように顔を歪めたフォルカーさんと目が合った。
「……本当に、無事で良かった」
フォルカーさんはただそう呟いて、くしゃりと笑う。
…多分、凄く心配させた。ごめんなさい、と頭を下げると、彼は苦笑した。
「怒るのはアデルの仕事ですから。私はただ、貴方が無事であることを素直に喜んでおきます」
そんなことを言われてしまうと、あんなに恋しかった彼に会うのが怖くなってしまう。は、とつい笑った。
「…彼が、「支部長」ですか」
そうだ。運んできた男を地面に下ろすと、フォルカーさんが複雑そうに見下ろした。
「その、出血が酷いようですが…それに、様子が」
「………」
それには答えず、視線を正面に向ける。
轟々と炎に包まれる拠点の前、雪原で負傷者の治療が行われている。私がその中に血塗れの男を運ぶと、師匠がこちらに駆け寄ってきた。
「…お前は、怪我はないか?」
久しぶりに会うというのに、師匠の方は平然としている。
肋骨は折れているが、自分で処置はした。そう返すと、彼は私の体をじろりと見た。魔術の気配を感じたが、甘んじてそれを受け入れる。
「どうやら、内臓に出血は無いようだな」
彼もそう言うなら、問題はなさそうだ。最初にベアトリスを誘き寄せるために傷付けた場所も、既に自分で縫合は済ませている。
今は、この男の治療を頼みたい。止血だけはしておいたから。
「…本当に助けたいのか?」
師匠がどこまで事情を知っているかは知らない。気遣うような視線に、こくりと頷く。
「…っ」
息を呑む気配に、背後を振り向く。そこにいるのは、金髪の女。彼女は地面にへたり込むようにして座ったまま、こちらを見ていた。
かつて「支部長」と呼ばれていた男は、今は痛みを堪えるように厳しい表情で蹲っている。そこにかつての威厳など、一欠片も無い。
「………何をしたの」
呆然とした様子のベアトリスの問いに、素直に答える。
記憶を奪った。
彼女は一瞬驚愕の表情をした後、顔を歪めて俯いた。それが一体、どんな感情によるものなのかはわからない。
ベアトリスの前に膝をつく。彼女とちゃんと話をするのはこれが初めてだった。
「…良かったわね。これであなたは自由だもの」
彼女は俯いたまま呟いた。
…それは、あなたも同じだ。
「私は、ここでしか生きられなかった」
そんなことは無い。私に居場所ができたように、あなたにだってその道はあるはずだ。
「ここが私の居場所だった」
ベアトリスは首を振って、長い白髪の男を見つめた。
「…その人が、私の生き甲斐だったの」
「………」
だが、私は——私は、絶対に許せない。
私から全てを奪ったこの男を、絶対に。
「ええ、知ってるわ——だから私も、あなたを責めない」
ベアトリスは微かに苦笑した。
「だけど、これくらいは許して」
かしゃん、と金属のぶつかり合う音がした。
「…?」
違和感を感じて、彼女の手元に視線を落とす。捩じ切られた錠を前に、一瞬思考が止まった。
三重にかけた。これは私でも外せない…そう思ったから。
「…ごめんなさい。彼の面倒は私が見るわ。あなたには迷惑をかけないから」
固まった私の耳元でそう囁いて、彼女は支部長の男の腕を掴み、煙のように消えた。
「………」
呆然と、彼女が数秒前まで居た場所を見下ろす。周囲の音が一瞬消える。直後騒然とする魔術師達の声は、私の耳には入らなかった。
混乱しながらも、脳内を様々な言葉が駆け巡る。
なんで抜け出せた。
私との戦闘の後だ、幾らかは消耗していた筈なのに。
手加減されていた?
これが万全の策だと思っていた。
手錠をあれだけかけたのに。
今の魔術は何だ。転移するような魔術はこの世界には無い、…その筈だ。
慌てて立ち上がり、周囲を魔力で探しても、彼らの姿は無かった。
逃げられた。
愕然として立ち尽くす。現実に頭がついていかなかった。
『…ヤ!』
「!?」
口の中に入れっぱなしだった通信具が音を発した。驚いて口から出し、耳を澄ませる。
『サヤ、俺だ!ハオランを取り逃した、そこから直ぐ逃げろ!』
「……っ」
アデルの声だった。




