08.ルームシェアの魔女
行軍が8日目に差し掛かったところで、雨が降ってきた。私としては恵みの雨だ。ずっとお風呂に入りたくて仕方なかった。これを解消できる術も思いつかなかったし。
体は臭いし、頭も痒い。それは多分皆同じで、たまに体をボリボリと掻く姿が見えた。川の近くを通ることがあれば体を流していたようだから、まだ幾分かマシだっただろうが。
背後の兵士から見えないよう顔を伏せて、フードだけ脱ぐと、土砂降りの雨が頭のてっぺんにばしゃばしゃとかかる。はあ、と息を吐いて、スッキリした気持ちを味わった。しかしそこからが大変だった。
それから1週間、ずっと雨が続いたのだ。
ぬかるみの中をず、ず、とソリが引き摺られる。行軍は5日前から少し速度を上げていた。
体はすっかり冷え、ただただ寒い。このままでは風邪を引いてしまう。逆に今までよく持った方だ。今度は別の理由で風呂に入りたくて仕方がない。体を温めたい。必要かな、と思って持ってきたタオルも、拭いても拭いても濡れてしまうので役目を終えてしまっていた。
フォルカーさんに聞いた予定通りなら、そろそろ目的地に着くはずだ。2週間を予定していた行軍は、天候が悪くなったことで逆にペースを上げたらしく、1日早く移動していた。これから攻め込むというわけでもなく、ただ帰還するだけの行軍のため、休憩を多めに帰還できるよう、かなり緩く予定は組まれていたのだという。
景色は森や草原から、舗装された道へと変わり、見晴らしの良い田畑や牧場が広がる大地へと変わっている。農作業をする人影や、羊を連れ歩く人影がたまにみられるようになってきた。
国について詳しい話はまだ聞けていないが、大きな国だというのは教えられている。6日前に、既に国境は超えていた。途中、遠目に見える小さな村々を横目に、真っ直ぐ国に帰る道を進む。目的地は首都だ。
「あと3時間ほどで目的地です」
雨の中だと声がとても聞き取りづらいが、フォルカーさんがこちらを振り向いてそう言った。やっとこの行軍が終わる、と気分が高揚する。身体中ずっとびしょびしょだし、毛布も濡れそぼって寝苦しくて仕方なかったのだ。温かいお風呂と乾いた寝床にありつけるならどこでも良い。
◇ ◇ ◇
それは大きな平地に造られた、とても大きな街だった。石の壁が街の外周を囲い、それが端が見えないほど長く長く続いている。石の壁は成形されたものではなく、さまざまな形のものが積まれ、間に固定剤を流されて固められたもののようだ。高さは6メートルから7メートルほどだろう。その上には固定砲台も置かれている。夕方の空の雨に濡れた外壁は、ところどころ橙色に輝いて美しい。
出入り口となる門は巨大な木製扉だ。行軍の先頭が門の前に着くと、がらがらと音を立てて扉が上へ開かれる。ついに都の中に我々は足を踏み入れた。
建物は大体が木造か石造かのどちらかといった感じだが、コンクリートのような、継ぎ目のない石壁の建物もある。街の外側は住宅街のようで、一軒家などが建ち並んでいたが、街の中心部に入っていくと、大きな建物が増えてきた。思ったほど古臭い街でもない。剣と魔法のファンタジーワールド(私にとってはノンフィクション)なので、もっと…なんというか、中世ヨーロッパを舞台にしたゲームみたいな感じだと思っていたのだ。
失念しがちだが、これは凱旋である。あの砦がどれほど重要だったかは知らないが、通りを進むと、街の人々が笑顔で出迎え、歓声を上げた。雨の中なのに、まるでお祭り騒ぎのような活気に満ちた空気に圧倒される。「ありがとう」「よくやった」「アーベントロート・エンデの獅子、我らの守り神」そんな声が聞こえてくる。もし晴れていたなら、もっと賑わっていたかもしれない。隊は少しスピードを落としつつも、街中を通り、とある敷地の中へ流れ込んだ。
まるで大学のような、大きな建物が立ち並ぶ場所。周囲を2メートルほどの壁で囲まれた、巨大な敷地だ。グラウンドのような何も無い大きな空間があり、そこにぞろぞろと兵士が並んでいく。
自然と隊列が整っていくあたり、訓練を重ねた兵士だと感じさせられた。
整列が終わり、人の動きが落ち着いた頃、アデルが彼らの前に立った。ざわざわとしていた空気が瞬時に静まり返る。
「この戦いで命を落とした者に、黙祷を捧げる」
低く良く通る声が、静かな声音でそう言った。しん、とした空間で、数千人がその場で目を閉じ、黙祷している。
数分後、アデルの声が再び響く。
「遠征ご苦労。勝利を飾れたのは、お前らが耐え忍び、勝利の為に影に徹し、全精力を注ぎ込み敵を打ち果たしたからだ。我が国の平穏は、お前らの献身と犠牲の上に成り立っている。これからひとまず2ヶ月の休暇に入るが、鍛錬を続け、祖国の勝利のために励め」
少し間をおいて、アデルは続けた。
「以上、解散」
あっさりとしたものだが、その言葉で、ぞろぞろと兵士たちは動き出す。家に帰ったり、誰かに会いに行ったり、湯を浴びに行ったりするのだろう。先程の静寂が嘘のように、がやがやとうるさくなり始め、人々はさまざまな方向に歩き去って行った。
2ヶ月間の休暇と言っていたが、その後はまた遠征に行くのだろうか。そしてそれに、私もついていくことになるのだろうか。
ソリの上で座ったままそんなことをぼんやり考えていると、アデルとフォルカーさんがソリの方へ戻ってきた。2人ともびしょ濡れで、アデルは髪を伝って落ちてくる水滴を面倒そうに払っていた。
フォルカーさんはソリから私を下ろして、杖を手渡した。最近ずっと座っていて腰が痛かったので、立ち上がって腰を伸ばすと気持ちがいい。フォルカーさんは私に向き直ると、いつもの口調で話しだす。
「ここは、第15・16大隊の合同基地です。おおまかに、東側の半分を第15大隊が使っています」
フォルカーさんは遠くの建物を指差す。外壁は灰色で、つなぎ目のない…コンクリートみたいな建物が立ち並んでいる。窓の数からしておそらく6階建、同じ大きさ・形のものが3棟並んで建っていた。
「あちらに灰色の建物があるでしょう。あれが我々兵隊の寮になります。外で生活する者もいますが、隊の約半数は寮で生活しています。あなたの部屋をあの中に用意します。遠くにいられると管理もできませんし、逃げられても困るので。ただ、女性のための寮がある訳ではありません。うちの隊に女性はいませんから。シャワールームやトイレは寮の個室には無く、共同で使うようになっています」
「……」
それはかなり、嫌だ。私の眉根が寄ったのを見て、フォルカーさんは言葉を続けた。
「こちらとしても、女性が1人、そこを使うというのは困ります。問題が起きかねないので。唯一、浴室が個室にあるのが大隊長室です。この敷地内で言うと、アデルの部屋か、第16大隊の大隊長室ですね」
それはつまり。更に眉根が寄る。
「ひとまず、アデルの部屋を使ってもらいます。いいですね」
最後の確認は、顰めっ面の大隊長に向けられたものだった。彼は「ああ」と低く返す。
「明日業者を手配して、浴室のある部屋を作るよう工事を進めます。配管をいじることになるので、少々大掛かりになるかと。専門外ですから詳細は明日にならないとわかりませんが、時間もかかるので、1、2週間は覚悟してください。簡易ベッドはこの後運び入れます」
説明しながら、アデルとフォルカーさんは寮に向かって歩き出す。憂鬱な気分でついていきながら、さながらひとつの街のような敷地内に視線を巡らせ、抑えきれないため息を漏らしてしまった。
◇ ◇ ◇
3棟ある建物のうち、一番奥の、6階建ての最上階の奥の部屋。それが大隊長にあてがわれた部屋だった。部屋の隣は倉庫や記録室、ほか6人分の部屋が並んでいる。そのうち一室はフォルカーさんの部屋だという。
「もう一人の副長が戻ったら話をつけなければなりませんが…まあ、大隊長命令だったんですから、あなたからうまく説明してくださいね。私はもう知りません」
フォルカーさんは珍しく投げやりな口調でアデルにそう言うと、大隊長室の扉を開けた。
「それでは、簡易ベッドを運びます。その間に、湯を浴びたほうがいいでしょうね。着替えは…女性の服はここには無いので、男性の服しか用意できませんが、よろしいですか?」
「……」
それは構わない、ちゃんと入るなら全く問題はないだろう。こくりと頷くと、フォルカーさんは「それでは」と部屋から出ていった。
アデルの部屋…というか、大隊長室は、内装は殺風景な灰色の剥き出し壁で、石の床全面に暗い灰色のカーペットが敷かれている。まず入ってすぐの部屋が執務室兼応接室になっているようで、正面には大きな木の机、背面には本や書類らしきものが詰まった大きな本棚、3人掛けの大きな革製のソファがローテーブルを囲んで2つ、2人掛けのものが1つ、1人掛けのものが2つ。
部屋の入り口から向かって右側に木製の扉がある。あちらが生活空間なのだろうと思う。
「来い」
アデルはそう言って、その生活空間に繋がっていると思われる扉を開いた。大きめのワンルームといった感じの、区切りのない大きな部屋だ。仕事で忙しいのだろう、娯楽を感じさせるものはなく、ベッドや机、箪笥やクローゼットなどが置かれているだけ。綺麗な部屋というより、生活感の薄い部屋だ。ホテルの一室のよう。
「そこが浴室だ。先にさっさと体を流せ。拭くものは中にある」
淡々と指示されるので、示された扉の方へ向かう。そりゃあ彼も早く体を流したいだろう。
扉を開けると、簡単な棚が置かれており、そこに畳まれたタオルが重ねられていた。壁には金属の蓋のようなものがあり、開けてみると下に向かって穴が空いている。金属製の筒が壁の中を通っているようだ。
「脱いだ服と使ったタオルは、壁の穴から下に投げとけ。明日になったら洗濯されて戻ってくる」
扉の向こうから声が聞こえる。魔法の力か科学技術の力かわからないが、なんて便利なんだ。感動しながら服を脱ぐ。
ずっと同じ服を着ていたし、雨でぐしょぐしょで、多分くさい。鼻がもはや麻痺しているが、多分みんなとんでもなく臭かっただろう。ちゃんと立てないので、体に張り付く服を脱ぐのに格闘する羽目になった。下着について考えたことはなかったが、黒っぽい色のショートパンツのようなものに、水着のビキニのような、紐で止めるブラジャーのようなものを着ていた。さっさとそれを脱ぎ、穴の中に全て入れる。
浴室の扉は、まるでプラスチックのような半透明な板が嵌められていた。ガラスのような感じはしない。この世界がどう発展しているのかはよくわからないし、知らない元素などもあるのかもしれない。石油製品じゃ無い可能性もありうる。…考えたところで答えはないので、浴室の扉を開けた。
中はだいたい3畳くらいの広さの、広めの浴室だった。半分は大きな浴槽、もう半分は体を流す場所。浴槽には特に湯も張っておらず、湯の貯め方もよくわからないので、今回はシャワーだけでいいか、と開き直る。そのうち、もう少し慣れてきたら聞いてみたらいいし、部屋があてがわれるというならその時でもいいだろう。
風呂桶はあるが座る場所がないので、浴槽の横に腰掛けた。シャワーヘッドの形はプールにあったような、壁に取り付けられて動かせない、大きめの形のものだ。水が出るかもしれない、とビクビクしながら蛇口をひねると、温かい湯が出てくる。安心しながら頭から流すと、茶色っぽい汚い水が床のタイルに広がって、うわぁ、と内心引いてしまった。
嬉しいことに、ボディーソープ、シャンプーが液体ボトルで置かれている。もしも石鹸しかなかったら辛かった。リンスはないのか、と思ったが、シャンプーがその役割も果たしているようで、髪を洗うとサラサラした感触になっていく。これだけ髪が長いと洗うのも大変で、3回くらいボトルをプッシュして、ようやく全て洗い終えた。ギトギトになっていたため、なかなか泡立たず大変である。
髪を洗い終えたら、体も洗い、満足いくまで擦り、垢を落とす。ボディソープが強力なようで、液体をつけて擦ったそばからどんどん汚れが落ちた。皮膚まで溶けるんじゃないかと思うくらい。
アデルも入るだろうから、と思って、なるべく急いだものの、髪を洗うのに時間を取られ、20分ほどかかってしまっていた。長い髪をまとめて絞り、水気を落としてから脱衣所に戻る。
タオルが置かれていた棚に、追加でシャツとズボンが置かれていた。ありがたい。
体をしっかり拭き、タオルで髪をまとめてから、先に下着を履く。下着は多分…男性物なのだろうとは思うが、女性物と大差ないようだ。ブラジャーないのか、と落ち込みながらズボンを履き、ベルトを締め、シャツを着て、う、と止まる。
胸が入らない。男性物のシャツなら尚更か。
どうにかこうにか引っ張ってボタンを留めるが、何かの力を入れたらその拍子ではち切れそう。更にその、下着もないので、色々浮いてしまって恥ずかし死にしそう。こんな服で外に出られない。
だから大きいのは嫌なのだ。無い物ねだりだ、わかっているのだ。それでも辛い、普通の大きさがよかった。普通が一番幸せだ。
そっと浴室の扉を開き、人影を探す。甲冑を拭いているアデルを見つけ、近くの壁をトントンとたたいて意識をこちらに向けさせた。
「何だ」
じろりと見られて、少しばかり身が竦む。それが地の顔つきなんだろうとは思うが、顔が怖いのだ。
扉の隙間から文字盤を出し、指で文字を指し示す。
「見えねえよ」
彼はそう言って、甲冑の手入れに戻った。何だこいつ、見えないならこっちに来てくれ!もう少し気を遣え!と、声が出たなら罵倒していただろう。
壁を追加でドンドン叩くと、更に機嫌が悪そうなアデルがこちらを睨んだ。
「なんだよ」
「…!」
私はここから動けないんだ、こっちに来て欲しい。ローブも洗濯に出しちゃったのだ、何も羽織るものがないのだ!
私の必死な視線に気付いたのか、胡乱な目つきをしつつも彼はこちらに来てくれた。
「何だ」
「……」
入らない、と伝える。
「何が」
上が、と濁して伝える。
「上?」
シャツだ、と伝える。
「大きさは問題ねえだろ」
確かに袖は余るくらい長かったから、本来は私よりも体格が大きい人のためのシャツだろう。しかし、問題がある。
もう一度、入らない、と伝えると、不審そうな視線を向けられた。
ああもう、察してくれよ、と心の中で叫びながら、正直に「胸が入らない」と伝え直した。
しばし沈黙が流れる。アデルは何というか、変な顔をして固まって、文字盤から目を逸らした。変に力が入ってしまったのか、胸の真ん中をかろうじて留めていたボタンが弾け飛んで、ドアの隙間から外に転がる。彼はそのボタンを目で追った後、唸るように声を漏らした。
「あー、……取り敢えずガウンを渡すから、それで何とかしろ」
そう言って、彼はクローゼットの方へと向かっていった。
あまりの気まずさに、私も思わず顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。