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07.初めての魔術

 身に危険が迫るというのは、常に外的要因からでは無い。というのを、今、物凄く、身をもって実感していた。


 トイレに行きたい。

 めちゃくちゃトイレに行きたい。

 何がとは言わないが、爆発しそう。


 朝になり、行軍はもう始まってしまっている。時折、行軍から離れて、少ししたら戻ってくる兵士がいるが、きっと彼らは用を足していたのだ。一時的に離れて用を足して帰ってくるには、私の足では行軍丸ごと止めてもらうしか無い。それは申し訳ない。早く休憩になってくれと祈るが、あと何時間後かもわからない。もう最悪止めてもらおうと思うが、ここからどれくらい遠くに行っていいのかもわからない。でも凄く凄く遠くでしたい。目に見えない距離まで離れて遠くでしたい。


 快速電車に乗り込んで、トイレに行きたくなった時のことを思い出す。次の駅に着くまで時間があるから、我慢しすぎて、身動きが取れなくなる、あの感じ。

 しかし、常にどこかしらにトイレがあった現代日本の都会と、こことでは違う。


 ああ、だんだん泣けてきた。もう座っていられず、横になって丸まっているのだが、この姿勢から全く動けなくなっていた。我慢しているとどんどんお腹も痛くなってくる。冷や汗が出てきた。


 助けを求めようにも声は出せないし、馬上にいるフォルカーさんは正面を向いている。馬とソリを繋ぐ紐は案外長く、手も杖も届かない。

 魔法が使えるというなら、頼むからこの痛みの原因になっているものを消し去って欲しい。本当に頼むから、お願いだから。ああ、お腹の中身がどこか遠くにいってくれたら良いのに、それか異次元にでも飛んでいってくれないだろうか。


 これまでになく強く願った。どうにかしてくれと、中身が消失するイメージを強く持った。くだらないことだと思われそうだが、全くくだらなくない。死活問題だ。声が出せていたらずっと唸っていたと思う。

 お腹の中のものを、1つの塊にまとめるイメージをつくる。それがはるか遠くの地面に転移する、そんなイメージをしてみる。それがうまく行かないなら、別のものだ。今度は、小さくなるイメージをしてみる。大きなものが、小さく小さくなって、最後には消える。

 無意識に、右手でぎゅうっと、木の箱を握りしめる。小さく小さく。そして、無くなっていく。


 ふいに、ふっと楽になった。えっ、漏らして無いよな、と思わず確認する。大丈夫だ、漏らしてない。ということは、記憶を失ってから初めて、魔術というものを使うのに成功したということになる。

 初めての魔術がこれか…とちょっと思うところはあるものの、これでだいぶ行軍が楽になりそうだ。でもこれが初めての成功だと、言いたくない。凄く言いたくない…。


 体を起こして、毛布の上に座り直す。

 今掴んだ感覚で、木箱をバラバラにできるかもしれない。正直今まで、半信半疑だったのだ。本当に私に使えるのか、と。しかし結果的に使えてしまったので、疑いは無くなった。

 イメージの仕方が悪かったのかもしれない。そう考え直す。

 左手で木箱を持ち直し、空中に、見えない手を作り上げる。それで木箱を掴むイメージをしてみた。自然と右手が、空中で物を掴むように動く。

 左手を木箱から離す。するとどうだろう、木箱が宙に浮いていた。嬉しくて、わっと気持ちが昂る。しかしその拍子に、宙に浮いていたはずの箱が、ころんと膝の上に落ちてしまった。

 駄目だ、集中しないといけないんだった。再び箱を持ち直して、もう一度。何度も試しているうちに、2日目最初の休憩に入った。


 ◇ ◇ ◇


「おや、浮きましたか」

 フォルカーさんは、私の手の中の木箱を見て言った。

「思ったより早かったですね。何かコツでも掴みました?」

 こくり、と頷いて、文字盤を取る。空中に手を作るのだと言うと、フォルカーさんは不思議そうに眉を上げた。

「珍しい方法を取りますね。大抵は、もっと単純に考えるのですが。しかし、コツを掴んだのなら、あとは早いでしょう」

 ほんの少し、彼の口角が上がる。彼の微笑みをちゃんと見るのはこれが初めてだ。

「国に帰るまでの間で、もう少し魔術を扱えるようになったら、食糧を取るのを手伝ってもらいましょうか。あなたのイメージで言うと…動物を空中で、手で掴む、と言うような感じでしょうか」

「……」

 首を傾げる。飛んでいる鳥を捕まえるのは大変そうだ。


 でも、これくらいはできるようになったのだ。

 フォルカーさんの目の前に木箱を浮かせて、組まれた木片をバラバラに解いた。集中していると周りに意識を向けられないので、すぐに集中を切って木片を膝の上に落とし、フォルカーさんに視線を戻した。


 ソリのような複雑な構造物を組み上げながら、魔術について説明していたフォルカーさんは、実はとても凄い人なのではないかと思う。今の自分にはこれが限界だが、どうだ、と彼を見上げると、感心したように息を漏らした。

「よく出来ましたね」

 褒めてもらえた。嬉しくて、自分でも表情が明るくなったのがわかる。

「明日にでも、実践練習で動物を捕まえてみましょうか。それまでに、どんなイメージで術を使うか考えてみてください。風の矢を飛ばしたり、見えない紐で捕らえたり…こういったイメージは、様々ですから」

 彼はそういって、今日の分の食材探しに向かった。


 一度バラバラにした木箱を、再度組み上げる。もっと単純に…というのは、どんな感じだろう。色んなイメージで術を扱えた方が、汎用性が高くていい。動物を捕まえるのも、どんな方法がいいだろうか。

 見えない手で掴むのではなく、ただ、それが宙に浮いているのを想像する。疑ってかかるのをやめてから、術が格段に扱いやすくなったようだ。手の中にあった木箱は宙に浮き、思い通りに回転し、バラバラになる。

 今度は、空気の紐で引っ張るのはどうだろう。しなやかで丈夫な、絶対に切れない紐だ。

 新しいことを知り、初め、学んでいくことは楽しい。学校の授業は退屈に感じていたのに、自ら知りたいと思い、学ぼうとすることは、こうも違うのか。元々分析好きな性質なので、あれこれ試しながら色んな方法を見つけていくのは面白かった。


 ◇ ◇ ◇


 3日目の昼には、フォルカーさんと共に、食糧となるものを探しに森に入った。…2人で行くものだと思っていたのだが。

「鳥がいるな。クルか」

「ええ。群れのようですね。10羽ほど捕まえましょう。そろそろ森を抜けてしまいますから、獲物が手に入りにくくなりますし」

「猪か鹿でもいれば楽なんだがな」

「………」

 今は、アデルの馬に乗せてもらっている。足が遅いだろうと言われて、まあ確かに、と頷いたら、馬の上に放られた。今回はフォルカーさんも馬に乗り、隊から少し離れた森の中で動物を探している。

 以前少し乗せられた時はアデルの背中に捕まったが、今回は前に座らされている。馬の背に手を添えて、落ちないようにと集中するのが精一杯だ。背中側には触れるか触れないかくらいの距離で、アデルが手綱を持って跨っている。

「サヤさん」

 声をかけられた。びくつきながら顔を上げると、フォルカーさんは遥か上空を指差した。

「鳥が飛んでいるのが見えますか。あれはクルという水鳥で、体が大きいので可食部が多く、食材に適しています」

 目を細めて上を見る。眩しい。遠くの方を、黒っぽい鳥が群れになって飛んでいるのが見える。大きな羽に、長い首のシルエット。

「私は10羽捕まえますので、1羽、試しに捕まえてみてください。動きが速いので、少々難しいですが」

 頷きを返して、じっと空を見上げる。どれにしようか、どう捕まえようか迷う。ずっと考えてはいたのだが、動く物を矢で射止めるのは容易いことではないだろうと思った。一番手っ取り早くて確実そうなのは、きっと網だ。


 1回だけ、深呼吸する。目を閉じて、具体的に網をイメージしていく。大きさ、目の細かさ、しなやかさ。目を開けて、標的を見定める。

 1羽だけ、離れて飛んでいるものがいる。その標的の正面に、網ができるのを強くイメージした。鳥は空中で突然もがき、激しく羽を羽ばたかせる。羽がはらはらと落ちてきた。逃げないように、更に上から、後ろから網を重ね、動けないよう固定していく。鳥は羽ばたけなくなり、地面に落ちてきた。

「よく出来ました、十分です。最後まで気を抜かないよう…」

 そう言われた時には、既に気が抜けてしまっていた。網がなくなった鳥はその場でばさばさと羽を羽ばたかせ、飛び立とうとしている。あ、と焦り、慌てて術を使うが、慌てているせいでうまく行かない。どうしよう、取り逃してしまう。そう思ったが、1本の矢が鋭く空を切り、鳥を射止めた。

「まだ半人前か」

 矢を放ったのは、背後の男だった。アデルは馬から降りると、仕留めた鳥を持ち上げる。頭の先から尾の先まで、約1メートル超の大きな鳥だ。

「徐々に使いこなせていますよ、初めてにしては上出来です」

 そう言いながら、フォルカーさんは次々と鳥を捕まえ、10羽を一纏めにして宙に浮かせている。大きい鳥だから、圧巻の量だ。何というか、格が違うのだと思い知らされて、ちょっと落ち込んだ。

「獲物を捕らえた後は、捕らえたことに安心して、気を抜いてしまいがちです。よくあることですし、私も初めはそうでした。あまり気に病まないでください」

 励ます言葉に、余計に申し訳なくなってくる。こくりと頷くと、フォルカーさんは苦笑した。

「記憶が戻れば、これくらいなんてことはないのでしょうけどね。さ、戻り…」

「待て」

 馬に獲物をくくりつけていたアデルが、ふと顔を上げた。腰の剣を抜き、周囲を見渡す。


 森の中は、しん、と静まり返っている。遠くの方で、鳥の鳴き声がした。特に何も気になることはないのだが、アデルは険しい顔で視線を巡らせている。

「視線を感じなかったか」

「…」

 私はよくわからない、と首を傾げる。フォルカーさんも、「いえ、何も…」と言葉を返す。アデルはそれでも動かない。

 突然、アデルの馬が落ち着きをなくし、前足を大きく振り上げた。体が支えられなくなり、馬上から振り落とされる。

「…!!」

 悲鳴の代わりに、空気が喉を抜けた。地面に落ちる、と思う前に、がっしりと抱き抱えられる。太い腕はアデルのものだ。

「落ち着け、ヴェナ」

 アデルは剣を腰に戻すと、暴れる馬の手綱を掴み、器用に抑える。馬は徐々に落ち着きを取り戻してはいたが、まだその場で足踏みし、周囲を気にしている様子だった。彼は再び周囲に視線を巡らせるが、気が削がれたように息を吐く。

「気のせいか…?」

 だがその時、近くの木の影から大きな獣が飛び出してきた。猪だ——でも知っている猪より一回り大きい。長い牙を持った、毛の長い獣だ。


 アデルは剣をもう腰に戻しているし、私を抱えているせいで身動きが取れない。瞬きする間に獣はこちらに接近している。声が出ていれば悲鳴を上げていただろう。精巧な網など想像している余裕はなく、ただ、その獣を止めないと、と必死に考えた。壁が欲しい、全部跳ね返す硬い壁。

 呪文がないと、成功したのかどうか、いつもピンとこない。だから少々力を込めすぎたかもしれない。壁を作って、更にそれを獣に強くぶつけた。

「うお」

 どん、という音と共に、眼前で獣が後方に吹き飛ばされた。アデルも驚いた声を出す。焦っていて全然気づいていなかったが、アデルの方は全く慌てている感じはなかった。フォルカーさんも特に驚いた様子も慌てた様子もなく、いつもの平然とした表情のままだ。私が何かしなくても、二人とも対処できたのだろう。

 吹き飛んだ獣は遠くの木にぶつかり、動かなくなる。フォルカーさんがそれを宙に浮かせて運んで、鳥の横に並べた。

「大漁ですね。これなら暫く美味しい食事にありつけそうです。サヤさんも、咄嗟のことだったと思いますか、上出来でした」

 ほ、と安堵の息を吐く。良かった、間違いではなかった。


 アデルは私を馬の上に戻すと、自身も後ろに乗り込み、手綱を掴んだ。まだ彼は、険しい顔で周囲を見渡している。

「獣の気配ではなかったのですか」

「いや。獣とは違うような気はしたんだが…今は何も感じねえ。俺の気のせいかもしれねえが、警戒はしておけ。今運んでる荷物のことを考えるとな」

「荷物、ですか?」

「こいつだ。生きてるなら奪い返そうとすんだろ」

 アデルとフォルカーさんは顔を見合わせる。考えてみれば、そういう可能性は十分にあり得る。自覚は薄いが、元々は強い魔術師だったのだから。

「先行で馬を走らせますか?」

「いや、隊の中に入れておいた方がまだ安全だろ。これだけ人数がいればそうそう攻め込めねえ」

「そうですね…」


「……」

 このまま、ここで私を殺してしまうという選択肢もあるはずだ。

 もし私が同じ立場なら、そう考える。もしも強力な兵器を持っていたとして、それが敵の手に渡ってしまいそうなら、いっそ壊してしまった方がいい。

 だが彼らは、生かそうとしてくれている。それが打算によるものか憐れみによるものか、それ以外の何かなのか、それはわからない。


 だが、生かしてくれているなら、それに報いたいとは思った。

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