05.魔術について
「サヤさん」
軽く肩を揺すられて目を覚ます。体を起こすと、フードの男がこちらを見下ろしていた。誰だっけ、と一瞬思考を巡らせて、彼がフォルカーという名前だということをどうにか思い出した。
部屋に唯一ある小窓からは陽の光が差し込んで、壁を四角く照らしていた。もう朝か。
「おはようございます。よく眠れましたか」
小さく頷く。やることがなかったので横になっている間に眠ってしまっていた。かなり長時間の睡眠が取れたようで、だいぶ疲労が回復したように思う。
「あと1時間ほどで出立します。部屋の外で待っていますので、準備ができたら出てきてください」
頷いて、ベッドの縁に腰掛ける。寝ている間に跳ね除けてしまったのか、ローブは床に落ちていた。
「それから…ローブをしっかり着込んで、体型や顔がわからないようにしてください。これで鼻から下も隠して。うちの隊に女性はいませんし、今の兵士にとっては目の毒です」
渡されたのは大判の黒いハンカチだ。フォルカーさんは、それでは、と軽く頭を下げて部屋から出ていった。
準備といっても、顔を洗うくらいしかやることがない。手早く洗って、新しいタオルで拭く。年齢は肌に出るとかいうが、確かに肌はカサついている。化粧水が欲しい。ここでは手に入るんだろうか。シャワーくらい浴びたかったが、そんな贅沢は許してくれないだろう。
持ち物は杖と文字盤以外特にないが、タオルは持っていた方が都合が良さそうだ。2枚だけ拝借して、ワンピースの腰を縛っている紐の中に押し込んで固定しておいた。あとは言われた通りにローブを着込んで、顔を隠す。杖をついて立ち上がると、まさしく童話に出てくる悪い魔女の姿。杖をつきながら進み、扉を開ける。
フォルカーさんは私の姿を確認して、「それでは行きましょうか」とゆっくり歩き出した。
◇ ◇ ◇
杖をついて歩く分、私の歩みはかなり遅い。体は慣れているようで不自由には感じないのが不幸中の幸いだろうか。前を歩くフォルカーさんは、私が遅れないくらいのスピードで歩いてくれている。
廊下を抜けるだけで少し疲れた。途中何度か兵士とすれ違ったが、呼び止められることも挨拶されることもなく、あっさりと無視される。フォルカーさんには声をかける人もいたが、こちらには特に何の反応も示さない。それに安心しながら、できるだけ早く歩を進めた。
手すりを頼りに階段を降り、血塗れのホールを通過する。
ホールでは数人の兵士が、壁や床の血を洗い流していた。それでも、忌まわしい地下への階段からは濃厚な血の匂いが上がってくるような気がする。それをなるべく意識に入れないように、足早にホールの端を通り、出入り口の大きな扉から外に出た。
砦はどうやら、森に囲まれた山の上にあったようだ。澄んだ空気が心地良く、思わず胸いっぱいに吸い込んで大きく息を吐き出す。
砦の外は兵士で溢れていて、簡易的なテントが無数に張られていた。兵士はすでに鎧を脱いでいるものが多く、みな軽装だ。
「こちらへ」
フォルカーさんに促され、テントの隙間を縫うように進む。その間で、同じようにフードを身につけた魔術師のような姿も見かけた。ほんの数人、片手で数えられるほどだったが。彼らはこちらに気付くと、じっと視線を向けてきた。居心地が悪い。
小さなテントが並ぶ場所を抜けると、一際大きなテントが張られていて、その前でアデルが馬の世話をしていた。手に収まるほどのブラシで馬の体を擦り、毛並みを整えている。我々が近付くと、彼はその手を止め、足元の桶にブラシを放り込んだ。
「馬には乗れるか」
「…」
挨拶も無しに、問いを投げられた。首を振ると、彼はフォルカーさんの方を一瞥する。
「お前の馬に乗せられるか」
「私も馬は苦手なので、人を支えながらはちょっと」
「…歩かせる訳にもいかねえからな。おい、こっちに来い」
手招きされて、アデルの方へ近付くと、突然がっちり腰をつかまれた。そのまま上に放られて、馬の上に横向きに乗せられる。急な動作に驚いて、杖を取り落としてしまった。どこを持てば良いのかわからない。車やバイクのように無機物でもなく、生き物だ。安定感も感じられず、重心をどこに置いたらいいのかわからなかった。
「跨がれ」
言われた通りに足を動かし、どうにかこうにか馬に跨ることには成功した。このまま手綱を取れと言われても絶対操作はできない。馬上にいるという緊張感と冷や汗で、馬に乗るのはこれが初めてだと確信する。私の焦りが伝わるのか、馬も落ち着きがないような気がした。
身動き取れずに固まっていると、私の前にアデルが乗り込んできた。一瞬馬が動いて、驚いて咄嗟にアデルの服の裾を握る。それでも不安定なことには変わりはない。力を込めると震える左腕が、ぶるぶると緊張を主張している。
「安定しねえなら腰に腕を回せ」
あまり知らない人にくっつきたくはないけれど、背に腹は変えられない。諦めて腰に腕を回すと、密着感があって凄く嫌だった。
「………」
「……」
しん、と沈黙が流れる。次の指示があるのかと思っていたが、特に何も言われない。馬が動き出すわけでも無い。困惑していると、抱きついていた男の腰がぐるりと捻れて、自然と腕が離れた。
「……お前…」
声をかけられたので顔を上げると、今までで一番険しい表情がこちらを見下ろしていた。青い目は鋭く、眉間の皺の数が凄い。
「やっぱお前、降りろ。馬に乗せるのはやめだ」
彼はそういって馬から降りると、私の腰を掴んで持ち上げ、地面に降ろした。杖を持たされ、そこに立たされる。
何か不快に感じることをしてしまったのだろうか。しかし罰の電撃は無い。
「フォルカー、その辺の木でソリを作れ。お前ならすぐ作れるだろ。こいつは馬に向かねえ。誰の馬にも乗せんな」
「…はあ……」
フォルカーさんは困惑を滲ませつつも頷いた。アデルは今度はこちらに視線を向けて、私の顔を指差し、子供に言い含めるようにゆっくりと声をかけてきた。
「お前、行軍中の2週間、絶対にローブを脱ぐなよ。絶対にだ。分かったな。どうしても脱ぎてえならフォルカーか俺に言え」
「……」
びくつきながら何度も頷くと、アデルは大きくため息をついた。
「それで良い」
アデルはこちらに背を向けると、馬の世話に戻る。フォルカーさんに軽く背を押されながら、今度は森の中へと連れて行かれた。
◇ ◇ ◇
「良い機会なので、魔術を使って見せましょう」
フォルカーさんはテントの設営地からほど近いところで、こちらを振り向いて立ち止まった。
「その木がちょうど良さそうですね、それを使いましょう」
私の横に生えている、おそらく直径が15センチほどの長い木を指して、フォルカーさんは軽く右手を動かした。
「物を動かすという術は、とても初歩的な物で、呪文も必要としません。正確にイメージして動かす想像力が求められます」
淡々と説明する間に、木は根元で切られ、ゆっくり倒れていく。どすん、と木が地面に横たわる衝撃に、思わず肩が跳ねた。
「切る、というのは少し特殊です。一般的には空気の塊を動かして切るイメージですが。薄い刃を擦り合わせるような感じですかね。切る対象に合わせて刃物の形を変えると効果的です」
そう説明していく間に、ただの木が板材や角材に生まれ変わっていく。空気の刃というのは本当のようで、木が切られる時には木屑が宙に舞っていた。見えない鋸で切られていくようだ。
「大掛かりな術を使う時には、組み上げるための手順というものが必要になります。それが呪文です。口に出しても出さなくても良いのですが、正確であることが求められます。これについては、国に帰ってからにしましょう」
綺麗な形に整えられた板材が、バラバラと地面に並ぶ。
「また、術を使うためには、魔力と精神力が求められます。目に見えるものでも秤で測れるものでもないので、概念的な要素です。魔力の方は、主に生まれ持った保有量が物を言います。枯渇するまで使い続けると徐々に増えるものではありますが、生涯60年いっぱいに使ったとしても、せいぜい1.5倍ほどしか増えないと言われています。あなたの保有量は、おそらく世界でも屈指のものでしょう。確認されているだけで【蝙蝠】にはもう一人規格外の術師がいるようですが、そちらの情報はまだ詳しくは分かっていません」
難しい単語が多く、飛び飛びで理解する。曖昧に頷いていると、「話が逸れましたね」とフォルカーさんは呟いて、今度は角材と板材を整列させていく。
「精神力の話ですが、これは簡単に言えば「コントロールする」力です。力を制御し、イメージした通りに扱うこと。難しい術の組み上げをする時には特に、ミスが許されません。力を制御し、正しい量を正しく使うことが求められます。失敗すれば命に関わる場合もある」
みるみるうちに、木材はソリの形になっていく。フォルカーさんは手近な木から蔓を取り出し、木と木を固定するよう巻きつけ、捻り、結んで行った。これらを全て、一度も実物に触れずに行っていく。
「そのため、魔術師の間では、精神を鍛えるための訓練というものも行われます。どんな状況下でも焦らない、慌てない。泰然自若とした姿が、魔術師のあるべき姿です」
それを言うなら、彼こそその「あるべき姿」そのものだろうと思う。淡々とした落ち着いた佇まいで、この僅か半日程度の付き合いでも、何かに慌てるような人ではないのだろうと感じ取れた。
「料理をしたことはありますか」
ふと、ソリを見つめていた彼の視線が、こちらに向けられた。こくりと頷きを返すと、彼はソリに視線を戻し、蔓を丁寧に巻いていく。
「それでは料理に例えましょう。魔力の保有量というのが、鍋の大きさです。鍋の大きさは人それぞれ、その中でスープという魔術を作るとしましょう。食材や調味料を入れ、煮込み、火の加減を見て、味を整える。これが精神力です。求める味になるよう、コントロールをしていく」
話をしているうちに、ソリはもう完成形に近づいている。見えない手に引っ張られているように、蔓が木を引き絞り、組まれた板材が固定されていく。
「鍋いっぱいのスープを作るには、食材や調味料も増えます。味のコントロールが難しくなっていく。火加減を誤れば吹きこぼれてしまうこともあるでしょう。自身の力量の限界に近い大掛かりな術は、危険を伴います」
蔓が結び目を作り、どうやら完成形になったようだ。畳1枚分ほどの大きさ、座面の位置は地面から70センチほどで、地面と設置する部分を4本の太い角材が支えている。角材には蔓が巻かれて補強もされており、2週間引き摺られても、これなら壊れることもなさそうだ。
「余っている毛布があったはずです。底に敷けば、それなりに快適なものにはなるでしょう。こういった構造物を作る時には、完成形を正しくイメージしなければなりません。また、この程度の構造物なら魔術を使って組み上げても問題ないのですが、例えば建物のような複雑なものになると、建築物としての重心の調整や、骨組みを正しく組む知識が必要になります。そこまでいくと、普通に知識と技術のある者が人力でやった方が早い。魔術とは使い所です。力の扱いに慣れたら、この程度の構造物を作れるか試してみましょう。ああ…慣れないうちは、私の目の届く範囲で魔術を使うようにしてくださいね」
教授のような淡々とした口調で彼は説明を終えると、テントの設営地へと戻っていく。その後ろをソリがついていき、そのまた後ろを私が歩く。宙に浮く大きなソリは、現実離れした光景だ。
かつて私も、こういうことができたのだろうか。…考えてみても答えは出なかった。