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77.代償は

◆ ◆ ◆で視点変更です。コンラート→サヤ

 何が起きているのか分かるまで、少し時間がかかった。


 四肢のうち、一本失うならどれがいいか。


 その問いが自分に向けられていることすら、暫く認識できずにいた。まるで遠くの世界で起きていることのように、どこか他人事のような感覚で、その男の言葉を聞いていた。


 自分よりも早く反応したのは、真っ青な顔をしたサヤさんだった。


 ——お願いします、それだけは。お願いします。何でもするから。

 冷たい床を這うようにして動き、男の体に縋り付く。白髪の男は穏やかな笑みを浮かべたまま黙っていた。彼女はぼろぼろと涙を流して、床に額を擦り付けた。

 ——私からは何を奪ってもいいから、彼からは何も奪わないでください。

「……」

 ——もう、逃げ出そうなんて考えないから。お願いします。

「ああ、サヤ…」

 男はしゃがんで、彼女の顔を両手で覆う。溢れた涙が男の手を濡らした。

「これは決定事項です、サヤ。そうですね…では、あなたに選ばせましょう。彼から何を奪いますか?」

 彼女は首を振った。

「駄目ですよ、サヤ」

 囁くような優しい声で、男は拒絶する。

「それでは罰にならないでしょう?」


 停止していた思考が、ようやく動き出した。

 自分に向けられた言葉の意味と、今の状況をやっと理解した。


 ぞっと血の気が引く。

 この男が、本気でそれを口にしているのだと、自分にも分かった。



 サヤさんはずっと、俺を逃がそうと考えていた。

 そんなことくらい、言われなくても分かっていた。



 日に日に彼女の顔色は悪くなっていたし、やつれてきていた。

 日中はどこかの部屋に連れて行かれて、夜には「部屋」に戻ってくる。そんな生活の中、サヤさんの緊張の糸はずっと張り詰めたままで、俺が何か話しかけても、当たり障りのない、ぎこちない返答が返ってくるだけだった。特に誰かが近くに居る時の彼女は、神経を尖らせているのが肌で伝わってきた。


 深夜、監視役と思しき男も眠るような時間になると、サヤさんはベッドの上に膝を抱えて座って、じっと動かなくなる事があった。何か考え事をしているような、そういう風に見えた。

 サヤさんと知り合ったのはほんの数ヶ月前で、気心の知れた仲というわけでは無い。自分にとって彼女は医学を志す同志であり、純粋に尊敬している先輩であり、友人というには立場も遠く、関係も浅い。そんな浅い関係でも、短い付き合いでも、彼女が自分に対して負い目を感じて、現状を打破し、俺を必死に逃がそうと動く人であることは分かっていた。


 俺の方は、できることも、やれることも、何もなくて。

 自分の存在が彼女の足枷になっていることは分かっていても、助けられることは無くて。

 ただ無為に時間が過ぎていくのを待っていることしかできなかった。

 絶対に彼女を責める言葉だけは口にしない、それだけは絶対に。それだけを心に決めていた。



 四肢を一本。

 代償はあまりに大きく、今すぐ嫌だと喚き散らしたくなるほど、男の言葉は重く、納得がいくものではなかった。心に決めていた事が揺らぎそうになるほど。


「しかし、そこまで言うならこうしましょう——」

 男はサヤさんの頬を撫でて、柔らかく笑った。慈愛に満ちた笑みに見えるそれが、慈愛から最もほど遠いものであることを、俺も知っている。

「あなたが手ずから彼の片手の爪を全て剥がすなら、あなたから聴覚を半分奪うだけに留めてあげましょう。悪い提案では無いでしょう?」

 …サヤさんの声が失われたのは、この男によるものだ。もうそんなこと、あってはならない。先程までは「嫌だ」としか考えられていなかったのに、そんなことは許さないという怒りが感情を上書きした。

「そんな——」

 声を上げた直後、こちらを振り向いたサヤさんの瞳と目が合った、気がした。


 そして、それから自分が目を覚ますまで、意識を失っていた事にも気付かなかった。


 ◆ ◆ ◆


 一睡もできないまま、気を失ったコンラート君の横に私は座っていた。

 もうそろそろ、朝だろうか。ここでは時間の感覚が失われる。もう何時間経ったのか分からない。涙はもう枯れて、ぼんやりと放心していた。

「………」

 コンラート君の、布の巻かれた指先に視線を落とす。


 男の提案を呑む以外なかった。

 目が覚めたら、痛むだろう。痛み止めがあれば渡したかったが、この拠点に薬の類は無かった。

 ごめんなさい、と声にならない音を何度も口にする。


「サヤ」

 名前を呼ばれるまで、近付かれている事に気付かなかった。…左側からの音が拾えない。ああ、意外と不便なのだな、と頭の片隅で考えた。

「サヤ、来なさい」

 ゆっくり立ち上がり、廊下を歩き出した男の後に続いた。


 通されたのは、いつも使っている場所とは違う小部屋だった。これまで使っていた部屋とほぼ同じ大きさの空間だが、室内には何も置かれていない。建物の2階部分に当たる、廊下の突き当たりの角部屋だった。

 男は部屋の真ん中で立ち止まると、私の方を振り向いた。

「今日からこの部屋で生活しなさい。魔硝石への注力作業もこの部屋で行ってもらいます」

「……」

 コンラート君は。

「彼は地下のままです」

「………」

 彼に何かするつもりなのか。

「あなたが従順なら何もしませんよ」

 男は笑みを収めて、静かな視線を私に向けた。


 この男が、こういう表情をするのを殆ど見たことがない。無表情に近い、感情の読めない顔。いつもは微笑みの奥にある冷たい眼差しが、真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。


「分かっていると思いますが、二度目はありません。そして次があれば…その時は、あなたの預かり知らぬ場所で彼に罰を与えます。勿論それをあなたに伝えることはありません」

 背筋を冷や汗が伝った。何がこの男の逆鱗に触れるかわからないのに、コンラート君の近くに居られないなら守れない。

「この部屋はベアトリスの監視下に置きます。指示された時以外、魔術は使用しないよう。…全く、面倒な事をしてくれたものです。ただの捕虜になっていれば、いらぬ魔術の知識などつけることも無かったでしょうに。アーベントロート・エンデにうまく取り入ったものですね」

「………」

「アーベントロート・エンデに所属していた際は、日に何個の魔硝石を作っていましたか?」

 ここで嘘を吐いても、もう仕方がない。

 16個だ、と答える。魔硝石への注力作業をしていた時、一番多く作れる限界がそれだった。とはいえ、記憶が戻る前のことだ、今ならもう少し多く作れるのかもしれないが、正直なところ未知数である。

「嘘は吐いていないようですね、結構です」

「……」

「これまで数を偽っていた理由は?」

 それは、自分の作った魔硝石が、悪いことに使われるのではないかと思ったから。…これも嘘ではない。

「下らない。…明日から20個作りなさい。代償を支払った分、いくらか魔力も増えたでしょう」

 …作れるだろうか。何が何でも作らなければならないことには変わりはないが、どの程度消耗するかわからない。

 片方の聴覚を捧げただけでは、然程魔力は増えなかったらしい。なるほど、「失いたくないものほど効果が大きい」というのも頷ける。

「今日はここで休んでいなさい。外に補佐役を置きましたので、何かあれば彼に」

 男は最後にそう言って、部屋から出て行った。


 椅子も机も無く、ベッドも毛布もない。こんな部屋で休むも何もないだろう。

 床にそのまま座り込んで、膝を抱えて俯く。


 コンラート君は、まだ眠っているだろうか。

 私のせいで、こんなことになってしまって、痛い思いをさせて、本当に申し訳ない。近くに居られなくて、謝罪することすらできないままだ。


 だからこそ——だからこそ、絶対にここから彼を出してやらねばならない。


 もう二度とボロは出さない。

 1ヶ月、死ぬ気で耐えてやる。

 きっともう信頼されることなどない。外に出されることも無いかも知れない。この部屋でずっと、魔硝石に魔力を注ぐ作業だけをし続ける、そんな生活になるかも知れない。魔術も自由に使えないだろう。


 それでも、絶対に負けない。


 ここを攻め落とす用意ができるまで、信じて耐えるのだ。

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