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54.記憶の底(1)

 3年と少し前。

 2年間の指導の後、私は一人の補助者をつけられ、あの建物の外に出された。


 あの建物がどこにあったのか、今ならわかる。大陸の北の外れ、エレイズの西に位置する雪山の奥、1年中雪が降る未開の地。拠点は大きな四角い石造りの建物で、周囲には森が広がるだけで人の気配は一切無く、外から人が来ることは殆ど無かった——あったとしても知らされなかっただろうが。


 声を奪われた次の日、「補助者」となるという青年を紹介された。

「彼はニコラウス。今日から貴方の補助者となります。全ての指示は彼を通して行います」

「…よろしくね」

 ニコラウス——ニコは、穏やかな顔をした青年だった。自分より幾らか年上の、少し垂れた目尻が優しそうな男性。その風貌に自然と安心感を抱いた。ここにいる人たちは、そういう優しい目で私を見ることはなかったから。

「サヤ。今日からあなたを実戦に出すことにしました。あなたは覚えが悪いですし、ここで教えられることも限界があります。魔力量もハオランに近付いたようですし、これまでよりいくらかまともに魔術も扱えるかもしれませんね」

「…………」

 声が出ないから、反応のしようもない。ただ黙って俯いていると、外に出るための荷物をニコから渡された。

「連絡は規定通りに行います。頼みましたよ」

「は、了解しました」

 ニコは緊張した表情で男に礼を取る。ぼうっと立ち尽くしていると、ニコに手を引かれた。


 出入り口がある方に手を引かれているのに気付いて、困惑して立ち止まる。

「立ち止まらないで。あんまり強い力で引っ張りたくないんだよ」

 ニコは振り返ってそう言った。何の説明もしてくれないまま、出入り口にある玄関ホールで厚手の服を上から着せられ、外に連れ出された。


 ◇ ◇ ◇


 あんなに出たかった場所なのに、急に出してもらえたことで混乱してしまう。取りに戻りたいものも何も無いのに、戻らなくては、と頭の片隅の方で考えてしまっていた。吹雪いてはいないが、はらはらと雪が降っていて、氷点下の冷たい空気に剥き出しの頬が急激に冷やされた。

「君、足が悪いの?」

「………」

 頷くと、彼は手頃な木を折って私に手渡した。

「それを使って。今日中には山を降りられないから、中間地点にある山小屋で一泊するよ」

 事務的な説明のみをして、彼は私の手を取ったまま歩を進めた。足を取られる雪を掻き分けて、慌てて彼の後を追いかける。


 誰も何も説明してくれないのはいつもの事で、ただその時の指示にのみ従うことには慣れていた。

 そうして頭を使わずに生活していると、徐々に疑問に思うことすらしなくなっていく。その時も同じ感覚だった。どうでもいいのだ。自分の選択が未来を変えることなどないのだと思っていたから。


 その時は魔術の使い方がわかっていなかった。魔術の知識があればわざわざ歩いて移動する必要など無かっただろうが、ニコも私に魔術を求めなかった。私が使えないことを分かっていたのだろうし、支部長からの指示がない限り使わせる気がなかったのだろうと思う。


 数時間歩いて、空が薄暗くなった頃、ニコは森の真ん中で立ち止まった。夜間は外を歩き回れるような気温では無い。がたがたと震えながら彼の後ろ姿を見ていると、彼は徐に雪の中に手を差し入れ、何かの動作をした。

「……?」

 少し離れた場所で、雪の塊が動いた。ニコはまた私の手を取って、そちらの方へと歩く。その場所に近づくまで分からなかったが、崖になっている場所に洞窟のような穴が開いており、入り口部分が魔術で塞がれていた。

 これが休憩地点らしかった。


 内部は思いの外整頓されており、夜間を暖かく過ごせるだけの暖房設備と、大量の毛布、保存食が用意されていた。魔術で熱を放出する器具のスイッチを入れて、ニコは二人掛けの椅子に座る。ふ、と息を吐いて、彼は手袋を外した。

「君も休みなよ」

「……」

 まだニコのことがわからず、その場に立ち尽くした。何をしたら怒るのか、何をしたら機嫌を損ねるのかがわからない。彼がどの立場にいるのかもよく分からないが、罰を与えられるかもしれない。

「…おいで」

 私が固まったままなのに業を煮やしたのだろう、彼は私の腕を掴み、隣に座らせた。

「君は、ええと…サヤ、だったね」

「………」

「話ができないのか。街に着いたら紙とペンを買ってあげる」

「……」

 文字は読んだことはあっても書いたことはなかった。書けるだろうか、とぼんやり考えていると、ニコは私の肩に手を回して、軽く体を密着させた。

「……?」

「くっついてた方があったかいよ」

「……」

 誰かの体温を感じたのも、いつぶりか。最初は居心地が悪かったが、そのままの姿勢で数分暖をとっていると、強張っていた体から少しずつ力が抜けていった。

「体が冷えてる。寒いなら言ってくれて良かったのに」

「……」

「山を降りれば、支部長の監視の目も緩くなるから。そうしたら温かいご飯を食べて、柔らかい布団で休もう」

「………」

 こんな風に誰かに優しくされるのは久しぶりで、それだけで泣きそうになった。

 ニコの手が髪に触れて、軽く梳る。2年間、誰からもそういうことをされたことがなかった。驚きと困惑で肩が跳ねた。

「ああ、ごめん。慣れてなかったかな」

「……」

「これまで辛かったね。嫌なことばっかりだったろう」

「………」

 彼は優しく頭を撫でた。

「もう大丈夫だよ、サヤ。僕は君の補助者だ。何でも頼って良いんだよ」

 囁かれたその言葉は、私が彼に心を許し、依存するには十分な一言だった。


 ◇ ◇ ◇


 山を降りた後、街で過ごせたのは僅か5日ほどだった。

 こちらの世界の「街」というものを見たのはこれが初めてだった。


 彼は山小屋で口にした言葉をちゃんと実践して、温かい食事と、柔らかい寝具を私に提供した。当たり前に手に入るものだと思っていたものが与えられなかった2年間のせいか、その有り難みが身に染みて分かった。初めの2日ほどは快適さが逆に体に馴染まず、よく眠れなかった。


 ニコは優しかった。

 街に滞在した期間、彼は寒さに弱い私のために厚手の衣類を揃え、伸びっぱなしで手入れされていない髪を切り、整えてくれた。

「こうした方が可愛いよ」

 そんなことを言い、私の髪を丁寧に梳った。

 こちらに来てから、初めて心から安心できる時間だった。


 最初の仕事は、小国同士の戦争への介入だった。


 そこで初めて、自分が所属している組織の名前を知った。【蝙蝠】という名を付けたのが誰だか知らないが、幼少期に読んだ童話が思い起こされる。

 確かイソップ寓話の一つ。争う獣と鳥の間で、有利な方の味方ばかりをした卑怯な蝙蝠の物語。世界は違うはずなのに、こういう合致が起きるのは不思議なものだ。


「【蝙蝠】に介入させるなんて…」

 国内を歩けば、至る所からそんな声が聞こえた。憎しみのこもった瞳がこちらを向く。

 あの場所から出られたら、もっと楽になるのだと思っていたのに。与えられる苦痛が肉体的なものから精神的なものになっただけだった。


 渡された紙に書いてある言葉を読み上げるだけの仕事。仕事としてはそれだけで、誰もが「簡単」というようなものだった。

 しかしそれを読み上げた結果、相手の軍の半分が消失したのを見て、怖気が走った。

 何をしているか分からないまま、私は人を殺していた。

 震えが止まらず、紙を握り締めて立ち尽くす私の頭を、ニコは優しく撫でた。

「よく頑張ったね。偉いよ」

 こんなことは褒められることじゃ無い。

「君は正しいことをしてる」

 ニコはそう囁く。

 正しいこと。これが。そんなはずがあるか。首を振ると、ニコは私の肩を抱いた。優しく、宥めるように肩を撫でる。

「これは世界を良くするために必要なことなんだ」

「………」

 嘘だ。嫌だ、こんなことしたく無い。逃げ出したい。

「君にしかできないことだよ。それに支部長からは逃げられない」

 言葉にはしていないのに、全て見透かしたようにニコは言う。

「ちゃんと仕事をこなしていれば、もう痛い思いをすることはないよ」

 彼の手が置かれている場所は、まだ鞭の痕が残っている。

「きっとこれから君は、畏怖の目で見られ、多くの人から蔑まれ、罵倒されるだろう。だけど君がやっていることは、世界にとって重要なことだ。僕がずっと近くにいて、君を守ってあげる。だから一緒に頑張ろう。ね?」

「……」

 頷く以外になかった。震える私の手から紙を抜き取り、ニコはそれに火をつけて燃やした。


 私たちは大陸を移動しながら、様々な国の争いに介入した。時にそれは戦争で、時にそれは内乱で、時にそれは暗殺で。

 そんな生活では、心をまともに保つことなどできなかった。


 ニコは常に私の側で、私を支え続けた。

 ニコの言葉に逆らうことなど考えもしなかったし、彼が側にいてくれればそれで良かった。

 恋心とは違う、今思えば——まるで、母親に依存する小さな子供と同じだった。唯一自分を尊重して優しくしてくれる相手を失うのが、どうしようもなく怖くて仕方がなかった。

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