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71.仕事

「朝食だ」

 日が昇った頃、トレーを持った男が現れた。…私に言葉を教えた男だ。何度も鞭で背中を打たれた。

 髭面の、筋肉質な体をした黒髪の男。彼とは必要最低限の会話しかしたことがなかったし、本能的に恐怖を感じていたので私から話しかけることは殆どなかった。常に無愛想で笑った顔など一度も見たことがない。こんな地下暮らしだというのに肌は血色が良く、牢の番人、という仕事につくような人間には見えなかった。


 朝食は、冷めたパンと具の少ないぬるいスープ。…そうだ、いつもこれだったな。

 私もコンラート君も一睡もしていないまま。コンラート君の目の下には隈があり、体も重そうだった。

「……」

 逡巡しながら、牢から出ても構わないか、と男に訊ねる。男は私が文字を出したことに少しだけ面食らったような表情をしたが、すぐに咳払いをして頷いた。

「別に。この階から出なければいい」

 男は淡々とそう言って、廊下の奥へと姿を消した。

 正直なところ、出ても良いと言われるとは思っていなかった。

「……」

 元より牢に鍵はかかっていない。…逃げ出さないことがわかっているから、か。

 コンラート君の牢も開けて、彼の隣に腰を下ろした。

 巻き込んでしまって本当に申し訳ない。何度も伝えた言葉を重ねて、深く頭を下げた。

「サヤさんのせいじゃありませんから、もう謝らないでください」

 コンラート君はそう言って苦笑した。

「人質に取ったなら、殺されることもないでしょうし。だから…サヤさんも、無理はしないでください」

 無理なんてしてない。私は大丈夫だから。

「…サヤさん、凄く顔色が悪いです。顔だって引き攣ってます。病院にいるときはいつもにこにこしてたのに。サヤさんが無理してることが分からないほど、俺も鈍くはないです」

「……」

 思わず苦笑が漏れた。

 何もかも、全然うまくいかない。


 ◇ ◇ ◇


 2人で並んで朝食を食べた後、コンラート君は疲労が限界だったのか、直ぐに眠りに落ちた。それを見届けてから自分の牢に戻り、程なくした頃、かつかつと廊下を歩く音が響いた。

 脳の奥底にこびりつくようにして残る、足音。硬い靴底が石畳を叩く音、その間隔、響き方。あの男が降りてくる足音は、忘れたくても忘れられず、音だけで誰か分かるほど。

「サヤ」

 顔を上げたくなかった。どこまでも穏やかで優しい声音の癖に、どこまでも残酷な人の声。

「サヤ、話があります。出てきてください」

「……」

 言いなりになる他ない。顔を上げて、ベッドから降りる。鍵のかかっていない牢の扉を開けて廊下へと出ると、男は穏やかな微笑を浮かべて私を見下ろした。

「上で話しましょう」

 男は先導して廊下を歩き出した。


「………」

 男の後ろを歩き、階段を上がる。

 私はこの拠点の内部構造を知らない。通ったことがある廊下は少なく、魔術の訓練用に使っていた小部屋をいくつか把握している、その程度だ。

 男が選んだのは、そういった小部屋の一つだった。

 小部屋はほんの4畳半ほどの大きさで、木製の椅子と小さなデスクが一つずつあるだけ。そして壁の一面が本棚になっており、魔術書の類で埋め尽くされていた。そこにある本は手に取ることを許されていなかったから、内容までは知らない。

「サヤ、アーベントロート・エンデではどのような魔術を学びましたか?」

 室内に一つだけある椅子に腰掛けて、彼はそう問うてきた。

 生活をする上で必要な魔術と、戦闘で役立つ魔術を教わった、と答える。

「どのような訓練を?」

 これまで訓練したことを端折りながら簡単に説明すると、男は目を細めた。白い睫毛に縁取られた淡い紫色の瞳は、全てを見透かしているようで恐ろしい。

「ふむ、魔術基礎は一通り教わってしまったようですね。コントロールはどうです?どの程度できますか?」

 精度は低いから、小規模な魔術はあまり扱えない、と返す。…こう答えた方が、私を扱いにくいだろうと思った。それに嘘をついているわけではない、コントロール自体は苦手だ。

「…魔硝石へ魔力を込めたことはありますか?」

 私が返答する前に、彼は私の前に最大規格の魔硝石を置いた。

「暫くの間、あなたにはこの仕事を任せたいのですが。やれないというのであれば、あなたのお友達がどうなるか——分かりますね?」

 彼の人差し指が、魔硝石の角を軽く叩く。


「………」

 答える前に牽制された。

 …ということは、やはり彼には私の嘘を見抜くことはできない、もしくは読心術を使うまでもない相手だと判断されているということだ。見抜けるなら牽制など不要だから。


 もっと自分は平静を失うと思っていた。だが、僅か数ヶ月の間でも、人間らしく生きられたことが心を支えていた。

 畏怖の象徴である男に対して、以前より幾らか落ち着いて相対することができている。


 個数についても言及されなかった。あとは私の演技力次第だ。

 かつての自分は、意見することもできなかったし、常に自信がなくて、反抗する気は無く、ただ言いなりだった。その時のことを思い出しながら、しおらしく頷きだけ返す。

「やはりあなたは不出来ですね。同郷だというのに、ここまで差が出るものですか」

 その言葉が、ハオランやベアトリスと比較しての言葉だということはわかる。かつては心に刺さった言葉だった。しかし今は、落ちこぼれだということが救いに感じる。

「日に10個作りなさい。未達の分、あなたのお友達の指を一本ずつ折ります」

「……っ」

「注力作業用にこの部屋を使いなさい。食事もこの部屋に運ばせます」

 男はそういって、小さな置き時計をテーブルに置いた。

「毎日、22時までに10個用意しなさい。分かりましたね」

「………」

 拳を握りしめて頷く。

「不審な行動があればお友達の手足を切り落とします。どこを切り落とすかはあなたに選ばせてあげましょう。安心してください、死んでは意味がありませんから——勿論、止血しながらにしますよ」

 本当に悪魔という存在がこの世にいるなら、彼がそうだ。形のいい唇から漏れる言葉は全て非道で人の心が無い。頭の天辺から冷水をかけられたような吐き気と悪寒で、血の気が引いていくのが自分でも分かる。

「ああ、サヤ」

 まるで慈愛に溢れた天使のような美しい微笑を浮かべて、男は私の頬に触れた。

「そんな顔をしないでください。あなたがきちんと働いている間は、彼に傷ひとつつけませんよ。大事な大事な人質なんですから」

「……」

「サヤは従順で良い子ですね。それだけが取り柄ですが」

 男は私の頬を軽く撫でてから、ゆっくり立ち上がった。

「後のことは監視役に任せます。これまで通り従順な働きを期待していますよ」

「……」

 部屋から出て行く男の後ろ姿を見送って、その場に崩れ落ちるように座り込む。


 何度も深呼吸して心を落ち着かせる。

 ミスだけは許されない。


 日に10個は問題ない。だが日に10個作るのが精一杯だと思わせるような小細工はした方がいいかもしれない。この部屋を与えられたのも運がいい、魔術書が数多く置かれている。昔は読むことを禁じていたから、「従順な私」が読むとは思わないだろう。ここで何か得られればいいのだが。


 私の魔力量は、果たしてハオランと比べてどの程度なのか。

 首に残された彼の魔力の密度は高い。ここまで高い密度の魔力にはこれまで触れたことがない。…量の問題ではない、質の問題でも彼から劣っているのだ。

 一朝一夕でどうにかなる問題じゃない。勝てないなら、勝負そのものを避けるしかない。


 かり、かり、と無意識に首を掻いていた。慌ててその手を止めて、拳を握りしめて額を押さえる。

 やらなければならないことは多い。できなければならないことも多い。だが今は何よりコンラート君の命が優先だ。

 …焦りで気が狂いそうだ。


 ◇ ◇ ◇


 焦りばかりが先行して考えがまとまらないまま、時間だけが過ぎていった。


 一番の懸念が監視だった。

 こちらの世界に監視カメラなんてものはないが、魔術で「覗き見する」ことができないとは言い切れない。監視役は常に私の側にいるわけではなく、きっかり1時間に1回部屋の扉を開けるだけで、それ以外に見られている気配はない…ということが余計に私を不安にさせた。


 だから不自然に見えない範囲で対策を打つことにした。

 魔硝石に魔力を流し込むのに合わせて、室内にも魔力を充満させる。首輪を魔力で抑えられるなら、同じように監視も魔力に阻まれるはず。だが、意図せずそれが起きていると思わせないと。

 魔硝石に注力する過程で、コントロールが下手だから漏れてしまう…そんな風に見えるように調整しながら、魔力を放出し続けた。


 そうすると、監視役は今度は30分に一度部屋を訪れるようになった。やはり魔術で確認されていた可能性が高い。下手な行動を取らなくてよかった。


 本来、魔術の気配というものは、多少なりとも感じ取れるのだという。これはフォルカーさんから教わった。

「あなたは力が強すぎて、鈍感になっているのでしょうね」と、彼が苦笑していたのを思い出す。今のように、監視されているかどうか、というのも、普通の感覚なら感じ取れるのでは。

 となると、今はまず、感覚を研ぎ澄ませ、周囲の魔力の気配を正確に把握できるようになるのが先だ。


 深夜になって地下牢に戻され、深く息を吐き出してベッドに座り込む。コンラート君は先に眠りについたようで、今は静かな寝息を立てて眠っていた。

「……」

 音を立てないようにしながら、コンラート君の牢に入る。

 彼は眉間に深い皺を刻んで、苦しそうな顔をして眠っていた。頬には微かに涙の跡がある。

「………」

 ごめんなさい。絶対に助けてあげるから、だからそれまでの間待っていて。

 髪を優しく撫でて、自分も泣きそうになるのを必死に堪えた。

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