53.血の匂い〈side:アデル〉
彼女を責めても仕方がない。
分かっていても、止められなかった。
立場上、パーティーの場に戻らないわけにもいかない。独房に男を連れて行った後、苛つきを必死に抑えながら司令部の人間と言葉を交わす。
酒も喉を通らず、手に持ったグラスの中身は一向に減らなかった。
恋人なのだと聞いて、動揺した。
別に居てもおかしくないだろ。記憶が無い間に何があったかなんて、本人にだってわかんねえんだから。そういう可能性だって考えなかったわけじゃない。
それなのに、嘘を吐かれたような気になって、彼女を責めた。泣かせた。怯えた視線が脳裏にこびり付いて離れない。
最悪だ。何してんだ俺は。
尋問しに戻りたい。下手したら殺してしまうかもしれないが、サヤだってあいつに対しては怯えの感情の方が強そうだった。それなら別に、あいつがいなくなっても困らねえだろう。
「……?」
ふと、サヤの気配が近くにないことに気付く。彼女はどうやら門の外に向かって動いている。…宿の方角じゃない。
「…失礼、急用ができました」
話をしていた相手に頭を下げて、ホールから外に出る。どこに向かうつもりだ。
「アデル」
フォルカーがこちらに向かって声をかけた。
「何処へ行くのですか。何か問題でも?」
「サヤが妙な動き方をしてる。気になるから確認してくる」
「……わかりました。なるべく早く戻ってください」
彼女がいる場所を捕捉できるのは俺だけだ。フォルカーもそれは分かっているからだろう、頷いてそう言った。
頭を掻きながら、階段を駆け降りる。厩まで走り、一番速い馬を用意するよう頼んだ。
厩番が慌てて用意した馬の背中に飛び乗り、南に向かって駆け抜ける。あちらも移動しているのか、なかなか追いつかない。一体どこまで行くつもりだ。このままだと外壁の外に出る——いや、もう出たか。
サヤはどうやら山を登っている。馬には少々無茶をさせるが、腹を蹴って速度を上げた。
程なくして、サヤの動きが止まった。あとは距離を詰めるだけだ。
岩肌の露出した山道を無理やり駆け上がり、15分ほど経った頃、サヤの姿が見えた。
サヤは地面にへたり込むように座ったまま、ぼうっとしていた。
真っ白な顔には何か黒い液体が付着している。
数秒後それが血飛沫だと気付いて、一気に血の気が引いた。
馬から降りて彼女の側に駆け寄り、肩を掴む。
「サヤ、どうした、怪我してんのか」
しかし彼女は、それに全く反応しなかった。彼女はただ茫然とした様子で俯いている。
「おい、サヤ!」
強く揺さぶると、やっと視線がこちらを向いた。
「………」
唇が、アデル、と動いた。
「何があった、それはお前の血か?怪我してんのか」
サヤは首を振った。その視線が、地面に向けられる。
薄暗い中、そこだけ地面の色が違うのに気付いた。周囲に充満する匂いで、それが何かは察しがつく。しかし、死体と呼べるようなものは何も無い。
「何があったんだよ。お前がやったのか」
サヤはまた首を振って項垂れる。震える手が顔を覆い、その震えが次第に全身に広がった。
指の隙間から、血の混じった涙が零れ落ち、黒く染まった地面に吸い込まれた。どうすべきか一瞬迷って、彼女抱き寄せ背中を摩ってやる。
「…っ、……」
微かにしゃくり上げていた彼女が、こちらの背に手を回し、しがみついた。肩口に熱い息がかかるのを感じる。
がたがたと震える体は華奢で頼りない。一向に落ち着く気配がなく、彼女は数分経っても音にならない嗚咽を漏らしていた。
「サヤ、おい、落ち着け」
このまま過呼吸にでもなってしまわないか心配で、何度も背中を摩りながら落ち着くように声をかける。それから少しすると、呼吸も落ち着いたようで、しがみつく力も弱まった。
「何があった」
訊ねてみるが、彼女は動かなかった。
「…このままここにいるわけにもいかねえだろ。部屋に戻るぞ」
漸く、小さな頷きが返ってくる。
彼女を抱えたまま馬に乗り、宿の方へと向かう。サヤの体についていた血がこちらにも移り、白い衣装は所々血の赤で汚れた。
このままではパーティーには戻れないな、と胸中で独白しながら、宿の中へと駆け込み、自室へ入った。途中、宿の人間にはぎょっとした視線を向けられはしたものの、視線で威圧すれば呼び止められることはなかった。
一旦ソファに座り、こちらは手を離したが、サヤの方はしがみついたまま動かなかった。
「サヤ」
あまり力を込めないように注意しつつ、サヤの腕を体から外す。体を離すと、血と涙で汚れた顔が、茫洋とした視線をこちらに向けていた。
「取り敢えず顔洗って…いや、風呂入ってこい。まだここにいてやるから」
言い聞かせるように声をかけると、サヤはふらふらと立ち上がり、足を引きずりながら浴室へと移動して行った。
あの血は一体誰のものなのか。なぜ彼女はあそこにいたのか。疑問ばかりが脳を支配する。取り敢えず着替えないとパーティーにも戻れない。
宿の人間に頼み、衣装を急ぎで手配してもらっている間に、サヤが浴室から出てきた。
「おい、ちゃんと拭けよ」
いつもはもっと髪を乾かしてから出てくるのだが、彼女の髪の毛先からは水滴が地面に落ちている。どうしたんだ、本当に。
タオルを手に髪を拭いてやると、力が入らなくなっているのか頭がゆらゆらと揺れる。
「大丈夫か、お前」
一応声をかけるが、反応が返ってこない。会話を諦めて、ベッドに運んでやり、引き続き髪を拭いてやる。ある程度乾いたかというところで手を止めると、サヤの体がゆらりと傾いで、俺の胸に頭がごつんと当たった。
「…っ、何だよ」
…顔を見下ろして愕然とする。眠っている。眠ったというか、意識を失ったという方が正しいだろうか。
「ああ、くそ」
今日が式典でなければ近くにいてやるのに。
「絶対起きるなよ」
言ったところで意味はないが言うだけ言って、宿の人間が運んできた衣装に着替える。黒い服だが血塗れで行くよりいい。
◇ ◇ ◇
パーティーに戻り、「遅かったですね」と言うフォルカーを捕まえ、ホールの隅に連れて行く。
「今すぐ宿に戻って、サヤの様子を見てくれ。お前の分の仕事は俺が受け持つ。俺はここを離れられねえ、お前に頼むのが一番良い」
「……?はい?」
混乱した様子で、フォルカーは首を傾げた。ああクソ、焦って説明ができない、頭の中が滅茶苦茶だ。
「サヤさんに何かあったんですか」
「何があったか分からねえが何かあった」
「…はあ、状況はよく分かりませんが、分かりました。貴方が着替えているのもそういった事情からですか?」
「血が付いた」
フォルカーは眉を顰めた。
「…サヤさんが怪我をされたということですか?」
「いや、返り血だ。俺も何が何だか分かってねえ。取り敢えず今は寝てんだが、起きたら何をするか分からねえ」
「……わかりました。後のことは任せてください」
フォルカーは持っていたグラスをテーブルに置き、颯爽とホールから出て行った。ひとまずこれで安心だ、と息を吐く。
その後、夜も更けパーティーからも解放された後、最後に警備の指示を出し、漸く体が自由になった。日付を跨ぐ時刻になり、疲労と苛つきで頭を掻く。
サヤのことも気になっていたが、念のため、今日地下牢にぶち込んだ男の様子を確認しに行くことにした。
早足で廊下を歩き、地下牢へ続く階段を降りる。男を入れたのは最奥の独房だ。
元々は国賊と呼ばれる者たちが幽閉されていた場所は、今では殆どが空いている。一部は処刑され、一部は解放された。静まり返る石畳の廊下を抜け、目的地へと向かう。
牢の扉に鍵を差し込み、直後違和感を感じた。
…空いている。
牢内には誰もいない。一瞬間違えたかと周囲を確認するが、確かにこの場所で合っている。周囲の牢は最初から無人だ。
逃げられる状況でもないはずだ。魔術が使える可能性も考えて魔術避けの手枷や足枷もつけていた。それが捩じ切られて床に転がっている。
こんなことができるのは一人しかいない。
「…サヤか」
牢番は「誰も入っていないし誰も出ていない」と言っていた。何かしらの魔術を使って、人目に触れないようにして連れ出したのか。
…であるならば、あの血の主は、もしや。
短く嘆息して、地下牢から出る。
問いただすのは気が引けるが、話を聞かなければならない。
◇ ◇ ◇
急いで宿に戻ると、フォルカーが出迎えた。
「サヤは」
「眠っています。見ている限りは落ち着いているようですが、一体何があったんです」
そうだった、殆ど説明を省いたまま、こいつにサヤを見張らせていた。ソファに向かい合って座り、ホールを出てから何があったのかを掻い摘んで伝える。
「…その、血溜まりというのは、どの程度ですか」
「あれが人間の血なら、明らかに死んでる量だ。死体は無かったが」
フォルカーは眉間に皺を寄せて黙り込んだ。
お互い口には出さず、いくつかの疑念を抱いている。俺もフォルカーもそのままの姿勢で動けず、室内は静まり返っていた。
そのままどれくらい時間が経っただろう。
「…サヤさんの様子を見てきます」
フォルカーはそう言って立ち上がった。それに頷きを返して、煙草に火をつける。
ソファの背凭れに体を預けて、煙を吐き出す。こうしていてもなかなか頭が働かない。ゆらゆらと煙を吐きながら短くなっていく茶色い紙をぼんやり眺めていると、フォルカーが寝室から顔を出した。
「…アデル。サヤさんが」
その言葉に、慌てて火を消して立ち上がる。早足で寝室に入ると、目を覚ましたらしいサヤがベッドから起き上がったところだった。
視線がこちらを向いた。アデル、と唇が動く。
彼女は静かな視線で周囲を眺めている。ここがどこだか確認するような仕草に違和感を感じた。
いつもの彼女と違うような、それでいていつも通りのような、奇妙な感覚に襲われる。顔立ちは全く変わっていない筈なのだが、これまでどこか幼さのあった顔が、大人びているような。
「……」
サヤは、す、と手を顔の横に動かした。いつもの、宙に文字を描く時の仕草だ。
——記憶が戻りました。
伝えられた言葉に、驚きを隠せずに固まった。サヤはそれが然程重要なことではないというような落ち着いた顔をしている。
——呪文もいくらか思い出しました。もう少しお役に立てるかもしれません。
「ちょっと待て、記憶が戻ったって、…全部か?」
——はい。魔術で飛ばされた記憶を、魔術で戻されました。過去5年間の記憶が鮮明に思い出せています。
「……」
どこから話を聞けば良いのか、逡巡して閉口する。
「あの、魔術で戻された、とは…?」
「……」
フォルカーの問いに、サヤは視線を落とした。言葉を選ぶような間を置いて、再び文字を描く。
——【蝙蝠】では、敵に捕まりそうな時には、記憶消去の魔術を起動することが義務づけられていました。
「……」
——それを解除する術を使われました。先程…かつての、知人から。
「恋人だとか言ってた、あいつか」
——はい。恋人ではありませんが。
その言葉に安堵している自分がいる。…違う、今はそんなことはどうでもいい。
——すみません、順を追って話します。
混乱している我々を見て、サヤはそう言った。少しの間目を閉じて、深呼吸を1回。
——彼の名前はニコ、彼は私の【補助者】…本部からの指示を受け取り、私に伝え、私を補佐する役目を持った人でした。恋人だと口にしたのは、そのことで何かしらの配慮をしてもらえる可能性がある、と考えたからかもしれません。私には記憶がありませんでしたから、否定も肯定もできない状態でしたし。
「……」
——アデルと別れた後、私は…自分のことが知りたくて、彼に問いただそうと、地下牢に行きました。そこで彼に「ここから逃してくれれば教える」と言われ、その通りにした。どうしても知りたくて、抑えられませんでした。
「…やはり、勝手に連れ出したのはお前だったか」
——申し訳ありません。命令に背きました。
サヤはそう言って頭を下げた。少し前までの彼女とは違う堅い口調に、距離ができてしまったようで不快感を覚える。
——南に逃げたいというので、言われた通りにしました。そこで、私と同じようにあちらから連れてこられた魔術師が現れ、…ニコを殺しました。そしてニコが死の間際に、私にかかっていた魔術を解いてくれた。
「…死体が無かったが、あれは?」
——圧殺されたからです。
「…圧殺、ですか……」
フォルカーが青い顔をした。想像して気持ち悪くなったようだ。
「死の間際に、とは、まあ…その、良い方だったんですね」
頭の中のイメージを早く切り替えたいのか、フォルカーがそんな安っぽい台詞を口ごもりながら言う。
——彼は、…そういう人間では無かったのですが。かつて砦を守っていた時には、私を捨てて逃げたので。
サヤは淡々とそう返した。しかし表情からは、恨みなどといった感情は読み取れない。
「…そいつは何で殺されたんだよ」
——【蝙蝠】からの指示のようです。私の方は「指示されていないから」と見逃されました。彼の方が私より圧倒的に強いので、彼がその気なら私も殺されていたでしょう。
サヤよりも、というのが想像つかない。サヤは魔術封じの手枷を力で捩じ切るような奴だ、それよりも強いなど…そんなことがあっていいのか。
——今の私は、ただ見逃されているだけです。いつ連れ戻されるかわからない。私をここに喚び出した男の気まぐれで泳がされているだけなのです。
サヤは暗い顔でそう言った。
「…アーベントロート・エンデの首都に戻れば、もう少し安全なんじゃねえか。あそこならそう手を出せねえだろ」
「そうですね…国の中枢で騒ぎを起こせば、国そのものに喧嘩を売ることにもなりますから。…しかしそれでも安全だとは言えません。その人物がサヤさんよりも魔力量、技量で優れているというのであれば、騒ぎを起こさずに殺害する、もしくは連れ出す、ということも簡単にできてしまうでしょう」
フォルカーがため息を漏らした。
強大な力を持つ者に対して対抗する手段がない。
どんなに守ってやりたくても、俺たちでは彼女を守りきれない。
「…何か対処する方法なねえのか」
「……」
フォルカーは眉間を指で押さえた。そのまま数分の沈黙が流れる。フォルカーは顔を上げて、ぼんやりとした視線を毛布に落としているサヤを見つめた。
「サヤさん、その…思い出したことについて窺ってもよろしいですか。思い出した呪文についても詳しく窺いたいのですが」
「……」
サヤは迷うように視線を彷徨わせる。フォルカーは噛んで含めるような口調で言葉を続けた。
「…正直なところ、私には対処する力がありません。サヤさんが、サヤさん自身の身を守るための…守るのに役立つかもしれない知識を授けることしかできない。貴方がこれまで使ったことのある魔術や経験も役立つかもしれません」
サヤは目を閉じて数分間黙り込んだ。覚悟を決めたように目を開けて、サヤは真っ直ぐフォルカーを見た。
——わかりました。
そうしてサヤが語ったのは、凄惨な過去だった。




