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44.穏やかな目覚め

 ふっと意識が浮上した時には、体のだるさは殆ど感じなかった。


 何度か混濁した意識のまま目を覚ましたことがあったが、体が鉛のように重く、喉を通る息は熱くて、起き上がることはできなかった。目を開けることもできず、体を動かすこともできず。それが今やっとマシになった。


 白い天井には、ゆらゆらと白い煙が上がっている。それをなんとなく目で追いながら、ゆっくりと上体を起こす。背骨が軋んだ。腰が痛い。

「目が覚めたか」

 声の方向に視線を向けると、ベッドの横の椅子に腰を下ろし、腕を組んでこちらを見ていたアデルと目が合った。宙を漂う煙は、彼が口に咥えた煙草のものだったようだ。乱れた金髪の向こうから、静かな青い目がこちらを見つめている。綺麗な色だ、と半ば寝ぼけた頭で見惚れた。

「……?」

 ここはどこだろう。

「病院だ」

 そう言われて、視線を巡らせる。白い壁に白い床、薄い緑のカーテン、それからベッドと、サイドテーブルがあるだけの小さな部屋だった。見覚えのない光景に首を捻る。ここは私が働く病院ではないようだ。腕には点滴が打たれていて、ゆっくりとしたペースで透明な液体が落ちていた。

「…お前、10日も起きなかったぞ」

 ぼんやりとした頭でその言葉を反芻して、驚いてアデルの顔を見上げる。

「心配しただろうが、馬鹿が」

 アデルは眉間に皺を寄せて、息を吐いた。煙草の煙がふわりと広がる。

「…ファウストは落ちた。ここはファウストの首都、ウルバンだ」

「……?」

 あれ。首都を落とす戦いは。

「外壁と防護障壁をちょっと壊したら、あっさり降伏された。どうやらファウストは、俺たちが手を出すまでも無く瀕死だったらしい」

「……」

 もっと大変な事になると思っていた。拍子抜けしたし、自分が全く役に立たなかったという悔しさをどうしたら良いか分からない。

 複雑な感情が顔に出ていたのか、アデルは煙を吐きながら「気にすんな」と呟くように言った。

「お前が出るほどの幕じゃなかった、とでも思っとけ」

「……」

 そうは言っても。これが私の存在意義なのに。

「その内また手を借りることは変わらねえ、気にすんなっつってんだろ」

 アデルの手が額に伸びた。デコピンされる!と咄嗟に額を手で隠すが、その手は私の頭を粗雑に撫でる。

「無茶させて悪かった。まだ暫く休んでていい」

「………」

「何で泣きそうな顔すんだよ」

 弱ってる時に優しくされると泣きそうになってしまうんだ。そう返すとアデルは小さく笑って、灰皿に灰を落とした。


 灰皿には、既に大量の吸殻が乗っている。

 いつからここにいたんだろう。ずっとここにいてくれたんだろうか。


「フォルカーと医者を呼んでくる。ちょっと待ってろ」

 アデルは吸っていた煙草を灰皿に押し付けて、その横に置かれていた紙の束を手に、椅子から立ち上がった。もう行っちゃうのか、まだ一緒にいたかったのに。

「後でまた来る」

 アデルはそう言って、部屋から出て行ってしまった。


 ◇ ◇ ◇


「サヤさん、体の調子はどうですか?」

 大丈夫、と頷く。

「良かった。本当に心配しました」

「点滴を打っていたので食欲は無いでしょうが、少しずつ食べていきましょう。胃が空っぽですから、消化の良いものから」

 フォルカーさんの横で、医師が点滴の量を調整しながらそう言った。

 女性の医師だ。薄い茶色い髪をポニーテールにした、緑の目の綺麗な人。衛生兵には見えないから、この病院に勤めている人なのかもしれない。

「ずっと寝たきりでしたから、歩くのも辛いかもしれません。少しずつ慣らしていきましょうね」

「………」

 いつまでここに滞在して良いんだろうか。

「少なくとも1ヶ月弱、ここに留まります。元々首都が内乱で荒れていたようで、街中の見廻やら、アーベントロート・エンデから法の整備のために送られてきた政務官の警護やら、国内の整地開拓やら、色々と仕事が山積みでして」

 そんなに忙しかったのか。何か手伝えることは無いだろうか。

「まずは元気になってください。全てはそこからですよ」

 フォルカーさんは淡々とそう言って、小さく笑った。

「それに、新しく2人の魔術師も登用しました。貴方への負担もいくらか軽くなるでしょう」

 えっ、それって、もしや私が役立たずだったからだろうか。

「第12大隊と落とした砦があったでしょう。あの南壁を守っていた魔術師たちが、貴方に師事したいと、志願してきました」

 あれ、そんな理由なの。拍子抜けしてフォルカーさんの顔を見ると、彼は顎に手を当てて小さく唸った。

「勿論貴方に師事させるつもりはありません。魔力についても詳細は伏せるつもりですし。貴方が回復してから面通しはしますが、深く関わらせる気はありませんよ」

「……」

 そうなんだ。しかし…恨まれてはいないのだろうか。あの戦いでは、容赦なく防護障壁を叩き潰したし、砦はあそこから崩れた。恨まれて当然だと思う。

「そういうものはないと思います。彼らと話しましたが、どちらかといえば貴方に対する憧れが強そうですね」

 憧れを持たれても困る、技術ではなく力技でどうにかしただけなんだから。フォルカーさんも同じことを思っているだろう…だから深く関わらせる気がない、なのか。

「さて、あとはゆっくり休んでください。暇を持て余しているようであればこちらをどうぞ」

 そう言って彼が渡してきたのは、分厚い魔術書である。

「この国で入手した魔術書です。ファウストは連携を重視するので、連携する事を前提とした呪文も多いようです。アーベントロート・エンデは多くが個人主義的な、個として役立つ呪文が多いのですが。大変興味深いですよ」

 どことなくフォルカーさんが高揚しているのが伝わってくる。そんな姿に、つい吹き出してしまった。


 ◇ ◇ ◇


 空が赤く染まった頃、頭のリハビリがてらに本を読んでいると、ノックの音とともにアデルが顔を出した。

「調子はどうだ」

 元気です、と返すと、アデルは部屋に入って椅子に座った。慣れた動作で煙草に火をつけて、深く息を吸い込む。

「………」

「………」

 用事があって来たんじゃないのかと思ったが、彼は無言で煙草を吸っているだけだった。茫洋とした視線を窓の向こうに向けたまま、椅子の背もたれに体を預けて、時折煙を吐く。

「……?」

 何しに来たんだろう。ぼうっとしているアデルの服の裾を引っ張ると、視線がこちらを向いた。何か用があるんじゃないかと訊いてみる。

「ああ、いや…別に用がある訳じゃねえ」

「…?」

 じゃあ何で来たんだろう。

 忙しくないのだろうか。

「下の奴らに任せてるから、忙しくは無い」

「……?………?」

「何となく習慣で来ただけだ」

 そう言って、アデルは空になった灰皿に灰を落とした。

「お前、まだ動けねえのか?」

 動こうと思えば動けるだろう。魔術を使えば、だけど。

「いや、そうじゃねえ、歩けんのかって訊いてんだ」

 それは無理だ。ふるふると首を振った。

 明日から、医師の指導のもとリハビリをすることになる。

「…そんなに体弱ってんのか?」

 ぼそりと呟くように言う。…まるで負い目を感じているみたい。

 大丈夫だ、すぐ元通りになる、と慌てて返すと、アデルは「ふうん」と呟いて煙を吐いた。

「…倒れる前に、話しただろ。覚えてるか」

 …勿論覚えている。

 そして今は、あの時よりも冷静でいられている。

「悪かった。俺が何したか言いたくねえなら言わなくてもいい。だが口先だけで謝ってる訳じゃねえ、ちゃんと悪かったって思ってる」

「………」


 アデルのことは好きだ。

 だけど、好きになってもらわなくても良い。

 ちゃんと抑えられる。魔術師なんだから。


 謝らなくて良い、別に怒ってるわけじゃない。

「お前…」

 首を振って手で制す。もうこの話は終わりだ。

 そういえば、この国にいる間、私の仕事は無いんだろうか。

 無理矢理話題をずらした。一瞬アデルは険しい顔をしたが、問いに対しては答えてくれた。

「特には無い。大抵の仕事は魔術師じゃなくても事足りることだ。この国にいる間は好きに生活していい」

 それなら、病院で働きたい。

「それは…勧められねえ。うちの大隊の負傷兵の世話なら良いが」

「……」

 じゃあそれをやる。

「嫌われてんだろ。働かねえと気が済まねえのか?」

 何かしていないと落ち着かないのだ。

「それなら、図書館にでも行ったらどうだ。お前本読むの好きだろ」

「……」

 嫌いじゃ無いけども。

「この国にもでかい図書館はある。そこで好きなだけ本読んでろ」

「……」

「何だその顔」

 アデルは小さく吹き出した。退屈だ、というのが顔に出てしまっていただろうか。

「まだ法整備が進んでねえ今なら、この国の図書館の『禁書指定図書』が読めるぞ。中に入るのに必要なのは、今のところ大隊長の許可だけだからな」

「……!」

 禁書!心躍る言葉だ。

「魔術関連の禁書は、図書館からは持ち出せねえ。こっそり書き写してフォルカーに渡せばいい」

 アデルは悪い顔でくつくつと笑った。恐ろしい事を言う奴だ…しかし、フォルカーさんは忙しいし、実際一番禁書が読みたいのは彼だろう。バレないようにこっそり書き写すか。


 不意に、部屋の扉がノックされた。扉を開けて入って来たのは、あの女医さんだ。

「食事です。まずはスープから、ゆっくり慣らしていきましょうね」

 渡されたお盆を手に取って、ぺこりと頭を下げる。優しい微笑みが返ってきて、なんだか癒されてしまった。こういう先生になりたいものだ。

「グラハム大隊長は、このままこちらに?」

「いや、こいつが飯食い終わったら帰る」

「それでは、食事は不要ですか?」

「ああ、いらねえ」

「かしこまりました。それでは」

 彼女はにこやかに頭を下げて、部屋から出て行った。

 …食べ終わったら帰っちゃうのか。

「食わねえのか」

 アデルは不思議そうに私を見る。慌ててスプーンを手に取った。

「寝てる間に食い方忘れたのか?」

 そんな馬鹿なことある訳ないだろ、とちょっと腹立たしく思いつつ、スプーンでスープをひとすくい、口に運ぶ。…あれ、どことなくおでんみたいな、お出汁の風味を感じる。こういう味付けのものは初めてだ。

「美味いか」

 美味しい、とても。

 この国の料理は、結構私の舌に合うかもしれない。

「普通に飯食えるようになったら、美味い店連れてってやるよ」

 アデルは煙を吐きながら、そう言った。

 その言葉に、手が止まる。


 どうして、いつも。


「…どうした?行きたくねえのか」

 どうして、いつもそんなに優しくするんだろう。

 思わずそう訊いていた。

「………」

 アデルは数秒、黙りこくった。沈黙する彼の手の煙草から、白いタイルに灰が落ち、ほろりと崩れる。

 煙をゆらゆらと上げる煙草の先端を見つめながら、アデルは徐に口を開いた。

「…別に。深い理由はねえけど」

 長い沈黙に、どんな答えが返ってくるかびくついていたのに。拍子抜けするような回答が返ってきた。

「俺がやりたいようにやってるだけだ。飯食いに行きてえのはお前と飯食いに行きてえからだし、見舞いに来てんのは見舞いに来てえからだ。多少優しくしてやってんのも、そうしてえからしてるだけだ。他に理由が必要か?」

「………」

 何というか、アデルらしいというか。

「何でそうしてるか、なんてのは深く考えたことがなかったな」

 アデルはそう呟いて、煙草を吸った。ふう、と口から煙を吐いて、灰皿で灰を落とす。

「お前は何か色々気にし過ぎてんだろうと思うが、俺は裏表なくお前に接してるつもりだ。だから深読みすんな。…別に飯食いに行きたくねえなら行きたくねえって言えばいい」

 いや、そういう訳じゃなくて。私も一緒にご飯が食べたいし、一緒に居た方が楽しいから。

「…それならいいんじゃねえの。利害が一致してて」

 利害の一致だなんていう仰々しい言葉を使わなくても。ただ気が合うだけじゃないのか。

「それもそうだな。…気が合うだけだ」

 アデルは小さく笑って、煙草を口に咥えた。

「早く食わねえと冷めるだろ。さっさと食えよ」

 今は一緒に居てくれるだけでいい。

 いつか、一緒に居られなくなる日が来るかもしれないけど、それまでは…少しだけ、独り占めにできる時間を貰えたら、幸せだから。

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