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52.記憶の蓋※

「良かった、人違いじゃなくて。知らない人だったらどうしようかと思った。ここに来れば会えるかと思って来たけど、正解だったな」

 彼は小声で、早口で話しかけてくる。

 私の目の前まで近付いてくる。妙な既視感が気になって、足がうまく動かない。逃げるべきなのかそうでないのかの判断がつかない。

 彼は街の人間が着るような姿で、全身から特徴という特徴を感じさせない不思議な人物だった。溶け込むことに慣れている、違う…慣らしたような、この感じは覚えがあるのに。

「あの時はごめん、僕も混乱してたんだ」

「…?」

「サヤ…」

 彼の手が、私の頬を撫でる。ぞわっとした不快感で、思わず一歩後ろに下がる。 

「サヤ」

 腕を掴まれて、無理矢理抱き寄せられる。強く抱きしめられて、脳の奥の方が嫌悪感で満たされた。

 嫌だ、怖い、恐ろしい。

「放っておいてごめん。もしかして、記憶が無い?あの術を使った?」

「………」

「僕のこと忘れちゃった?」

 男は腕を離した。

 返答に窮して、また数歩後ろに下がる。男は悲しそうに眉根を寄せるが、どことなくわざとらしい表情に感じる。

「記憶が無くてもいいよ、ここから逃して欲しいんだ。今なら兵士の監視の目が緩いから、国の外に逃げられる」

「…」

「サヤ、お願いだ。今までずっと一緒にやってきただろ?このままだと、支部長に殺されてしまう」

 再び頬に手を寄せられた。怖いのに、全く反抗できない。男は焦った様子で、こちらに詰め寄る。

「サヤ…!」

「……!」

 足が竦んで動けない。

「おい!」

 男の腕を、誰かの腕が掴んだ。安心感で肩の力が抜ける。その腕の主の——アデルの顔を見上げると、彼は今まで見たことがないくらい険しい顔をしていた。

「お前…何者だ」

 怒気を含んだ低い声が唸るように呟いた。

「こいつに何してんだ。殺すぞ」

 男の腕を掴むアデルの手に強い力が篭ったのがわかった。男は痛みに耐えるように唸る。

「ぼっ、僕は……」

 男の目が泳ぐ。男は私の顔に視線を留めて、震える声で言葉を紡いだ。

「僕は元々、サヤの恋人で」

「…あ?」

 アデルの目が細められる。私の方もその言葉に驚き、信じられずに固まる。

「だからサヤと話がしたくて…」

「…サヤ。本当か」

 分からないのだ。ただ、彼の存在は多分、知っている。

「……」

 アデルは何も答えられない私の顔をじっと見下ろして、男の腕を捻じ上げた。男は悲鳴を上げる。

「ぐぅ…っ」

「独房に入れる。サヤ、お前は部屋から出るな」

 アデルは男の腕を掴んだまま、私を空き部屋の中に押し込んだ。


 扉が閉められる直前、男はすがるような視線をこちらに向けていて、頭の奥の方が痺れるように痛んだ。


 ◇ ◇ ◇


「あの男と面識はあるのか」

 数分して帰ってきたアデルは、部屋の扉を開けると、開口一番にそう言った。

 私が答えられずに固まっているのを見て、アデルはこちらに詰め寄る。険しい顔は先ほどと同じままで、恐怖で動けない。

「答えろ」

 腕を掴まれて、壁に押しつけられた。強い力に怯む。

「あいつはお前の恋人なのか?」

 低い声が詰問する。

 分からない。記憶に無い、と首を振る。

「分からねえって何だよ」

 記憶には無いが、知っている人だと思う。

「何だよ、それ…」

 ぎり、と歯が軋む音が聞こえる。怖くてアデルの顔を見れない。

「……」

 アデルは私の腕を引っ張って、ベッドに放り投げた。硬いマットレスに尻餅をついて、痛みを堪えながら体を起こす。

「あいつは【蝙蝠】の人間だな?」

 多分、そうだと思う。

「記憶にねえってことは、お前がこっちに来てから2年後以降に会った人間、ってことか?」

 そうだ。

「そっから先の記憶は本当にねえのかよ」

 殆どない、が、誰かがいつも近くにいたような気がする。

 いつもその「誰か」が、魔術の指示をして、呪文が織り交ぜられた文書を渡した。その人物の「手」は思い出せても、「顔」は思い出せない。

「……」

 アデルは少しの間黙り込む。

「それがあいつか?」

 そうかもしれない。彼がそんなことを口走っていたから。ずっと一緒にやってきた、と。

「……」

 ただ、すごく怖いのだ。あの男の名前も思い出せていないのに、触れられるのも怖い。

 自分の中に明確に答えが無いのが恐ろしい。これまで自分が一体何をしてきたのかも分からないのが恐ろしい。

「…あいつと寝たのか?」

 その言葉の意味がわからないほど初心でもない。だが肯定も否定もできない。

「どうなんだよ!」

 ガンッ!

 アデルは強い力で壁を殴る。激しい音に驚いて、その瞬間、脳内を渦巻いていた色々な感情が決壊した。


 頭の中がぐちゃぐちゃで、勝手にぼろぼろ涙が溢れた。

 怖い。何が怖いかもわからない。声にならない音で、ただ泣きじゃくる。


 一瞬、部屋が静まり返った。

「……悪い」

 掠れた声が聞こえる。アデルの顔を見るのが怖くて、顔を俯ける。

「悪かった」

 微かに声が震えている。アデルはそれ以上は何も言わず、部屋から出て行った。


 ◇ ◇ ◇


 どれだけ時間が経っただろう。


 涙は自然と収まったが、感情がぐちゃぐちゃで、その場から動けないでいる。

 ベッドの上で膝を抱えたまま、床をぼうっと見つめていた。


 頭の整理がつかない。

 アデルに会うのが怖い。


 自信を持って答えが言えたら良かったのに。

 答えは抜け落ちた記憶の中にあるはずだが、足掛かりとなるものが無かった。


 どうしたら記憶は戻るのだろう。

 何がきっかけになってくれるのだろう。


「……」

 以前少なからず記憶が戻ったのは、魔術を限界まで使った時だった。

 しかしそれに頼るわけにもいかない。殆ど記憶が戻らなかったことの方が多いのだから、それに賭けて動けなくなる方が致命的だ。


 それか、あの男。

 あの男と話をしたら、記憶は戻るだろうか。戻らなくとも、私の知らないことを知っているはずだ。

 急く気持ちを抑えきれず、ローブを被り直して部屋から出る。


 アデルはあの時、独房に入れると言った。この城の警備についての話し合いをする中で、地図は一通り確認している。

 この城にも、地下牢は存在する。殆ど使われていないようだが、独房といえばあそこしか思いつかない。

 記憶を必死に手繰り寄せ、廊下を移動する。何度か警備とすれ違ったが、止められることはなかった。


 程なくして、廊下の突き当たりに目的地らしき地下へと続く階段を見つけた。

 地下牢へと続く階段の前にも、警備の人間が立っている。ここからは姿を見せない方がいいかもしれない。

 使い慣れた幻の魔術を使い、自身の姿を周囲の景色に溶け込ませる。足音がしないよう数センチ浮いた状態で、私は地下への階段を降りた。


 魔術で作られた火が廊下に並んでいるが、間隔は広く、薄暗い。ひとつひとつの独房の中を覗きながら、あの男のいる場所を探す。本当にここにいるかも定かではないから、不安な気持ちの方が強かった。


 …見つけた。

 一番奥の独房の中に、先ほど見た男と同じ格好をした影があった。男は奥の壁にもたれて座っていた。目は閉じているから、眠っているのだと思う。

 やはり彼に対して良い感情は湧いてこない。…本当に恋人だったのか。

 牢の鍵を開けて、中に入る。


 男の顔をじっと見つめて、必死に頭を巡らせる。何かが引っかかって思い出せないか。

 …何も思い出せないなら、話をする他ない。

「……ん」

 周囲に音が漏れないよう壁を作ってから、男の肩を魔術で揺らす。

「あれ…」

 男は私の顔を見て、目を見開いた。

「サヤ…!助けに来てくれたんだ」

 小声でこちらに詰め寄ってくるのを、今度は魔術で抑える。顔を見ないようにしながら、手足を拘束した。

 お前は誰だと問う。

「…サヤ、そういう魔術を使えるようになったんだね」

 私の出した文字を見て、彼はそう呟いた。

 そんなことを聞きたいんじゃない。お前は誰だって聞いてるんだ。

「…僕は君の補助者だよ」

 補助者?補助者って何だ。

「サヤは1人じゃ魔術が使えなかったじゃない」

「……」

「だからいつも僕がそばにいてあげたでしょ?ずっと近くで、呪文を教えてあげた」

「………」

 この穏やかな声に、この優しげな表情に、覚えがある。覚えがあるのは分かるが、それ以上思い出せない。

 恋人などと言っていたが、本当なのか。

「恋人みたいなものだったけど…」

 彼は小さく笑って、そんなことを言う。


 悔しい。

 どうして何も思い出せない。


「それより、ここから出してよ。このままじゃ殺される。君だってそうだ、多分もう、支部長は全部知ってる」

 あの白髪の男のことだ。あの声を、微笑みを思い起こすだけで血の気が引き、手が震える。

「サヤ…」

 魔術が自然と解けていた。

 男は気遣うような声を出して、私の肩に触れた。

「支部長のことは覚えてるんだね。じゃあ…思い出せないのはこの2、3年くらいかな?」

「……」

「逃がしてくれたら教えてあげるよ。何があったか」

 その言葉は、あまりに魅力的だった。


 自分のことを知りたい。無くした記憶を取り戻したい。


 迷ったのは一瞬だった。男の手枷と足枷を、魔術で捩じ切る。男は手枷の嵌められていた手首をさすりながら、柔らかく笑う。

「ありがとう、サヤ。やっぱり君は優しいね」

「………」

 男に幻をかけて、地下牢から無理矢理引き摺り出す。

「南の山に連れてってくれる?ここからなら、南に逃げた方が良いからさ」

 不快感を抑えながら、男を宙に浮かせて地上に上がる。

 見回りをしている兵士たちはいるが、今の我々を視認できる人間などいない。誰からも止められないまま門を出て、南方にある山に向けて男を連れ出した。


 ◇ ◇ ◇


「ここまで来ると流石に寒いなぁ…」

 男はそんなことを呟く。空には雲がかかり、月明かりも弱く、薄暗い。私も男も吐く息は白く、時折吹く風が体温を奪った。

「この辺でいいよ。ありがとう」

 男は私の頭を撫でようと、手を伸ばした。その手を跳ね除けると、彼は苦笑する。

「もしかして、思い出しちゃったのかな」

 何の話だ。

「覚えてないなら、本能的に嫌がってるのかな」

「……」

 約束だ、何があったか話せと催促する。男は肩をすくめて、おどけたように笑った。

「そんなに急がなくても良いじゃない。久しぶりに会ったんだから少し話そうよ」

「………」

「あれからどうしてた?君が捕まって、今はアーベントロート・エンデの大隊に所属してるのは知ってたけど。顔色が良くなったね。昔より表情も豊かだ」

 彼は柔らかく笑う。また私の頬に手を伸ばした。払い除けようと思ったのに、うまく手が動かなかった。

 そっと彼の手が頬に触れて、優しく皮膚を撫でた。この感触に覚えがあるような気がする。

「昔は僕がいないと何もできなかったのに、こんなに色んな魔術が使えるようになって、凄いね」

 …うるさい。この声をもう聞いていたくない。彼の手を払い、もう一度何があったか話すよう催促する。男は苦笑して、仕方ないな、と呟いた。

「君は——」


 突然、眼前の男が消えた。

 何か、温かい液体が体に掛かった。


「……?」

 頬に飛んだそれに触れる。黒くて、ほんの僅かに粘性のある何か。薄明かりの中、男を探してゆっくり視線を巡らせて、地面に横たわるそれに目を留めた。


 体のおよそ半分を失った男が、そこにいた。

「……」

 呆然とそれを見下ろして、その場に立ち尽くす。地面に飛び散った臓物と、骨と、左腕。口からは泡と共に血が溢れる。

 片方の肺が潰れている。抉れた肋骨の隙間から、大量の血が流れ出ている。

 咄嗟に膝をついて、男の体に触れる。止血、止血をしないと。頭の端ではもうどうしようもないとわかっているのに、男の体に、命にしがみつく。


 しかし男は茫洋とした顔で、私を——私の背後を見ていた。


「沙耶」


 静かな声は、こちらの人々の発音の仕方と違う。少し高めの、男性の声。

「ここにいたのか」

「……」

 背後を振り返る。黒いフード、魔術師だ。その顔には見覚えがある。

 こちらではあまり見かけない、アジア系の顔立ち。真っ直ぐな黒髪の隙間から、無機質な切れ長の目がじっとこちらを見つめる。


 記憶の中では会ったのは一度だけで、言葉を交わしたことはなかった。

 ハオラン、と呼ばれていたことは覚えている。


「行方をくらませてから、アーベントロート・エンデにいたことは知っていたけど。ここにいるということは、どこかの大隊の所属か」

 ハオランは小さく呟く。こちらに一歩近付いたのに合わせて、思わず地面を這うように後退る。

 彼は不思議そうにこちらを見下ろし、首を傾げた。

「沙耶を連れ戻せとは言われていないから、何もしない」

「……」

 感情を全く感じさせない、抑揚のない声。彼の視線は、私の背後にいる男に向けられた。

「そいつを殺せと言われている。直前に避けられた。まだ息がある。確実に殺さないと」

 虫の息の男に向かって、衝撃波が向けられるのがわかった。咄嗟に壁を作り、それを跳ね除ける。

「なぜ庇う?」

 心底不思議そうに、ハオランは呟く。

「沙耶はそいつに捨てられただろう」

「……?」

「忘却術を使ったのか。そうか。そういう規則だった」

 ハオランは私の前にしゃがみ込んだ。目線が合う。

「記憶が無くなったのに、魔術が使えているのは何故だ」

「……」

「ああ、魔術の師を見つけたのか」

「……?」

「医学も学んでいるのか。無駄なことばかりしているね」

 何も言っていないのに、まるで心を読まれているように声をかけられる。ハオランはちらりと私の背後にいる男を見た。

「助からないのに、何故止血している?」

「………」

 ハオランは何事か小さく呟いた。中国語、だと思う。


 不意に、背後の男の手が、私の手首を掴んだ。殆ど音にならない掠れた声が、喉を震わせる。唇の端から、血の泡が溢れた。

 それは呪文だった。魔術が発動したのと同時に、脳を直接殴りつけられたような衝撃が走る。


 その一瞬、ほんの気を抜いた一瞬の隙に、男は私の眼前から消えた。

 

 私の腕を掴んでいた、手首から先を残して。

 

 そしてそれがゆっくり手から離れて、地面に転がった。


「…魔術が使えたのは知らなかったな」

 ハオランの静かな声が聞こえる。


 何が起こったのか、理解できなくて——理解したくなくて、動けない。その癖体はがくがくと震えて、歯の根が噛み合わない。


「そんなだから、弱いんだ」

 ハオランは呟いて、残された手首を拾い上げ、それすらも魔術で握り潰す。地面にぼたぼたと血が飛び散った。

「こんな弱い人間、邪魔なだけなのに。でも支部長は、沙耶を殺そうとしない。不思議だ」

「……っ」

「ん……誰か来るな」

 彼はちらりと一点を見据えていたが、私の方に視線を戻した。

「今はまだ、連れ戻すよう言われていない。仕事は終わったから帰る」

 動けない私から視線を外して、ハオランはこちらに背を向けて歩き出した。


 彼が自分よりも圧倒的に力で優っているのは本能で理解している。

 見逃された。緊張の糸が緩んで、腰が抜けて、その場から動けない。急に涙腺が緩んで、涙が止まらなくなる。


 ニコは最後に何をしたんだ。

「……?」

 今自然と、男の名前が分かった。それがまるで記憶を引き出すための鍵だったように、一気に頭の中が知らない記憶で満たされる。


 ああ、——全部、思い出した。

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